情報理論から金融工学へ
若者に大人気で、米国が情報漏洩を警戒する中国のアプリが「TikTok」。「TikTok」いう名前は何に由来するのであろうか。
このプラットフォームを所有するByteDanceで、中国では "Douyin "と呼ばれ、"揺れる音 "を意味する。
振り子時計が発する「チクタク」という音に由来しており、「中国以外の世界では、誰もがこのプラットフォームを「TikTok」と呼んでいる。
思いうかべるのが、アメリカで株式市況を伝える「ストックテイッカー」という機械で、この名前も「機械音」に由来する。
ストックティッカーとは、1870年から1970年ごろまで使用されていた、電信線を介して株価情報を送受信する最も初期の通信媒体で、受信した情報を紙テープに印字していた。
1867年にアメリカ電信会社の従業員だったエドワード・キャラハンによって発明された。
ストックティッカーは、初の、電信線を介して長距離にわたって株価を伝えるための機械的手段となった。
初期のストックティッカーは、メッセージを伝達する媒体としてモールス符号を使用していた。
常に取引の情報が継続して流れるようになったことで、取引による株価の変動がリアルタイムに知ることができるようになり、1880年代までに、ニューヨークの銀行家やブローカーのオフィスには約1000台のストックティッカーが設置された。
それにより人々の投機熱は、ますます高まっていった。
1890年、株価と取引量の報告の正確性を確保するために、全てのティッカー会社を合併してニューヨーククォーテーション社が設立された。
送信される情報は、「ティッカーシンボル」と呼ばれる銘柄を表すアルファベット(会社名の略称の事が多い)の後に、株式の取引価格と取引量の数値が続く。
印刷された紙テープは「ティッカーテープ」と呼ばれた。
1930年代には、より新しく効率的なストックティッカーが利用可能となったが、それでも情報の送信に15~20分の遅れが生じた。
使用済みのティッカーテープは、パレードなどの際に細かく切ったものを窓から投げて紙吹雪として使用されたり、そのまま投げたりした。これは「ティッカー・テープ・パレード」として知られるようになった。
株価の変動をいち早く知ることは、投機をする者にとって圧倒的に有利な状況を生むことはいうまでもない。
今日、「ワイヤレス」という言葉を忘れそうになるほど、身の回りから電話線がなくなった。
固定電話は使わず、もっぱらスマホ。パソコンも、WiFiでインターネットに。
ではそのインターネットは世界とどのようにつながっているのだろう。
人口衛星からの電波か?それもあるが、全体の1パーセントにすぎない。
現代のケーブルは「光ファイバー技術」を採用し、高速で大容量のデータ伝送を実現している。
国際通信の99パーセントを担うのが海の底深くに沈む海底ケーブルである。
1851年、海底電信ケーブルがイギリス〜フランス間のドーバー海峡に敷設され、これにより、海を越えての国際通信が可能になった。
1866年にはイギリス〜アメリカ間を結ぶ「大西洋横断ケーブル」が完成し、イギリスをはじめとした欧米諸国は、海底電信網を大西洋、地中海、インド洋へと急速に拡張しはじめる。
当時の国際通信は文字などを電気信号に変えて伝送する「電信」で、国際電報料金は、欧文20語までが基本料金で、それを超えると10語ごとに加算される方法であった。
日本でも1871年にスタートするが、個人利用はもとより、法人利用でも頻繁に使えない水準であった。
国際電報料金は高価なため、「コード」が発展した。たとえば『この案件は成立した』という文章があれば、11番とコードをふる。これで11と打てば交渉が成立したことを相手に伝えることができる。
現代のインターネットとデジタル通信の時代においても、敷設されたケーブルは、国際通信のバックボーンとして機能している。
そうしたケーブルを海底に沈めながら進むのが「敷設船」というものがあり、地球のさまざまな地点を結んでいる。
