津屋崎千軒と恋の浦

福岡から北九州に向かう玄界灘に面した宗像および福津の海は、2017年に世界遺産「神宿る島宗像・沖ノ島と関連遺産群」を含んでおり、今なお神秘を秘めている。
最近TVで、宗像の神湊(こうのみなと)に乗馬クラブ(カナディアンクラブ)が紹介されていて、そのコースに玄界灘の風景があった。
昔TVでみた時代劇「暴れん坊将軍」の冒頭、「徳川吉宗」扮する松平健が白馬に乗って将軍が登場する海岸の風景が登場する。
富士山もくっきり見えたのが思い出されたが、そこは日本三大松原として名高い三保の海岸であった。
さて、福津市の津屋崎の町史に「神代に放ち給うた馬の牧跡」があり、渡半島には牧場があったようだ。
津屋崎町には、黒田藩の殿様が住んでいて、渡(わたり)半島の「恋の浦」の地名も、この殿様が「ひと役」かっている。
宮崎県の都井岬にみるように、馬を飼うのには囲いのいらないこのような島や半島が最適だったようだ。
渡半島の小高い丘にできた「恋の浦ガーデン」あたりは、多くの馬が放牧されていたに違いない。
地元の言い伝えによれば、昔大陸から牧の大明神ちかい京泊(きょうどまり)に馬を陸揚げして、渡の山に放牧して調教し、日本国内に積み出したという。
平安時代の日宋貿易の頃、中国や朝鮮半島からもたらされる薬や珍品の人気が絶大だったようだ。
この津屋崎にはかつて「唐坊」というチャイナタウンがあり、その遺跡にあたる「在自(あらじ)西遺跡」の展示館が、津屋崎小学校の敷地内に存在している。
さて江戸時代に関ヶ原合戦後に筑前国福岡に入封した初代藩主・黒田長政は、国境を守る為に六つの出城ををつくり、各々に重臣を派遣した。
1615年に幕府より「一国一城令」がでて、出城は廃棄されるが、例外的に残された場所があった。
それは、津屋崎に黒田利則(くろだとしのり/黒田官兵衛の異母弟)が一万二千石で配置され、陣屋屋敷で港の管理をまかされていた。
黒田官兵衛が家督を嫡子長政に譲って如水と号した後、津屋崎を「隠居領」としており、津屋崎の住宅街の中に黒田藩ゆかりの「善福寺」があり、近くに黒田利則の「殿屋敷跡」などがある。
黒田利則は、1561年黒田職隆の三男として播磨国姫路で生まれる。
1577年より羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、1583年の賤ヶ岳の戦いに参戦する。功名を立て、その後は羽柴秀長(秀吉の弟)に転仕する。
1587年、九州平定に秀長軍として従軍し、この頃周防国山口でキリシタンの洗礼を受ける。兄・孝高(官兵衛)が豊前国を拝領すると黒田家臣となり、2000石を支給される。
朝鮮出兵の文禄の役では侍大将として従軍し、一旦帰国後に「養心」と号し、慶長の役の際にも旗本備として参加している。
1600年、関ヶ原の戦いの際には、豊前国中津城の守備に当たり、甥の黒田長政が福岡藩主になると、1万2000石に加増され、宗像郡津屋崎に置かれた。
1612年3月に死去し、那珂郡市ノ瀬村の山上に葬られた。享年52。
さて渡半島の恋の浦から白石浜海岸にいくと「鳴き砂」という浜辺がある。砂がこすれてクックと鳴き声に聞こえるからである。
伴奏は玄海の波音と松風の音であるが、あるとき、ぴったり寄り添った足跡が渚にそって続き、突然波打ち際に消えた。
それは慶長11年(1606年)のことであった。
津屋崎の庄屋藤七の娘かよと、博多の廻船間屋、万屋新兵衛の息子仙吉との間で祝言の話がとんとん拍子に進み、結納もすんで挙式を待つばかりになっていた。
そんなある日、筑前の初代藩主・黒田長政の叔父の養心(黒田利則)が、渡の薬師さまに参詣の帰り途、藤七の家に立ち寄ったのである。
娘の嘉代がお茶を差し上げると、殿はことのほか上気嫌で帰られ、不意のご入来に粗忽があってはと気をつかっていた藤七は、ほっと胸をなでおろした。
ところが四、五日たってから、殿の使いが来て"殿の格別のご懇望により、娘嘉代を殿の介抱付添人として、津屋崎の館に差し出すようにと伝えた。
それからまもたくのこと、津屋崎の京泊(きようどまり)沖に、人気のない一艘の小舟が波間に漂っていた。
