謎かけ・謎解き

1980年以降、イギリスでは新自由主義の歪みが表面化。貧富の差が広がり、各地で暴動が起きていた。
とりわけその格差が激しかったブリストルでは、将来を悲観した若者たちが、街のあちこちに無断で落書き、グラフティと称して社会への不満を吐き出すようになる。
そのなかにまだ10代だったバンクシーの姿もあった。 寡黙で地味であまり目立った存在でもないバンクシーに目をつけたのがカメラマンのラザリデスだった。
彼は不良グループにいて、世の中のいろんなことに不満をもっているように見えたが、彼が書いたグラフティを見た瞬間に恋に落ちた。
そのセンスとメッセージ性に強くひかれたという。
とりわけ、ジュラルミンの盾をもった警官に、白いテディベアが火炎瓶を投げようとしている絵。
武装して民衆を鎮圧しようとする警察に対して、抗議の意図で書かれたこの作品に、ラザリデスは感銘をうけたという。
そしてラザリデスは自分のキャリアを中断して彼のマネージメントをしたいと思い、バンクシーがアート制作に専念できるように、資金面のサポートを行うようになった。
さらに社会により多くのインパクトを残すべく、活動拠点をロンドンに移すことを進めた。
二人の悪ガキが広い世界に一緒に遊びにいくような感じであったが、そこは1日300回監視カメラに写るというほどの大都市。違法な落書きはすぐにつかまりかねない。
そこで考えたのが、今やバンクシーの代名詞となった「ステンシル」。ステンシルの素晴らしいところはスピードである。
事前につくった型紙に、スプレーをふきかければ作品ができる。複雑なメーッセージでも一瞬で書ける。
謎のアーチストの登場は、ロンドン中で話題をよぶ。
しかし、アートの専門家たちは街中にかかれるグラフテシーをどんなに出来が良くても評価の対象にすらしなかった。
バンクシーは驚くべき提案をラザリデスにもちかけた。それは、美術館の見取り図を描きながら、とんでもない計画について話だし。
著名な作品が並ぶ中、バンクシーは勝手に自分の作品を展示し、展示する様子を撮影するというもの。
その絵は、のどかな風景の前に規制線がはられた不思議な絵画だった。そこを訪れた人々は無許可の作品だとは気が付かなかった。
自分の絵と有名な絵のどこが違う。展示する場所でアートを判断するひとへの痛烈な皮肉だった。
一部の美術関係者がこれが良いアート、これに価値があるものいったに反旗を翻し、本当によいアートとは何かを問いかけているのである。まぎれもなく今のアート界への挑戦だった。
バンクシーはねずみのモチーフをよくつかっていた。
ネズミは虐げられている者の象徴だけど、どんな状況でも生き延びることができるという意味でもある。
その後も大英博物館やメトロポリタン美術館に大胆不敵に作品を展示する。そして顔は映さずに展示する様子だけを記録した映像を世間に公開していった。
バンクシーの行動はますます注目を集め、何の後ろ盾もなくてもできることを証明した。しかし、作品が自分自身の手をはなれ値段ばかりに注目があつまることには不満を抱くようになる。
そんな時、バンクシーは世界を出し抜く事件を起こす。舞台はロンドンにある世界最古のオークションハウス「サザビーズ」。
2018年10月5日、赤い風船にむかって少女が手をのばしている絵「風船と少女」がサザビーズに出品される。
そんな話題作にいくらの値がつくのか。会場はいつも以上の賑わいをみせていた。
「風船と少女」は競売にかけられるやまたたくまに上がっていく。ついた値段は1億3000万円。
しかし次の瞬間、額縁の中の絵が下がっていって額縁の下部に設置されたシュレッダーで切られていった。高値で買われた絵画がした半分まで切り刻まれた。
みんな信じられないといった表情でみつめ、そのうち大声で騒ぎたてる人もいて、会場は大混乱に陥った。
バンクシーの作品はひとまず関係者の手で運び出される。40分後、関係者がふたたび戻ってきた者がこう語った。「バンクシーにやられた」と。
実は、バンクシーは額の中に遠隔操作できるシュレッダーを仕組んでいたのだ。
バンクシーにとって作品そのものよりも、値段に関心が集まることに腹立たしさを覚えていたのだ。
金にいとめをつけない者たちに対して、皮肉たっぷりの作品で抵抗をしめす。
それは、「このゴミを実際に買うおまえたちみたいな馬鹿がいるなんて信じられない」というメッセージのように見えた。
前代未聞のこの事件は[シュレッダー事件」とよばれ、世界中に衝撃を与えた。
しかしサザビーズは、この騒動を逆手にとり、なんと3年後に作品は下半分が切り刻まれた状態のまま、ふたたびオークションにかけられた。
そしてバンクシー史上最高額となる29億円もの価格で落札され、彼の皮肉ごと巨大なマーケットに飲み込まれていった。
バンクシーにとって自身の意図とは異なる結果となって、不本意だったであろう。
ラザリデスによれば、あの事件以降、バンクシーはすこし自信を失っているように見えたという。
