金権と空言の政治

現在、派閥のパーティー収入のキックバックの不記載が問題となっている。1988年6月に発覚した「リクルート事件」を思い起こす。
「リクルート事件」では、値上がり確実とされたリクルート社の子会社の未公開株が政界や官界などの多数の有力者に譲渡されるという例のない事件で、その中には秘書名義で受け取った複数の派閥の領袖も含まれていた。
当時の竹下内閣の退陣だけでなく、その後の東京佐川急便事件などもあり、自民党は、結党以来、初めて政権を失うことにつながった。
当時の大臣や自民党の派閥領袖クラス、議員など数十人に未公開株が渡っていたことが明らかになり、大臣の辞任にも発展する。
竹下首相が踏み切った内閣改造後にも、新たに就任した大臣の関与が分かり「辞任ドミノ」が発生。
最終的に、竹下は1989年3月の予算成立後の「総辞職」を表明、同年6月に竹下内閣は総辞職した。
事件後、カネのかかる政治を変えようと、政治資金規正法を改正し、小選挙区制を導入した。
まだしも自民党議員の一部が離党して新党を結成するダイナミズムがあった。その数年後、自民党は分裂や下野という事態に直面している。
こうしたリクルート事件などを受けた政治改革の一環として30年ほど前、国民1人あたり年間250円を税金から支出する「政党助成金」が導入された。
その一方で企業・団体献金は廃止されず、政治家個人には禁じたものの、政党と政党支部に限って認められた経緯がある。
結局、「パーティー券」という形で企業などが資金を提供する方法は残されたまま。
その「パーティー券」も名前などの公開基準が1回20万円超で寄付の年間5万円超と比べて制限が緩く、各派閥は資金の「匿名性」が高く集めやすいとして売り上げを競い合いっているという実態であった。
内閣に「総辞職」が求められるのは憲法上、内閣が不信任され衆議院を解散しない場合や内閣総理大臣がいなくなった場合、そして内閣の掲げる重要な政策が国会で否決された場合など、政治責任をとるために「総辞職」をすることもある。
岸田内閣は本来「総辞職」すべきところであろうが、後継者がいない。
「リクルート事件」で、あいかわらずの「金権」ぶりが問われたのは、田中派の流れだった。
田中角栄(かくえい)の自宅は「目白御殿」といわれ「目白詣」と称して高級官僚も邸宅を訪れた。そして大臣にする力、当選させる力、官僚の将来を開いていく力、特に政府に配る行政投資ないし補助金の行く先の決定などは、「目白発」であることを思い知るのだ。
田中角栄の金の力が思い知らされたのは、1972年ポスト佐藤選びで、福田赳夫(たけお)の総裁選であった。
佐藤栄作首相と同じく官僚出身の福田が有力であったがフタをあけてみると田中が総裁に選ばれた(田中156票/福田氏150)。
この時福田は田中の金力を思い知り、後に総裁選びの際には党内総裁予備選挙導入に積極的に賛同したが、田中氏の朋友・大平正芳氏に敗れ、その予備選の第一号の敗者が彼自身になるとは予想していなかった。
日本金権政治の象徴ともなった事件「ロッキード事件」のきっかけは、アメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会の公聴会でのロッキード社のアーチボルド・コーチャン副会長による証言だった。
そこで彼は、自社機売り込みのために、日本の政府高官に総額約30億円の賄賂をばらまいたと語った。
当時は、大きな事業やプロジェクトは、大物国会議員の「口利き」がなければ、実現しなかった。業者と国会議員を繋ぐ役目として、「闇の紳士」や、フィクサーと呼ばれる人物が暗躍しているが、それはビジネスを円滑に進めるための“商習慣”で、強いて問題に取り上げるようなものではなかった。
にもかかわらずいきなり右翼の大物と言われた児玉誉士夫や政商・小佐野賢治ら“必要悪”の仕事が“汚職”であると米国の公式の場で糾弾されたのだ。
田中角栄氏は雪国のルサンチマンを背負って東京に出て土建会社社長から政界進出した。
田中の「日本列島改造論」はシンプルで、産業誘致により地方に中核都市を作りそれらを新幹線で結ぶというものだった。
この段階国民は狂乱物価や土地高騰を予想せず田中ビジョンはわかりやすく魅力的にも見えた。
田中角栄の時代にその「資金作り」を学んだ政治家が、竹下登や金丸信がいた。
それは簡単にいうと、「公共事業」を選挙区にもちこむことが票に繋がるという手法である。
しかし派閥政治の権化・田中角栄の欠点は後継者を育てなかったことで、1985年竹下登も小沢一郎らとともに田中派から分離して「創世会」を結成した。
ロッキ-ド裁判を抱えていた田中氏からすれば、後継者に権力を譲ることで自分の存在が薄れることを何よりも恐れたのかもしれない。

安倍派の後継リーダーが決まらず「5人衆」でまわしているが、その五人もキックバックを政治資金報告書に記入せず、閣僚など辞任する事態となっている。
