映画監督デビット・リーンは、「人間の営み」を雄大な自然の中で謳いあげた。
「ドクトルジバゴ」では果てしない豪雪の原野、「ライアンの娘」ではとてつもない海嵐 、「アラビアのロレンス」では波のようにうねる砂漠を描いた。
映画の主人公は人間ドラマを呑みこんでしまいそうな自然の営みだったかもしれない。
20世紀初頭、中東の大部分を支配していたのは、トルコ人が建国していたオスマン帝国。その勢力は現在のサウジアラビアやイラクに及び、多民族・多宗教を容認する国家であった。
しかし、まもなくその隣人関係を壊す出来事が起きる。1914年に勃発した第一次世界大戦である。
列強はイギリスを中心とした連合国(英仏ロ)、ドイツを中心とした同盟国で、ドイツと同関係を結んだオスマン帝国はドイツ陣営に入った。
オスマン帝国では新たなエネルギー源となる石油が見つかっていた。後にその油田の規模は、世界有数であることが明らかになるが、オスマン帝国に目をつけたのはイギリスだった。
当時オスマン帝国の内部では、アラブ人による独立への機運が高まっていた。
イギリスはそれをあおって内乱を引き起こし、オスマン帝国を内部崩壊させることをもくろんだ。
イギリスは一人の情報将校に密命を託し、オスマン帝国に潜入させた。
その人物とは、トーマス・エドワード・ロレンス、大学で考古学をおさめ、アラビア語とその文化に精通した人物だった。
ロレンス大佐がアラブ人を操縦する「天才」につき、彼と行動をともにした将校が次のように語っている。
「彼らの感情を不気味なまでに感じ取る能力、あるいはまた彼らの魂の奥底にわけ入って、彼らの行動の源泉を暴き出す不思議な能力」。
一方、ロレンス自身は異文化のアラブ人を統率するにあたって次のように語っている。
「彼らの心を掴むためには、兵卒とともに食い、彼らの服を着、彼らと同じ生活に堪え、しかも彼らの間に自ら頭角を抜きん出るのでなければ、何人といえどもとうてい彼らを率いることは不可能であろう」。
さてイギリスは、ロレンスをオスマン帝国に潜入させるのに先立ち、預言者ムハンマドの血をひきアラブ人指導者ファイサルに、「イギリスはアラブ人の独立を認め支援する用意がる」という書簡を送っている。
そして、ロレンスはファイサルにイギリスの武器と資金を使って、オスマンに対するゲリラ戦を起こすよう、もちかけた。
この時、ロレンスはファイサルに、「イギリス政府は約束を守るとあなたは保証するか」と問われ、「私が保証する」と答えている。
ファイサルは、ロレンスと共に「アラブ人国家建設」を目指し、オスマン帝国に向けゲリラ戦を展開する。
ロレンスは先頭に立ち鉄道や港湾などの重要拠点を攻略していった。
しかしイギリスにはもうひとつの裏の顔があった。外務大臣バルフォァは、ユダヤ人とも「同様の密約」を交わしたのだ。
イギリスの外相バルフォアは、ユダヤ系財閥ウォルター・ロスチャイルドに次のような書簡を送った。
「イギリス政府はパレスチナにユダヤ人の民族郷土をつくることを支持する」。
第一次世界大戦で膨大な戦費を必要としていたイギリスは、ユダヤ人とも手を結ぼうとした。
イギリスは、オスマン帝国打倒のあかつきには、その地にユダヤ人にも「国づくり」を認めると約束したのである。長く離散し迫害を受けてきたユダヤ人は、この言葉を信じて立ち上がった。
しかし、ロレンスはアラブ人から「砂漠の英雄」とまで讃えられる一方、自分が軍上層部に利用されている事実を知る。
しかし、結局その事実を伏せたまま、アラブの反乱を鼓舞し続けた。
また、アラブ人の部族同士の対立という現実からもロレンスの思いは裏切られていく。
ロレンスは、戦争がおわればアラブ人に対する約束など反古同然の紙切れになってしまうことは、ロレンスにはわかっていたのだから、自分はどんな罪にとわれるのだろうかかという思いにかられていく。
さらには、「年がたつにつれ、私は自分が演じた役割をますます憎み軽蔑するようになった。もしも私がアラブ人に対するイギリスの取り決めをなくすことができたなら、いろいろな民族が手を取り合う新しい共和国をつくれたのかもしれない。アラブ人とユダヤ人は強国の圧政に苦しんだ従兄弟のような存在だ。アラブ人はユダヤ人を助け、ユダヤ人がアラブ人を助ける未来を私は願っている」と述懐している。
ロレンス大佐は、砂漠をこよなく愛し、自らのアイデンティティを砂漠に求めた。そしてオートバイを愛する青年であった。
ロレンスはその後イギリス帰国し、ようやく平穏の日々が続くかた思えた頃、46歳の時にオートバイ事故で亡くなった。
日本で映画公開中の「オッペンハイマー」の風貌は、映画「アラビアのロレンス」でロレンス大佐を演じだピーター・オトゥールに似ている。
これは映画の印象だが、実際にロレンスの風貌はカメラマンに焼け付くような印象を残している。
