日本・アメリカ・フランスの官僚制を比較すると、「見えてくるもの」がある。
日本の行政を担う12省には、大臣を頂点に副大臣、大臣政務官、事務次官、局長、課長というヒエラルキーが存在している。
官僚のトップ格は省によって多少異なり、法務省では検事総長、外務省では駐米大使または駐英大使がトップ扱いとされている。
このうち大臣はもとより、副大臣、大臣政務官は「特別職」であり、原則として国会議員のなかから任命される。このことを「政治任用」という。
事務次官以下は、官僚から任命される「一般職」であり、国家公務員試験合格という資格を前提とした「資格任用」によって国家に雇用されている。
昭和生まれの自分には、例えば大女優(司葉子)と結婚した大蔵省トップの相澤英之事務次官、「よど号ハイジャック事件」で人質の身代わりとなった山村新治郎運輸政務次官などの名が浮かぶ。
現在の大臣政務官の前身が「政務次官」であり、事務次官と合わせた「二人の次官」の存在は明治期の藩閥と政党との確執により生じた「棲み分け」に淵源している。
そして1999年(平成13年)に「政治家主導」の国会運営や政治をめざして、政務次官は廃止され、代りに政治任用職である「副大臣と大臣政務官」が置かれ現在に至っている。
日本の官僚制には、他国にはない「慣例」がある。
官僚のトップである事務次官が決まると、事務次官と同期のキャリア組官僚(国家公務員I種試験合格者)は、省から去ることが「慣例」となっている。
この慣例が、「天下り」が手を変え品を変えなくならない最大の理由である。
中央官庁のキャリアと呼ばれる人々は、法律案作成の際にその労力の多くを法律案自体を作ることはなく、「関係他省庁との調整」に使っている。
たとえば、リサイクルにしても通産省所管のものだけではなく、建材や道路工事の廃材なども法律の対象となる。
そうなるとこれらを所管している建設省(現国土交通省)と交渉をしなければならない。
また、農家の省エネは農水省の所管だし、リサイクルとなると廃棄物処理法を所管している厚生省(現厚生労働省)や環境問題を所管する環境庁(現環境省)との調整も必要となる。
1990年前半まで、電子メールがいまほど発達していなかったので、調整をすべき事項があるとファクシミリを使って法律案に関係する各省庁に法案条文ごとに連絡する。
ちょっとした法文修正でも関係省庁にすべて連絡して、了解を得なければならない。
そうして調整ができないときは、上司が調整していくことになり、最後の最後に調整をするのが事務次官ということになる。
なぜ、こんなに調整をするかというと、政府から国会に法案を提出するためには、閣議を「全会一致」で採択されなければならないからである。
そして事前に各省庁事務方が合意する儀式が、警察庁長官や金融庁長官も含めた「事務次官等会議」なのである。
ここで「儀式」というのは、閣議のたいていのことは事務次官たちによって事前に決定されているからである。
事務次官等会議は月曜日と木曜日、つまり定例閣議の前日に首相官邸で開かれる。
主宰するのは事務方の「内閣官房副長官」である。事務方というのは内閣官房副長官は3人いて、うち2人が政治任用職、1人が事務方である。
このポストは慣例上警察庁・総務省・厚生労働省・国土交通省の事務次官経験者(警察庁は長官)が就くことになっている。
この4省庁はいずれも戦前の「旧内務省」を起源にしていることにも注目したい。
ここで決まった案件を「官房副長官」がとりまとめ、翌日の閣議にはかる。
思い浮かべるのは、日本学術会議が推薦した会員候補6人が任命拒否された問題で、杉田和博官房副長官が6人の除外を指示したとみられる政府の内部文書が公表されている。
杉田官房副長官は元警察官僚だが、この出来事自体「旧内務省」の香りがプンプンする。
アメリカでは大統領選挙の後、4年ごとに権力の空白が生じる。選挙での功労者が政治的任命で大挙してワシントンに乗り込んでくるなど、中堅幹部まで含めて主要ポストのほとんどが入れ替わってしまう。
1月の就任式の前から準備される閣僚の任命から始まって、局長クラス・課長クラスとおりてくるには秋までかかることもある。
アメリカの官僚制の最大の特徴は、他国に比べて「政治任用制」の規模が突出して大きいことである。
裏を返せば、プロとしての訓練を受けた官僚集団がほとんどいないということだ。
外国との交渉するのは実際は企業家や弁護士で、かつて日米の経済摩擦などで見せたアメリカの非常識な要求など、そんな事情を知ればなるほどと納得する。
外交にあたる弁護士が法に沿って議論するのは当たり前だが、彼らは国際法など無視してアメリカの法を元に議論してくるので、他国の官僚と議論が成り立たないこともしばしばである。
記憶に新しいのが「スーパー301条」で、議会の思いつきでアメリカの関係者でも頭を抱える珍妙な法案が通ってしまう。