このプロセスは、海洋の地形や環境に応じて調整され、ケーブルが物理的な損傷を受けないように配慮されている。
深海の厳しい環境、地形の複雑さ、さらには政治的・法的な問題などもあり、これらの課題に対処するため、技術革新と国際協力が求められている。
クラウドコンピューティングやIoTなど新しい通信技術の普及は、さらに安定した国際通信システムが求められている。
海中で作業できるロボットの試運転もあった。比較的浅い海域では、ケーブルが漁船のいかりや底引き網に触れて損傷すことがある。
そうならないようにロボットで砂に埋めるのである。
そして、5Gや将来の6Gネットワークの展開は、海底ケーブルによる高速データ伝送の需要をさらに高めると予想されている。
1916年、ミシガン州に生まれたクロード・シャノンは、ミシガン大学で数学と電気工学の学位を取得した。その後、数学的な理論に基づいて回路設計技術に関する研究をした後、情報通信に関する研究に力を注いだ。
シャノンはさまざま情報を通信するために使える統一的な理論を求めて研究を行い、1948年に現在の通信技術の基礎的な理論となる「通信の数学的理論」を発表する。
この理論でシャノンは情報を「0」「1」の2値のみで表す手法を開発し、時間毎の情報量をビットで表す「エントロピー(情報量)」という考えを編み出す。
これれ、様々な形式の情報をビットに変換して扱うことができるようになった。
当時の技術者は、文書、音声、映像といった情報ごとに効率のいい情報通信方式は異なると考えていた。
しかし、シャノンの提唱した情報理論によって、どんな形式の情報もビットに変換してから送受信を行うことで効率よく通信できることが明らかになった。
さて、情報のセキュリティは戦時下ということもあって早くから問題となった。
暗号システムでよく知られているのは、ランダムな数字をならべた「暗号の鍵」を用意して、対応する文字にその数字の分だけ位置をずらす方式。
例えば、3とDを対応させて、Dを3つプラスしてずらすとGの文字になるといった「ワンタイムパット暗号」である。
シャノンはこの「文字の伝達」を「音の伝達」に置き換えた時、文字をずらす部分を「信号」の特徴を打ち消す「ノイズ」(ランダムな数字)であることと、とらえなおした。
ちょうど電話をしている時に、掃除機の音を思い切り響かせるようなものだ。
このアイデアをもとにシャノン達は「SIGSALY」という新たな暗号システムを開発する。
指揮官の声に十分なノイズをかぶせれば、何をいっているか聞き取れなくなる。
中央本部側にはまったく同じノイズを用意して、その「音」を引いてやれば、もともとの声が再現できる。
とはいえ音声版「ワンタイムパット暗号」で仕組みは単純でも、実装するのは困難を極めた。ノイズの特徴は正確にわかったとしても、それを電話線の音からどうひいてやるかだ。
シャノン達はそれをどうにかクリアして、その過程で情報とノイズの決定的な関係に気がついた。
例えば、車の中での渋滞の会話と、映画の話題を比較すると、細切れに聞こえる単語から会話の内容を予想する場合、はるかに前者のほうが予想がつきやすい。
このことから、信号に含まれる情報量が、受信側の解読しやすさに関係することを知った。
言い換えると、メッセージの起こりやすさと、情報量の関係である。シャノンは情報と確率を結びつけることによって、メッセージに含まれる情報量を数値で表すことに成功した。
シャノンはマサユーセッツ大学で2年間そんな研究をしていたのであるが、ここであるユニークな問題に取り組んでいた男と出会う。
エドワード・ソープは1932年生まれ、家は裕福ではなかったが物理学が好きで、奨学金をもらってリフォルニア大学ロサンゼルス校に入学した。
大学院に進み、研究は楽しかったものの生活費の問題が重くのしかかっていた。そこで友人と小遣い銭稼ぎの話をしていた時に、「カジノ」に興味をもつようになった。
特に、ブラックジャックの「必勝法」を得意の数学理論から考察した。