「アラブ人群集の中に一人、目もさめるような純白のベドゥイン風アラブ服を身にまとった碧眼、金髪の青年の姿をみかけた。まるで中世十字軍戦争当時の戦士がそのまま抜け出してきたかと思えた」。
片や、オッペンハイマーにつき、同窓生は「彼が実は古代の神々の住む地の住人で、たまたま人間界に迷い込み、懸命に人間のふりをしているかのように感じたものだった」と回想する。
フィユギュアスケートの世界に「絶望」とよばれたロシアの少女がいた。
その名はワリエワ、演技があまりにも完璧で周りに「絶望感」を与えるほどの突出した存在だったからだ。
しかしオリンピック委員会で、ロシアのドーピング問題で、過去のメダルを取り消されたワリノアである。
これから選手生活5年が禁じられ、フィギュアのピークを過ぎる彼女の選手生活は「絶望」ともいえる状況にある。
現在、日本で映画が公開されているオッペンハイマーも、幾分ワリエワの運命と重なる。
1928年、ドイツのゲッティンゲンには世界から才能あふれる若者達が集まった。目指したのは名門ゲッテインゲン大学。その中心にいたのが天才的な頭脳をもつ若き物理学者・ヴェルナー・ハイゼンベルクであった。
ミクロの粒子には、位置や質量を正確に測定できない「不確定性関係」があることを発見した。世界の成り立ちの見方を大いにかける大発見であった。
ハイゼンベルクは、単独受賞としては世界最年少31歳での受賞であった。
ハイゼンベルクの身近で学んだ日本の物理学者が理化学研究所の仁科芳雄である。東大を首席で卒業した秀才である。
そして1926年には、ハンベルクの論文を読み、原子の世界に魅入られたアメリカ人がやってきた。
ロバート・オッペンハイマー、ニューヨークの裕福なユダヤ人家庭に生まれハーバード大学を飛び級しながら、首席で卒業した。
だが人付き合いは苦手でたったが、12か国をあやつる語学の能力は周りに「絶望感」を与えるほどだったという。
オッペンハイマーは帰国後27歳にして、カリフォルニア大學バークレー校の助教授となる。
ここで無二の親友でライバルともなるアーネスト・ローレンスと出会う。
1930年、ローレンスはある実験装置を開発した。
今日も使われる粒子加速器(サイクロトロン)で、ミクロの粒子を超スピードで衝突させ、その原子がどう変化するかを調べる装置だった。
原子をこわすことが科学界の一大潮流となって、ローレンスがスポットライトをあべる一方で、学究肌のオッペンハイマーは日陰の存在であった。
サイクロトロン発明の9年後、ローレンスはノーベル物理学賞を受賞している。
1939年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻し第二次世界大戦がはじまった。
開戦の翌月、フランクリンルーズベルト大統領のもとにある人物から一通の手紙が」届いた。
20世紀最大の物理学者アインシュタイン、ユダヤ人迫害をのがれドイツからアメリカに亡命した。
ドイツが原子爆弾をつくる危険性があるとルーズベルトに警告した。
開戦直前、ドイツの物理学者が驚くべき発見をしていた。高いエネルギーをもつ放射線をだすウランの原子核に中性子を衝突させると、ふたつに分裂し、膨大なエネルギーを放出することを発見したのだ。核分裂という現象である。
アインシュタインは、アメリカが原爆開発に着手するように訴え、物理学者と緊密に連携し、信頼すべき人物にたくすべきようにすすめた。
1942年に原子爆弾「マンハッタン計画」が発足した。
20億ドルが投下され、全米に開発拠点が次々につくられた。そしてアメリカを代表する科学者たちが招集された。
リーダーとなったのはアーネストローレンスだった。
ローレンスはテネシー州で1億ドル以上かけ、原爆開発のための巨大装置の建造をはじめた。
「カルトロン」は、原爆開発に必要な濃縮ウランを製造する装置だ。
しかし、もうひとつ重要なリーダーがきまらなかった。爆弾本体の設計である。
ローレンスはそのリーダーに一人の人物を推薦した。オッペンハイマーである。
同胞であるユダヤ人迫害に怒りに燃えていたオッペンハイマーはこの大役をすすんで引き受けた、このプロジェクトはこれまでの物理学の集大成といえるだろうとも語った。
ナチスが存在する以上、結果をだせる軍事兵器を戦争に間に合うように作ることをやらないわけにはいかない。
オッペンハイマーは、ニューメキシコの大地に原爆製造の秘密研究所「ロスアラモス」をつくる。科学者や軍人6000人が集められた。
また加速器の建設などで働く人々に、施設建設の目的は知らされることはなかった。
オッペンハイマーは、この努力はナチスを打倒し、ファシズムを転覆させるものだと心から信じ、「この戦争は自由のためのかつてない戦いだ」と夢見るようなまなざしで語っていたという。
一方、オッペンハイマーを何よりも恐れさせたのは、彼の師ともいえる天才・ヴェルナー・ハイゼンベルクがナチスの原爆開発を主導していたことだった。
