聖書の場面より(人はくじをひく)

映画「オッペンハイマー」に登場するアインシュタインの表情はさえない。
ラストに近いオッペンハイマーとの会話の場面では、核が現実に使用されることばかりではなく、自分が科学者として時代遅れの存在として扱われていることへの憂いをにじませている。
さて、アインシュタインの言葉に「神はサイコロをふらない」という言葉がある。これは近年ますます注目を集める量子力学を批判した言葉である。
量子力学のはじまりは、「光は波か粒子か」という問いかけから始まったといってよい。
1900年ごろまでは、光は波、電子は粒子と考えられていた。
1905年アインシュタインは、「光の量子仮説」を主張し、それまでは連続的な量および波と考えられていたエネルギーや光が、粒子としての一面をもつとした。
また、相対性理論は「絶対運動」などはなく、すべての運動は相対的であり、また光の速度は光源や観測者の運動とはかかわりなく一定であるとする理論である。これをもとにアインシュタインは、ニュートン以来の時間と空間の概念を根底から覆し、物質はエネルギーに転ずるという有名な式「E=M×Cの二乗」という式を導いた。
この式によって人類は、極小な原子が膨大なエネルギーを秘めていることを明瞭なかたちで知ることになる。その後発展した原子や素粒子をあつかう量子力学は、これらの理論を基礎として発展したといってよい。
その中心となったのが、ケンブリッジ大学のアーネスト・ラザフォードとコペンハーゲンの理論物理研究所のニールス・ボーアであった。
量子力学は、たとえば電子の位置と速度とをともに絶対正確に決めることは不可能であるという考え方(ハイゼルベルク:不確定原理)から出発する。
例えば、電子の位置を正確に決めようと強い光をあてると、その光によって電子が乱されるために、その速度が決めにくくなる。
なにしろ、ナノ(10億分の1)の世界では、人間の”認識”だけでモノに変化が生じ、モノの速度や位置が確率でしか語れないという奇妙な世界なのだ。
そして意外にも聖書には、量子的現象を思わせるようなことが起きている。
イエスが十字架にかかった後に、弟子たちがエマオに向かう場面がある。ひとりの人物が弟子たちに近づき一緒に歩いていた。弟子たちがそれがイエスだと気がづいた瞬間に、イエスが見えなくなってしまう(ルカの福音書20章)。
これは量子的現象などではなく「霊的な現象」なのだが、山の上でのイエスの変容(マタイの福音書17章)や復活したイエスが同時に500人の弟子に顕れる(コリント人への第一の手紙15章)など、いくぶん量子的現象を思わせる場面がいくつかある。
さてボーアの「理化学研究所」の後輩であるシュレーディンガーは、さらに奇妙な「物質波」という新たな概念をうちだす。
原子も電子も中性子もすべて「波」であるというのだ。物質波のピークになった部分を我々が「粒子」と捉えているだけだと説明した。
「物質波」は空間の至るところへ広がって、様々な波長の波が干渉を起こしている。それは束ね合わさって波束を作り、その波束のピークが我々には「粒子」に見えるのだというのだ。
つまり、シュレーディンガーは、そもそも粒子なんて本当は存在しないと主張したのである。
電子の存在をあらかじめ予測できない、電子の存在は確率でしか予測できない。それは、陽子にも中間子にもそれがあてはまる。
物理学の世界は基本的に因果律に支配された決定論で記述されている。こうした確率解釈については、アインシュタインは拒否反応を示した。
因果律と決定論を放棄する確率解釈は、アインシュタインにとっても受け入れがたいものだった。
アインシュタインは、このような考えに反し、因果律がなりたたないように見えるのは、量子力学が「不完全な」ためであるとした。
アインシュタインとボーアの間で白熱した議論がなされ、アインシュタインは「神はサイコロを振らない」といった。
それに対して、ボーアはいつも「科学の問題にやたらと神をもちださないでくださいよ」と答えたという。

この世界の運命や我々の人生は、最新の量子力学のいうように確率に支配されているだけのものだろうか。
聖書では神の意思を問う時に「くじ」を使う場面がいくつかある。
そこには、「くじ」をひくことが神が決めることだと思っていたふしがみられる。
カナンを征服したイスラエル民族がどこへ住むかを「くじ」で決めている。
「ただし地は、くじをもって分け、その父祖の部族の名にしたがって、それを継がなければならない」(民数記26章)。
また、「くじ」によって決めれば争いがないという考えもあったようである。
「くじは争いをとどめ、かつ強い争い相手の間を決定する」(箴言18章)。
またくじは神聖なものと考えらえており、バプテスマのヨハネに関して、ヨハネの父ザカリヤが啓示を受けた時、神事を行う順番なども「くじ」で決めている。
「祭司職の慣例に従って「くじ」を引いたところ、主の聖所にはいって香をたくことになった」(ルカによる福音書1章 )。
さらに、12使徒であったイスカリオテのユダがイエスを裏切ってしまい、代わりの使徒を選出する際にも「くじ」がつかわれている。