アメリカでは建国以来、新たに選出された大統領が自らの意思によって人材を配置し、応答的な政府(首長の意向が反映されやすい政府)を構築することは、就任後の政権運営においてきわめて重要な作業とみなされてきた。
そこで政権交代のたびに執政部門を中心に約3500人の官職が入れ替わり、それによってその後の政権運営が方向づけられる。
19世紀後半には「猟官制」(縁故制)の弊害に対処するため、イギリスの公務員制度改革にならい、アメリカの行政機関にも「資格任用制」が導入された。
興味深い点は、イギリスでは政治任用がごく少数にまで減少したのに対し、アメリカではかなりの数の政治任用が残り続けた点である。
イギリスの公務員制度改革は、一部の「特権階級」によって官僚制が支配されていたことへの批判から、一般の民衆にも公務員採用試験を受ける機会を与えることにより、公職を広く開放することを目指したものであった。
つまりイギリスでは、資格任用制は「民主的統制の手段」としてみなされていたのである。
一方アメリカでは民主的手続きを経て選ばれた政治家が、「猟官制によって官職を分配する」ほうが民主的統制に資するとして捉えられていたのである。
現代アメリカにおける「資格任用制」の導入は、せいぜい行政の効率化や政治的中立性の向上などでバランスをとろうという意味合いである。
当然ながらいくつかの問題点も指摘されている。
なかでも深刻なものが、任用過程の長期化と政治化である。
アメリカでは大統領選後に「政権移行委員会」が設置され、候補者の選定作業が始まるが、数が膨大なうえ、各種調査や書類の処理、大統領による指名、上院の承認など、多くの手続きが必要となる。
そのため大部分は政権発足以降に決定される。こうした長期化の主な要因は野党による承認手続きの妨害であり、その際に主に用いられる手段が「ホールド(hold)」というものである。
これは各上院議員の申請に基づき、多数党院内総務が承認手続きの中断を認めた場合、当該案件を中断させることができるという「非公式な慣習」である。
そこには様々な駆け引きがあり、「アメリカの分断」を拡大する一因ともなりうる。
世界でアメリカの官僚制を一方の極とすれば、もう一方の極にあるのがフランスの官僚制といってよい。
フランスでは、専門的な学校を通じて近代的な官僚や技術者、軍人を育てていこうという試みがフランス革命以前から始まっていた。
最初は大貴族の子弟教育が主たる目的だったが、やがて出身階級に関わらず門戸を広げていった。
「陸軍士官学校」はもっとも長い歴史を誇るものの一つで、1750年にルイ15世の愛妾だったポンパドォール夫人によって設立され、
コルシカ生まれの下級貴族のナポレオンもここでチャンスを与えられた。
このシステムはフランス革命後に拡大され、技術将校、技術官僚養成のための国防省理工科学校や、大学や教師を育てるための高等師範などが設立され、「グランゼコール」とよばれた。ちなみに実存主義哲学者のサルトルは高等師範出身である。
だが、事務官僚については、私立でも授業料が高いパリ政治学院の卒業生を中心に各省庁がバラバラに採用しており、富裕層に高級公務員が独占されていると批判されていた。
かつてナチスドイツと戦ったフランスの英雄ドゴール将軍は、戦後大統領に就任した際、戦前の第三共和制下で、議会が党派争いに明け暮れ、国家のことを最優先に考えるエリートがいなかったことが、ドイツによる占領という敗北に導いたと考えた。
さらには占領下の対独協力政権が技術官僚を重宝した経緯もあり、戦後、国家を統率する強力な「エリート養成機関」が急務として、1945年に共産党閣僚も参加していたドゴール政権は、採用・研修の一本化と出身階級の民主化を実現するために「国立行政学院(ENA)」を設立したのである。
つまり、ENAは第二次世界大戦後の国家復興を担う人材を養成しようというドゴール大統領や共産党指導者の構想から生まれたのである。
というわけで、フランスではエリートコースを志望する人は、大学に進むとはかぎらない。
フランスには大学以外に「グランゼコール」という高等教育機関があるからだ。
グランゼコール会議には223校が加盟している。修業年限は通常3年で、少人数教育を特長としていて、フランスの歴代大統領や企業幹部の多くは、このグランゼコール出身者だ。
前述の「国立行政学院」は、エリート官僚養成校を趣旨とするグランゼコールであるが、他の多くのグランゼコールと異なり、大学または他のグランゼコールを卒業後入学する高等教育機関で、いわば「大学院大学」に相当する。
複数のグランゼコールで学ぶエリートも多く、元大統領のジャック・シラクとフランソワ・オランドや、現大統領のエマニュエル・マクロンは、パリ政治学院と国立行政学院を卒業している。