付近の漁師が不審に思って近寄ってみると、舟の中に一枚の短冊があった。
「津屋崎の岸に寄る波 返るとも 恋の浦路(うらじ)は行く方もなし ー仙吉、嘉代ー」。
以来、村人たちはこの浜を、「恋の浦」と呼ぶようになった。

津屋崎の町並みから玄界灘へと突き出た半島が渡(わたり)半島で「津屋崎橋」で結ばれている。
津屋崎の町並みは、かつて「津屋崎千軒」とよばれるほどに殷賑をきわめていた。
そのの繁栄の基盤となったのが、江戸時代に「北前船」の寄港地であったかことが大きい。
「北前船」とは江戸時代中期に登場し、明治中期にかけて日本海を航行した木造帆船のことをいう。
船の形は、巨大な帆を張って風力で動く弁才船(べざいせん)で、多くの荷物を比較的安全に輸送できる船として、日本海の海運の発展に一役買った。
北前船は荷物を運んで運賃を得るだけの船ではなく、荷物を買って運んで売る「買い積み」が主体の船であることが特徴である。
例えば、新潟では米は安いけれど北海道では高く売れるとすると、この「価格差」を利用することによって儲けになるが、それは船頭の才覚にかかっていた。
必要なのは、情報収集能力と、商機を読むセンス。
つまり、情報をもとに、どこで何を仕入れ、どこで売るかを考えて航路を描くことが船頭には求められた。
北前船は今で言う総合商社のような役割を担っていて、海上を動く「総合商社」といってもよい。
ひとつの航海で千両稼ぐことも夢ではない反面、難破したら船も荷物も失ってしまう。
まさにハイリスク・ハイリターンの商売だったということである。
そこに、それが一攫千金の北前船ロマンが生まれ、様々な伝説が語り継がれることになる。
北前船は寄港地に着くと、毎回決まった回船問屋に世話になることが決められていた。
世話になるとは、港に滞在する期間に寝泊まりし、商品の売買を仲介してもらうことで、回船問屋は船頭を儲けられるように売り先を選び、また様々な情報を提供して北前船の商売を支えていたという。
内田康夫の『浅見光彦シリーズ』の中に、こうした「北前船」を題材にした小説がある。
辰巳琢郎や沢村一樹主演でTVドラマ化され、『浅見光彦シリーズ』第三十回の記念ドラマで、津屋崎千軒の町並みが舞台となった。
この原作「化生(けしょう)の海」は、津屋崎が2024年正月に震災に襲われた能登の港町との繋がりがあったことを知る上でも興味深い。
それは、北海道の余市で起きた殺人事件から、北前船の寄港地となった加賀(石川県)から津屋崎(福岡県福津市)へと「謎解き」が展開していく。
殺された男性は魚具組会社の経営者であるが、家族に金策をするために松前(北海道南端)と言い残して旅立つ。
しかしその3日後、男性の遺体がが石川県の橋立港がある海で浮いているのが発見された。
男性は、妻にも娘にも自分の前半生を語ることはなかった。その不可解な死の謎を解き鍵となったのが、男性の遺品の中にあった「土人形」である。
その土人形は、作者を示す「卯(う)」のマークが印字してあった。
「歴史と旅」のルポライター浅見光彦は、死亡した男性の行程を探るうち、松前城資料館で同じ「卯」のマークが印字がある 人形を見つける。その人形は北前船によって運ばれたという。
そして浅見は、この「卯」マークの人形に事件解明のカギがあると確信する。
そしてこの人形の出どころは、浅見の母親の記憶の中から浮かびあがってきた。
浅見の両親が福岡を旅した時に、藍染のいい店があると聞いて津屋崎の町を訪問する。その時に土人形の店に立ち寄って、「卯」マークがあったのを覚えていたのだ。
原作「化生の海」の「津屋崎旅情」の章で、この土人形のについて、現在の「有限会社原田人形店 七代目 原田誠」の話として、次のように述べられていた。
「原田の話によると、津屋崎人形の起源は、いまからおよそ二百三十年前に遡る。当時、津屋崎付近で土器に適した陶土が派遣され、初代卯七という人物が壺やかめなどを作る傍ら、素朴な人形や動物を作ったのが始まりとなった。以来、現在に至るまで技法と古型が受け継がれつとともに、何代にもわたって研究と改良が加えられてきた。卯三郎(四代目)はその歴史の中の”中興の祖”といった存在であったようだ。江戸期から明治にかけて、津屋崎港が北前船などで賑わっていた頃は、最も人気のある土人形として珍重された。希少価値もあって、値段も決して安くなかったが、需要に追いつかないほどの売れ行きだったという。その後、港は寂れたものの、津屋崎人形の声価は衰えることなく、行楽客ばかりではなく、遠い地方からの注文も絶えなかった」。