実はこの問題は、1953年に米軍の研究グループが研究に着手し3年がかりで計算して、ブラックジャックの「最適戦略」を考え出していた。
だが、その欠点はゲームが毎回独立しているという前提をおいていることだった。実際のゲームではカードが足りなくなるまで、すでに使った札を戻すことはしなかったのである。
カードの出る確率が戦略を左右するならば、すでに出たカードを計算にいれなければ正確な結果にならないはずだ。
何のカードが出たかを覚えておき、残ったカードに応じて戦略を変えていかなければならない。
これが「カードカウンティング」の考え方である。
「カードカウンティング」とは、すでに出現したカード(すでに見えてしまったカード)を記憶し、残されているカードの山の中に、どのようなカードがどれほど残されているかを読む戦術である。
これはすでに判っている情報から、いまだ未知の情報を確率論的に推し量るシャノンの「情報理論」と重なる面があった。
この戦術でプレーヤーが具体的に知りたいことは、カードの山の中に 絵札や Aceなどの強いカードがどの程度残されているかである。
単純に考えても、Ace が山の中に多い状況は明らかにプレーヤー側に有利に働く。それに、ブラックジャックが完成する確率はプレーヤー側もディーラー側も同じだが、プレーヤー側が完成させた場合にのみ1.5倍(もしくは2倍)もらえることになっている。
ただし、カードカウンティングを行なっている者に対して、カジノ側にはプレーを拒否する権利があり、実際にプレーの続行を断られることは少なくない。
そこでソープは、カードカウンティングで勝率を知ることができたとしても、何度か繰り返されるゲームのなかでどのタイミングでどれだけの金額をかければよいか、どこかに「最適解」があるはずだと考えた。
ソープがその点で悩んでいた時、シャノンがベル研究所で同僚だったジョン・ケリーという男が「競馬」について書いた一本の論文を示してくれた。
ソープが目を留めた点は、シャノンの情報理論を「競馬」に結びつけたことだった。
単純で素朴な話だが、20世紀前半までレースの結果が各地方まで伝わるのに時間がかかった。もし情報をすばやく知る手段があれば、レースの結果を入手してから賭けることさえ可能だったのである。
ケリーは、仮に「プライベート回線」で正しい結果を送ろうとしている時にノイズがはいっていたらどうであろうかと考えた。
当時の通信技術は安定度を欠いており、現実にそうしたことが起きていたからだ。
例えば”T”だけの情報が聞き取れた場合、名前にTがはいっていない馬は除去できる。それだけでも多少は有利な立場にたてる。
情報が不完全でも判断の役に立ち、そこで掛け金の配分を「調整」することは可能ということになる。
シャノンの理論を使えば、とりあえず読み取れる部分をどう使うかに役にたつ。
ケリーはこれを使って長期的な利益をもっとも大きくするような賭け方を編み出した。
そして特定の結果に賭けるべきお金の割合は、「自分の有利さ/払い戻し率」というケリー基準で表すことができる。
勝った場合の払い戻し「部分的情報」をもとにした本当の勝率から本当の敗率を引いて、自分の有利さを計算し、
払い戻しの倍率で割ってやると、手持ちのお金の何割をかければいいかがわかるという式である。
シャノンからケリーの論文を受けた時、ソープのブラックジャック戦略に欠けていた最後のピースが埋まった感じがしたという。
しかしソープの思考はカジノを超えて「投機」の世界へと踏み込んでいく。
ソープは、ある時、投資関連の雑誌をめくっていてワラントのコーナーに目が留まった。ワラントはオプションの一種で、株を発行している会社が、その株を買う権利を人々に売るものだ。
オプションとは買っても株そのものは手に入らず、特定の値段でその価値を買う「権利」だけを買う。
例えばグーグルの株が100ドルで取引されている場合、その株を前もって70ドルで買う権利には、権利を行使して70ドルで買い、すぐに100ドルで売り払ったら30ドルの利益になる。
