2024年、高校野球準決勝・関東一高(東東京)が神村学園(鹿児島)を2-1で破った。
9回2死、関東一の中堅手・飛田選手が見事なバックホームを見せてゲームセット。「鳥肌立った」「歴史に残る守備」とファンも騒然としている。
一般にこういうバックホームが奇跡といわれるのは外野からの「遠投」だが、個人的には内野手からのバックホームで忘れがたいシーンがある。
TVでみた、あの日の試合のことは、50年を経ても鮮烈に蘇る。
「あの試合」のほぼ1ヶ月前の7月20日にアメリカは人間を月に送り込む。その一方で、ベトナム戦争への批判も噴出し始めた時代であった。
青森県米軍基地の町三沢に育った高校野球チームの快進撃も、この時代の趨勢のヒトコマとして位置づけられるかもしれない。
1969年8月17日 松山商業と三沢高校の決勝戦は、延長18回の死闘の末0ー0のまま決着がつかず、翌日「再試合」となった。
松山商業は「深紅の優勝旗」を目標に甲子園に乗り込んだ。一方、三沢高校は小学生の時から顔なじみが集まった田舎のチームにすぎなかった。
鍛え抜かれた伝統校と東北の無名の高校、何のイタズラか、その両校が決勝の舞台で一歩もひかない死闘を繰り広げたのである。
最も忘れがたいシーンは延長15回裏と延長16回裏におとずれた。
延長15回裏、三沢高校が「一死満塁の大チャンス」を迎える。
三沢の9番打者立花に対し、松山商の井上投手はスクイズプレイを警戒し3球連続でボールを出しカウント0-3となった。
あと1球ボールがきて「押しだしサヨナラ」で、三沢高校の勝利がホボ確定的な場面を迎えた。
観客は固唾を呑んで試合に見入った。
そして、次に井上投手が投げた4球目はストライク。応援席の叫びにも似た声が大歓声へと変わった。
5球目は、低めの「ボール」かに見えたとき郷司球審の手が、一瞬間をおいた後に力づよく上がり、何度も空をつきあげた。
苦しそうな表情で必死に投げる松山商・井上投手であったが、この時の三沢高校の打者の心境は、ストライクがはいればいいと思ったという。
四球で試合を終わるのはかわいそうで、三沢高校の他の選手も概ね似たようなことを回想している。
そして、フルカウントになり、立花は次の6球目を強打しピッチャーを強襲、井上投手がそれを弾き、その瞬間ゲームが「終わった」かに思えた。
しかし次の瞬間、弾いたボールを拾った遊撃手の樋野が矢のような返球を本塁に投げ、三塁走者は間一髪本塁アウトとなった。
これぞ、松山商業の底知れない力を見せつけた「奇跡のバックホーム」であった。
ベンチに戻った時、松山商ナインは泣いてた。
そして延長16回裏、松山商にとってもう一度「一死満塁の大ピンチ」がおとずれた。
しかし、井上投手が三沢高校のスクイズを見破りピンチを脱した。
延長18回裏、1塁走者の太田が2盗に失敗して球史に残る4時間16分の死闘は引き分けで幕を閉じた。
翌日に再試合が行われれ、松山商業高校が4-2で三沢高校を破り優勝した。
三沢高校の太田幸司は甘いマスクで甲子園のアイドル一号といってよい存在だった。
1970年、近鉄に入団し、実績もなくオールスターゲームに選ばれたりもした。
その後、巨人から阪神に移籍し、1984年に引退した。
プロ通算58勝85敗4セーブで、プロ選手として大きな活躍をしたとはいえない。
大田幸司の雄姿は、甲子園のマウンドでのシーンに止まったまま、人々の中で「永遠化」しているといっても過言ではない、
三沢高校ではこの歴史に残る試合を記念して、「顕彰碑」を建てようという動きが起こった。
しかし、当時の校長は、この碑に野球部員たちの「名を刻む」ことに反対した。
あの延長18回の死闘を永遠化することにより、その「重荷」をこれからの彼らに負わせるのは「酷」という判断からだったという。
「松山商業対三沢高校」の試合から27年の時を経て行われた1996年夏の甲子園の決勝は、「松山商業対熊本工業」の試合。
延長10回裏1アウト満塁、松山商業の守り。ライトへの大きなフライは熊本工業の勝利を誰もが確信した。
しかし、サヨナラ負けのピンチを救ったのは直前で代わった松山商業ライト矢野勝嗣の「奇跡のバックホーム」であった。
“堅守”が持ち味の松山商業は27年間、優勝から遠ざかっていた。
一方、熊本工業は、強豪といわれながら夏の甲子園の優勝はない。元巨人監督川上哲治を要し過去に決勝に2回進みながらも、いずれも準優勝に終わっている。
さて「奇跡のバックホーム」はライトにベンチにいた矢野を投入した直後に起きた。
そこには澤田監督の明確なネライがあった。
高校時代、矢野は肩の強さはチームトップクラスであったが、中継プレーからのバックホームに難があった。内野手のカットマン目がけて低く速いボールをつないでバックホームするのがセオリー。
