雲の行方と戦局

これまで経験したことのない気象状況に、2024年5月より、世界トップクラスのスーパーコンピュータをつかって、精度の高い予測が可能となったことは、命を守るうえで心強いことである。
一方、最近では「天候を作りだす」研究も行われているようだ。
さて、「記憶に残る天気」といえば、1964年10月10日東京オリンピックの開催の日、前日まで雨天であったことが嘘であったように晴れあがった。
それは、日本の前途を象徴しているようにも思えた。
2008年開催された北京オリンピックの開会式では、「晴れ」が演出された。
天気予報では当日夜の北京市内の天気予報は「雷雨」であった。
そこで、中国当局は、開会式の数時間前に北京市内や周辺都市から合計1000発以上のロケットを雨雲に打ち込み、ヨウ化銀を散布して北京市周辺で雨を降らせる「人工消雨」作戦を実施した。
その結果、開会式の時間帯の北京市内は見事に晴れたのである。
2024年パリ・オリンピックまでと1か月となったが、西岸海洋性気候域にあるパリは、1年中曇っていて、見事に晴れるような日はほとんどないという。
実際、開会式がどんな天気か、セーヌ川の水質がトライアスロンを実施できるまで浄化できるかどうかと共に、少々興味がある。
実は、「天気を変える」実験は、1964年東京オリンピックの年に、最初の実験が行われている。
アメリカの物理学者・化学者であるアーヴィング=ラングミューア博士による「シーディング」のアイデアに基づくものである。
雲粒が集まって雨粒として落下するということは、雨雲が雨になるということで、雨が降ってしまえば、雨雲は消える。
つまり、特定の場所に、特定の時間に雨を降らせたくなければ、雨雲がその場所に近づく前に雨を降らせて、雲を消してしまえばいいというアイデアである。
さて、日本の新聞で初めて気象情報を定期的に掲載したのは、福沢諭吉が創刊した日刊紙「時事新報」であった。
天気予報ではなく、「天気報告」だったのだが、気象庁が天気予報を発表する約1年前である。
1925年にはラジオでも天気予報が流されるようになり、国民生活になくてはならないものとなった。
そんな天気予報が突如「消えた」時期がある。
第二次世界大戦の頃で、1941年12月8日、陸海軍は「気象報道管制」実施を命令した。
東京杉並区高円寺北、現在の馬橋公園辺りに、「陸軍気象部」が設置された。
気象無線通報は暗号化され、新聞やラジオなどの一般広報関係は、すべて中止となった。
気象情報は、航空機や船舶による戦闘計画にとても大きな影響を与える。相手国に伝わらないように、配慮したためだ。
実際、世界の戦史のなかで、気象が大きくものをいった戦いがある。
現在のように「天候を作り出す」技術があれば、戦局は大きく変わったであろう戦いが、1941年6月5日のミッドウエイの戦いである。
天候は「晴れ」、しかし南方特有の分厚い雲が次々に現れていた。ミッドウエイの海域には、日米双方の主力艦隊が集結していた。
日本空母4隻の大艦隊、対するアメリカは空母3隻、太平洋全域の制海権がこの一戦にかかっていた。
だがこの時、日本側には「心のスキ」が生まれていた。日本艦隊航空参謀で真珠湾攻撃成功の立役者・源田実も例外ではなかった。
開戦以来、連戦連勝の波にのっていたために、米国海軍の闘志と実力を過少評価していた。
アメリカ空母の位置を把握できていなかった日本は、偵察機を飛ばし捜索にあたっていた。
偵察機は艦隊から扇状に放たれ、そのうちの一機がぶ厚い入道雲に遮られた。
その一機は、悪天候を嫌がり、雲の下におりたって偵察することを怠たったのである。
まさにその雲の下にアメリカの空母はいた。これがアメリカ側に「先制攻撃」のチャンスを与えることになる。
アメリカ側の航空隊150機の中で、ウォルドロン隊15機30名の隊員にとってこれがはじめての実戦だった。
隊長のウォルドロン少佐は、技量ではかなわない日本軍航空隊との戦いを前に部下たちにこ訓示した。
「もし魚雷攻撃をする最後の一瞬ただ一機しか残っていなかったとしても、その乗員は突入し命中を期してもらいたい。我々全員に神のご加護があらんことを」。