しかし、バンクシーは自ら足を運び、弱者に寄り添う作品を残していた。
2020年、新型コロナウイルスの蔓延で未曽有の状況に逼迫する病院に、一枚の作品がおくられた。
バッドマンがスパイダーマンがはいったおもちゃのかご箱から、スーパーヒーローではなく、翼が生えた看護婦が空飛ぶヒロインのような人形を取りだして遊ぶ少年の姿を描いたグラフテイで、「あなたたちこそがヒーローだ」と告げていた。
そしてバンクシーは、何度もパレスチナの地に足を運び作品を残してきた。
今から20年前、パレスチナとイスラエルの対立が激化、イスラエルは安全の確保という名目で分離壁を築いた。
バンクシーは、分離壁をキャンバスにするこどで、世界のめをパレスチナに向けさせようとした。
壁に描かれているのは平和の象徴である白い鳩が銃口をむけられた様子、胸には防弾チョッキを着ている。
戦火にさらされるパレスチナの住民を象徴しているといわれている。
それにしても、バンクシーはいまだにストリートにこだわる覆面アーテッィストであり続けている。
なぜ彼は各地にアートを残していくのだろう。
バンクシーを追った作家は、「正体が明かすとアートが伝えるメッセージよりも自分自身が注目をあびるからで、彼が匿名であることが、抑圧されている人や社会的弱者の代名詞になろうとしている」と語った。
バンクシーは、その存在自体が「エニグマ(なぞ)」なのだ。

1912年6月23日、ロンドンで生まれたアラン・チューリングは生涯を通じて常に「一匹狼」だった。
学校でもだらしなく、話はどもりで、国語やラテン語にはまったく興味を示さなかった。文字を正しく書くのが苦手で、綴り方は生涯あやふやだった。
また右左の区別がよくつかなかったので、左手の親指に赤丸を印して確認するほどだった。
たしかに数学の才能だけはとびぬけていたが、学校の教科書などより、アインシュタインの相対性理論のほうがずっと楽しかった。
そのため彼は、その風変わりな思考法でいつも教師たちを悩ませた。
いつも孤独な彼であったが、15歳の時、一歳上のクリストファー・モルコムと友達になり、難解な数学の問題に挑戦しては楽しんだ。
ただチューリングとちがってモルコムは、数学の優等生として先生からも学友からも尊敬されていた。
ところが2年後にモルコムが死んでしまい、チューリングはひどく落ちこんでしまう。だが、ここから彼は生涯の問題を考えるようになった。
それは「人間の知能を機械で模倣することはできないもおのだろうか、そうすればモルコムの頭脳だって後世に引き継ぐことはできるのに」というものだった。
18歳でチューリングは、ケンブリッジ大学のキングスカレッジの奨学生とり、数学を学んだ。
22歳ではやくもフェローに選出された彼は、その2年後に「計算可能な数について」という、コンピュータ開発の基礎となる論文を発表して学会を驚かせた。 高く評価された彼は、さらにアメリカのプリンストン大学で奨学生として学ぶ機会を 与えられ、ここで博士号をえた。
プリンストン大学では、1933年以来アインシュタインが教鞭をとっていた。同学に残って教鞭をとるように勧められたが、チューリングは1938年にイギリスに戻った。
イギリスが戦争に突入した翌日の1939年9月4日、チューリングはブレッチリーパークの政府暗号学校で、暗号の解析にあたるように命令された。
この暗号学校を運営していた秘密諜報機関は前々から「計算可能な数」の理論を発展させて「チューリングマシン」を考案したチューリングに注目していたのである。
暗号学校えチューリングに課された使命は、ドイツの暗号機エニグマを解析して、ドイツ軍の暗号を解読することだった。
というのもこのエニグマこそは、ドイツ国防軍すべての軍用通信をつかさどるもので、当時世界でもっとも精巧な暗号機械とされたからである。
そもそも、どんなふうに問題に取り組んだのだろうか。チューリングはゼロから始める必要はなかった。
イギリスに亡命したポーランドの数学者たちが、すでに1932年に解読作業をはじめたからである。
それはドイツ国防軍が、当時まだ比較的シンプルだった暗号機械絵エニグマを使い始めて4年たったころのことだった。
結論からいえば、チューリングの仕事はひとつの冒険によって大いに助けられたことになる。というのも、イギリスの潜水夫チームが、海底に沈んだUボートを引き揚げ、なかからエニグマの手引書が出てきたからである。
その一方で、プレッチリーパークには有能な技術者や数学者が集められ、彼らはあらんかぎりの想像力と知恵と嗅覚を駆使して解読を試みた。
チューリングの手伝いをした人々のほとんどが、その才能に驚嘆して彼を賛美しておそれた。また当時、同性愛は刑罰の対象であったにもかかわらす、彼はそれを吹聴した。
1940年、プレッチリーパークに、チューリングが考案した解読機械が何台か設置され、軍人や数学者たちはこれを「爆弾」とよんだ。
1942年当時、アメリカから物資を積んでイギリスに向かう多くの 舟がドイツのUボートに沈められ、イギリス本土に破局が迫るという危機的な状況が生まれていた。
