太平洋戦争において日本と戦ったアメリカ軍は、「ノウ・ユア・エネミー」(汝の敵を知れ)を合言葉に日本文化の習得に励んでいた。
「鬼畜米英」をスローガンに、相手を知ろうとしなかった日本軍とは好対照である。
当初、アメリカ兵は日本人を自分たちとまったく別の狂信的な民族と思い込んでいた。
実際、日本兵は「天皇陛下万歳」と叫びながら突撃してきたし、手榴弾を胸に抱え自決する者もいた。
日本軍は兵士達に「日記」を書かせていた。アメリカ軍は敵の作戦を知ろうと、戦場に残された兵隊の日記を読むうちに、日本人のイメージが変わった。
日本人もアメリカ人と変わらない同じ人間だった。
太平洋戦争は、1941年12月8日、日本軍のパールハーバー攻撃が開戦日となるが、1942年6月、米海軍により「ICPOA(太平洋地域情報センター)」がパールハーバーに設置された。
それ以前、日米の緊張が高まる中、急遽「語学学校」の養成を始め、米海軍は日米開戦の2か月前、カリフォルニア大学バークレー校に日本語学校を設立した。
日米開戦の前夜には、日本語の情報を収集できる語学将校は皆無に等しかった。
そこで全米を回り、最初に宣教師の子弟など、日本生まれのアメリカ人、日本語を勉強しているアメリカ人など、日本文化に馴染みのある関係者を集め日本語を学習させた。
自然、日本語教師には日系人もかなり存在していた。
その後西海岸から日系人が排除されたため、海軍日本語学校はコロラド州ボールダーにあるコロラド大学へ移動した。
しかしこれらの学生だけでは必要な人数を満たすことができなかった。そこで海軍は全米の大学生の中でも最優秀成績者で組織される「ファイ・ベータ・カッパ」というクラブから日本語学生の募集をかけた。
これら全米最高レベルの人間によりわずか12か月で日本語を習得させようという計画を立てた。
1942年8月より、ガダルカナル戦が始まり、日本軍の大量の日記や手帳などの文書が拾得された。
この文書の翻訳に従事したのが、前述のコロラド州ボールダーの海軍日本語学校の最初の卒業生であった。
その中には、後の日本文学研究家のドナルド・キーンがいた。
ドナルド・キーンは、太平洋戦争の終結後「翻訳将校」として「源氏物語」の国として憧れを抱いてやってきた。
当初、キーンはヨーロッパの古典文学を研究していたが、ニューヨークのタイムズ・スクウェアの古本屋の山積みされたジャンク本の中からたまたま見出したのが、「Tale Of Genji」であった。
ナチスや日本のファシズムの興隆という世界の暗雲漂う中、「源氏物語」の世界には戦争がなく戦士もいなかった。
そしてなによりも光源氏の人物像にひかれた。
主人公の光源氏は多くの情事を重ねるが、光源氏は、深い哀しみを知った人間であったということだ。
それは彼がこの世の権勢を握ることに失敗したからではなく、この世に生きることは避けようもなく悲しいことだからだ。
キーンは日本文化への関心を深め、コロンビア大学で角田柳作教授の「日本思想史」を受講した。その後、イギリスのケンブリッジ大学で日本語の研究を続けることになった。
キーンにとって日本語を勉強することが将来どんな意味があるかは全く不透明であったが、1941年キーンはハイキング先で真珠湾攻撃のニュースを知る。
アメリカ海軍に「日本語学校」が設置され、そこで翻訳と通訳の候補生を養成している事を知り、そこへの入学を決意したのである。
当時、海軍の日本語学校はカリフォルニアのバークレーにあり、そこで11カ月ほど戦時に役立つ日本語を実践的に学んだ。
そしてハワイの真珠湾に派遣され、ガダルカナル島で収集された日本語による報告書や明細書を翻訳することになった。
集めた文書多くは極めて単調で退屈なものであったが、中には家族にあてた兵士の「堪えられないほど」感動的な手紙も交じっていた。
キーンは、ガダルカナルで集められた日本兵の心情を吐露した「日記」を読むうちに、あらためて「源氏物語」の国を見つめ直した。
キーンはグアム島での任務の時に、原爆投下と日本の敗戦を知った。
その後、中国の青島に派遣されるが、ハワイへの帰還の途中、上官に頼みこんで神奈川県の厚木に降りたち一週間ほど東京をジープで回ったという。
キーンの「憧れの日本」は壊滅状態にあり、失望を禁じ得なかっものの、船から見た富士山の美しさに涙が出そうになり、再来日を心に誓った。
その後キーンはアメリカに帰国し1953年、研究奨学金をもらって、留学生として再来日しついに夢がかなった。
その初日、朝の目覚めて列車が「関ヶ原」を通過した時に、日本史で学んだその地名に感激したという。
キーンは1962年より10年間、作家・司場遼太郎や友人の永井道雄の推薦で、朝日新聞に「客員編集委員」というポストに迎えられた。
そして初めて新聞に連載したのが、「百代の過客 日記にみる日本人」で、それは9世紀から19世紀にかけて日本人が書いた「日記」の研究だった。