アメリカ軍は日本軍よりも「先に敵を発見」、魚雷や爆弾を搭載した総勢150機の攻撃隊が出撃していった。
まっさきに日本軍に攻撃したのはウォルドロン隊で低空からの魚雷攻撃である。
アメリカの先制攻撃を許した日本、熟練の搭乗員がこれを迎え撃った。
敵機を撃墜するたびに見張り看板から報告が来て、アメリカ機は見る見るうちに数を減じていく。
日本側かからすれば、敵の母艦機も大した腕ではないというのが、偽らざる思いだった。
ウォルドロン隊15機はすべてが撃ち落され全滅、魚雷は一発も命中しなかった。
しかし、この「捨て身の突撃」によって日本軍の目は海面にくぎ付けとなり、上空への警戒が散漫になっていた。
この時、日本軍の戦闘機はすべて海面近くに降り、日本艦隊の対空砲火もすべて海面付近を警戒していたのである。
まさにこの瞬間、アメリカの爆撃機40機が日本空母上空に到着、真上から急降下を開始し次々と爆弾を投下した。
わずか5分の間に加賀・蒼龍・赤城3隻の空母に爆弾が立て続けに命中、沈没してしまう。
一隻残った飛竜の搭乗員が意地をみせアメリカ空母を攻撃、猛烈な対空砲火にひることなく次々攻撃を行い、40機のうち半数を失いながら空母一隻を沈没させた。しかし、その飛竜も沈没。
乗組員たちは炎でうめられた格納庫内を走り回って消火にあたっていたが、十数分後には艦の全体にわたって火災が起こった。
源田が残した「手記」には、これは大変なことをしでかした、へなへなと甲板にうずくまったとある。
今朝の今朝まで無敵を誇った日本海軍があっけなくこんな惨めな姿になろうとはだれが想像できたであろうか。
日本海軍はこの惨敗の事実を国民に知らせず、ひた隠しにした。
生き残った搭乗員は「口封じ」のために日本から遠く離れた最前線へと送られた。
乗組員たちは、真に残酷だったのは負けたことよりは、その後の仕打ちだったという。 我々ミッドウエイの生き残りは、犯罪者のように隔離され惨めなものだったと語っている。
南方の最前線では生きて帰ることもないだろうと思ったという。実際に南方の激戦地で優秀な搭乗員を次々に失っていくことになる。
1944年6月6日の「ノルマンディ上陸作戦」も、天候が勝敗を大きく左右した。
アメリカイギリスを中心とする連合軍がにドイツに対して「ノルマンディー上陸作戦」を開始した。
ナチス・ヒトラーの破滅を決定づけた「史上最大の作戦」とよばれる。
そこにいたるまで連合軍とドイツ軍との2年間にわたる壮絶な「頭脳戦」があったため、「史上最大の謀略戦」ということもいえる。
ヒトラーは連合軍の上陸に備え、数多くの大砲が海にも向けられ最大級の警戒体制が敷かれていた。
つまり「大西洋の壁」といわれるほどに、堅固な陣地を沿岸に築いていたのである。
これを突破する連合軍の最高司令官がアメリカ軍アイゼンハワー将軍であった。
アメリカ・イギリス・カナダなど多国籍の軍を調整する能力を見込まれ、白羽の矢がたてられた。
アメリカの大統領は、会食にも同席させるほどの信頼が寄せていた。
アメリカは「上陸地点」を決める特殊なカメラを使い、英仏海峡に面した海岸を隅々まで撮影し、敵の陣地がどのように作れれているかを、詳細に調べていた。
その結果選ばれたのが、フランスの「ノルマンディー地方」であった。イギリスから距離があり、ドイツの守りも手薄だったからだ。
ここでアイゼンハワーは、敵の注意を「別の場所」にむけようとした。イギリスフランス間の距離が特に短いドーバー海峡、ここから上陸しようとみせかける奇想天外な仕掛けをした。
ドイツ軍を欺く用意したのが、「風船」でつくった本物と見紛うばかりの戦車やトラック、これを敵の偵察機が見つけるように配置した。
そして、偽の暗号を飛びかわし、部隊が集結しているように見せかけた。
ヒトラーはアイゼンハワーがきった「偽のカード」にまんまと騙されたといってよい。
ヒトラーは、あらゆる情報を総合すると、敵の上陸の可能性がもっとも高いのはドーバー海峡で、この地点の防御を最大限高めなければならないと命令をだしている。
だがある日、連合軍の担当官はノルマンジー上陸地点の「偵察写真」の中に、奇妙なものを発見した。砂浜に横に並んだ黒い点、ドイツ軍が設置した障害物だった。