ソープは、未来についての「限られた情報」をもとに金をかけるという点で、カジノで培ったものの考え方は株の世界にも適用できると考えた。
広告によれば、ワラントは広告によると莫大な富の源泉になるというのだが、多くの人々はワラントをどう売買していいかわからないようだった。
この状況こそは、ソープが求めていたツボだった。
ワラントの価格は、買い手が賭けに勝つ見込みがどれくらいかという、マーケットの見方を反映している。
ワラントの本当の価格を知ることは、競馬の本当の「オッズ」を知ることと同じであった。
投資を一種のギャンブルと考えるならば、株を買うとは株価が上がる方に賭けることで、逆に株を得るとは株価が下がる方にかけることだ。
ワラントの適正価格を知ることで、「長期的な利益」が出せるように賭けけていけばよい。
しかし伝統的な取引では、そのバランスは「非対称」になっている。
株を買うのはいつでもできるが、株を売るには株をもっていないとできない。
似たようなことはカジノにもいえる。ルーレットで「入らない」方に賭けるのは「入る」方に賭けるより、ずっと簡単だ。
カジノがやっているのは結局そういうことで、長期的にカジノ側が儲かるようになっている。
ただ株の売買には「空売り」ということがおこなわれており、株をもっていなくても「株を借りる」ことでゲームに参加することができる。
借りてきた株を売って、一定期間後に同じ数だけ買戻し、元の株主に返すのだ。
そうすれば、あらかじめ株を買わなくても、株価が「下がる」ほうに賭けることができる。
売った時点より株価が下がれば、安い値段で買い戻すことができ、差額分だけ得するからだ。
元の持ち主は値段が下がった株を返してもらうが、そもそも自分が持ち続けたことと何ら変わるものではなく損がでるわけでもなく、少々の手数料が手に入る。
株の借り手と貸し手はウイン・ウインの関係だ。
とはいえ「空売り」はリスクも大きい。株価下落の予想のもとで「空売り」した場合どれだけの損失を負うかわからない。
そこでソープは画期的なアイデアを思いついた。ワラントの価格は株価の動きと結びついている。
だからワラントを「空売り」すると同時に、その元になっている株をいくらか買っておけば、ワラントが高騰した時の損失を抑えることができる。
そしてワラントと株式のバランスを調整すれば、株価がどんなに動いても、いくらかの利益がかならず入ってくることを突き止めた。
これが後の「デルタヘッジ」として有名になるやり方で、様々なリスク回避手法のバリエーションが生まれ、「金融工学」という新たな分野が生まれた
ただそれは時代の「鬼子」というべきか、人々は天国も地獄も味わうこととなる。
「ブラックジャック」というゲームは、手持ちのカードの数字の合計が21 を超えない範囲で、できるかぎり21 に近い方が勝ちという、一見単純明快なカードゲームだ。
もともと「ヴァンテ・アン」とよび、フラランス語で「21」を意味していた。このゲームが19世紀にアメリカへ渡った際、「スペードのエースとスペード(またはクラブ)のジャック」でボーナスが支払われたことから、「ブラックジャック」と呼ばれるようになった。
そしてこのゲームが、金融界の「ヘッジファンド」を生んだから、この世は驚きに満ちていている。
その勝負は、個々のプレーヤー(自分を含めた他の一般の客)とディーラー(カジノ側のスタッフでトランプを配る人)との 1対1 の対戦形式で勝敗が決められる。
参加者同士は対戦相手ではないので互いの手はまったく関係なく、差し出したドル紙幣と同じ金額のカジノチップをディーラーがくれるので、その手持ちの予算の範囲内で賭け金を決めてゲームをスタートする。
自分の目の前のテーブル上の指定された位置に賭け金を置くことで、ゲームへの参加の意思表示となる。
ディーラーは各プレーヤーおよび自分(ディーラー自身)にカードを2枚ずつ配る。
2枚のうち、1枚は全員に数字が見えるように表向きに、もう1枚は伏せられた状態になっている。