その福田派の流れが、パーティ券売上のキックバックが問題化している「安倍派」(清和研究会)である。
「派閥」はこれまで、仲間が集まって政治の議論をする場、新人の教育・研修の場、そして多数派工作の場として機能してきた。
安倍派「清和政策研究会」の名でもわかるように政策集団であったはずだが、党がカネを配るうまい方法として「裏金」を生み出す仕組みを作っていた。
「自民党をぶっ壊す」の小泉純一郎は、福田赳夫の秘蔵っ子であった。
ところで今後、リクルート事件後のような政治改革の機運がでてくるのだろうか。それは「言葉」に対する信頼が当時と比べて失われている感があるからだ。
安倍一強の弊害は、スキャンダルが起きても、野党やメディアが追及しても、問題をはぐらかしてやりすごす、管首相の時代も、同じ言葉を繰り返すばかり。
パーティ券のキックバックについても「慎重に事実確認をし、適切に処理いたします」なんて読み上げている様と重なる。
田中首相の時代が「カネがすべて」という「金権風潮」を作ったとしたら、安倍政権で政治にいては「言葉の空疎化」を生んだ時代といえよう。
それは憲法の空文化を含んでいる。
空言(くうげん)自在、「記憶にない」といった嘘ばっかりという意味では、金権は空言(そらごと)と結びつく傾向があるようだ。
パーティ券の売り上げのキックバックにせよ、清和会の幹部が止めようと正しい提案をしたにもかかわらず、派閥議員の側が反対して続けられたことが判明している。
「言葉が力をもつ」とは、議論に優れるといういみではなく、人々の流れを一機に変えうるといことだ。
誰かの「ひと言」で流れが変わるということはある。政界の話ではないが、一例をあげたい。
1998年8月16日、第80回全国高校野球選手権大会。第11日第2試合、2回戦の宇部商(山口)ー豊田大谷(愛知)の試合。
炎天下の中始まったその試合は、2-2のまま延長に入ったが、両校ともに得点を挙げることができず、なかなか決着がつかなかった。
迎えた延長15回裏、豊田大谷はヒットと相手のエラーで無死一、三塁と、一打サヨナラのチャンスとした。
ここで宇部商は次打者を敬遠し、満塁策をとる。
無死満塁、ここまでひとりで投げ続けてきたのは、宇部商の左腕のエース藤田修平。
藤田は、ボールカウントを2ストライク1ボールとして、追い込んだ。
そして勝負の211球目となるハズだった。
キャッチャーのサインを確認した藤田は、セットポジションに入ろうと、腰部分に構えていた左手を下ろし、右手のグラブに収めかけた。
ところが、藤田はその左手を再び腰へと戻してしまった。左足はプレートから外されてはおらず、明らかな投球モーションの中断である。
「ボーク!」球審の林が両手をあげると、甲子園の空気が一変した。
5万人が見つめる中、林はスススッとマウンドに向かって歩を進め、ピッチャーとキャッチャーの間に入って三塁走者を指した。そして、生還を促すジェスチャーを2度、繰り返した。
延長15回、3時間半を超える大熱戦は、実にアッサリと終止符が打たれた。
この“延長15回サヨナラボーク”は、多くの高校野球ファンには“悲劇”と映った。そして、藤田に集まったのは同情だった。
学校に届いた激励の手紙は約300通。だが、当時の監督は本人を浮かれさせまいと、手紙のことは黙っていた。
試合後、林審判は記者に囲まれ、矢継ぎ早に質問を浴びせられた。ほとんどが、藤田に同情を寄せるような内容だった。「注意でも良かったのでは?」と食い下がる記者もいた。
しかし林球審は、「我々はルールの番人ですから、それはできません」との言葉で、ようやく記者から解放された。
林球審にも、かけがえのない「野球人生」があった。
早稲田実業高校に進学し、投手として活躍。2年春には関東大会で優勝した。
3年夏はエースとして期待されるも、肩を故障し、外野手として出場。
都大会決勝で敗れ、甲子園出場はかなわなかった。
早稲田大学、大昭和製紙では打撃投手、マネジャーとしてチームを支えた。
父親が経営する会社で働いたのち、知人からの依頼で審判員を務め27年間にわたる審判員生活で約1200試合を審判した。
藤田には、ある気がかりなことがあった。
自分は、ボークでサヨナラ負けしたが、そのことで一度も責められたことはない。しかし球審の林があのボークの判定で責められていることを知っていたからだ。
林審判も甲子園を目指した高校球児として、藤田の気持ちは痛いほどわかっていた。
だからこそ、投げることを許されなかった211球目、そのボールを藤田から受け取ることはできなかった。
そして、それが審判員の林に許される精いっぱいの「情」だった。
お茶の間では「悲劇の藤田投手」に対して、まるで犯人扱いされる林球審を救ったのが当時、NHKの野球解説者だった原辰徳。
このボークの場面をみてこう言ったのだ。「あれは完全なボークです。的確にジャッジした審判員を、私は称えます」と。