設置を命じたのは、沿岸防衛にあらたに任命されたロンメル将軍。アフリカ戦線で活躍し連合軍から「砂漠のキツネ」と恐れられていた名将で、敵の心理を読むことにたけていた。
ロンメルはノルマンディー沿岸が手薄だということに気がつき、ノルマンディーの守りを固めるように命じたのである。
ロンメルが特に恐れたのは満ち潮の時で、一気に敵の上陸艇が海岸に押し寄せることであった。
偵察隊の写真に写しだされていた「黒い点」の正体は、先端に爆発物を仕組んだ長い棒であった。
満潮時、海面に隠れるように設置されており、上陸艇の侵入を阻むための仕掛けだった。
連合軍側が航空写真によって偵察していることも、ロンメルの計算の内だった。
そこで連合軍は、障害物や爆発物が表面に出ている「引き潮」の時に攻めてくるはずだと予測した。
そこを狙い撃ちにすれば一網打尽である。
ロンメル指示の下に、一週また一週と大西洋の壁は強力となっていき、防衛にあたる部隊の装備も向上していく。
アイゼンハワーは守りを固め始めたドイツに対し、「打開策」として落下傘で敵の戦場におりる空挺部隊の派遣を考えた。
上陸する前の晩にひそかに敵の背後に降り立ち、海からの上陸部隊と挟み撃ちにしようわけである。
この危険きわまりないミッションを与えられたのは、屈指の「精鋭部隊」だった。
精鋭部隊とはいえ、降りる地点を間違えればを一挙に失うことになる、「賭け」ともいうべき作戦だった。
作戦の準備は整い、問題は「上陸日」をいつにするかだった。
空挺部隊を送り込むには、満月の前後であること、一方主力部隊は夜のうちに沿岸に侵入し、早朝から上陸を始める。その時には、障害物をさけるために早朝に引き潮になること。
このふたつの条件を満たすのは、1944年6月5日~7日だった。
そしていよいよ「上陸作戦」を開始する段階となったが、直前にアイゼンハワーのもとに気象予報の担当官から「悪い知らせ」が届いた。
6月5日から7日にかけて英仏海峡は激しい嵐に見舞われるというものだった。
天候は、ドイツに味方しているようにも見えた。
このころ連合軍は数千キロはなれたグリーンランドで、ある「極秘作戦」をすすめていた。
グリーンランドにはドイツの「気象観測所」が設置されていて、そこを襲撃したのである。
ヨーロッパの気象観測にはグリーンランドのデータが欠かせなかった。観測機器や通信機器がすべて押収され、ドイツ軍は戦争遂行に欠かせない気象データを次々と失っていく。
6月5日、アゼンハワーの司令部は活気づいた。気象予報の担当官が翌6日、天候が一時的に回復すると告げたのだ。
一方、ドイツ側はデータ不足から、この天候の変化に気づいていなかった。
とはいえアイゼンハワーにとっても、見通しは必ずしも明るくなかった。しかし延期により悪影響が出るよりは、むしろ「賭け」に出る方を選んだ。
そして攻撃開始を6月6日として進める決意をした。
そしてフランス国内のレジスタンスに向けイギリスのBBCから作戦開始の暗号(「ポールヴェルレーヌの詩」)が流された。
しかしこの暗号はフランスに駐留するドイツ部隊により傍受されていて、彼らは暗号の解読にも成功していたのだが、ここでドイツ側は大きな失態をおかす。
当面嵐が続くと信じていたため警戒をおこたり、指令部を離れたロンメルにこの情報を届けなかったのである。
ロンメルはこの時、ヒットラーの妹の結婚式に出席していた。
上陸前日の夕方、アイゼンハワーは自ら肝いりで鍛え上げた空挺部隊を訪ね、出撃間近のひとりひとりに声をかけてまわった。
後に、「兵士を死地におくるのではないかと思う時、兵士の目をみることは実につらいことだ」と述懐している。
やがて気象予報官が約束した好天が訪れた。それは今までみたことのないような壮観な日没が始まり、燃えるような真っ赤な色が大空にたなびいたという。
連合軍は引き潮のため銃弾の降り注ぐ中上陸、ドイツ軍の背後から深夜に降りたった空挺部隊が支援した。
また、アイゼンハワーは次の手をうっていた。
それはイギリスから運んできた移動式の「はしけ」である。これを沖合に並べて人工の港を作り、巨大な「補給路」を確保すること。それは上陸の日の午後から始まった。
またたくまにノルマンジーの砂浜に巨大な港が出現した。そしてトラックや戦車などの物資が続々と前線へ送り込まれていった。
