最近、日本を明るくするニュースといえば、オリンピックやメジャーリーガーなどスポーツ界での日本の活躍ではなかろうか。
様々なデータに見える国力衰退の中、日本人の誇りを呼び覚ましているのは確かで、選手の凱旋パーレードなどには何万人もの人々が集まる。
それらは、自分の存在と国や民族と結びつける「ナショナリズム的」な心性といってよいだろう。
だが、ナショナリズムはそんな無邪気な段階で収まりがつかない場合もある。ある”臨界点”を越えると、どうにも止められないほどに過激化していく恐ろしい一面である。
そんなナショナリズムの心性を知るうえで、アメリカの政治学者ベネディト・アンダーソンのいう「想像の共同体」(1983年)が参考になる。
アンダーソンに
よれば、国民は家族や会社とよれば異なり、それを構成する個人は他の大多数のメンバーのことを知らず、間接的に知る機会すらもたず、一生会うこともない。それなのに、国民は想像の中では生々しいリアリティーがあって、深い同胞意識によって連帯し、人は時にそのために死ぬことさえもある。
アンダーソンはそんな想像上の国民がどのようなプロセスで生まれたかを考察した。
彼が見いだした要因はいくつかあるが、最も有名なのは「出版資本主義」。
”俗語”つまりラテン語のような知識人の宗教語・学問語ではない、普通の言文一致の文章の出版物が、資本主義的な企業家を通じて普及したことが重要なポイントだという。
例えば自分が毎日読んでいる新聞を、他の人も同じように読んでいるに違いない。毎日、「同じ情報源」にアクセスしている人々を容易に想像できる。
それぞれに、意見や印象の違いはあるにせよ、少なくともそこから情報を得ている。
行先が違っても同じプラットフォームにいるという感覚である。
アンダーソンは、この読者の想像の共同体が国民の範囲にほぼ該当すると述べている。
アンダーソン同様に「国民国家」を考察したのが福沢諭吉である。
福沢諭吉は、「学問のすすめ」で、少数のエリート層を除く人民の大多数が、国のことに無関心な「客分」のままであれば、外国と戦争が起きても戦うどころか逃げ出しかねないと危惧している。
それでは明治維新まで自らの身分や土地に縛られ、政治への関与も禁じられていた「客分」の大衆が、どのようにして「国民」へと変容していったのか。
一般に近代国家において、政治的責任を負う立場にない劣位の人々がいれば、勝ち負けはどうでもよく戦争遂行の主体的な担い手になろうとする内面的な動機が欠如するからだ。
つまり、差別された人々が存在し、意識に垣根があれば総力戦は戦うことはできない。
つまり、”平等主義”は、ナショナリズムのひとつの特徴なのだ。
ナショナリズムの特徴は「我々国民」とそれ以外の国の人々を区別する要素と、「身内の国民はみな平等」という普遍主義の共存にあるといえる。
身分制の廃止や人権の確立、普通選挙制、教育の機会平等は、ナショナリズムの前提といってよい。
ヨーロッパで「国民国家」が生まれるのは、1848年の2月革命が契機となるが、出版の拡大や産業革命以降の労働者の選挙権拡大など平等の理念が広がった時期でもあり、アンダーソンの考察には十分に説得力がある。
アンダーソンの考察を裏返せば、今日の国家の分断は、新聞やテレビを情報源とするのでなくSNSの普及や貧富の格差の拡大であるということになる。
国民は、想像の中で生まれ、想像の中にのみ実在しているというアンダーソンの言葉がよくあてはまるのは、アメリカような「人工国家」ではなかろうか。
アメリカは様々なアイデンティをもつ人々が移民し建国した国だからだ。
こうした国が「ひとつ」になるのに何が必要なのだろう。
アンダーソンの論旨にそえば、「建国の父」の一人とされるフランクリンが、出版人であったことは偶然ではない。
またトマス・ペインは、誰にもわかる言葉で「コモンセンス」をパンフレットの形式で発表した。
この政治パンフレットは、資本主義的な印刷技術を用いてベストセラーとなったものである。
「コモンセンス」にはある種の「物語」が語られているとみてよい。それは「アメリカに居住する人々の」という副題がよく表しているように、ヨーロッパの身分制や迫害から逃れてきた人々の物語ということだ。
その内容はおおよそ次のとおり。
イングランドの君主制はノルマン・コンクエスト以来の君主制たちの覇権を正当化したにすぎない。王権に都合がいい仕組みである。それはアメリカ人の常識ではない。人間は生まれつき平等なのだから、アメリカは自信をもって自分たちの主張を正当化しよう。
イングランドからの独立こそがアメリカ人のコモンセンスなのである。
「コモンセンス」は簡潔だが浸透力のある物語であり、イギリスからの独立に躊躇していた人々もこの小冊子に勇気づけられ、自分たちの主張に自信をもつようになったのである。
そして1776年7月に「コモンセンス」の論旨を活用して、独立宣言を発表し独立戦争に突入した。
