公立高校野球部出身

我が地元福岡から公立高校出身の現役投手が活躍しているのがめだっている。
プロで活躍できるほどの彼らは、野球名門高が多い私立からの声はかからなかったのだろうか。
努力の蓄積によって、体格的な弱点や故障などを克服したり、また才能の遅咲きということもあろう。
また、家が近い理由で公立高校を選んだ選手もいる。
大リーグのシカゴ・カブスで活躍している今永翔太は北九州市立永犬丸中学校で野球部にはいった。
投手としては身体が小さく、野球強豪校からのスカウトを受けるほどの成績も残せなかったため、卒業後は自宅の近くの福岡県立北筑高等学校へ入学した。
3年次の夏の甲子園福岡県予選では4回戦に進出、小倉高校戦で最速144キロ のストレートを武器に好投したものの1-2で惜敗。甲子園出場は叶わず、卒業後は駒澤大学へ進学した。
大学4年生時には「大学ナンバーワンの左腕投手」と評価されるようになり、2015年ドラフト会議で、横浜DeNAベイスターズから1巡目で単独指名された。
2024年衝撃的デビューを果たしたのが、西武のドラフト1位で入団した武内夏暉。北九州出身で、小学校3年の時に野球を始め、折尾愛真中学校で野球部に入部した。
福岡県立八幡南高等学校時代は甲子園大会への出場はなく、3年夏は福岡大会3回戦で敗退した。
国学院大学に進学し、2年秋に出場した明治神宮野球大会にて、九州産業大学との2回戦で、8回二死までパーフェクトに抑える好投で完封し、注目を集めた。
3年次の東都リーグ戦では4勝0敗、防御率0.68を記録して優勝に貢献し、MVPを受賞。4年次の2023年には日米大学野球選手権大会の日本代表に選出された。
また2016年に引退した西武の帆足和幸は野球選手としては小柄。福岡県立三井高等学校から、九州三菱自動車硬式野球部に進み、主力左腕投手として台頭するようになる。
2000年ドラフト会議で、西武ライオンズから3巡目指名を受けて入団している。
さらに、2023年より広島カープで中継ぎのエースで活躍する島内颯太郎は、福岡県福津市立福間中学校から福岡県立光陵高等学校に進学した。
2年の夏からはエースとなり、3年夏は福岡大会3回戦で敗退した。
九州共立大学進学後、球速が7km/hアップし4年時には152キロを記録。3年秋のリーグ戦にはチームを優勝に導き自身も防御率1位、MVPに輝く活躍をせた。
2018年ドラフト会議で広島東洋カープから2位指名を受ける。
2023年は開幕から一軍起用され、球団史上初の「最優秀中継ぎ投手」のタイトルを獲得した。
これは、1991年の大野豊(最優秀救援投手)以来32年ぶりのリリーフタイトルとなった。
最近難病からの返り咲きのニュースで注目されたのが、横浜DeNAベイスターズの三嶋一輝選手である。
福岡市立元岡中学校時代に野球部に所属し、私立の強豪校を目指したが、小柄な体格であったことから福岡県立福岡工業高校へ進学。2年時の春からエースの座をつかんだ。
高校卒業後に法政大学へ進学すると、東京六大学野球のリーグ戦で1年時の春季からクローザーに起用。通算5試合に出場し、チームの完全優勝に大きく貢献した。
2012年のドラフト会議で、横浜DeNAベイスターズから2巡目で指名を受け入団。
2023年春、国指定難病を発症するも、2024年に復帰し開幕1軍を勝ち取った。
同じ難病なった中日ドラゴンズ・福敬登(ふくひろと)との交流が話題となった。

全国に目をやれば、公立高校出身の名選手は少なくないが、プロ入団の経緯が面白いのが、楽天イーグルスの岸孝之である。
七十七銀行硬式野球部(宮城県仙台市)の初代監督である父親の影響で、仙台市立西中田小学校の3年の時野球を始めた。
宮城県立名取北高等学校に進学。後年のインタビューで、自宅に最寄りだったことと、野球部が坊主頭を強制していないことが同校選択の理由であったと、答えている。
高校2年生からエースになり、県内でも知られるようになるが、東北高校(仙台市)には「高校ナンバーワンの左腕投手」として知られた高井雄平(高卒後、ドラフト1位でヤクルト入団)がおり、その陰で注目度は高くなかった。
高校3年生の2002年夏の宮城県大会で1回戦で多賀城高と対戦したが、同校の主力として出場する息子を観に東北学院大学硬式野球部の菅井徳雄監督が来ていた。
岸はその試合で5回コールドの参考記録ながら、ノーヒットノーランの好投を見せたため、菅井監督の目にとまり、すぐさま名取北高の監督に東北学院大学への入学を直談判に行ったという。
