近代言語学と環世界

イギリスのウエストミンスター寺院といえば、「ビッグベン」とよばれる時計のついた塔をいただく。
その内部の荘厳なホールには、イギリス議会の庶民院(下院)の細長い会議場であり、いく列ものベンチが並んでいる。
政府の閣僚は、議長の右側の最前列のベンチに座り、その背後のベンチにつくのは閣僚の補佐官たちだ。
野党は「影の内閣」のメンバーを最前列にして、議長の左側を占める。
中央の演説台で質問等が行われるが、その中央部と左右の議員席を分ける2本の赤い線である。
この赤い線は「ソードライン」とよばれ、左右どちらからも剣の届かない距離(剣の全長2本分)になっており、質問等の用事のない者はソードラインを越えてはならない規則がある。
総選挙で政権が交代すると、”この左右が入れ替わる”。その結果、右翼席も左翼席も、感情的な対立の松明(たいまつ)を積み上げることはなかった。
この点、議会の議場が半円形になっていて、右翼と左翼がいつも同じ場所を占めているフランスとでは大きな違いがある。
そういうわけで、「左翼」・「右翼」という言葉はフランス発祥である。
ところで20年ほど前、パリの観光旅行をした際、街ゆく人に英語で道を聞いたら、フランス語でかえってきた。フランス語は全くわからないので、別の人に聞いたが、同様に答えはフランス語だった。
そんなことが繰り返され、結局フランス人は英語を使いたくないのだと感じた。
一体、英仏両国にはどんな感情のアヤが潜んでいるのかと思ったが、世界史を学んだ人なら11世紀の「ノルマン征服」が思い浮かべるであろう。
今のデンマークあたりにいたノルマン一派のデーン人は活発化し、ブリテン島やフランスの沿岸を襲う。
イギリスでは11Cに一時「デーン王朝」を開き、フランスのノルマンジー地方にも住みつく。
フランスでは、カロリング朝にかわってカペー家のユーグが王位につき「カペー朝」が成立するが、ノルマンジーに住み着いたノルマン人はフランス王より「伯」の地位を与えられ「ノルマンディー公国」を形成していた。
1066年は、ノルマンディー公ウィリアムはイングランドを征服し、「イングランド王ウイリアム1世」として即位した。
その結果、ノルマン人の言語である古フランス語が、イングランドの上層階級で広く使われるようになり、これが後の英語の発展に大きな影響を与えた。
日本人に馴染み深いのは、「menuメニュー、œuvreオードヴル」、「dessertデザート」、「café コーヒー」、「restauranレストラン」などである。
ただフランスが元々イギリスの支配者だったという歴史の一面は銘記すべきことである。
フランス人がもともとイギリスを支配したことには、動物とその肉を示す英語が異なっていることにも表れている。
「pig (豚)→pork (豚肉)」「cow(牛)→beef (牛肉)」「sheep (羊)→mutton(羊肉)」。
これは「調理した人」と「その肉を食べた人」が違う言葉でその動物を呼んでいたという歴史に由来する。
当時、動物を育てたり調理したのは、支配されたイングランドのアングロサクソン人。
その肉を食べたのは支配層のフランスのノルマン人で、フランス語が食肉の名前として英語の中にとりこまれている。
英語が世界の「標準」となっていることにフランス人としては屈折した思いもあるのかもしれない。

従来、言語学は「歴史言語学」とよばれ、各国語がどういうふうに変化してきたのかという歴史的な変遷を研究で、客観的・実証的に行ってきた。
しかし、フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913年)は、それに満足せずに、人間と言語の深い関係を解明しようと考えた。
その際に、その言葉が過去どのように使われてきたか、歴史を知らなくても、言語の機能を知るすることが優先すべきとし、「近代言語学の祖」とよばれる。
まずソシュールは、人が話す言葉について民族や文化を超えて共通する特徴があることに気づいた。
それは、すべての言語は「記号の体系」ではないかということであった。
ソシュールはフランス人であり、記号はフランス語で「シーニュ」で、英語の「サイン」と同義である。
「シーニュ」の現在分詞形が「シニフィアン」で「意味していること」、すなわち一つの記号を表現した文字とその音声を指す。
また過去分詞形が「シニフィエ」で、「意味づけされていること」、すなわち一つの記号がもっている概念やイメージを指す。
日本人ならば、どこまでも広がる水面に海という「シーニュ(記号)」 をつけ、海という「シニフィアン」に、白い波と松林というような光景を「シニフィエ(概念)」と結びつけたのである。外国語の「シニフィエ」に松林はないであろうが。
ここで、ソシュールはソーニュ(記号)を構成する「シニフィアン」と「シニフィエ」は必然的な関係はないと断定する。