見えているカードのことを「アップカード」というが、ディーラーのアップカードからディーラーの最終的な手(最終的な数字の合計)を推測しながら、自分がさらにカードをもらうかもらわないかの判断をする。
参加しているプレーヤー全員がカードをもらい終えた段階で(もらわない者もいる)、ディーラーは自分の伏せてあるほうのカードをオープンし(表に向け)、全員の前で自分の手を披露する。
この段階でディーラーは、自分の手の合計が 16以下であった場合は17 以上になるまでカードを引き続けなければならない。
そこで、17以上になった段階でディーラーはそれ以上カードを引くことはできないのでゲームをストップし、各プレーヤーの手とディーラー自身の手を照合しながら勝ち負けの確認作業と精算をおこなう。
ディーラーが勝っていた場合は、ゲーム開始時にプレーヤーがテーブルに置いていた賭け金は取られてしまい、プレーヤーが勝った場合は、その賭け金と予め定められた倍率の金額を「払い戻して」もらえる。
初めての参加でも運良く勝てることもあるが、長期では勝てない。
つまりカジノ側がもうかることになっている。
さらに詳しくいうと、カードの数え方は絵札(J、Q、K)はどれも10で、その他のカードはその数字の通りに数える。
エース(Ace)は1 または11 と数えることができ、状況に応じて自分の都合のよいほうに解釈してかまわない。したがってエースは戦略上、非常に強力な武器になる。
合計の数字が21を超えてしまうことを「バースト」といい無条件で負けとなる。ディーラーもバーストした場合負けとなり、掛け金と同額支払うことになる。
シャノンとソープによって編み出された予測のアルゴリズムが正しくとも、不正監視の厳しいカジノで実際にどう実行するかが大きな問題だが、映画「ラスベガスをぶっつぶせ」(2008年)では、この辺の状況がよく描かれている。
カードカウンティングは、本格的に実行し続けていると意外と簡単にバレる。
賭け金の額が不自然に大きく変化したり、プレーヤーの視線があわただしく動いたり、他人がヒットしたカードや流されていくカードにまで視線が向けられるようになるからだ。
コンピュータ計算をした情報を、カジノの現場にイヤホンで伝えるなどスリリングに痛快に描いている。
そして予測が現実のものになるには、確率論の「大数の法則」にしたがって、長時間かけ続けねばならないということも。
そしてソープは「ディーラーをやっつけろ」という本を書き、世界的に知られる存在となる。
サミュエル・モールスは才能のある芸術家でした。実際、彼は大学の費用の一部を1枚5ドルでミニチュアを描いて稼いでいました。彼は最初、発明家ではなく芸術家になることを決心しました。
フィラデルフィアの仲間の学生であるジョセフ・M・ダレスは、サミュエルについて次のように書いています。
イェール大学を卒業して間もなく、サミュエル・モールスはアメリカ人アーティスト、ワシントン・オールストンと知り合いになりました。オールストンは当時ボストンに住んでいたが、イギリスに戻ることを計画していたので、モースが弟子として同行するように手配した。1811年、サミュエルモールスはオールストンと一緒にイギリスに行き、4年後、オールストンだけでなく有名な巨匠ベンジャミンウエストに師事し、認定された肖像画家としてアメリカに戻りました。彼はボストンにスタジオを開き、肖像画の依頼を受けました
サミュエル・モールスは1818年にルクレティアウォーカーと結婚しました。画家としての彼の評判は着実に高まり、1825年に彼は父親から彼の苦いニュースを聞いたとき、ニューヨーク市のためにマーキスラファイエットの肖像画を描いていました。妻の死。ラ・ファイエットの肖像画を未完成のまま残して、失恋した芸術家は家に帰りました。
妻の死から2年後、サミュエルモールスは、コロンビア大学でジェームズフリーマンダナが行ったその主題に関する一連の講義に出席した後、大学時代と同じように、再び電気の驚異に夢中になりました。二人の男は友達になった。ダナはモースのスタジオを頻繁に訪れ、そこで二人の男は何時間も話していました。