また、アメリカ建国の物語は、ロックの「社会契約論」の実証舞台でもあった。
イギリスに対抗しアメリカ独立に参戦したラファイエットなどのフランスの貴族を通じて、その精神はヨーロッパに「逆輸入」されフランス革命などに生かされた。
フランスの人権宣言が「自由・平等・財産権の保障」だったのに対してアメリカの独立宣言が「自由・平等・幸福追求」であったという微妙な違いは興味深いところである。
アメリカの建国が「幸福追求」を理念とするならば、今日のように白人労働者やマイノリティーの多くがそれができないいと感じるようになった時、「反エリート」主義を媒介して「分断」が進行していったようにも思える。
ところで「人工国家」といえば、ヨーロッパにもそれが幾分あてはまる国家がある。
遡ってローマ帝国時代、ライン川とドナウ川は「リーメス」とよばれた国境の役割を果たしていた。
その両河川から北方に広がる森林地帯のことを「ラテン語を離さない人々の住む場所」とよび、その呼称が「ドイチェ」(共通語)なのである。
この森林地帯には、「プルーセン人」と呼ばれる人々がいて、後に「プロイセン公国」が出来上がることになるのだが、その発端は、十字軍時代に遡る。
第一回十字軍(1096~99)は、幸運にもイスラム帝国(セルジューク朝)の内紛に乗じて勝利をおさめ、エルサレムを占領した。
そしてエルサレム王国を始めとする、いくつかの「十字軍国家」をつくり、この王国の守りとエルサレムを訪れる巡礼者の安全のために、いくつかの「騎士修道会」(宗教騎士団)がもうけられた。
その代表が、「テンプル騎士団」と「聖ヨハネ騎士団」であり、ドイツ騎士団(チュートン騎士団)もやや遅れて、エルサレムにやってきた。
この騎士団長ザルツアーは、ドイツの神聖ローマ皇帝フェデリニーコ二世の幕僚となり、次のような「金印勅書」を受ける。
「十字軍は異教徒を征伐することであるが、別にエルサレム近辺にこだわる必要はない。北方にプルーセン人という異教徒がいる。ドイツ騎士団は彼らを改宗させよ。抵抗すれば攻撃し、その国を滅ぼせ」。
これにより、ドイツ騎士団はプルーセン人が住んでいる領土を切り取ることを公的に認められたのである。
そしてその領土は「プロシア」とばれるが、ポーランド・リトアニア連合王国(ヤゲロー朝)との戦いに敗れ、外交権はヤゲロー朝が握られたままの状態で「プロイセン公国」と称する。
1618年、30年戦争が始まるが、この年にプロイセン公国では後継者が絶えた。
このときプロイセンは、馴染みの深かった「ホーエンツォルレン家」に領土を献上した。
というのも、ドイツ騎士団の祖先がフェデリーコ2世(ホーエンシュタウエン家)に仕えていたという縁で、後継者を依頼したのである。
この時、ホーエンツォルレン家はドイツの中心部ライン川の流域から、遠く離れた「ブランデンブルク辺境伯」であった。
ちなみにベルリンはブランデンブルク辺境伯が開発した都市で、後に「プロイセン王国」の首都となる。
一般にヨーロッパ諸国は、国や民族をあらわす名から、言語の名前がつけられている。
フランス人(国)→フランス語、スペイン人(国)→スペイン語なのだが、ドイツだけは→の方向が違う。「ドイツ語→ドイツ人(国)」なのだ。
「ドイツ」という言葉が歴史上に姿を現すのは、9・10世紀以降である。
カロリング王国(フランク王国)が崩壊した時、その東半分に住む人々が用いた言葉によって「ドイツ人」とよばれるようになったのである。
ドイツという言葉はゲルマン語で「民衆の/民衆に属する」という意味で、カール大帝時代にラテン語に対して「民衆の言葉」すなわちドイツ語を話す地域がドイツと呼ばれるようになる。
世界広しといえども、「民衆の言語」という国号を持っている国民はドイツ以外にはない。
そして962年にドイツ語を語る地域を含む、「神聖ローマ帝国」が成立するが、数多くの領邦を含んでまとまりに欠け、近代的な意味で「国家」というものとは、程遠い存在だった。
ドイツをひとつにしたのは、アメリカが「コモンセンス」に描かれた物語であったのに対して、「メルヘン」や「ファンタジー」であった。
童話作家として世界的に有名なグリム兄弟はドイツのグリム兄弟が収集した「童話集」は、アンデルセンの創作童話とは違い、古い伝承や民話の聞き取りなどの方法で収集したものに手を加えたものである。
グリム兄弟は、昔話の中に脈打っているドイツ民族の心の鼓動を蘇らせ、民族としての自覚と誇りを取り戻すことを学問的な使命とした。
ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟は、法律家を父にもち、ドイツのハーナウの裕福な家庭に生まれた。
グリム兄弟は1796年に父親が肺炎で死去し困窮に陥ったが、伯母の援助により二人はギムナジウムに入学し、それぞれが首席で卒業、そろってマールブルク大学法学部に進学した。
