1960年6月、国会周辺を30万人の人々に取り囲まれつつ新安保条約は成立した。
その時の首相は、故安部首相の祖父にあたる岸信介。
これだけの人々が国会をとり囲んだのも、安保反対運動の中で機動隊ともまれて東大の樺美智子という女学生が死亡する出来事とも関係していた。
人々は参議院の承認を経ないままに新安保の「自然成立」へともちこもうとする岸内閣への怒りを、さらにエスカレートさせていたのだ。
しかし、樺美智子の死によってピンチに陥った岸内閣の暗雲を、正田美智子というもうひとりの「美智子」が取り払った。
それは、1960年4月に執り行われる皇太子と美智子妃の「御成婚」であった。
皇太子御成婚は、統制色を強める岸政権のいやな感じを吹き飛ばし、国民はしばらくは政治のことをおいて、「祝賀ムード」にひたったのである。
結局、岸内閣は6月条約発効とともに首相は辞意を表明,翌月国民を騒がせた責任から総辞職した。
1970年の「安保改定」でも、当時の佐藤内閣は安保反対の国民運動のさなかにいた。
この安保改定には「密約」があったことが、2009年誕生の「民主党政権」の岡田外務大臣による「外交資料」の公開によって明らかにされた。
中でも、1972年に「核抜き・本土並み」をうたって実現した「沖縄返還」の裏で、様々な密約が取り交わされていたことが明らかになった。
こうしたアメリカと日本政府との「水面下の交渉」に臨んだのが、コードネーム「ヨシダ」とよばれた若泉敬という人物であった。
若泉は佐藤栄首相の「密使」で、キッシンジャー国務長官との交渉は、1994年に刊行された若泉の回顧録に明らかにされている。
それによれば、アメリカは原子力潜水艦に「核兵器」が搭載されており、沖縄に「核」を置く必要性はなかった。それにもかかわらずアメリカ「沖縄返還」のためには、「核兵器」を沖縄にどうしても置かなければならないと主張した。
当然、日本は「非核三原則」であるため、それに応じられないと回答することは、必至である。
そこでアメリカは、核兵器の撤去を検討するとし、次の条件をだした。
それが「基地の自由な使用を最大限求める」ことと、「有時の際には核兵器の貯蔵と通過の権利を得る」ということで、日本側がこれを認めなければ「核ヌキ返還」はないと追い込んだのである。
結局、アメリカは沖縄返還の見返りに、日本側から様々な「譲歩」を引き出すことに成功し、この「譲歩」内容が密約として交わされたのである。
当時アメリカにとってベトナム戦争への巨額な出費が負担となっていた。そのため、アメリカ議会で返還に伴う財政負担は、日本が支払うべきだという声が大勢を占めていた。
そのため、返還にともなう費用は一切払わないという方向でまとまっていた。
日本国民にそのことは知らされないままであった。
若泉は、沖縄返還交渉の際に「密約」は返還のための代償だとして佐藤首相を説得し、「密約」の草案を作りをした。
若泉の「回顧録」によれば、当初は素朴にも沖縄が「本土並み」なることを期待していた。
しかし、ベトナム戦争遂行のために沖縄が必要であったアメリカは、沖縄の「本土並み返還」などハナから考えていなかったのである。
そのうえでアメリカは、日本側の「非核三原則」に基づく「核ヌキ」カードを最大限利用し、米軍基地を固定化し、より自由に使えるようにすることに成功したのである。
山崎豊子の小説「運命の人」は、沖縄返還交渉の裏側にあった「密約」の機密漏洩という実際の出来事をモデルとして、2012年にドラマ化された。
「沖縄返還協定」に基づいて、日本は総額3億2千万ドルを米国側に支払ったのだが、その中には本来アメリカが負担すべき「軍用地復元補償費」などが含まれていた。
この点を明らかにして日本政府を追及したのが、「運命の人」の主人公のモデルとなった毎日新聞の西山記者であった。
しかし、西山記者の「情報源」となった防衛庁の女性職員へのアプローチがスキャンダルとして報道されたため、問題の焦点がすり替わって「密約」の存在と中身はうやむやにされた。
現在、安倍派の裏金作りなど派閥を舞台とする問題が明るみにでて、「リクルート」事件以来の政治不信のさなかにある。
「リクルート事件」は、1988年から89年にかけて発覚した一大スキャンダルである。
中曽根首相と竹下登、安倍晋太郎、宮沢喜一のニューリーダーをはじめとする自民党の指導的政治家のほとんどが、リクルートコスモス社が発行する株をめぐって不正なインサイダー取引に加わり巨利を手にした。
この事件は、特権階級化した政財界の癒着を示す典型的な事件であった。
この事件で江副浩正リクルート前会長は、贈賄容疑で、逮捕・起訴された。
また、真藤亘NTT前会長や有力政治家の秘書が政治資金法違反容疑で逮捕された。
忘れがたいのは、竹下首相の金庫番といわれた青木伊平が事情聴取を受けいれているさなかに自殺したことであった。