この点にソシュールの新しさがあるのだが、一体このことにどんな新しさがあるのか。シュールの考えた言語体系とは、言語の価値が「対立」から決定される。
つまり、個々の実体や意味は、もともと存在しない。あるのは、隣接項との対立関係だけその対立関係から意味は生まれるとした。
これは、人間が記号を生み出す作業そのものだ。
ソシュール以前、「創世記」にあるアダムが様々な動物を目の前に呼んで名前をつけたように、事物に関する名称目録みたいなものの存在を前提としていた。
しかし、これでは言語によって対象のが異なることの説明ができない。
例えば日本語ではマグロはマグロとよび、カツオのことをカツオとよぶ。しかし英語では両者を「ツナ」とよぶ。
また、日本語では蝶と蛾を区別しイギリスも同様だが、フランスでは両方を「パピヨン」とよぶ。
自然ばかりではなく、ギリシア人は愛という概念を「エロース(人間の愛)」と「アガペー(神の愛)」に区別した。
ソシュールが指摘したのは、世界に実在する実体要素に対して、人間が名前をつけているのではない。
世界のそれぞれの言葉を話す人は、自分の眼前に広がる世界を自分なりに整理して、すなわち世界に「区切り」をつけて、その上に記号を載せて、様々な実体要素を認識しているのである。
人間は言語という記号を使い、世界に区切りをつけることによって世界を認識する、これが「シニフィアンとシニフィエは必然的な関係はない」ということの意味である。
ソシュールは他にも、いくつかの基本用語を使って「言語」の本質を深く掘り下げていった。
「ランガージュ(langage)」が普遍的な言語能力、「ラング(langue)」は日本語など個別の言語で多種多様な国語体、また言特定の話し手によって発話される具体的音声の連続を、「パロール(parole)」と名付ける。
ところで、「構造主義」とは人間の社会的・文化的現象の背後には目に見えない構造があると考える思想である。
人類学者のレヴィ=ストロースは、ソシュールの言語理論(ラングとパロール)を人間社会に大胆に導入した。
ラング=社会構造(さまざまな規範、宗教観念、価値観、慣習といった意識されるものの背後にあるより深い実在、それらのものの真の動機付けや条件)
パロール=具体的な人間の行為(現実に存在する具体的な、直接観察される現象的データ)
このように、ソシュールの方法論は、社会における意識的現象(パロール)から無意識の潜在社会構造(ラング)へ探求を可能にした。
さて日本にも、ある言葉から社会の総体を読み取ろうとした試みがある。のが精神科医の土居健三は「甘えの構造」である。
言葉そのものの関係、例えば「ひがみ」や「そねみ」などとの関係から 日本文化を探る方法をとった。
土居は、1950年代の米国留学時に「甘え」に該当する言葉が他言語に見つからないことに着目した。
土居によると「甘え」は日本人特有の感情だと定義したうえで、日本人の心理と日本社会の構造をわかるための重要なキーワードだという。
「甘え」とは、周りの人に好かれて依存できるようにしたいという。
この行動を親に要求する子供にたとえる。また、親子関係は人間関係の理想な形で、他の人間関係においても、親子関係のような親密さを求めるべきだという。
さて、外国ですぐに経験することは、「ソーリー」といいたくなく日本人ではなかろうか。西洋人は「 サンキュー 」と言えば、それで「 済む 」ので、日本人のようにいつまでも「 済まない 」感情が残るわけではない。
「すまない」は謝罪と感謝という一見異なる状況に際して使われ、口癖になったりする。
相手に迷惑をかけたことに対するわびの気持ちが強く現われている。 そして、そのことこそ実は相手の親切を謝するにも「すまない」という言葉が用いられる理由なのである。
すなわち親切な行為をすることがその行為の主にとって若干の負担となったであろうことを察するから「すまない」というのである。
夫婦、親子では、感謝を表現しない無遠慮な間柄では、相互が独立した関係にない。「すまない」という感情を表現することなく、個人の中に内包している。
独立していない間柄である以上、独立した個人は存在しない。身内が、一体となっている。個人が独立していない以上は、自由も存在しない。
遠慮のある他人の好意に対しては負い目を感じ、一体感を持てる身内の好意に対しては平気でいられるという日本人の習性は私たちにとって至極当然のことに思われる。
義理の関係といわれるものは、親戚付き合いにせよ、師弟の間にせよ、友人付き合いにせよ、はたまた隣近所の付き合いにせよ、すべてそこで人情を経験することが公認されている場所である。
義理はいわば器で、その中身は人情である。親子の間柄でも、親子の情よりも関係自体が重視される時は、義理として意識される。
義理の関係において「すまない」という感情が最も多く経験される。
というわけで、義理も人情も「甘え」に深く根ざしている。