大学でドイツの古文学や民間伝承の研究に目を向けるようになり、二人そろって名門ゲッティンゲン大学の教授となる。
ゲッティンゲン大学は、ハノーファー選帝侯ゲオルク・アウグスト(英国王としてはジョージ2世)によって1737年に設立された。
ただ1837年にエルンスト・アウグストの政策に異議を唱えた7人の教授が追放ないし免職となった事件に、グリム兄弟も連座してしまう。
1840年に兄はベルリン大学教授となるが、弟ヴィルヘルムはベルリンで、より自由な立場で著述活動を行った。
歴史上の兄弟は大概仲がよくないが、二人は同じ道を互いに足りないものを補い合いながら、生涯離れることなく歩んだ。
ヤーコプは万巻の書をがむしゃらに読破し、無謀とも思えるプランでも大胆に構想するタイプ。一方、弟ヴィルヘルムは、詩人のような語り手で、音楽と絵の才能があり、学問では手を広げず、細心な優美さでモザイク師のような仕事をした。
そして童話集を収集したのは兄の方であったが、仕上げたのは弟の方であった。
18世紀の終わり頃から民謡や民話や伝説の価値を認め収集しようという機運はすでに起こっていたが、ナポレオン戦争で悲境のドン底にいたドイツ国民に、「誇り」をあたえ、国民をひとつにする役割を果たしたのである。
こうしたグリム兄弟の努力によって我々は、「赤ずきん」「シンデレラ」「ヘンデルとグレーテル」などの「人類の宝」を手にすることができるのである。
グリム兄弟が当初企図した「ドイツ精神の覚醒」をはるかに超え、世界中の人々の魂を穏やかに鼓舞することとなったのである。
18世紀の後半から19世紀にかけて、ヨーロッパは大きく揺れ動いた。
しかし、メルヘンやファンタジーだけで人々でドイツがひとつになることはできなかった。
19世紀の終わりごろのフランス革命とそれに続くナポレオン・ボナパルトによるドイツ占領は、ドイツに「ナショナリズム」の高揚をまねくことになる。
ナポレオンによって、フランスは国土を半減させられるほどの打撃を受けた。
しかしプロイセンはフランス革命とナポレオンが実現させた「ネーションステート」(国民国家)の思想を学んだ。そしてビスマルクプロイセンを強国に押し上げていく。
ビスマルクがプロイセン首相になった頃、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ1世が、第三代のオーストリア皇帝についていた。
ハプスブルク家の当主は、ドイツ王であり神聖ローマ皇帝であることがそれまでの通例であった。
しかし1804年、ヨーロッパを席巻したナポレオンが「皇帝」を名乗ったので、当時の神聖ローマ皇帝であったフランツ2世は、神聖ローマ
皇帝の名前を放棄し、「オーストリア皇帝フランツ1世」として改めて即位したのである。
神聖ローマ皇帝はドイツ王であったが、そのドイツはナポレオンに蹂躙されており、「ドイツ王」という呼称自体が無意味となっていた。
初代オーストリア皇帝となったフランツ1世は、身をもって「神聖ローマ帝国の消滅」を示したということになる。
ただ、神聖ローマ帝国が消滅したあとも、全ドイツの中心としてオーストリア皇帝の存在と権威を認める勢力が存在していた。
そこでビスマルクはオーストリアを打倒し、プロイセン主導でドイツを統一することが、ヨーロッパの覇権を握る第一歩だと考えた。
ビスマルクは「ドイツ統一 は軍隊(鉄)と戦争(血)によって成し遂げられる」という「鉄血政策」、プロイセン=オーストリア戦争に勝利する。
そして「ドイツ連邦」を解体し、1886年プロイセンを盟主とする「北ドイツ連邦」を結成した。
つまりオーストリアとハプスブルク家はドイツから締め出された結果となる。
しかし南ドイツにはドイツの中でもプロイセンに従わないバイエルンなどの小国家が存在した。
そこでビスマルクはフランスを挑発し、周到な準備をしたうえで戦争をしかける。
罠にかかったフランスがドイツに宣戦すると、ビスマルクはフランスを「共通の敵」にして、南ドイツの国々を戦争に巻き込んでいく。
プロイセン=フランス戦争に勝利したビスマルクは、ナポレオン3世を捕虜にするなどして勝利し、南ドイツを合わせてドイツを盟主とする「ドイツ帝国」の成立を宣言した。
「ドイツ帝国」の宣言は、1871年なんとフランスのベルサイユ宮殿「鏡の間」で行われた。
ドイツはこうしてナポレオンによって受けた屈辱を晴らした。
ところで、国民をひとつにする大きな要素は過去の「屈辱感」および将来の「危機感」といえる。
特に内部分裂が起きそうな時、多くの国家の指導者は「危機感」をあおり、時には戦争に突き進むことさえいとわない。
近年、アメリカをはじめ分断がすすみ、共同体としての自然な想像力さえが失われつつある。
そんな状況はたちの悪いプロパガンダやナショナリズムを生む土壌となりやすい。