この広範な政治スキャンダルの発覚とともに政治不信は深刻化した。
しかしこの時、政治家達は自ら潔く責任をとろうとはせず、一時的に内閣と党の役職から退き、世論の沈静化を待っていたにすぎなかったように見える。
また、かれらの一部は政治腐敗の根本原因をみずからの政治倫理の喪失に求めず、「選挙制度」にあるとの主張をしはじめた。
当時、衆議院議員の選挙では、前述のごとく各選挙区で3~5名ほどを選出する「中選挙区制」が行われていた。記憶に残ったのは、福田赳夫と中曽根康弘という派閥の領袖が群馬3区で競い合っていたこと。
そしてリクルート事件で国民の怒りが沸騰しているとき、現行中選挙区制の廃止と小選挙区比例代表並立制の提案が行われた。
提案者は竹下首相で、彼の追従者とともに、政治腐敗の主たる責任を中選挙区制に転嫁したのであった。とはいえ、自民党の議員多数の本音は中選挙区制の維持であった。
一方、野党側には少数党でも代表者がだせる「比例代表制」を主張するものが多かった。
自民党が「小選挙区制」を主張すれば、野党各党が強く反発することは明らかであった。
事実、当時の自民党政権が小選挙区に比例代表制を付属的に加味した並立制を提案するや、社会党をはじめ野党から激しい反発が起こった。
その結果、政界における論争の重点は、リクルート事件に関与した政界リーダーに対する責任追及から「選挙制度」に移った。
自民党政権の選挙制度改革(小選挙区比例代表制)の提案によって、政治ポイントの切り替えに成功した。
しかしながら、竹下ら自民党指導部は本気で「小選挙区比例代表並立制導入」をめざいたのか、それとも国民の政治不信「不拡散」のための「偽装戦術」だったのか。
当時、自民党の長老議員はある新聞記者に次のようなことを述べていたという。
「竹下はさすがに頭がいい。諸悪の根源は中選挙区にあるとし、選挙制度を変えれば政治腐敗がなくなるという問題提起は、国民の政治不信を拡散し弱めるうえで非常に効果がる。それ以上に、小選挙区制と聞いただけで野党は猛反発し、いきおい国会の議論は選挙制度改革に手中する。その分だけリクルート事件関与者に対する責任追及の議論は下火になる。この状態がしばらく続けば国民の批判は沈静化する。そのときまで選挙制度改革の議論を引っ張り、政治不信が沈静化した段階で選挙制度改革をとりやめて現行制度を維持する。これが竹下の戦略ではないのか。竹下にまかせておけばすべてうまくいく。小選挙区制の導入という毒をもって国民の政治不信を解消させる。そして政治不信が沈静化したら並立制をつぶす」。
この長老議員の言葉は、今まさに、自民党が唐突に「派閥解消」をかかげてやっていることと重なるのではなかろうか。
実際、その後の展開はこれら長老議員の思惑通りに進んでいった。
1991年9月、竹下内閣から宇野内閣をへて海部内閣へ三代の内閣に受け継がれてきた小選挙区比例代表制導入の試みは失敗に終わった。
そしてなんと1991年9月30日に、政治改革関連三法案の「廃案」が宣言されたのである。
つまりその頃、リクルート事件の国民の政治不信が沈静化したことで、選挙制度改革を熱心に掲げる理由が消えたということである。
それに続く宮沢内閣も「小選挙区比例代表制」の導入に消極的であったが、1992年に8月に、金丸信自民党副総裁が佐川急便から5億円のヤミ献金を受けたった事件が発覚するや、またもや選挙制度を中心とする政治改革の議論が浮上した。
しかし1993年1月、国民の批判が下火になると、自民党の政治改革熱はふたたび冷めた。
ところが、1993年3月、当時の政界の最高実力者である前自民党副総裁の金丸信が、所得税法違反で再び逮捕された。
この時、自民党政権は条件反射のごとく政治改革を叫び始めたが、この時は状況が一変していた。
従来、自民党が提出していた野党各党が態度を変え、連用性であれば選挙制緯度改革を受けいれるとの方針を打ち出したのである。
そして野党各党は、自民党に譲歩を求め、与野党合意による選挙制度改革を主張したのである。
一方、自民党は二つの勢力に分裂した。
ひとつは、野党と妥協して選挙制度改革を決着させるべきだと主張する「改革派」と、妥協を拒否して選挙制度改革をつぶし、結果として現行中選挙区制の存続をはかろうとした「守旧派」である。
そこで小沢一郎をリーダーとする羽田派は、かたくなに野党との妥協を拒否する「守旧派」と袂を分かって、野党が出した宮沢内閣不信任決議案に同調し、宮沢内閣を不信任した。
さらに自民党を離党して「新生党」を結成した。
この時点で、1955年の「保守合同」以来続いてきた自民党の衆議院過半数体制は崩れ、自民党政権は事実上崩壊した。
そして、1993年、非自民で連立の「細川内閣誕生」へとつながる。