しかし、サミュエル・モールスはまだ彼の芸術に専念しており、彼には彼自身と3人の子供がいて、絵画が彼の唯一の収入源でした。1829年、彼はヨーロッパに戻り、3年間芸術を学びました。
その後、サミュエル・モールスの人生のターニングポイントが訪れました。1832年の秋、船で家に帰る途中、サミュエル・モールスは乗船していた数人の科学者科学者との会話に加わりました。乗客の一人がこの質問をしました:「電気の速度はその導線の長さによって減少しますか?」男性の1人は、電気が既知の長さのワイヤーを瞬時に通過すると答え、数マイルのワイヤーを使っ たフランクリンの実験に言及しました。
これは、サミュエル・モールスの心が電報を発明するように導いた知識の種でした。
1832年11月、サミュエル・モールスはジレンマの角にいることに気づきました。アーティストとしての彼の職業をあきらめることは、彼には収入がないことを意味しました。一方で、電信のアイデアに夢中になりながら、どうやって心を込めて絵を描き続けることができるのでしょうか。彼は絵を描き続け、時間に余裕を持って電報を作成しなければなりませんでした。
彼の兄弟であるリチャードとシドニーは両方ともニューヨークに住んでいて、ナッソー通りとビークマン通りに建てた建物の部屋を彼に与えて、彼のためにできることをしました。
サミュエル・モールスの貧困
現時点でサミュエル・モールスがどれほど貧しかったかは、バージニア州のストローザー将軍がモールスを雇って絵の具を教えるという話で示されています。
お金を払って一緒に食事をしました。ささやかな食事でしたが、美味しかったです。彼は[モース]が終わった後、「これは24時間の私の最初の食事です。ストローザー、芸術家ではありません。それは物乞いを意味します。あなたの人生はあなたの芸術について何も知らず、あなたのことを何も気にしない人々。飼い犬はより良く生き、芸術家を刺激する非常に敏感なことは彼を苦しみに生き続けます。」
1835年、サミュエルモールスはニューヨーク大学 の教職員に任命され、ワーク ショップをワシントンスクエアの大学の建物の部屋に移しました。そこで、彼は1836年、おそらく彼の人生で最も暗くて最も長い年を生き、彼の心が偉大な発明の渦中にある間、絵画芸術の生徒にレッスンを与えました。
レコーディングテレグラフの誕生
その年[1836]、サミュエル・モールスは大学の同僚の一人であるレオナルド・ゲールに自信を持った。彼はモールスが電信装置を改良するのを手伝った。モールスは、今日知られているように、電信アルファベット、またはモールス信号の基本を策定しました。彼は自分の発明をテストする準備ができていました。
「はい、大学のその部屋はレコーディングテレグラフの発祥の地でした」とサミュエルモールスは数年後に言いました。1837年9月2日、ニュージャージー州モリスタウンにあるスピードウェル製鉄所を家族が所有していた学生のアルフレッドヴェイルの前で、1700フィートの銅線を部屋に巻き付けて実験を成功させました。かつて発明に興味を持ち、彼の父であるスティーブン・ベイル裁判官に実験のための資金を進めるよう説得した。
サミュエル・モールスは10月に特許を申請し、レオナルド・ゲールおよびアルフレッド・ヴェイルとパートナーシップを結びました。実験はベイルショップで続けられ、すべてのパートナーが昼夜を問わず働いていました。プロトタイプは大学で公にデモンストレーションされ、訪問者はディスパッチを書くように要求され、言葉は3マイルのワイヤーのコイルの周りに送られ、部屋の反対側で読まれました。
サミュエル・モールスがワシントンに電信線の建設を請願
1838年2月、サミュエルモールスは自分の装置を持ってワシントンに向けて出発し、デモンストレーションを行うためにフランクリン研究所の招待を受けてフィラデルフィアに立ち寄りました。ワシントンでは、彼は議会に請願書を提出し、実験的な電信線を構築できるようにするための資金の充当を求めた。