「それから、ふたりのためにくじを引いたところ、マッテヤに当ったので、この人が十一人の使徒たちに加えられることになった」(使徒行伝1章)。
くじは、古代から神を信じる人に限らず広く行なわれていた。その一方で、聖書は「占い」を偶像崇拝の罪としているので、神の名による祈りをともなったであろうことがうかがわれる。
聖書で最も印象的な「くじ」ひきが旧約聖書のヨナの物語にでてくる。
ヨナがアッシリアのニネベへ伝道に行けという命令に逆らって逆方向のヨッパ行きの船にのったところ大嵐に遭遇する。
船員たちは、大嵐になっているのは神に逆らったものがいるはずだ、と言い出し、それは誰かをみつけるために「くじ」を引こうということになった。
聖書には「やがて人々は互に言った、”この災がわれわれに臨んだのは、だれのせいか知るために、さあ、くじを引いてみよう”。そして彼らが、くじを引いたところ、くじはヨナに当った」(ヨナ書1章)記されている。
また新約聖書には、悪しきくじ引きの場面がある。
イエスを十字架につけた兵士たちは、「くじ」を引いて、だれが何を取るかを定めたうえ、イエスの着物を分けた。
これは「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にしたという聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである」(ヨハネによる福音書19章)。
ちなみに、「くじ」をひいた一人の兵士の運命を物語化し映画化したのが「聖衣」(1953年)である。
さて、大災害やテロ起きた時、どうしてあの善良な人々の命が奪われるかという思いにかられる。
そこには、善人も悪人も、勤勉な人も怠惰な人も、老人も赤ん坊もいたはずだ。
この思いは、ある日突然、誰彼となく襲う災の「不条理さ」への疑問といいかえてもよい。
イエスの時代の人々も、イエスに対し、そうしたことが起きるのは、被災した人々が何か悪いことをしたのかと問うている。
イエスは、当時シロアムというエルサレムへの水を供給する貯水池があった場所で起きたいたましい事件を例にとりあげて応えている。
イエスは、「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(ルカの福音書13章)と語っている。
ここで「悔い改める」という意味は、悪さを反省して良い行いをするということではなく、原語の意味からして「心の向き」を変えるということである。
今日、山火事、地震と津波、豪雨による水害で、町や村がまるごと流されたり焼かれたり、そのうえ「フェイク動画」まで作られて人々を惑わせる事態にまでなっている。
そんな時、ソロモンの次のような言葉が聞こえてくる気がする。
「わたしは心に言った、愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう。わたしはまた心に言った、これもまた空である」と(伝道の書2章)。
では、イエスが「だからあなたがたは悔い改めなさい」というように、「悔い改めると」そのような災いからまぬかれるとでもいうのだろうか。
確かに聖書には、ノアの洪水、ソドム・ゴモラの消失、出エジプトの過程で下る様々な災い、エリコの崩落、エルサレム陥落などがあり、そこから救出される「一握りの人々」、あるいは「家族」があるということを示している。
ノアの家族も、ロトの家族も、ラハブの家族もすべて「神の声」または「御使い」に導かれて、逃れようもなく訪れたカタストロフィーを生き延びた。
イエスが「あなたがたも同じように滅びる」と、単なる災害死を超えた「滅び」の話へと展開している。それは、究極的に人類の「運命」について語っていることでもある。
聖書が伝える、「世の終わり」を思わせるカタストロフィーからさえ救われた者達がいたように、そこから逃れるみちがあることを、教えている。
実は聖書の大テーマは、大災害からの「救出」または「脱出」でさえある。もっといえば「この世」からの救済である。
「この世」の崩落から救出され「神の国」に入る、つまり「地を継ぐ人々」(マタイの福音書6章)のヒナ形に他ならない。
それは単なる「脱出:エクソダス」などではなく厳かな「神の計画」に入ることを教えている。
ひとつの世界の崩壊は、「新しい世界」の誕生を意味するからだ。
「見よ、わたしは新しい天と、新しい地とを創造する。さきの事はおぼえられることなく、心に思い起すことはない。しかし、あなたがたはわたしの創造するものにより、とこしえに楽しみ、喜びを得よ。見よ、わたしはエルサレムを造って喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。 泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない」(イザヤ書65章)とある。

イスラエルの2代目の王ダビデは、幾多の生死をわける「涙の谷」をとおり、それをいくつもの「詩篇」に表した。