原田人形店・現当主の話からも、北前船の寄港地で「卯マーク」の土人形が置いてあったとしても不思議ではない。 こうして北海道から石川、福岡と「北前船」の寄港地を結ぶ歴史ロマンを盛り込みながら、物語は進んでいく。
ちなみに小説の中で浅見の両親が訪問した藍染屋は、当時の古民家の佇まいを残したまま、「津屋崎千軒」の観光案内として利用されている。
「津屋崎人形」は、古博多人形の流れを汲む土人形で、素朴さと鮮やかな色彩が特徴で、平成21年9月に、福津市の優れた工芸品として「福津の極み」に認定されている。
代表的な作品「モマ笛」は、愛くるしい表情をしたふくろうをかたどった笛で、「モマ」とは、津屋崎の方言で「ふくろう」という意味する。
「津屋崎千軒」の町並みを歩くと意外な歴史の一端にふれることができる。それは町並みの一角に「新泉岳寺」という寺があり、東京の「泉岳寺」に模して赤穂浪士47士の墓がある。
「新泉岳寺」は1913年、津屋崎の実業家、児玉恒次郎が東京・高輪の赤穂浪士の墓がある岳寺から寺号と墓砂を分霊として譲り受け、四十七士を祀ろうと建立した。
そこで目に付いたのが相撲力士の墓。墓碑の表面には「東京相撲 沖ツ海墓 東ノ関脇」と白色で3行に刻字されている。
沖ツ海の本名は北城戸福松(きたきどふくまつ)。1910年5月28日、福岡県宗像郡南郷村(現宗像市)大穂の北城戸房吉の二男として生まれた。
1932年3月場所には9勝1敗で初優勝した。
翌場所、東の関脇となり、大関昇進も期待される有望力士だったが、1933年9月30日に巡業先の山口県萩市でフグ料理の中毒で急死した。まだ23歳の若さだった。
新泉岳寺にも墓碑が建てられたのは、沖ツ海が15歳の時に親もとになって一切の世話を引き受け、相撲界へ入門させた児玉恒次郎が、「郷土の誇り」として語り継ぐ記念碑として残したかったからだろう。

豊臣秀吉が1587年に九州遠征をし、最大勢力・島津氏を屈服させると、その軍師・黒田官兵衛孝高は今の豊前12万3千石を拝領して中津城を居城とした。
この中津の地には戦国時代より、現在の栃木の地から出た宇都宮家が、「城井氏」という名で国人として勢力をはっていた。
そこで、黒田氏と国人・宇都宮氏(城井氏)との争いは自然の成り行きであったともいえる。
黒田官兵衛の主人にあたる関白・秀吉は、「九州制圧」にあたり宇都宮氏に完全服従を求めるが、宇都宮氏は鎌倉以来の「名族の誇り」からか秀吉への謁見を「長男」に代行させ、伊予今治への「国替え」の命にも従わなかった。
そこで秀吉は、黒田官兵衛孝高に「宇都宮氏討伐」の命令を出すのである。
1589年、秀吉より宇都宮鎮房に中津城で、後に黒田藩の初代藩主となる孝高の子・長政と対面せよという教書がくだった。
その時、黒田長政は「政略結婚」の話で鎮房を誘い出し飲食を供し、その最中ヤニワに鎮房を殺し、合元寺に待たせてあった鎮房の手勢には軍勢をさしむけて皆殺しにしたのである。
合元寺はその後、門前の白壁を幾度塗り替えても血痕が絶えないくなり、ついに「赤壁」に塗られるようになったという。
現在も塀の壁は全面に真っ赤な色で塗られている。
また、当時の激戦の様子が今も庫裏の大黒柱に刃痕が点々と残されている。
官兵衛の息子・黒田長政は福岡城に「城井神社」を建立し宇都宮鎮房の霊を慰めたが、この出来事はその後も長く福岡に影をなげかける。
黒田藩は六代にしての血統が「断絶」し、その後・「親幕」藩主を迎えるにあたっての家臣団間の「血ぬられた争い」と処分(栗山大膳処分)やら、最後の藩主・長知の「贋札作り」の発覚による処分など、暗く不穏な出来事が続いていく。
そして、その度ごとに「宇都宮氏の呪いか」とささやかれてきたのである。
ところで、福岡で一番よく知られた一族といえば「麻生家」である。