サミュエル・モールスが欧州特許を申請
その後、サミュエル・モールスは、彼の発明が米国で出版される前にヨーロッパ諸国で特許を取得する必要があったため、海外に行く準備をするためにニューヨークに戻りました。しかし、英国の検事総長は、アメリカの新聞が彼の発明を公表し、それを公有財産にしたという理由で彼に特許を拒否しました。彼はフランスの 特許を取得しました。
写真の芸術の紹介
サミュエル・モールスが1838年にヨーロッパを訪れた興味深い結果のひとつは、電報とはまったく関係のないことでした。パリで、モースは 日光で写真を撮るプロセスを発見した有名なフランス人であるダゲールに会い、ダゲールはサミュエル・モールスに秘密を与えました。これは、米国で太陽光によって撮影された最初の写真と、どこでも撮影された人間の顔の最初の写真につながりました。Daguerreは、長時間露光には位置の剛性が必要だったため、生き物の写真を撮ろうとしたことはなく、写真を撮ることができるとは考えていませんでした。しかし、サミュエル・モールスと彼の仲間であるジョン・W・ドレーパーは、すぐに肖像画を撮ることに成功しました。
最初の電信線の建設
1842年12月、サミュエルモールスは、 議会への別の訴えのためにワシントンを訪れました。ついに、1843年2月23日、ワシントンとボルチモアの間に配線を敷設するために3万ドルを充当する法案が、6人の過半数で下院を通過しました。不安に震えながら、サミュエル・モールスは 投票が行われている間、家のギャラリーに座り、 その夜、サミュエル・モールスは「長い苦しみは終わった」と書いた。
しかし、苦しみは終わっていませんでした。法案はまだ 上院を通過していませんでした。議会の満了する会期の最終日は1843年3月3日に到着し、上院はまだ法案を可決していませんでした。
上院のギャラリーでは、サミュエル・モールスはセッションの最後の日と夜の間ずっと座っていました。真夜中にセッションは終了します。法案が成立する可能性はないと友人たちに確信された彼は、国会議事堂を去り、ホテルの自分の部屋に気を失って引退した。翌朝、朝食を食べていると、笑顔の若い女性が「おめでとうございます!」と叫びました。「何のために、私の親愛なる友人?」友人の特許庁長官の娘であるミス・アニー・G・エルズワースである若い女性のモースに尋ねた。「あなたの法案の通過について。」
モースは、真夜中近くまで上院室に留まっていたため、それは不可能であると彼女に保証した。その後、彼女は父親が閉会まで出席していたことを彼に知らせ、セッションの最後の瞬間に、法案は議論も修正もなしに可決されました。サミュエル・モールス教授は知性に打ち負かされ、とても嬉しくて予想外でした。そして今、これらの良い知らせの担い手である彼の若い友人に、開かれた電信の最初の行に最初のメッセージを送るべきだという約束を与えました。 。
その後、サミュエル・モールスと彼のパートナーは、ボルチモアとワシントンの間の40マイルの電線の建設に進みました。エズラ・コーネル( コーネル大学の創設者)は、ワイヤーを収容するためにパイプを地下に敷設する機械を発明し、彼は建設作業を行うために雇われました。作業はボルチモアで開始され、地下法ではうまくいかないことが実験で証明されるまで続けられ、ワイヤーをポールにひもでつなぐことが決定されました。多くの時間が失われましたが、ポールのシステムが採用されると、作業は急速に進み、1844年5月までにラインが完成しました。
その月の24日、サミュエル・モールスは楽器の前でワシントンの最高裁判所の部屋に座った。彼の友人のミス・エルズワースは、彼女が選んだメッセージを彼に手渡した。モースはそれをボルチモアの40マイル離れたベイルに向けてフラッシュし、ベイルは即座に同じ重大な言葉をフラッシュバックしました。