「連合軍上陸」の知らせ情報をうけたロンメルは深夜にひき返したが、すでに手遅れだった。
一気に攻め寄せる連合軍を前に、ロンメルはヒットラーに、破局が近づいておりこの情勢からみて「適切な結論」を出すべきだという手紙を送った。
ロンメルの言う「適切な結論」とはドイツの「全面降伏」を意味していた。
しかしヒットラーの頭の中に「降伏」の文字はなかった。
国民を道連れに最後まで戦いぬく覚悟をきめていた。ドイツはこれからさらに10か月間、絶望的な戦いを続けるが、4月30日ヒトラー自決、そして5月7日に「全面降伏」に至る。
ヒットラー自決から約3か月後、1945年8月6日に原爆が日本に投下される。その3日後に小倉に原爆投下される予定であった。
当時、兵器工場「小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)」が現在の小倉北区に置かれるなど「軍都」としての役割を果たしていた。
米軍は44年6月に造兵廠を空襲し、「その日」の前日となる8月8日には八幡製鉄所のあった八幡を激しく空襲した。
ただ、大空襲による煙などの影響で、翌日の小倉上空は靄(もや)がかかっていたとされる。
人間の運命は皮肉なものである。原爆を積んだ爆撃機B29は数回、旋回したが、視界不良で原爆投下をあきらめ、長崎へ向かった。
原爆の熱量は当日の天気を変え、広島にも長崎にも「黒い雨」を降らせた。

黒い雨(くろいあめ)とは、原子爆弾投下後に降る、原子爆弾炸裂時に巻き上げられた泥やほこり、すすや放射性物質などを含んだ重油のような粘り気のある大粒の雨で、放射性降下物(フォールアウト)の一種である。 概要 原子爆弾が投下された広島市で、黒い雨の記録が残っている。また、フランスの核実験場であったムルロア環礁や[1]、ソ連の核実験場であったセミパラチンスク周辺でも[2]、原子爆弾投下後の降雨の記録が残っている。 一方、嵐が続くため当面敵の上陸はないと報告をうけたロンメルも不安にかられていた。
仮に敵に上陸をゆるした場合、これをむかえうつ戦車部隊が不足していたのだ。そこでロンメルは嵐で敵が動けない日に、ヒトラーに増援を直談判しようとした。
この時ヒトラーは恋人エバの結婚式にでていたため、アルプスの別荘に滞在していた。ロンメルはノルマンディー防衛の司令部をはなれることになった。
しかし、こうした報道管制が国民の命を脅かすことにもなった。
1942年8月に西日本を襲った「周防灘台風」で、死者・行方不明者1158人をだした。
台風の位置や進路に関する情報が伝えられなかったため、多くの人が高潮の被害に遭った。

また現在も、公園すぐ近くに気象庁の職員住宅が残っており、個人的な話だが、この職員住宅の塀際のアパートに住んでいたことがあり、馬橋公園を迂闊に通り過ぎていたことを、幾分悔やんでいる。
陸軍気象部にあった気象神社は空襲によって焼失するが後に再建され、1948年にJR中央線を挟んで高円寺南の氷川神社内に移された。
陸軍気象部は戦後陸軍が解体されると、変遷を経て国立「気象庁気象研究所」として生まれ変わった。
近年まで、お天気キャスターだった「福井のおじさん」(福井敏男)は陸軍気象部に属していた。
陸軍気象部は、大日本帝国陸軍の機関の一つ。1938年に、「陸軍気象部令」によって設置された。

1944年6月のある日、ナチス占領下のフランスのパリで、戦時下では場違いな放送がながれてきた。「お便りが届いています。これは個人的なおたよりですね「秋の日のバイオリンのため息 身にしみてひたぶるに うら悲し」。
フランスの詩人ポールヴェルレーヌの秋の歌という有名な詩の一節である。
発信源はイギリス、フランス国内のレジスタンスにむけての暗号であった。48時間以内に上陸作戦がはじまる。
中国やロシアでは、人工降雨を水不足や干ばつの対策技術としても利用しています。
日本でも、2008年6月に、四国の早明浦ダム上空に雨を降らせる実験が行われ、実用化に向けての研究がはじまっています。雨だけではなく、冬に山間部に雪を降らせることで、雪解け水を農業用水として活用するなど、「必要な時に必要な場所に水を降らせる」ための技術として活用が期待されている。