岸は甲子園出場を経験することはなかったが、東北学院大を含む10数校の大学から誘いがあった。
学費免除などの特待はなかったものの、学業と野球を両立できるとして東北学院大への進学を決めた。
大学時代はエースとして活躍し、仙台六大学野球リーグにおける圧倒的強豪の東北福祉大学戦に完封を含む3連投の活躍で同大学の35連覇を阻止し、東北学院大学18年ぶりのリーグ制覇に貢献した。
2006年の大学生・社会人ドラフト会議希望入団枠での指名を経て、西武ライオンズに入団した。
さて、我が高校野球テレビ観戦史の中で1983年(昭和58年)「全国高校野球選手権大会/3回戦久留米商業高校-市立尼崎高校」がとても強く記憶に残っている。その試合のスコアは次のとおり。
市 尼 崎 (兵 庫) 2 0 0 1 0 0 1 0 0 | 4
久留米商 (福 岡) 0 0 0 0 0 0 0 3 2 | 5
エースの山田武史を擁する久留米商業(私立)がサヨナラで勝利し「ベスト4」に進出した。
山田は高校卒業後、本田技研熊本を経て1986年ドラフト外で巨人入団した。
故障に悩まされてプロでは活躍できぬまま、1991年に現役引退した。
この試合では山田にばかりを注目して、市立尼崎高校の4番打者池山隆寛には目がいかなかった。
市立尼崎高校のサウスポーの宮永投手の「巧投」が光っていたこともあったが、野球解説者が、池山が相当な長距離打者であると述べていたことを記憶している。
池山は、1983年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団し、1988年から5年連続で「30本塁打」、遊撃手としては史上初の「3割30本」を達成している。
ホームランばかりか豪快な三振に魅力があり、「ブンブン丸」という愛称で呼ばれた。
池山は中学時代その長打力から私立高校からの誘いがあったが、「地元の市立尼崎高校を甲子園に出させたい」という思いから同高への進学を決定したという。
そして本当に市立尼崎高校は甲子園に出場するのだからすごい話である。
プロ野球を引退後、あるテレビ番組で試合中につけていたノートが紹介された。
丁寧な文字でギッシリと毎試合の記録や反省点が書き込まれているのは意外だった。
池山のプレーの豪快さとは対照的な、とても几帳面で繊細な一面を見た思いがした。
1980年代後半から90年代に広島カープのエースとして活躍した大野豊は、一言でいえば「苦労人」である。
実家は島根県で海に面していたため、幼少期から砂浜で走って遊んでいたことで、足腰が鍛えられ、後年の下半身に重心を置くフォームの土台にもなった。
母子家庭で、母の苦労を見ていたことから、「中学を卒業したら、就職する」と胸に秘めていたが、せめて高校だけは出て欲しいと家族が要望したため、すぐに働くために島根県立出雲商業高校を選んだ。
高校2年から本格的に投手として投げ、高校3年の夏には島根県でも注目されるようになる。
強豪社会人チームからの誘いもあり、広島の「スカウトの神様」木庭教(きにわさとし)もマークしていた。
しかし、当時の大野は体力的に自信がなく、また母子家庭で苦労をかけた母のため、軟式ながら地元で唯一野球部がある「出雲市信用組合」へ就職した。
3年間窓口業務や営業活動をこなす傍ら、職場の軟式野球部で野球を続けていた。
1976年に島根県大会準優勝の島根県立出雲高等学校と、練習試合を硬式野球で行ったところ、5イニングで13三振を奪い、硬式でもそれなりに投げられたことで、プロに挑戦し、母親を楽にさせたいという気持ちを抱いたという。
その3か月後の1976年秋、出雲市内で広島カープの野球教室が開かれ、当時の山本一義打撃コーチとエース格の池谷公二郎投手が講師として参加していた。
「出雲市信用組合」野球部員はその手伝いをすることとなり、大野の高校時代の監督が山本打撃コーチと法政大学野球部の先輩後輩の関係であったため、監督が大野のプロ入りの道を作っていただけないかと頼んだ。
恩師に頼んだ経緯もあり、翌1977年2月に特別に入団テストを受けることとなり、呉市営二河野球場で行われていた二軍キャンプにおいて、山本と木庭の立ち会いのもと一人だけの入団テストを受けて合格することができた。
そして、軟式野球出身という異色の経歴で、広島に「ドラフト外入団」を果たした。
ただし、契約金なし、俸給は月額12万5千円の薄給だった。