ところが矢野はどうしても送球が高く浮いて、ホームにダイレクトで投げてしまう癖が直らなかった。
奇跡のバックホームが生まれる直前のシーン。
10回裏、3対3の同点、松山商業の守り。1アウト満塁のピンチ。
攻める熊本工業は三塁ランナーは俊足の星子。そして打席には3番の左打者・本多。引っ張る打撃に定評があり、ライトへ飛ぶ確率が高まる。
矢野はベンチで「このまま出番はない」と諦めていた。しかしピッチャーが投球動作に入ろうとする直前、澤田監督が動く。
「矢野は中継のカットマンに投げるのが苦手で直接ホームに投げる癖があるが、それが正しい場面が1つだけある。サヨナラのケースはダイレクトでいくしかない。内野に中継していては間に合わない。矢野の“能力”を生かすにはこの場面しかない」。
急に交代を告げられた矢野。一球もキャッチボールができず肩が作れないまま右肩をぐるぐる回しながらライトの守備へ。
すぐに風の強さと方向を計り、自分の強肩で直接バックホームで刺せるギリギリの深い位置に陣取る。
その初球、無情にも大きなフライが代わったばかりの矢野の“後方“を襲う。
実況アナウンサーも「いったー、これは文句なし」というほど、誰もが熊本工業の勝利を確信した瞬間であった。
しかし、その大飛球が風でどんどん矢野の方に戻されていくではないか。
矢野は「放物線というよりは球が上がったところから真下に落ちてくる感覚」だった。「押し戻された分、前に出て反動を利用して、こん身の力で送球体勢に入れた」と語っている。
ところが捕球から送球に移る瞬間、ホームベースはおろかキャッチャーさえ見えない。
ではなぜ、90メートル先のキャッチャーのミットにストライクの送球ができたのか?
それに答える貴重な写真が、当時の監督、澤田の自宅のリビングに飾られている。
バックネット裏から試合を見ていた観客が偶然に撮った写真には、ホームに向け一直線に並ぶ松山商の守備体系が見事に写しこまれていた。
澤田監督は、「この1枚にこそ松山商業の強さの秘密がある。あの絶体絶命のピンチの中で誰一人諦めず、最後まで中継体制を組んで万全の準備をしている。奇跡のバックホームの裏で、全員が自分のやるべきことをやっていたこの姿を見た時に、本当にうれしかったし、選手たちを誇りに思った」と語った。
しかも、奇跡の続きがあった。九死に一生を得た松山商業。直後の11回表の攻撃、先頭バッターは矢野。初球の変化球を自信満々に振り抜きレフトへのツーベースヒット。
ベース上で笑顔のガッツポーズ。
この一打がチームに勢いをもたらし一挙3点を奪い27年ぶり、5度目の夏の優勝を飾った。
矢野は途中交代で守備について“初球”に奇跡のバックホーム、そして打席に立ち“初球”にヒット。“わずか2球でヒーローになったことになる。
実は内気な性格だった矢野は人前で力を発揮するのが苦手で、澤田監督はそれをどうにか変えたいと練習中、部員みんなの前で矢野にだけ“エアー”で「サヨナラホームランを放ちガッツポーズをする練習」を毎日課していた。
笑顔でガッツポーズする姿を見た澤田監督は、「ずっと見たかったのは矢野のこの姿だった」と語った。
話は変わるが、武田鉄矢が「母に捧げるバラード」以降まったくヒット曲がでず地元福岡に帰郷した際に、母親が「そこまで落ちたらあとはいいことしかない。前祝いをしよう」と家族内で宴をもうけた。
それからまもなくして山田洋次監督の映画「幸せの黄色いハンカチ」の脇役の話が舞い込んだ。
武田はこの時、ブルーリボン「助演男優賞」を受賞している。
澤田監督が矢野に課した「サヨナラホームランを放ちガッツポーズをする練習」には、なにか奥深いものがあるのかもしれない。
さて、三塁ランナーでタッチアウトになった星子にも知られざるドラマがあった。
50メートル5秒8の俊足。甲子園でアウトになるまで、タッチアップからの走塁を一度も失敗したことはなかった。
左足でタッチアップの三塁ベースを蹴り全力疾走。右足からスライディングした直後、キャッチャー・石丸のミットに接触している。この間、約3,5秒。
普通の選手なら塁間4秒前後かかることを考えても、星子の走塁は超トップクラスの“速さ”であった。
星子は、その時のことを28年目に語った。
「最高の走塁ができていた。誤算は僕の走塁ライン上にキャッチャーの石丸が構えていたこと。このまま走れば接触するので、僕はぶつかるか走塁ラインの内側に入って接触を避けるか迷いながら内側に入った。そのちょっとしたコンマ数秒が致命的なロスになった。そこは悔いが残っている。ただ高校野球であの場面、ぶつかっていくのは守備妨害が取られるという怖さもあった」。
松山商のキャッチャー石丸は、「何であの時、星子はまっすぐの走塁ライン上から急に内側に入ってきたのかという疑問が今でもあるんです。僕はベースの前で捕球体勢に入っていたので、そのまままっすぐ走ってきて体当たりされるか、あるいは後ろに回り込まれていたら間違いなく対応できずセーフになっていた」。