近年、内閣総理大臣も出した麻生家は、安川家、貝島家とならぶ「炭鉱御三家」とよばれるが、麻生家の歴史は古く中世にまで溯る。
麻生家は中世期に遠賀郡に所領を得て、幕末には飯塚の立岩村、下三緒村などの庄屋、大庄屋を務めた。炭鉱経営資料を含む「麻生文書」を伝えてきた家柄である。
その「系図」を見て驚いたのは、麻生家の血筋は、傍流ではあるものの、あの宇都宮氏と繋がっているのである。
それを示す「筑前国続風土記」に「後鳥羽院建久五年、宇都宮上野介重業おいえる人、筑前国の内三千町を給わりて、此の地に下り、遠賀郡麻生郷花尾城を取立、後に帆柱をも城に築けり、是よりして宇都宮氏を改めて麻生氏と称す。是遠賀郡麻生氏の元祖なり」と記されている。
さて、津屋崎千軒の町並みから津屋崎橋を渡ると大峰山(標高114m)がある。
山頂には日露戦争で日本海海戦を勝利に導いた東郷平八郎の指揮の戦艦「三笠」を型どった塔が立っている。
大峰山の展望所からは、すぐ左手に朝鮮通信使の寄港地で、最近ではネコの島で世界でもしられるようになった「相島(あいのしま)」をみることができる。
また右手には「筑前大島」があり、故安倍首相が自らルーツとした平安時代の東北の豪族・安倍宗任の墓がある。
要するに筑前大島は、「島流しの地」であり、遠藤周作「沈黙」で「ロドリゴ神父」のモデルとなったジュゼッペ・キアラ神父が上陸、捕縛された地でもある。
大峰山からは、神宿る島「沖津島」を遠くに確認することができ、その大峰山の中腹に「麻生家の別荘」があり、現存している。
津屋崎橋から左接するとヨットハーバーがあり、そのすぐ先に北九州津屋崎病院跡地となっている。
そこから降りた海岸沿いに石塁で築いた堤防を確認できるが、ここが「活洲場(いけすば)跡」だという。
1907年、渡の醤油醸造家・占部太平を社長に、筑豊の伊藤伝右衛門 、麻生太吉など炭鉱経営者が株主となって創立した「津屋崎活洲会社」が、渡半島南端・曽根の鼻に延長約240mの突堤を築いて約2,300平方mの活洲場を造った。
「活洲場跡」は、活洲の遊覧と活洲料理を開業、3年間来場者で賑った跡地である。
伊藤伝右衛門は、「嵐」出演のCMで有名になった「光の道」が見渡される宮地嶽神社の「弐の鳥居」(渡の石工が制作)の寄贈者であることからも、この地に少なからぬ足跡を見出すことができる。

【ストーリー】 ルポライターの浅見光彦(沢村一樹)は、旅雑誌「旅と歴史」で北前船の歴史を辿る取材で北海道へと向かう。余市にある「北海洋酒」の蒸留所を訪れ、ガイド嬢として働いていた三井所園子(石橋杏奈)を見かけた光彦。半年前に出会っていたこともあり、タイミングを見計らって声をかけようとすると、北陸中央新聞加賀通信局の記者・山科三郎(渡部豪太)が「彼女に何の用だ」と、割って入った。山科の話によると、園子の父・剛史(新井康弘)は、娘を大学に行かせるための金策に出かけ、その2日後に石川県・橋立で遺体となって発見された。縁もゆかりも無い橋立へ向かった理由は家族にもわからなかったため、警察の事件捜査も進展していない。 光彦は剛史が節代(市毛良枝)と結婚したときに約束したという「いつか必ず船主になる」という言葉と、大切に保管されていた土人形を包んであった「引き札」(=チラシ広告)を手がかりに園子と橋立を訪ねた。北前船が隆盛を誇った江戸時代後半から明治時代の前半に橋立は「北前船」の寄港地として栄え「引き札」はその船主のものだった。 加賀・ひがし茶屋街で偶然にも母・雪江(佐久間良子)と遭遇した光彦と園子。雪江の話によると、土人形は九州・福岡県の津屋崎人形だと判明する。津屋崎に出向いた光彦は、老舗の人形店を訪れ古い顧客名簿から、人形を買った北前船の船主・宇戸という人物から、現在の宇戸水産へとたどり着く。宇戸水産社長の宇戸武三(竜雷太)と剛史とは釣り仲間でもあった。これで関連性が見えたが、宇戸は「津屋崎人形を知らない」という。その謎の鍵は剛史のルーツにあると考えた光彦だが、たっての希望もあり、その調べを山科に任せた。しかし、山科が一つの確信を得て「加賀に戻って確認したいことがある」と光彦に告げた後、遺体となって発見されてしまう。