本発明からの利益は16株に分割され(パートナーシップは1838年に形成されました)、そのうちサミュエル・モールスが9株、フランシスOJスミス4株、アルフレッド・ベイル2番、レオナルド・D・ゲール2株を保有しました。
最初の商用電信線
1844年、最初の商用電信線が営業を開始しました。2日後、民主党全国大会がボルチモアで開催され、大統領と副大統領を指名しました。大会の指導者たちは、ワシントンに不在だったニューヨーク上院議員のサイラス・ライトを ジェームズ・ポークの立候補者として指名したかったが、ライトが副大統領として立候補することに同意するかどうかを知る必要があった。人間のメッセンジャーがワシントンに送られましたが、電信もライトに送られました。電報はライトに申し出を伝えた。ライトは大会に戻って走ることを拒否したことを電報で伝えた。代表団は、人間のメッセンジャーが翌日戻って電報のメッセージを確認するまで、電報を信じませんでした。
電信メカニズムとコードの改善
エズラ・コーネルは、都市と都市を結ぶ、米国全体でより多くの電信線を構築し、サミュエル・モールスとアルフレッド・ベイルは、ハードウェアを改善し、コードを完成させました。発明家のサミュエル・モールスは、彼の電信が大陸にまたがり、ヨーロッパと北アメリカの間の通信をリンクするのを見るために生きました。
ポニーエクスプレスの交換
1859年までに、鉄道と電信の両方がミズーリ州セントジョセフの町に到着しました。さらに東に2000マイルあり、まだ接続されていないのはカリフォルニアでした。カリフォルニアへの唯一の交通手段は、駅馬車による60日間の旅でした。カリフォルニアとのより迅速なコミュニケーションを確立するために、ポニーエクスプレスのメールルートが組織されました。
馬に乗った一人のライダーは、10日または12日で距離をカバーすることができます。途中に馬と男のための中継所が設置され、東から電車(と郵便)が到着してから24時間ごとに郵便配達員がセントジョセフから降りました。
しばらくの間、ポニーエクスプレスはその仕事をし、それをうまくやりました。リンカーン大統領の最初の就任演説は、ポニーエクスプレスによってカリフォルニアに運ばれました。1869年までに、ポニーエクスプレスは電信に置き換えられました。電信は現在サンフランシスコまで路線があり、7年後に最初の 大陸横断鉄道 が完成しました。その4年後、サイラスフィールドと ピータークーパーは大西洋ケーブルを 敷設しました 。モールス電信機は、ニューヨークからゴールデンゲートまでだけでなく、海を越えてメッセージを送信できるようになりました。
一方、日本の国際通信は1871年(明治4年)、デンマークの大北電信会社(The Great Northern Telegraph. Co.)が長崎~上海、長崎~ウラジオストク(ロシア)間をつなぐ長距離海底電信ケーブルを敷設したことからはじまった。
その背景には、当時の清国(中国)が欧米諸国からの電信技術の導入や海底電信ケーブルの陸揚げを拒んだことなどがある。
日本はヨーロッパから清国へアクセスするための中継地点として選ばれ、結果として当時の国際通信ネットワークに組み込まれたのだ。世界初の海底電信ケーブル敷設から20年後のことである。
長崎~上海、長崎~ウラジオストク間をつなぐ海底電信ケーブル
ちなみに、日本に電信技術をもたらしたのは、実はあの「黒船」だ。1854年に黒船を率いるペリー提督がアメリカ大統領から江戸幕府への献上品のひとつとしてエンボッシング・モールス電信機を持参。
当時の世界最先端技術の電信をデモンストレーションし、開国のメリットを江戸幕府に訴えたのだ。
大西洋横断ケーブルは1866年に開通しましたが、そこに至るまでには、信号の減衰が激しいからと電圧を強くし過ぎてケーブルを破損したり、ケーブルの長さを間違えて陸揚げ寸前で海底電信ケーブルが足りなくなったりと、多くの挑戦と失敗を繰り返して、ようやく完成しました。