日本の政治仕様の一部か

自民党派閥によるパーティーによる裏金作りが問題化しているが、組織的な裏金作りなら官僚の得意技で、闇出張・闇給与が問題化したこともあった。
この国の支配者層は、世の批判にさらされると、「打出の小槌」の形をかえて延命させる術にたけている。
「天下り」が批判を受ければ、関連する「独立行政法人」のポストを用意し、斡旋を官僚OBにさせ、「独立」という言葉を目暗ましにしているようだ。
また、財政投融資時代の特殊法人の無駄遣いが批判をうけると、特殊法人の代わりに使い途のチェックが甘い「基金」の乱立により、関係閣僚以下官僚にも「裏金」が入ることになっている。
勤勉で真面目に働く国民性と、そこから不相応に利益を得る支配層の組織的な不正が、これほど鮮やかな対比を見せるの国は、どこにあるのだろうか。
それは戦後の混乱の中で立ち上がり、政と官と産が「一体化」して高度成長を果たしてきたこと、長期の安定保守政権がその背景にあり、「政・官・産(財)」による「鉄の三角形」ができたことによると思われる。
明治期にも「政商」が後に大財閥を形成し、大地主と政治家、財閥、軍部が結びついて帝国の支配層を形成していたのは確かであるが、敗戦後の「経済民主化」をもってしてもなお、政治家・官僚・財界は、利権の「束寄せ」のような姿で、新・支配層を形成した。
財界からの政治献金や官界からの天下りの受け入れ、官による裁量行政等によって、他人の金を上手に回しつつ利得を得て行くことが「システム化」したということである。
高度経済成長の時代に、先祖伝来の土地で細々と働くことで生計を立てた農民の姿は視界にさえあった。
1980年代、日本人はエコノミック・アニマルと世界から批判されたが、それでも「農民の心」「ムラの心」を失っていなかったような気がする。
しかし1980年代半ばの「バブル」以降は、日本人のそうしたメンタリティーを大幅に変容させる出来事ではなかったかと思う。
そしてさらに重大なことは、バブル期には「鉄の三角形」に「新たなクサビ」が打ち込まれ「鉄の四角形」が形成されることになったことである。
そのクサビとはバブルで浸透力を強めた「アンダ-グラウンド」(UG)のクサビである。
バブル期には、裏社会からの人材が多く送り込まれ、イトマン事件などが起きた。
このUGの絡みのヤブを綺麗にできなければ、「民意の木」は絶対に育たない。
つまり政治家は、命をはる覚悟でやらないかぎり、本当の「改革」はできないということである。
2002年10月、民主党の国会議員(石井紘基)が駐車場で借金のウラミをもとで刺殺されたという事件がおきた。
事件は「私怨」として処理されたが、実はこの国会議員は、当時タブーに近かった利権構造にメスをいれようとしていた矢先だった。
政界ではウスウス知っていてもいわない、マスコミは弱みを握られているか報復がこわくて書かないという背景があり、本当の「闇」は見えてこない。
石井紘基議員は、当時「仕分け」の対象となりつつあった特別会計が育んだ利権の問題にも切り込もうとしたともいわれている。それは主に農林省、国土交通省の裁量で各地方に配分されていたものであった。
毎年一般会計予算成立は報道されるが、「特別会計」は一般会計の4倍もの規模をもつにもかかわらず予算のチエックも緩く、利権の刈場となっている。
日本は、法治国家としてはあまりにも組織的「非合法」がまかり通っている。風俗業やパチンコ業界などよくよく詰めれば非合法色が強いものがあるが、「UG」の資金源になっているせいか、誰も手を入れようとはしない。
それどころか、日本の巨大産業であるパチンコ業界は警察官僚の「天下り」先となってきていることだ。
全国各管区警察局長ごとに天下りの縄張りが決められているという。