2011年、日本文学大賞をとった「百代の過客」の原点があった。
もうひとり、キーンと海軍日本語学校の同級生に、オーテス・ケーリという男がいた。
オーテス・ケーリの祖父・父親ともにアーモスト大学を卒業。アメリカン・ボードの宣教師となって来日している。
ケーリは、父親が北海道小樽で宣教活動していた時、1921年、北海道小樽市富岡町に生まれる。
14歳でアメリカに帰国し、アマースト大学に学び、1941年にアメリカ海軍日本語学校に入学した。
ケーリは、大学在学中の1943年2月、海軍少尉となり真珠湾の陸海軍情報局に配属された。
アリューシャン列島の作戦及びサイパン島の占領に参加するなどして海軍大尉となり、ハワイの「日本人捕虜収容所長」となった。
日本兵は生きて捕らえられたことを恥だと思い、殺してくれとたむ者さえもいた。
そこでケーリは、「武器も凶器も取り上げられたあなたは、もう僕のてきではない。ここでは皆さんを人間としてあつかう」と宣言する。
捕虜は恥ではないことを徹底して説き、日本兵の階級意識を破壊しなければならないと、捕虜たちの自発性を促すように仕向けた。
日本兵は彼に少しずつ心を開くようになり、そのことが貴重な情報を得ることに繋がった。それらの情報によって戦争の行方は決定的となっていく。
ケーリは、爆撃調査団の一員として再び日本の地をふんだ。
敗戦国となって日本人は打ちのめされていた。
終戦から4か月後、ケーリは、昭和天皇の弟・高松宮宣仁親王と会っている。
この時にケーリは何を話したのか、随分と時を経た1996年ケーリがインタビューに答えている。
「日本国民がこれだけ大変な爆撃にあったのだから、励ますのが一番望ましいことであると。天皇が日本各地を回るのがいいのではないかと」。
その半月後1946年7月昭和天皇は、人間宣言を行い、翌日から日本各地を巡幸する。
軍服ではなく背広を着た方がよいと進言したのもケーリだった。ある意味、日本人の天皇観念を覆す、危険をともなう「巡幸」であった。
しかし、GHQの予想以上に天皇の存在は、日本の降伏後の安定に異常な力を発揮し、当然予想された占領時の大混乱もあっけないほど平穏に治まった。
さてアマースト大学といえば、同志社の創立者である新島襄の卒業大学だが、ケーリの祖父の二年先輩が新島襄であった。
ケーリ本人も、アメリカに帰国してアマースト大学で学位を取得したあと、1947年に同志社大学に派遣され、米国文化史などを講義した。
その後、同志社大学の学生寮アーモスト館館長を務めた。ちなみに長女のベス・ケーリは翻訳家で、宮崎駿の米国での通訳や著作の翻訳などを手がけている。
1944年7月、日本が絶対国防圏としていたサイパン島を制圧した。さらにそこからわずか5キロにあるテニアン島にも攻撃が開始される。
その中の情報士官の中には、「ボルダーボーイズ」の一人テルファー・ムックがいた。
名門イエール大学のロースクール出身。弁護士資格を取得していたムックには、すでに妻と子供がいた。
テニアン島には日本軍の守備隊だけではなく、1万人以上の民間人が暮らす島だった。
1928年ごろから砂糖生産の拠点として開拓され、沖縄から多くの人々が移住し豊かな生活を築いていた。
しかし1944年7月、アメリカ軍4万の兵力が島に上陸し、民間人も戦闘に巻き込まれた。
日本軍は全滅し、住民たちはジャングルの奥へと追い詰められ、逃げ場をなくした者たちは「集団自決」に追い込まれていく。
それは、彼らの心に叩き込まれた「鬼畜米英」のイメージに縛られていたからだ。
捕虜とおなったものは9500人、その中に4000人の子供たちがいた。戦場の地獄をくぐり抜けた子供たちは、うつろな目をしていた。
そこでテルファームックは、ある行動にでる。有刺鉄線の中の一般市民も「何か」をすること。
普通の生活に戻るための「何か」が必要だった。
そこでムックは学校と作ろうと思い立ち、飛行場の施設部隊から資材をわけてもらい即席の教室を作った。
焼夷弾を梱包していた木材を屋根に使い、余った板を黒くペンキで塗り黒板にした。
島の占領から3か月、1944年11月「テニアン・スクール」が開校した。
子供たちは軍隊のような正確さで整列したので、素晴らしいと同時に、少し脅威でもあった。
アメリカ兵たちは子供たちが体操するのをきまって見に来た。
授業は日本語で行われた。ムックは母国語の文化を守ることが子供たちの将来になると考えたからだ。
校長を務めたのは、島の国民学校で教員だった池田信治(いけだのぶじ)であった。池田はムックの教育方針に反発した。
「すべての授業を男女共学にする」、そういうと校長は顔を強張らせた。
他の教師たちも、知能の発達は男子より女子の方が劣るから、別々にするべきだと反対した。
ムックは、最新研究によると、学力では男女の差はないと反論した。