1945年初夏、ロスアラモスの科学者たちは南250キロはなれた荒野に通い詰めていた。史上初の原爆実験の準備が急ピッチに進んでいた。
しかし、彼の師であるハイゼンベルクは連合軍の捕虜となり、日本の敗戦もその頃決定的となっていた。
ロスアラモスには原爆開発の継続を疑問視する声があがった。
しかしそうした声を抑えこんだのが、リーダーのオッペンハイマー自身であった。
オッペンハイマーを突き動かしていたのは科学者の本能で、原爆が人間に何をもたらすか視野になかった。
1945年7月16日、午前5時29分45秒、16キロはなれたカメラのふれから驚きが感じられる。
オッペンハイマーは爆心地から9キロはなれたところにいたが、隣には物理学者の弟フランクがいた。
フランクは次のように語っている。「雷鳴のような音がずっと反響を繰り返しとてもすさまじかった あにとこいった。うまくいった。うまくいくかなんて誰にもわからなかったのだから」と語っている。
実験の報告をドイツポツダムで待ちわびた人物がいた。連合国首脳との会談に臨んでいたハリー・トルーマンである。
実験成功は、手術成功、結果は期待以上と伝えらえたという暗号で伝えられた。
ポツダムで、トルーマンはスターリンに「アメリカは異常な破壊力の新兵器を手にしました」と伝えた。
スターリンは「喜ばしい。日本にうまく使ってください」と答えた。
1945年夏、太平洋に浮かぶテニアン島に原子爆弾が運び込まれた。前の年に日本から奪い、空襲の拠点としていた島である。
米軍はこの島で、日本人の学校テニアンスクールを運営していた。
8月6日、原爆「リトルボーイ」をつんだB29が広島にむうけて飛び立った。
その時、ポツダム会談をおえたトルーマンは帰国の途についていた。大西洋のトルーマンに原爆投下の一報がつたえられた。
アメリカ国民にむけて合間に漏らしながらスピーチを行った。「我々は史上最大の科学的なギャンブルに20億ドル以上を費やして勝利した。金額以上ぬ偉大だったのはこれを見事に隠し通したこと。そしてこの計画を成功させた科学者たちの頭脳である」。
三日後、長崎にはプルトニウム型の原爆が落とされた。広島と合わせて21万人の死者がでた。
その5日後、8月14日ポツダム宣言受諾、無条件降伏する。
オッペンハイマーは「原爆の父」とよばれアメリカの英雄となった。
戦前まで科学界のスターだったローレンスは、オッペンハイマーにその座を完全に明け渡した。
だがオッペンハイマーの心に変化がおきはじめていた。終戦から数か月後、ロスアラモスで被爆者を視察してきた科学者の報告会が開かれた。
ある科学者が、長崎の被爆地を伝える写真を見せる中で、こんな軽口をたたいた。
たあてがみの片方が完全に焼き払われ、もう片方が完全の残った馬をみたが、それでも幸せそうに草をたべていたよ」。
するとオッペンハイマーが激しい口調で「原子爆弾が善意ある武器かのように語るな」と反論した。
トルーマン大統領がオッペンハイマーをホワイトハウスに招いたときのこと、
「大統領閣下、私は自分の手が血でよごれているかのように感じるのです」。
トルーマンは「汚れているのは私の手だ。君がkにするとではない」と応じた。
会談後、トルーマンはオッペンハイマーを泣き虫とこき下ろし、二度と連れてくるなと吐きすてた。
ロスアラモス研究所にて、軍からオッペンハイマーに感謝状をわたす式典がひらかれた。
しかしオッペンハイマーが、数千人を前に語ったのは、はれがましい場にふさわしくない言葉だった。
「今、誇りは深い懸念とともにあります。もし原子爆弾がこれから戦争をしようとする国々の武器庫に加わることになれば、いつか人類はロスアラモスと広島を呪うことになるでしょう」。
オッペンハイマーはロスアラモスの所長を退任した。
アメリカは新たな核兵器、水素爆弾の実権を決行する。ソ連との核開発競争がはじまっていた。
広島に落とされた原爆の650倍におよんだ。
水素爆弾の開発を主導したのは、彼の英雄の座をオッペンハイマーに奪われたローレンスで、「我々が語る新型加速器によって歴史的な実験を完了しました」と述べ、この開発によって「栄光の座」を取り戻した。
一方、政府の原子力委員会のアドバイザーとなっていたオッペンハイマーは、核開発競争に警鐘をならすようになっていた。テレビ番組で米ソが協調し、核兵器を国際管理することを訴えた。
水爆実験の2年後の1968年オッペンハイマー博士が、原子力委員会から停職処分をうけたという衝撃のニュースがかけめぐった。水爆開発の意義をとなえる原爆の父はもはや邪魔者だった。
オッペンハイマーはその後、各国で講演活動を行い、19609月年9月に日本を訪問した。
3週間日本に滞在て講演を行い、湯川秀樹らと交流したが、広島・長崎を訪問することはなかった。
1967年2月、癌のため62歳で亡くなる。