しかもパチンコ業界の利益は、かなり北朝鮮に流れており、もし北朝鮮政権が崩壊して過去の日本の政権とのつながりを示す資料が公開されたら困る。
こんな実態があって、どうして「拉致問題」の解決に本気で取り組めるだろうか。

NHKドラマ「けものみち」(1982年版)は、和田勉という名プロデューサーにより制作され、名取裕子という女優の出世作となった。
「けものみち」の演出が素晴らしかったことは否定しないが、どういう演出であれ「原作」の素晴らしさこそがドラマの根本であることに違いない。
「けものもち」の原作は松本清張で、ドラマの中で語られたとうり、「けものもち」とは山野において獣が通る決まった道、転じて通常の人間なら通らぬ道のことである。
そう。政治の世界で権力の頂点を目指すならば、けもののみちをとおらなければならない世界なのだ。
しばしばそれは「魑魅魍魎」や「百鬼夜行」という言葉でがあるが、「次期首相選任」の過程においても、それがよくあてはまるのではないだろうか。
それは、「総裁公選」となってからも、それほど大きくはかわっていない。
そのことを教えてくれるような事件は様々あるが、個人的にそれを教えてくえたのは、1987年10月の竹下登氏の「第74代内閣総理大臣就任」の顛末であった。
日本の政治仕様の「闇」の部分が、一気に表面に浮かびあがったような気がする。
1987年10月6日午前8時、マスコミが待ち構えるカメラの放列の中、次期首相候補の一人・竹下登氏は田中角栄氏の目白邸を訪問した。
竹下は雨の中に車から降り、事前に打ち合わせたとうり門前で待機していた人物に名刺を渡し、田中家への取次を依頼した。
田中家の方ではその訪問を(予定どうり?)に拒否したために、竹下氏はわずか「30秒」で引き返すという「珍プレー」を演じた。
しかもその屈辱的な姿はテレビを通じて国民の目におおわれることなく、白眉の下に晒されることになった。
それは表面的には、田中派の「若頭」竹下氏による裏切り行為「創政会」結成について田中の理解を改めて求めた行為のようにも見えた。
しかし、それではあまりにムシがよすぎる。
さて、田中角栄を被告とするロッキード裁判は1977年に始まり1983年に、「第一審」で有罪判決がでている。
田中は議員を辞職せずに控訴したが、「田中派」は親分に「有罪判決」がでた以上は、最大派閥でありながら「総理」を出せない状況が長く続くという事態に不満が鬱積していた。
そんな中、竹下登は1985年2月に勉強会という名目で集まり、それが「創政会」という新派閥への結成に向かうことになる。
田中派の宗主・田中角栄は勉強会というから許したのにと竹下の「裏切り」に激怒した。激怒というよりも「悲しみ」に近かったかもしれない。
なぜなら創政会の発起人には、小沢、梶山、羽田などいわゆる田中角栄「子飼いの」有力議員が名を連ねていたからである。
以後、田中氏は朝からウイスキーを飲み続け約3週間後に倒れ、半身不随となっている。
半身不随で言語に障害をもつに至った田中角栄は、それによって完全に「政治生命」を喪失したといってよい。そんな田中宅を、次期総裁候補が「目白詣(めじろもうで)」よろしく訪問することにどんな意義があったのだろう。
まことに不可解な「門前払い」事件であった。

1987年、中曽根首相任期満了により、後継をめぐって3人の首相候補が争った。安部晋太郎(安倍晋三の父)、宮沢喜一、そして竹下登である。
旧派閥に読み替えると、順に福田派、大平派、田中派の後継者がたったということだ。
そして竹下は同年1月ごろから、ふってわいたような日本皇民党による執拗ないやがらせをうけていた。
いわゆる「ほめ殺し」であるが、竹下本人はこれにより円形脱毛症ができるほどだったという。