1978年、南海ホークスから移籍してきた江夏豊に見初められ、古葉竹識監督から預けられるという形で、二人三脚でフォーム改造や変化球の習得に取り組んだ。
江夏は当時の大野について「月に向かって投げるようなフォームだった。しかし、10球に1球ほど光るものを感じたから、とりあえずキャッチボールから変えてみようかということになった」と語っている。
ドラフト外から広島のエース、さらにはセリーグNO1の左腕投手のストーリーは、感動的である。

1984年夏の甲子園決勝戦、桑田・清原擁するPL学園と茨城県立取手第二高等学校の決勝戦は大方の予想を覆すものとなった。
取手二高の監督は、後に常総学園の監督として名を馳せる木内幸男監督であり、取手二高の全国制覇こそが「木内マジック」の幕開けであった。
この決勝戦のマウンドに上がった桑田真澄は、カーブの投げ過ぎでマメが潰れての投球だった。それでも、傍目には負けるはずのない相手だった。
なぜなら、わずか2カ月前の練習試合では13-0と圧勝。それも1安打完封に抑え込んでいたからだ。
ただ桑田自身は、決勝まで駆け上がってきた取手二高の「勢い」に不安を覚えていたという。
それは前年、1年生で甲子園の優勝をした桑田自身の経験からくる「甲子園での勢い」というものを肌身で感じていたからでもあった。
木内監督は日頃はよく叱ったが、甲子園に来たら選手の好きなようにやらせていた。
そのせいか、試合中には笑顔を見せ、大きな声を出し、感情を表しながら勝ち抜いていった。
雨が降って試合開始が危ぶまれる中、桑田は十分なピッチングもできず上がった。
たちあがりの1回、順調に2アウトをとったものの、グラウンドの状態が悪く、不運なエラーで2点を失う。
桑田によれば、ここから「負のスパイラル」が始まっていったという。
木内の激励で9回裏のピンチを凌いだ取手二高は、延長10回、桑田をとらえた。
160球目を中島彰一の代名詞ともなった大根切りスイングで、決勝3ランを放った。
ある意味、あの大根切りのスイングこそ、取手二高校らしかった。
結局、8-4で取手二校の勝利となり、圧倒的優勢といわれたPL学園は敗れた。
桑田にとって、被安打12、失点8は甲子園ワースト記録となった。
しかし、取手二高はこの勝利はけして番狂わせではなかったことを証明した。この年の国体でリベンジを期すPLを「4-3」で返り討ちしたからだ。
2018年、NHKアナザーストーリーで「桑田・清原の運命の分岐点」というタイトルで、この決勝戦にまつわるエピソードの紹介があった。
その中でも印象に残ったの出来事は、国体の試合後、桑田真澄がPLの寮から一時「行方不明」になったことであった。
その間、桑田は茨城・取手の地であったという。
取手は、南北に水戸街道(国道6号)が通り、利根川の水運とあいまって、古くは宿場町だった。
ではなぜ桑田は取手二高のある取手市を訪問したのか。
桑田は、日韓高校野球の全日本チームに選ばれた際に、取手二高の投手の石田や捕手の中島と親しくなっている。
しかし、桑田は旧交を温めるために取手を訪問したわけではなかった。
桑田には、練習試合では大差をつけたチームに、なぜ負けたのだろうという思いが燻っていた。
その「なぜ」を消化するため、秋の国体後、取手に足を運んだ。
PL学園は寮生活のため、よほどの理由がない限り外出は認められないため、かなり異例の行動だった。
桑田にとって野球とは、寡黙にひたむきに、歯を見せないで厳しい練習に耐え抜くというものだった。
そこで、自分の「野球観」にはない、のびのびした戦い方をする取手二高校の選手達はどういう環境で、どんな練習をしているのか、そればかりか彼らが育った地域を自分の目で確かめたいと思いに駆られたのだという。
桑田らしい「探求心」に導かれた行動であった。
桑田はまず 取手二高が普通の「県立高校」であることに驚いていたという。
ハード面だけを見れば、野球部専用のグラウンドを持つPL学園を上回るものはなにひとつ見つからなかった。
ただ桑田は、投手の石田や主将の吉田剛らの家も行き来し、対戦だけでは分からなかったものを見つけた。
それは取手二高の「のびのび野球」で、失敗を恐れずプレーし、笑顔で野球を楽しむという、スポーツの原点を再確認した思いだった。
桑田は目指しているゴールが同じでも、そこに行く方法論はいくつもあること。寡黙に、苦痛に耐えて笑顔を見せない、そういう昔ながらの野球観だけじゃないということを知った。