義理は、甘えによって結ばれた人間関係の維持で、甘えという言葉を依存性といきかえると、人情は依存性を歓迎し、義理は人々を依存的な関係に縛るということもできる。
日本語が、身内とか仲間内というように、主として個人の属する集団を指し、英語のプライベートのように、個人自体を指すことがない。
日本では、集団から独立して個人のプライベートな領域の価値が認められていない。これは、日本で西洋的自由の観念が容易に根付かないことと関係がある。
日本人がいわば理性的に行動するのは遠慮のある場合であるが、しかし、この遠慮を働かせねばならないサークルも、遠慮を要しない外部の世界に対しては内と意識されるのであって、本当の意味ではパブリックではない。
最近の自治体の首長のパワハラや会社の不祥事は、自分が所属する組織が「公器」であることを忘れているからではなかろうか。
土居健三は、甘えという言葉が外国語にないことから日本社会を分析したが、逆に外国人によって「日本語」が発見されることもある。
2005年2月に京都議定書関連行事のため、毎日新聞社の招聘により日本を訪問した。その時のインタビューで「もったいない」という言葉を知り、日本人が昔持っていた「もったいない」の考え方にこそ、環境問題を考えるにふさわしい精神があると感銘したという。
「もったいない(勿体無い)」とは、仏教用語の「物体(もったい)」を否定する語で、物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ちを表す。
マータイさんによると「もったいない」のように自然や物に対する敬意、愛などの意思(リスペクト)が込められた言葉を他に見つけることができなかっため、そのまま「MOTTAINAI」を世界共通の言葉として広めることにしたという。

最近、世界的に「分断」が起きているといわれている。それは、アメリカの大統領選をみればよくわかる。
人間が文明を築くことができたのは「言葉」の故で、本来、言葉は生産的なはずだが、飛び交う言葉にはそれが全く感じられない。
最近、星野智幸という作家が「言葉が消費されている」と新聞に書いていた。
政治や社会を語るこういった言葉が、単に消費されるだけで、分断されていくばかりの社会において、敵か味方かを判断する材料でしかなくなっていると感じているという。
「敵」と見なされれば攻撃の口実にされ、「味方」と見なされれば、共感したい人たちの読みたい方向に強引に読まれるばかり。
リベラルは、「人権擁護」「反戦」「環境保護」「多様性」といった大義をかかげ、無関心が差別を助長すると同意を求める。「正義」という認識から、それが激しい攻撃であっても、恐ろしいことに異常な連帯感を生む。
一方、保守派は「人種」や民族をベースにナショナリズムに閉じこもり、同じ考え方の人間同士が、居心地の良い場所に落ち着こうとする。
「民主制」とは、それぞれ考え方の違う者が、お互いに意見を聞き、調整して制度を創っていく仕組みだ。
現状では、政党はそれぞれに支持する人々に、居心地の良い場所を与える集団に化しつつある。
政治とは、自分たちの正しさの競争でなく、話し合いで合意するための手段である。
ところが党の目的である対話の場が作れていない。
絶対的な正しいと信じる、もしくは居心地のよいところから、異論者を排除する。
さてソシュールは、人間が世界を区切って世界を認識するとしたが、その区切り方が各文化で違うのは、何に由来するのであろうか。
思い浮かべたのは、生物学の「環世界」という概念である。
生きものはそれぞれの「知覚的な枠」のもとに構築される「環世界」の中で生きているという。
例えばダニにとっての「世界」は、光と酪酸のにおい、そして温度感覚、触覚のみで構成されている。
ダニのいるところには森があり、風が吹いたり、鳥がさえずったりしているかもしれないが、その環境のほとんどはダニにとって意味をもたない。
アメリカ大陸を世代を超えて渡る蝶がいるが、彼らを地球の磁気を感じ取って移動している。
我々はそれを感じ取ることはできないが、蝶にとっては命を繋ぐ、体感情報だ。
動物たちは、それぞれがそれぞれの生活に「役立つ」環境のなかに棲んでいる。役立たない情報は認識されないと言い換えてもよい。
それはそれぞれの動物によって違うもので、すべての生き物は「イリュージョン」を生きているといえる。
ただイリュージョンといっても、誤った知覚というわけではなく、"抽象された主観"という意味である。
星野氏は政治面でそれぞれのカルトが、自分が正しいという信念をベースに、お互いのカルトを非難しあい、攻撃しあうというというのが、この世の現状であるという。
こういう現状に、ソシュールの言語学と「世界認識」の在り方を重ねると、相手を認識するのにも、内容よりも「記号」をそのものとしてみなす傾向にあるのではなかろうか。
人間の「環世界」では、「敵か味方」に異様に感度が高まっているのかもしれない。