星子が衝突を避け内側に入ったことを聞いて、「長年の謎が解けました。彼は優しいですね」と語った。
矢野勝嗣は現在、地元の愛媛朝日テレビで営業部長である。
今でも街中を歩くと、すれ違う人から「あ、奇跡のバックホームの矢野さんだ」と話しかけられる。
それほど甲子園の優勝と“奇跡のバックホーム”が愛媛県の人々にとって誇りとなり、地元の有名人となっていた。
そのことが、矢野のその後の人生で思わぬ足かせとなっていた。
「甲子園のあのプレーによって自分の実力以上のものを常に求められ、それが常に重圧となりうまく応えられないことで20代、30代とつらい思いをしてきた」という。
一方、奇跡のバックホームによって優勝を阻まれた悲劇の三塁ランナー・星子崇(たかし)。
現在、熊本市内でスポーツバーを経営している。
熊本県悲願の夏の甲子園初優勝をかけたタッチアップからの走塁に失敗し、星子は心ないことばを浴びた。「ゆっくり走ったの?」
「遅くタッチアップのスタート切った?」「回り込めばセーフでは?」
まるで戦犯扱いであった。
甲子園の決勝で、ましてやあの場面で手を抜けるやつなんているはずがないのに。
高校卒業後は社会人野球に進むが2年で引退。その後は職を転々としながら人目を避けるように飲食店で働くようになった。
結局、「奇跡のバックホーム」は、勝者にも敗者にも十字架を背負わせていた。
そんな2人が甲子園から17年ぶりとなる2013年に再会する。矢野が熊本に仕事で行った際に星子が働く店を訪ねたのである。
酒を酌み交わしながら、あのプレーが重圧となり悩んできたことなど互いの胸の内を朝まで語りあった。
星子は「僕はアウトになって負けた側なので人に何かを言われるのは想像つくけど、勝った矢野も実力以上のことを求められ、プレッシャーを受けながらキツい思いをしてきたと初めて知った。あのプレーに苦しむのではなく、前を向いて逆手に取ってやろうと、矢野と話したのが人生の転機になった」と語った。
矢野も「気持ちを切り替えることができた。『過去の栄光にとらわれるのではなく、大切なのは今の自分を誇れるか』だと。以来『“奇跡のバックホームの矢野さん”は、会ってみると普通ですね』と言われても『今の自分を見てください』と胸を張って返せるようになった」と語った。
2023年11月、“松山商×熊本工”、甲子園で死闘を繰り広げた選手たちが集まって再試合をした。
矢野のバックホームも再現された。
この年、「奇跡のバックホーム」と題した本が出版された。だが、その主人公は、高校球児ではなくプロ野球選手である。
プロ野球・阪神の元選手で、現役時代から闘病を続けていた横田慎太郎の「奇跡のバックホーム」である。
横田は鹿児島県出身で、鹿児島実業から2013年のドラフト2位で阪神に入団した。
プロ3年目には開幕戦にセンターで先発出場を果たすなど、将来の中軸候補として期待されていた。
しかし、プロ4年目の春のキャンプ中に頭痛を訴えて脳腫瘍と診断され、闘病生活を送りながら実戦復帰を目指したもののかなわず、2019年に24歳で現役を引退した。
病気の影響で、ボールが二重に見えることもあった状態で「引退試合」に臨んだ。
2019年9月26日、阪神鳴尾浜球場。ボールが見えやすいのでライトの守備を横田は希望していた。
当時の平田勝男2軍監督に伝えていたが、監督は「開幕スタメンを取ったセンターを守らせよう」と考えた。
また9回の1イニングに出場する予定であったが、急遽、8回途中2アウト2塁の場面で「センター、横田」ということになった。
監督は8回がピンチだったので「9回の1イニングに出場」の予定だったので、9回裏がなかった可能性もあった。
そこで8回のピンチの場面で横田はセンターの守りについた。このように横田の「奇跡のバックホーム」の陰に知られざる「予定の変更」があった。
監督は、横田が守備につくときに必ずダッシュで向かう姿が好きだったといったとおり、最後まで横田は横田であった。
センターの守備につくと、その初球、センターに大きな当たりが飛んできた。
これは、ヒット性の打球で同点になったが、これで「奇跡の伏線」がすべて敷かれた。
その次の打者で、再びセンターにボールが飛んできた。
この時、横田は、視界がほぼぼやける中、キャッチして本塁へのバックホーム。
そこに見事なレーザービームが描かれ、タッチアウトとなりチームを救った。
試合後、横田は「練習でも投げたことがない球が投げられて、今まで諦めずにやってきて本当によかった」と語った。
引退後は地元の鹿児島に戻って、通院しながら自身の経験を伝える講演活動などを続けていたが、2023年10月、脳腫瘍のため亡くなった。享年28。