「ほめ殺し」の具体的な中身は、「竹下さんは日本一、金儲けがうまい政治家、竹下さんを総理大臣にしよう」というものであった。
それがなぜ竹下にとってダメージになったのか。
それは、竹下が右翼である皇民党とが水面下で深い繋がりがあるかのような印象を一般に与えた。
それは、国民にとってマイナスイメージでしかなく、それをわかったうえで「応援」するのである。
相手をけなしたり、貶めたりしているわけではないので、反撃のしようがないという高等戦術だった。
問題は、皇民党がなぜ安部氏や宮沢氏ではなく竹下をターゲットにしたかということだ。
彼らは、最有力候補「竹下登」をターゲットにすることによってこそ「皇民党」の名があがるというものであると説明したが、説明になってはいない。
当時「次期首相」を選ぶキーパーソンは5年にもわたり首相を務めた中曽根総理であった。
その人の口から右翼団体の活動すら止められないようでは、総理の座を(竹下に)「禅譲」できないという旨の発言がでた。
この言葉は、政治が「闇の世界」につながっていることを暗に示唆している。
新聞紙ではこれ以上のことは書かれておらず、週刊誌的な情報になるが、同じ田中派の先輩で竹下の後見人とでもいうべき金丸信は、事態の収拾を当時の東京佐川急便の渡辺社長に相談したという。
渡辺は芸能界とも親しい派手な人物だが、アンダーグランド界のNO2稲川会・石井進元会長とのパイプがあり、石井会長を通じて”ホメ殺し”を止めさせようとしたのだ。
そして、皇民党稲本氏と稲川会石井氏とのトップ会談が行われ、この時皇民党がホメ殺しをやめる「交換条件」としてに竹下につきつけたことこそが、「田中角栄・元総理のもとに、総裁選出馬の挨拶に行くこと」というものであった。
とはいえ、皇民党はそんな「交換条件」をつけるほどに、田中角栄に恩義を感じるようなことでもあったのだろうか。
そこには「北国・新潟」「道路」「運送」というキーワードでつながる三人の男達の関係があった。
その「第一の男」はいうまでもなく、田中角栄自身。
「第二の男」は、金丸氏が稲川会へのパイプ役と期待して相談した東京佐川急便社長の渡辺広康である。
渡辺は、新潟県北魚沼郡堀之内町(現魚沼市)で生まれ1963年、「渡辺運輸」を設立した。
1980年代に入ると佐川急便の東京進出に伴い、業務提携の後、佐川急便の「系列下」として東京佐川急便を設立し社長となる。
佐川急便の社員に労働基準法を無視した「超長時間労働」で稼がせ、作った巨額の金を自民党の有力政治家をはじめ、巨人軍の選手やOB、芸能人、相撲取りに気前良く配るタニマチとして知られた人物である。
そして「第三の男」は、佐川急便を創設した佐川清会長その人である。
佐川氏は現在の上越市板倉区の旧家に生まれた。
旧制中学に学んだのち、家業に従事したが、1948年に建設業「佐川組」を設立した。
佐川が運送業を展開する上で、道路行政と深く関わった田中角栄と強いコネクションをもったのは当然といえば当然といえる。
佐川急便は「田中先生」の庇護のもとに育った会社であり、会長の佐川清からすれば、田中角栄に足を向けては寝られないという気持ちさえも抱いていた。
一方、東京佐川急便の渡邊社長は、竹下登を「後盾」としており、佐川会長は渡辺社長のあまりにも自己顕示欲的な勢力拡大に大きな懸念を抱いており、その「後ろ盾」である竹下登を田中角栄を裏切った者として許すことができないという感情を抱いていた。
この問題を深く追求した新聞記者によると、京都で起きたある出来事をめぐって京都府警を街宣車で攻撃した皇民党とある接点をもっていたという。
また、1960年代安保闘争の時代に「反左翼」として結成された「全愛会議」に事件当時のブレーンの一人と、皇民党のリーダーが所属しており、その意味では皇民党は佐川「人脈」の一つであったのだという。