また、それに対応するのためには、色々な準備が必要なことを学んだ。
さらにはもっと大きな教訓を桑田は学んだ。それは「世の中には理不尽なこともたくさんある」ということを受け入れられるようになったという。
桑田にとって理不尽なことといえば、巨人を熱望していた清原ではなく、自分がドラフト1位で巨人に入団したことで、いつも、負の重しをかけられた状態であった。さらには、当時「投げる不動産屋」と週刊誌に書かれたりしたこともあった。
実はその後、取手二高の選手達にも「理不尽」とも思えるな運命が待ち受けていた。
取手二高のエース石田文樹は、ドラフト5位で横浜ベイスターズに入団した。桑田が茨城にある実家を訪れたことがあった選手である。
石田は、甲子園を沸かせながら、早稲田大に推薦で入学するも、のびのび野球とはかけ離れた大学の体質になじめず、すぐに中退。
社会人野球の強豪「日本石油」を経て、ドラフト5位で横浜ベイスターズに入団する。
しかし、プロの世界では思うような結果を残すことができなかった。実働6年で25試合に登板。1勝0敗の成績を残した。
現役を引退した後は「打撃投手」を務め、1998年には38年ぶりの日本一に貢献した陰の立役者ともなった。
しかし、直腸がんを患い41歳の若さで他界した。

またPL学園の清水哲選手は、甲子園決勝戦、取手二高9回裏4-3で負けている土壇場で同点ホームランを打った。
その後、同志社大学に進学し野球を続けたが、試合中の事故で半身不随、車椅子生活となる。
現在は、講演・執筆活動のほか、障害者のサポートを行っている。
車椅子は、桑田・清原からのプレゼントなのだそうだ。

その前に、この夏の甲子園で取手二高の選手たちが見せた「武勇伝」を紹介したい。
初戦でプロが注目する2人のりの剛腕(島田・杉本)を擁する和歌山県・箕島高校に勝利。
この箕島戦に勝利した後、ナインは勝利の雄叫びに夢中、通路で馬鹿騒ぎをしてなかなか整列しなかったナインは大会本部から大目玉を食らった。
ちなみに、吉田剛主将は、プロ入り後(近鉄)も“お祭り男”として名をはせた。
この試合の6回裏PLの攻撃。1点返して「1-2」となり尚無死2塁、 相手打者はレフト前ヒットを放つ。
ここで、投手はバックホームが逸れるのに備え、捕手をバックアップするというのが定石。
レフト前ヒットを放った選手は当然バックホームの隙をついて二塁を狙う。
しかし捕手のバックアップをせずマウンド付近に“立っていた”石田投手は レフトからの返球をカットし二塁へ送球。打者走者をアウトにする。
その後、8回裏にも同様の場面があったが。 再びカットしようとした石田投手だが今度は触っただけで捕球できず、 返球が逸れる間にランナーが帰り1点差に詰め寄られている。
辛口解説者なら“酷評”するようなプレーだった。
吉田は、3回戦の福岡の大濠高校戦で9回ダメ押しの本塁打を放ち8-1で勝利した試合後、「こんなところでホームランを打っても全然面白くない」と語っている。
そしてPLとの決勝戦で吉田は、2本塁打を桑田から放っているが、その際、“これでもか”というほどのガッツポーズをしてベースを回った。さらには、ベンチの奥で何人のもメンバーと抱き合うという喜びようだった。
当時の取手二ナインは、男女交際OKで、彼女からもらったお守りを首から下げる選手もいた。
その辺、いいところ見せたい煩悩は人並み以上だったかもしれない。
それにしても、あの年の取手二高は、木内監督がその後作りあげた「常総学院」のスキのない野球は全く違っていてチームカラーも対照的である。
木内監督は、この2年前、 主力6人(吉田・佐々木・下田・桑原・中島・石田)が入部してきた時、「公立校でこんなチームができたのは奇跡」と身震いしたという。
彼らは、バントが嫌だとわざとファールにする等、巧に監督の指示を無視したり、「一度木内監督に反発し3年生が集団退部したことがあったが、木内監督は、「神が私に与えてくれた一生に一度のチーム」と語っていたという。
また集団退部をしても「許して」くれた監督の為にも「やらなきゃイカン」という雰囲気が生まれた。
これもすべて木内監督の計算の中の人心収攬術のひとつであったであろう。
また、監督木内の繰り出すアイデアも規格外で、初戦・箕島戦の前には勝った場合、「ご褒美と」して、海に連れていくことを約束し、実際に海水浴場に繰り出したりしていた。
つまるところ、海千山千の木内監督の方が一枚上手で、しっかり「悪がき集団」を掌握していたようだ。