地表に比べると、高度が高いところでは、気温が低くなっており、山肌沿いの地形や、上昇気流の発生など、なんらかの原因で地表近くの暖かい空気が高いところに上昇すると、温度が下がり、飽和水蒸気量が少なくなります。
ここに、空気中のチリや煙などの微粒子があると、それが種になって雲粒ができるのです。空気中の水蒸気が細かい雲粒になります。
雲の温度が0度以下の「冷たい雲」では、雲粒の一部は凍って、氷粒になります。氷粒の周囲にある雲粒が氷粒にくっついて凍ることで氷粒が大きく成長していき、やがて重くなって落下していきます。大きくなった氷粒が氷のままで落下すると雪に、落下途中で温度が上がって溶けると雨になります。
一方、雲の温度が0度以上の「暖かい雲」では、氷粒はできません。雲の中を動き回る雲粒同士が衝突した時にそのまま合体してだんだん大きくなっていき、やがて重くなると落下して雨になります。
氷粒が芯となってできる雨を「冷たい雨」、雲粒が衝突してできる雨を「暖かい雨」といいます。日本近辺で降る雨はほとんどが「冷たい雨」です。
つまり、人工的に雨を降らせるためには「雨雲を作る」仕掛けか、もしくは「雨雲から任意に雨を降らせる」仕掛けを用意できればよいのです。現在主に研究されているのは、後者の「雨雲から雨を降らせる」仕組みです。
雨粒の「種(シード)」になるものを雨雲の中に散布することで雲粒を雨粒に成長させるので、「シーディング」と呼ばれます。シーディング法で使う「種」は、冷たい雨雲と暖かい雨雲で異なります。
冷たい雨雲では、ドライアイスやヨウ化銀が使われます。
ドライアイスは、雲粒の温度を下げることで種となる氷粒を作り、雨粒の成長を促します。ヨウ化銀は、それ自体が氷の結晶とよく似た形と性質で、そのまま種となって雨粒が成長します。
一方、暖かい雨雲では、雲粒を集めるために、塩などの吸湿性の高い粒子を散布します。種に吸着される水が集まることで衝突が促され、雨粒に成長するのです。
そして気象観測にしばしば利用されたのが「無人気球」である。
無人気球は「ラジオゾンデ」などを下げて高層大気の気温・湿度・気圧などを測定するのに活用される。
現代では大抵ゴム気球であり、ヘリウムガスや水素ガスを入れ、あらかじめ気球の厚みや中に入れるガスの量を調整して地上から放出・飛揚する。
そして高度30km程度で破裂し、パラシュートで降下する。航空機によりもはるかに低コストで高高度に到達できるため、気象観測ばかりか軍事利用も考えられるようになる。
気象観測用の気球は、一般の飛行船や気球とは異なる独自の発展を辿った。
特に1920年代末に「ラジオゾンデ」が発明されて以来、高層気象観測に欠かせないものとなっている。
「ラジオソンデ」とは、地上にいながらにして上空、高度およそ30kmまでの気温、湿度、気圧などのデータを得るために、主にゴム気球にとりつけて飛ばされるGPO機能付き「気象観測機器」のことである。
。 「ラジオソンデ」はフランス人発明者ロベール・ビュローの造語で、「ラジオ」は無線電波、「ゾンデ」はドイツ語で"探針"を意味している。

将棋の世界で、相手を追い詰めながら、深読みしすぎて一手が出ずに、形勢を逆転されることがあるという。
羽生名人を言いつめながら、どうして決定的な一手がうてなっかったのか。
最近では、藤井名人をおいつめながら、初歩的なミスで敗北した豊島名人などである。
ダンケルクでイギリスを追い詰めながら、なぜか進軍をやめたヒットラー。
ミッドウェイの大惨敗は、日本には伝えられず、生き残りは口封じのために南方の最前線に行かされた。 彼らは、負けたことより、その後の仕打ちの方が残酷に思えたという。
連合軍はグリーンランドの気象台を攻撃したことがエピソードである。
アイゼンハワーは原爆で戦争を終わらせ、マッカーサーは原爆を投下したものが英雄になれるといった。
アイゼンハワーはマッカーサーの副官で、マッカーサーが陸軍で成果をあげるのをはばんだ形となった。
国連軍の司令官として朝鮮戦争を戦い、中国義勇軍の参入により形勢不利になったマッカーサーは原爆投下を主張し、 トルーマンに解任される皮肉な結果となった。