この「ひと言」で林審判への世間の見方が変わった。

昭和の一大改革において中心的役割を果たしたのが、政治家でも官僚でもなく、財界人であった。
土光敏夫は、岡山県生まれ、1917年に東京高等工業学校(現在の東京工業大学)に進学する。工業学校卒業後に土光が選んだ就職先は、当時「町工場に毛が生えた程度」と自身が振り返る東京石川島造船所(現在のIHI)であった。
石川島に入社すると、土光は設計技師として開発部に配属され、国産タービンの実現をを夢見て辞書を片手に日々研究に没頭した。
スイスの機械メーカーに留学させてもらい、2年間最新のタービン技術を学び、技術者として社内でも頭角を表していった。
1945年に終戦を迎え、連合国軍総司令部による”公職追放”によって多くの政財界人が職を解かれている。
そのあおりで、土光が「石川島芝浦ダービン」の社長に就任、従業員2千人を抱える経営者として戦後をスタートする。
その手腕に目を付けたのが経営危機に陥っていた親会社の石川島重工(1945年に改名)であった。土光は1950年に突然呼び戻されて社長に就任する。
また、土光は経営難に陥っていた東芝の社長に就任し、「いざなぎ景気」が始まった年でもあって、3Cと呼ばれるカラーテレビやクーラーなどが飛ぶように売れ、東芝の業績も急激に回復していった。
一見、順風満帆に見える経営者土光だが、この間に大きな挫折も経験している。
1954年の造船疑獄に巻き込まれて逮捕された。法務大臣の指揮権発動が発動され、国民不信をまねいた事件である。
土光も造船会社の社長として逮捕されたが、後に不起訴となっている。
その際、自宅を捜索した特捜Gメンが帰庁するなり「実に立派な人だ。生活はまことに質素。電車で通勤している」と面食らい、検事でさえも、こういう立派な人と出会って”検事冥利つきる”と書いている。
ところで、晩年の土光敏夫の目に、日本はどのように映ったのだろうか。
1975年に「グループ1984」という各分野の専門家20数人による学者の集まりであった。
グループで書かいた「日本の自殺」という論文があった。過去の「文明の没落」を研究した結果、「文明の没落」は外部の力によって生じるのではなく、内部から自壊していったことを明らかにした。
ローマ市民は、広大な領土と奴隷によって次第に働かなくなり、政治家のところに行っては「パンよこせ、食料をよこせ」と要求するが、「大衆迎合的」な政治家はそれを与え続けたのである。
老人は手厚い年金をもらい、仕事のない人間は、「オレオレ詐欺」で老人世代から莫大な金を巻き上げている。
官僚は、天下りをハシゴして国民の税金を貪っている。
それは、ローマ人が属州からの産物や奴隷から搾り取ったものから、働きもせずに産物を得た姿と重なる。
そして、政治家やエリートは大衆迎合主義をヤメ、指導者としての誇りと責任を持ち、なすべきこと主張すべきことをすべきであること、人の幸福をカネで語るのをヤメ、国民が自分のことは自分で解決するという自立の精神と気概を持つべきだと戒めている。
土光が経団連の会長の時期、この論文を絶賛し、コピーしては知り合いに配ったという。
土光は1981年に第2次臨時行政調査会長に84歳で就任し、最後の御奉公と赤字を抱えた国鉄や電電公社の民営化にとりくんだ。
この行政改革は“当然、政財官の各界のみならず広く国民の中にも”既得権益”を失うものも多く、「国鉄民営化」を含む第3次答申案の提出が予定された1982年7月末に向けて日増しに高まっていた。
この頃の土光の自宅には、行革反対を訴える手紙が大量に届くようになり、自宅周辺には街宣車が現れるようになっていた。
そのため、土光に警護のSPがつくようになり、さらに身の安全のため、日課としていた散歩や畑仕事にも制限がかけられるようにもなるほど、行政改革を巡る世の空気は緊迫していた。
そんな逆風が凪いだのは、土光の日常生活を描いたNHKのドキュメンタリーあった。
土光農作業用のズボンに古ネクタイを着用するなど、財界の頂点である経団連会長になっても、バス、電車通勤であった。
番組の最後には、土光家の夕食の様子が登場する。食卓に並んだのは、自分の家とれたキャベツと大根の葉のおひたし、玄米ご飯、そして知人からもらったメザシのみである。
そのメザシを入れ歯のない土光が頭からガブリと噛みつく姿がテレビ画面に大写しとなった。
最後に玄米を食べ終わった茶碗にお茶を注いでごくりと飲んで、一言「ご馳走様」。
この夕食の場面は多くの反響と感銘をよび、このテレビ放映以後、政府各省庁からの行革の妨害はパッタリと止んだ。
政治家も反対をしなくなり、臨調の審議は急ピッチで進むこととなり、電電公社や専売公社の民営化が実現した。それは、土光の言葉に力が宿ったからにちがいない。
今の国会は「言葉の飢饉」が生じ、ザル法ではない、つまり空言ではない政治改革できるのだろうか。