中曽根首相が言った「右翼をとめられないような政治家は、首相の器ではない」という言葉は、暗に裏社会へ対処ができない、今日の文脈でいえば「裏金」のつくれない政治家は、首相の器ではないということをいっているようにも響く。
長年、竹下の金庫番だった青木秘書は、自らの命の代価をもって裏社会のとの繋がりを「闇」に葬った。

西部グループの総師・堤康次郎は、皇族の一等地を買いその高いステイタスをもつ土地にプリンスホテルを建てていった。
赤坂プリンスホテルや品川プリンスホテルがそれであるが、池袋のサンシャインプリンスホテルだけは、その立地において特別である。
なんと、そこは東京裁判の処刑地となった巣鴨プリズン刑場跡地であった場所だった。
サンシャインシティの高層ビルの真下の小さな公園内の「永久平和を願って」という石碑がその場所を示している。
サンシャインプリンスホテル設立の経緯には、いくつかの興味深いエピソードがあることを知った。
サンシャインシティの60階建ての高層ビルは劇場・美術館、映画館、水族館などを含んだ総合文化施設と位置付けられていた。
このことがマスコミに発表されると各方面から反響が起こったが、その中には堤清二が「予想もしない」ところからの反応もあった。
それは、戦後最大の政界フィクサーと呼ばれた児玉誉士夫からの電話だった。それは堤清二にとって不吉な電話だった。
なぜなら西武百貨店は、天皇の第五皇女をアドバイザーとして雇っていたことから、右翼の執拗な攻撃を受けていたからだ。
連日、右翼の宣伝車が西部百貨店の正面玄関に陣取っては、拡声器のボリュームを一杯にあげて、「皇族を商売に利用する奸商、堤清二に天誅を」と叫び続けていた、そんな最中での児玉誉士夫からの電話だった。
電話の内容は、巣鴨拘置所が取り崩される前に一度中をみたい。そこで清二に案内を乞いたいというものだった。
堤清二といえば東大在学中に共産党にのめりこんだこともあり、左翼ならまだしも右翼の巨頭からそんな電話がかかるとは予想すらできなかったにちがいない。
当日、巣鴨拘置所の正門前で、清二は秘書と二人で児玉の到着を待った。児玉は巨大なキャデラックから線香の束を手に持って降りてきたという。
堤の前で児玉は「今日は面倒をかけます」と頭を下げた。敷地内を歩きながら児玉は、ぼそぼそとつぶやいた。「僕はこの棟にいたんだ」「あっちの棟には東条さんが」「岸はさんは、いつも元気よくこの庭を散歩していた」といったことをつぶやいた。
小一時間も歩き、児玉はある一角に来ると線香に火をつけ、花束をたむけて手をあわせた。
そして堤に「今日はありがとう。長年の胸のつかえがいくらか軽くなった」と、礼を口にした。
この堤と児玉との「出会い」を境にして、右翼の街宣車の姿が、西武百貨店の前からピタリとこなくなったという。
今日、「政治とカネ」があいかわらず問題となっているが、日本の政治の「仕様(しよう)」では、大金が動かずしては、いかなる「突破口」も開けないような状況がいくらでもあるように思えて仕方がない。
つまり、政治資金の透明化は、とてもできない相談で、野党もマスコミもそのことを知っている。
現在、政治改革の中心になるべきはずの茂木幹事長がパーテー券収入を公開基準の厳しい(96,4%) 「政策研究会」から、基準が緩い(1,3%)「後援会連合会」へ移したことが表面化している。
茂木派といえば、旧田中派の後継派閥であるが、組織的・継続的に手を変え品を変え裏金作りがなされるなら、もはや日本の政治仕様の一部と考えるべきか。
問われるべきことは、 政治のアプリではなくOSの方だ。

結局、「民意の木」は、利権のヤブの中マトモナな成長を見せることがないということなのだろうか。