詩篇は幾多の苦しみ、恐怖、悲嘆、などからの救いを魂の奥底から謳ったものであり、現代人が読んでも、その「言葉の力」は衰えをしらない。
様々な命の危険と向き合ったダビデの次の詩は、「避けどころ」としての神の存在を実体験をもとにうたったものである。
「いと高き者のもとにある 隠れ場に住む人、全能者の陰にやどる人は主に言うであろう、”わが避け所、わが城、わが信頼しまつるわが神”と。主はあなたをかりゅうどのわなと、恐ろしい疫病から助け出されるからである。 主はその羽をもって、あなたをおおわれる。あなたはその翼の下に避け所を得るであろう。そのまことは大盾、また小盾である。あなたは夜の恐ろしい物をも、 昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒す滅びをも恐れることはない。たとい千人はあなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、その災はあなたに近づくことはない」(詩篇91篇)。
聖書にはダビデのいう「避け所」について「囲い」という表現をしている箇所がある。
旧約聖書の中で、「ヨブ記」の不条理な苦しみにあうヨブについて書いてある。
それは、天界と思われる世界の話から始まる。
ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。 神が「あなたはどこから来たか」と聞くと、サタンは「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」と答えた。
神がサタンに「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」と問うと、サタンは「あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです」。
次にサタンは恐ろしいことをいう。
「しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」と。
すると、神はサタンに「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」といった。そして主の前から出て行った。
そしてヨブに次々に災いがおき丸裸にされた状態になり、奥さんまでもが「神を呪ってし死になさい」とまでいうが、ヨブは神に何ゆえに災いが起きるのかと訴えても、最後まで神をのろうことはしなかった。
ヨブは試練の中で次のように語っている。
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。 主のみ名はほむべきかな」。
このように、すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。
結局ヨブは、すべての所有物も回復され、家族にも恵まれることになる。神が目に見えぬ囲いで守られていたことを、ヨブは試練を通して学ぶこともできたのではなかろうか。
また新約聖書には、イエスはが信徒を羊にたとえ、ある種の「囲い」の中で養い守ることが描かれている。
「よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。門からはいる者は、羊の羊飼である。 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」(ヨハネ福音書10章)。
ところで、旧約聖書と新約聖書の違いは、前者が神の声や御使いに導かれ「救出」されるのに対して、後者が信徒の内に宿る御霊(聖霊)に導かれて「救出」されるということである。
つまり、イエスの十字架死後50日目(ペンテコステの日)に、天に昇ったイエスにかわって聖霊が下り、救われた者を「導く」ことを保証しているのである。
この保証は、イエス自身が次のように述べている。
「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは真理の御霊(みたま)である」(ヨハネの福音書10章)。
イエスは、こうした「囲い」の中にあるかぎり、サイコロに支配される世界とは異なることを教えている。
では「囲い」の中にあるとはどういうことか。
聖書の主題は神の導きに従って歩めということであり、神の名の囲いの中では、少なくとも誰彼となくおそう無慈悲な災害からの「避けどころ」になるということだ。それは「この世」の崩落から救出され「神の国」に入る、イエスによる山上の垂訓の中の「地を継ぐ人々」のヒナ形に他ならない。
聖書を読む限り、この世にあって神の名の「囲い」に居るかぎり、サイコロの目の出具合にかかわらず、神の庇護のもとにある。
「人はくじをひく、しかし事を定めるのは全く主のことである」(箴言16章)。

果たして、世界は究極的に「さいころ」の出具合だけ決まる量子論的世界なのか。
聖書は、次の言葉はそれを否定している。
「人はパンのみに生きるにあらず、神からでるひとつひとつの言葉によって生きる」(マタイの福音書4章)といことである。 マルチンルター作詞の賛美歌となり、あまりにも有名である。