当局からのチューリングの数学者に対して「はやく成果を出せ」というプレッシャーは日増しに強まっていった。
しかし、1943年3月21日を境に転機が訪れた。この日を境に、Uボートが連合国の舟を沈める数がみるみる減り、反対に連合国がUボートを沈める数が劇的に増えた。
ヒトラーは大西洋の戦いに敗れたのであるが、チャーチルをはじめ戦争史家達は、勝利の原因はレーダーの性能がよくなったために、爆雷の命中率が上がったため、そして新たな護送手段を考案したためとしている。
それなりに正しいであろうが、それだけでは説明がつかない。 勝利の原因はチューリンゲンがエニグマを解読したからである。
しかも解読の時間を時間単位から分刻みにしたからである。
そのおかげで、イギリス海軍は、すべてのUボートの居場所も攻撃計画も手に取るようにわかるようになったのである。
ただ、暗号を解読したからといって即座に反応しては敵の指導部に見破られたことを感ずかさせ、ただちに新しい暗号に切り替えるであろうから。
それにしても、大西洋におけるイギリスの勝利に、ウレッチリーパークの数学者たちがこれほど貢献したのに、このことはほとんど黙殺された感がある。
それはイギリスが、戦時中のプロジェクトをずっと秘密にしておきたかったからであったが、加えてチューリングが痛ましい最期をとげたこともあげられる。
チューリングらは、戦争が終わって職を解かれるとき、秘密厳守をきつく誓わせられた。それは簡単なことではなかった。
戦争中何をしていたかを話せなかったので、人々から疑われ職場放棄の非国民扱いされることもしばしばだった。
なにしろ、チューリングは1946年に勲章を授けられたが、受賞理由は不明のままだった。
1948年までチューリングは、国立物理学研究所でコンピュータ開発のプロジェクトリーダーを務め、当時世界最速の計算速度のコンピュータを開発した。
だがその唯我独尊ぶりで周りを不快にさせた。得意のマラソンでは、ズポンがずり落ちるからと、ズポンをネクタイと結びつけて走った。
マンチェスターの大学のコンピュータ研究所の副課長に就任し、彼の関心は人工知能に向けられていった。
つまり、人間の頭脳と同じことができないか、ということだ。
人間の思考には論理の飛躍があるが、これに近づけるには一種のルーレットの仕組みを 組み込めばいいのではないかなどと、人口知能を開発するための実験を提案した。
そして、コンピュタの速度と記憶容量が改善されさえすれば、コンピュータ自らが学習し、みずからがプログラムの変換ができるだろうと予言した。
そして1951年、世界でもっとも権威ある科学アカデミーのひとつであるイギリス・ロイヤルソサイティのフェローに選ばれた。
ところで、チューリングは当時19歳の少年と同棲していたが、この若者が強盗団の一味であるとはまったく知らなかった。
ある週末、少年を残して家を空けている間に、金目のものをすべて奪われてしまった。
そこで彼は警察を呼んで事情を説明したが、馬鹿正直にもつい同性愛のことをしゃべってしまった。
当時、同性愛が罪として罰せられることをチューリングも知っていたはずであるが、結局、自然の性に反するふしだらな行為をはたらいたとして、執行猶予付きの刑を言い渡される。
そして同性愛の性向を矯正するという理由で、性欲をおさえるための女性ホルモンを投与された。イギリス政府は、チューリングはもはや秘密保持者として資格はないとみて 、彼の研究活動を禁止し、コンピュータ開発もやめさせた。
冷戦の時代がはじまり、彼などが敵国にゆすられたらすべてをばらしてしまうだろうと、秘密の漏洩を恐れたのである。
1年後の強制治療が終わって後、彼は半年だけ生き、1954年6月7日、42歳の誕生日を前に、毒(青酸カリ)をリンゴに注射して全部食べ、まるで白雪姫のように死んだ。
彼が身近なものにうつ病をうちけたり、自殺をほのめかしたした痕跡は一切ない。
また彼に対する追悼の辞はどこにものらず、1974年までチューリングがこの世に存在し、何をしていたかを知っていたのは、ほんの一握りの人たちだけだったのである。
1974年、イギリス政府の許可をえた軍事研究に携わっていた人物により、エニグマ解読の事情が本となって明らかにされた。
1992年にはBBC放送が「チューリング博士の数奇な生涯と死」と題して放映し、一般にもしられ、2015年には映画「エニグマ」により世界に知られることとなった。

さらにバンクシーはパレスチナにホテルまで建設した。あえて選んだのは見通しの悪い分離壁の真横であった。
その客室からみえるのはそそり立つ壁ばかり、「世界一眺めが悪い」と話題をよんだこのホテルには多くの観光客が訪れた。
「この壁はパレスチナを世界で最大の天井のない刑務所にかえてしまうものだ」というメッセージでもある。
彼は現代のロビンフッド、どうにもならない時代には希望が必要なんだ。希望、自由、強者に立ち向かう象徴的存在バンクシー。