ムックの考え方が正しいことを子供たちが証明して見せた。勉強も運動も女子は活発に取り組み、試験の成績上位者は男女同数だった。
学校が始まってまもなくテニアン島にB29が配備され、連日日本本土に飛びたち、無差別爆撃を続けた。
帰還したパイロットたちはきまって学校に訪れ、ムックは子供たちと遊ぶ彼らの姿をたびびたび目にした。
任務を遂行した爆撃機の乗組員たちは、キャンプの子供タたちにスポーツ用具をあげたり、一緒にパーティを楽しんだりしてた。
その時、彼らの心は分裂していた。爆弾を落としている自分と子供たちをかわいがっている自分とに引き裂かれていたのである。
お互いの人間的な関係がないときに、人は3万フィートの上空から平気で爆弾を落とせてしまう。
ムックは、人と人とが直接知り合っていれば、憎しみは生まれないということを痛切に思った。
1945年8月のある日、テニアンスクールの子供たちは、いつもとかわらない一日をすごしていた。しかしその日、テニアン島は歴史にきざまれる一日を迎えた。
新たに開発された「原子爆弾」が運び込まれ、B29に搭載されたのである。
ムックは、戦後アイオワ州デモインで法律家として活動した。
その後、1950年にキリスト連合教会の聖職者となり、さらに58年からはインドやスリランカで教会が支援する開発事業に従事した。
1983年に帰国してミシガン州に定住し、環境保護活動やコミュニティ活動に取り組んだ。
2007年に妻ジェインに先立たれたムックは、翌年5月、カリフォルニア州で没している。
ロナルド・キーンと並ぶ「日本文学」の研究者となるエドワード・サイデンステッカーは、コロラド州デンバー近郊キャッスルロックの農家に生まれた。
サイデンステッカーはコロラド大学で経済学を専攻したが、中途で英文学専攻に変更した。
日本語学校に入ったのは、前線に送られるよりも、戦争を無事に切り抜けられると考えたからだ。
アメリカ海軍日本語学校で日本語を学んだ後、第二次世界大戦に従軍。海兵隊師団の語学将校として硫黄島作戦に参加、没収した日本軍の書類の解読・翻訳にあたるようになった。
ハワイを経て、佐世保に進駐したGHQのメンバーにサイデンステッカーがいた。
ここで、闇市などのの取り締まりなど占領政策にかかわる仕事に勤務した。
この時目にした日本人の姿がサイデンステッカーのその後の人生意を決定づけることになる。
人々は廃墟の中にあっても、みな懸命に働き始めていた。がれきの山を片付けで家を建て、物を作り売ることを始めていたのである。
サイデンステッカーはその時、はっきりと思い知った。「この人々 そしてこの人々の言葉を研究することは、けして時間の無駄などには終わらないはずであると。この人々はやがて必ず世界に伍して恥ずかしくない国民となるはずだ」と。
佐世保での5年の勤務の後に、闇市などのの取り締まりなどの職を辞したサイデンステッカーは、東京大学に入学し、日本文学の研究を始める。
江戸の面影が残る東京小石川に居をかまえ、日本人の心情を知ろうとした。祭りや伝統文化に触れ、日本文学の第一線の研究者として活躍した。
サイデンステッカーは、「わたしはいつも鐘の声を聴きますと、どうしても夜であってほしいような気がします。東洋の鐘の声尾は、悲しいという程度じゃなくてもなんだか寂しいような感じで」と述べている。
サイデンステッカーは谷崎潤一郎や三島由紀夫と交流し、彼らの作品を翻訳するようになり、なかでも川端康成の作品を英訳し、世界に知られるようになった。
1968年川端康成がノーベル文学賞を受賞した。 その審査は「英訳」でやっているので、相当部分、翻訳者に負うところが大きい。
川端は、翻訳者が賞の半分もらったらどうかと語っているほどであった。
実際に川端は、感謝の気持ちをかたちにするためサイデンステッカーに授賞式への同行を依頼した。
二日後、受賞記念講演にサイデンステッカーは川端とともに立った。原稿「美しい日本の私」を翻訳してスピーチを行った。
サイデンステッカーは、「この時ほど日本と一体感を覚え、かけがえのない役割を果てしているという思いを強くしたことはほかになかった」と述懐している。
しかし川端はその5年後に自殺した。遺書はなかった。サイデンステッカーによれば、三島の場合には薄々予感するところがあったが、川端の場合自分の知る限り、そのような予感を与えるところは、全くなかったという。
2006年日本への永住を決意して東京の湯島を生活の拠点とする。
翌年、不忍池散歩中に倒れ、帰らぬ人となった。
追悼の会にはドナルド・キーンの姿もあった。
そのドナルド・キーンも2019年に亡くなった。
キーンは、東北大震災を機に帰化して「日本人」になることを決意した。東北の震災による瓦礫の跡に、終戦直後の東京に見た自身の原点、つまり「焼け跡」の風景が蘇ったのかもしれない。