「 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐら」(詩篇18篇)。
そして「新約」では、神の導きは、前述のような「御霊の保証」にもとずくものである。
「あの時には、御声(みこえ)が地を震わせた。
しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
このように、わたしたちは震われない国を受けているのだから、感謝をしようではないか。
わたしたちの神は、実に、焼きつくす火である。//”
23:1 (ダビデの歌) 主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。 23:2 主はわたしを緑の牧場に伏させ、 いこいのみぎわに伴われる。 23:3 主はわたしの魂をいきかえらせ、 み名のためにわたしを正しい道に導かれる。 23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、 わざわいを恐れません。 あなたがわたしと共におられるからです。 あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。 23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、 わたしのこうべに油をそそがれる。 わたしの杯はあふれます。 < 23:6 わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。 わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。 新約聖書にも幾多の災いに見舞われた人々が登場する。
パウロは、ローマの皇帝に弁明のために兵卒にともなわれて護送されるが、途中で嵐に見舞われる。
しかし、「神の導き」を知っていたパウロ一人、嵐の中で大揺れする船中で「平然」と振舞っていた。
使徒行伝27章にその経過は次のように書いてある。
”//パウロは言った。「だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。
昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使(みつかい)が、わたしのそばに立って言った、 『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。
.だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。 われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」。// ”
実際にパウロがいうとうりマルタ島に打ち上げられるが、ローマの兵卒も船乗りも怯えきり、「囚人」から励まされるとは、なかなか面白い話の展開である。
またパウロは、マルタ島でヘビにかまれ、原住民から命運つきたか、いつ死ぬのかと恐る恐る見守られたが、「神の導き」の確証を握っていたパウロは、ヘビを払いのけ、なんら苦しむ様子も見せず、島民から反対に「神だ」と崇められる始末である。
この出来事は「マルコによる福音書」16章にある、次なるイエスの言葉を思いうかべる。
”//「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。//”
またパウロには、迫害のために獄屋に入れられたが、大地震のために獄屋の扉が開いてしまったエピソードがある。
この出来事の顛末は、「使途行伝」16章に次ぎのように書いてある。
"//獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかとかけておいた。
真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。
ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。
獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた。 そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。
すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。
ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
それから、彼とその家族一同とに、神の言(ことば)を語って聞かせた。//"
ここでも、パウロやシラスという囚人によって、獄吏の家族が救われるという、予想外の展開が起きているのである。
振り返ればパウロ自身、ステパノを殺すなど信徒を捕縛する側にあったのだから、その生涯の「大転換」も興味深いと