現在の問題、派閥開催のパーティ券のノルマを超えた販売をキックバックする「裏金作り」という問題が、いつしか「派閥の問題」へとすり変いる。
わって
この「すり変わり」には既視感がある。それは小選挙区制にすれば、派閥も不正も解消されるというものだ。
これは、いわば「唯物論的思考」である。制度の変革によって人間の精神まで改善されるという考え方を前提としている。
共産主義の唯物史観では、資本主義という「制度」が貧困と抑圧の原因であり、それを社会主義に変革すれば自由と平等の国民大衆の幸福を実現できるとする。
「リクルート事件」では、1選挙区で3~5人が当選する衆議院の「中選挙区制」が問題視された。
この時代、党からでは十分ではなく、派閥の長から、選挙に必要な資金が配分されている実態があった。
政治資金を集められるからこそ派閥の長として影響力が行使できるため、派閥こそが不正の根源という認識はわかりやすかった。
それは、利益誘導の政治や多額の金がかかる選挙を生む原因となった。
その背景に、与野党の勢力も長年固定化し、政治における緊張感の喪失は、派閥の公然化と派閥資金の肥大化をさそった。
そこで、選挙区の抜本改革は、現行制度で長年過半数を制してきた自民党にとって痛みをともなうものの、国民本位、政策本位政党政治を実現するには必要なことという認識に至った。
その結論として、1選挙区で1人しか当選しない小選挙区の導入や、「派閥解消」への第一歩として党幹部や閣僚の在任中の派閥離脱を提案された。
派閥がなくなれば、選挙に必要な政治資金はだれが供給するか、といえば「政党助成金」というものをつくった。
税金によって政党に必要な政治資金を提供しようというものだから、当然何に使われたのかを報告しなければならない。
ただ、政治献金は政治家個人には認めないが、政治団体ならば認めることにした。
こうして1994年1月、小選挙区比例代表並立制の導入を含む政治改革関連法が成立した。
その後30年の間に2度の政権交代が実現したものの、いまや「自民一強」が定着している。
強い野党の不在は政治から緊張感を奪い、派閥は再び公然化し、議員にとってどこかの派閥に所属してキャリアを積み重ねるのが「常道」とさえ思われている。
とはいえ、小選挙区導入で派閥の力学は明らかに変化している。
党の公認がなくても派閥の力で勝てた中選挙区時代と異なり、公認権を握る総理総裁の力は強まった。
公然と首相と対峙する派閥は消え、次を狙う派閥が首相権力の見張り役を果たす効果もない。
そもそも派閥は中選挙区制の遺物なのだが、今その存在意義はなんなのか。
かつて志を同じくする議員が政策を磨き、他派閥と競い合いながら総理総裁を生み出すというものとは程遠い。
人事でポストを融通してもらい資金面で援助してもらう「互助会」に近い。
このたび、自民党は政治改革に向けた「中間取りまとめ」を決め、派閥を「政策集団」に衣替えさせ、「お金」と「人事」から完全に決別すると宣言した。
これとて本気でやる気もないのに、改革案をだして批判が沈静化するのを待つという自民党の戦略ではないのか。
岸田派(宏池会)は、大平派→宮沢派の流れだが、宏池会(岸田派)は、いままで4回(1963年、1977年、1980年、1994年)も解消し、党総裁選のたびに復活してきた。
派閥は政策集団、勉強会、親睦団体として存続、ほとぼりが冷めれば復活し、今年9月の総裁選に向けて、派閥的なグループの再結成がありうる。
今のところ「政策研究会」が派閥の看板であろうが、政策のための金ではなく、選挙に当選するためならば、裏金の使い道ならばいくらでもある。
選挙に向けて地元の夏祭りや寄り合いを丹念に回る政治家が評価される。
公認をあらそうような場合、一方を辞退させるような場合も「金」で解決が図られたりする。
自民党は、過去にも「政治とカネ」の問題がでてくるたびに、派閥解消を宣言してきた経緯がある。
今回も、派閥解散の話にすすんでいったのは結局は、自民党得意の「論点ずらし」なのだろう。
具体的には、告発を受けたものの不起訴になった安倍派幹部を含む関係者の政治資金など、実態を解明せぬまま派閥を解散したらすべて解決というかたちに持ち込もうとしている。
法を犯して「裏金」をつくったことが問題の核心である。その裏金が何に使ったについての説明責任は果たされぬままに。
もうひとつ報告書のいらない「政策活動費」の問題がある。それが政治活動につかわれていなかったとすれば、「脱税」にあたる。
現在、「政治改革」をいかに掲げる自民党に思い浮かべるのは、柔道の「かけ逃げ」である。
技をかける>つもりがないのに、技をかけるフリだけして逃げることをいう。
審判がそれと察すれば「指導」という反則がとられる。
現在の自民党の派閥解消の言葉は、ほぼ「かけ逃げ」と見透かされているようだ。