日本ではエリートの代表だったキャリア官僚の志願者が激減している。東大生の志望者が年々減少しており、このままではいつかゼロになるのではないかという危惧さえあるという。
東大生の希望者が減少することがただちに官僚の質の低下を意味するわけでもないが、効率性や記憶力など受験を勝ち抜く能力は行政能力とかなり重なる部分が大きいと思う。
かつて元財務官僚が書いた本のタイトルのように「国家中枢の溶解」が現実の事態となっているのに、国民があまり関心をよせていないようだ。
人口減少や少子高齢化と同じように、短期的には国民には目立った痛みがないのも大きな理由かもしれない。
志望者減少は、霞が関で働く官僚のモチベーションが低下と結びついても不思議ではない。
モチベーション低下の背景には、官邸主導になって人事を官邸が握り、忖度政治に巻き込まれて萎縮し自分の能力が生かせないことも、やる気を失う原因であろう。
またた安倍政権の下でおきた森友事件での文書の書き換え事件や近畿財務局の職員の自殺なども大きい。
2021年、コロナ禍で売り上げが減った中小企業の関係者を装い、国の「家賃支援給付金」を詐取したとして経済産業省のキャリア官僚の二人が詐欺容疑で逮捕された。
元高校の同級生だった二人のいびつな人間関係を含め、官僚のイメージの悪化に拍車をかけた。
官僚はかつてのような世間からの敬意もなければ、退職後の「天下り」といったご褒美さえも、世間の目が厳しくなって、それほど期待できなくなっていることも、少なからず影響しているだろう。
国家担うという誇りが挫かれ、酷使されるだけならモチベーションが低下するのは自然である。それは何より若手官僚の「離職率」の高さに表れている。
官僚の最も重要な役割は政策の企画立案だが、上の意向ばかりを気にして、官僚が何かをしようという理想を抱くことができなくては、能力を生かす場がなくなってしまう。
そればかりか実際に官僚の能力が劣化していると感じさせる場面が増えてきている。
例えば、意図的なのかよくわからないが、国交省や厚生労働省の「統計不正」である。
最近目に付いたのは、DX(デジタルトランスフォーメーション)の導入についてである。デジタル庁の職員の多くが民間からの出向であることからわかるように、霞が関の生え抜き官僚にはDXを進める能力はないことを露呈した。
東京五輪やコロナ禍で行われた事業では電通などの民間企業に多くの業務が「委託」されただけでなく、そこでさまざまな不祥事が発覚したが、これも霞が関がそうした業務を仕切れ切りきれないことを露わにしている。
アメリカでは、バイデン大統領が次期大統領候補からの撤退のニュースがあり、「もしトラ」つまりトランプ前大統領が大統領に返り咲いた場合に何が起きるかについての議論が加速されている。
今、保守系のシンクタンクがまとめた「プロジェクト2025」とよばれる文書が注目されている。
その中に、目立たぬが日本にも影響を与えるであろう官僚の「政治任用の拡大」が提案されている。
「プロジェクト2025」は、政権の重要な職務において、大統領と思想が一致する人材の採用を大幅に増やすことを提案している。
また、現在その職に就いている多くの非党派のキャリア公務員を置き換えることを目指し、あらゆる重要なポジションに解雇権限を持つ政権の政治任命者を配置する大統領令を出すことを提案している。
トランプ自身は、この計画に公式には関与していないが、この計画の一部は、元トランプ政権のメンバーやトランプの支持者によって書かれている点で十分現実的なものと受け取られている。
日本で安倍政権以降官邸(内閣官房)が強化されたのは、かつて存在した「内務省」の形を変えた復活ということかもしれない。
大久保利通が設立した内務省は戦前の「人権弾圧」のシンボルとみなされ、戦後GHQにより分割される。
しかし、そのことは関係者にとって痛恨の思い出であり、その復活は悲願であった。
何か国家的危機が起きると、内務省が健在ならという思いが切歯扼腕させることになるからである。
そうした背景から官邸強化が図られるが、その多くはフランスをモデルにしたと推測される。
それまで日本の大臣官房は省全体の庶務を担当するいわば総務局でしかなかった。
それに対してフランスでは大臣の下に小規模な政策スタッフ集団と秘書集団が集まった「官房」が形成され、構成員の多くは官僚だが、選ぶのは大臣である。
この官房が堅牢な官僚組織と政治的意思の柔軟な蝶番のような機能を果たしている。
そのフランスでも官僚制について大きな変革が起きた。マクロン大統領が、戦後の行政を支えてきた官僚養成エリート校ENAの廃止案を打ち出した。
2018年秋からの黄色いベスト運動でエリート主義への民衆の風当たりが強まったことから、同校の卒業生でもあるエマニュエル・マクロン大統領が翌年4月廃校を宣言した。
他のグランゼコールと共に、2022年1月に新設の「国立公務学院」(INSP)へ統合された。