TVドラマ「セクシー田中さん」の原作者である漫画家・芦原妃名子さんの急死につき、ある漫画家が「脚本家との関係」について語っている。
「脚本家が現れ勝手な創作をして頼みもしてない自己表現する。その結果は実に奇妙なものに変質する。産んだ世界が破壊される苦しみは、作者しか判らない」。
原作者の芦原は制作サイドに、当初から漫画に忠実に再現してほしいという要望をだしていた。
そもそも漫画が未解決で完結していないので、ドラマについても自分自身が携わらせてほしいと当初から再三伝えていて、制作サイドもそれで了承していた。
ところが番組がすすむにつれ、制作側と原作者との間で乖離が生じて、ぬきさしならぬ状況になったようだ。
個人的な話だが、ある講演会で「原作と脚本」の問題にふれた話を聞いたことがある。それは、作家で詩人でもある青木新門の「いのちのバトンタッチ」いう講演であった。
副題は「~映画”おくりびと”によせて~」であったが、青木新門は映画「おくりびと」の元となった「納棺夫日記」の作者である。
当時、歌手の森進一が「おふくろさん」の歌詞を変えて歌ったことが、作詞家を激怒させた事件もあった。
今から30年ほど前に青木宅に、俳優の本木雅弘から突然電話があった。今度出すインドを旅した時の「写真集」に、青木の「納棺夫日記」の文章を入れたいが、かまわないかという内容だったという。
青木は、どこで「納棺夫日記」を読んだのか不思議に思いつつも、まったくく問題ないのでご自由にどうぞという返事をした。
「納棺夫日記」は1993年3月に自費出版したもので、わずか500部しか出していなものだった。
後で知ったところでは、本木はインドで「納棺夫日記」を読んだ観光客と会ったのだそうだ。
しばらくして、本木の「写真集」が送られてきた。
本木が上半身裸になってガンジス河の中に足を入れて、手の上に菩提樹の葉っぱに蝋をつけ、火を付けて流そうとしている写真があった。
それは日本の精霊流しのようだが、その写真の傍らに「そのウジもいのちなのだ。そう思うとウジたちが光ってみえた」という「納棺夫日記」の言葉が引用されていた。
当時26歳の本木が、ウジが光って見えたという文章を選んだということに驚きを感じた。
実は、その言葉こそが「納棺夫日記」の主題だった。
煙があるところに、物乞いがいて、犬が歩いて、猿がいて、牛が座っていて、牛の糞がいっぱいある。
汚いというより、生も死も混沌とした世界である。
本木はその風景に「ウジが光って見えた」という文章を引用しだのだ。
それから2年ほど青木のもとには何の音沙汰はなかったが、本屋で「ダヴィンチ」という雑誌の表紙に本木がでていた。
本木が本をもってソファーに横たわって「この本を映画化したい」という見出しがでているのだ。
手元の本をよく見るとそれは青木の「納棺夫日記」に外ならなかった。
早速、青木は本木に手紙を書いた。
葬式や納棺などの場面を映像化すると暗くて重いものになる。
一般の方に見てもらうには、伊丹十三監督の「お葬式」のようなやや茶化したものでないと見てもらえない。そんな映画にだけはしてもらいたくない。しかしインドで感じた本木の「ウジが光って見えた」という「視点」なら映画化できるかもしれない。
いっそ本木が一人でやってはどうかと書いた。
ちょうどチャップリンの「ライムライト」のように。
本木は青木が映画化を「許可した」ものと解釈したのか、とても達筆な「返事」をくれた。
自分は一介の俳優でしかない。監督もできなし、脚本も書けないが、とにかく頑張ってみますと書かれてあった。
それから5~6年音沙汰もなかったが、後で知ったことによれば、その間本木はいろんな映画関係者に「映画化」の話をしたけれども、断られ続けていた。
そんな中ただ一人、中沢敏明というプロデユーサーが興味を示した。
本木の情熱に後押しされた中沢のはたらきかけで、いくつかの企業が資本をだした「制作委員会」というものが出来たのだ。
そして、しばらくして青木の処に「脚本」が送られてきた。脚本を読んだ青木は正直なところ、がっかりしたという。
青木の本は「立山に雪がきた」という書き出しだったが、シナリオの最初に出てきたのは鳥海山で山形が舞台になっている。
映画の舞台が浄土真宗で占められた富山ではなく、真言宗の多い山形である。
最後の場面では「人間愛」で終わっていて、「後生」(来世)の一大事の観点ははない。つまり「おくりっぱなし」なのである。
宗教的なものは全部外されていて、少なくとも青木が思うところとの「着地点」とは違うと思った。
制作委員会に手紙を出して「修正」をせまったが、全部決定しているので直すわけにはいかないというすげない返事だった。
ただ原作者としての「青木」の名前は外してくれと言ったが、勝手に「著作権放棄」なんてしまっては、社会の商業秩序に反すると言われた。
しばらく経って、本木から突然「一度お目にかかりたい」と電話があった。
今用事で会う時間がないと嘘を言ったら、今富山のホテルにいるという。断ることもできずに、小さな小料理屋で会うことにした。
その小料理屋の女将が本木を見ると興奮して、注文もしていないのに豪華な鰤の刺身を持ってきた。
しかし本木はその刺身の前で正座したまま箸をつけずに、1時間くらい背筋を伸ばして座っている。
今時こんな礼節を知る若者もいるのか感心し、脚本のことはどうでもいいという気がしてきた。
青木が、「映画は映画、本は本ということでいい。それで手を打ちましょう」と言うと、本木はやっと刺身に手をつけてくれたという。
数年後、本木から「完成試写会」の案内と一緒に招待券が一枚入った封筒が送ってきた。
青木は、有楽町館の映画館で「試写」を見て、お棺とか死体を扱いながらも、あれだけ美しい映像に仕上がっていたことに感動したという。
何よりも満足したことは、映画の題は「おくりびと」となっていて、どこにも原作者である青木の名前が無かったことであった。
そしてしばらしたある日、青木のもとに本木から電話があって「アカデミー賞外国部門賞にノミネートされました」という喜びの声であった。
ノミネートだけで名誉とされるのに、青木はつい「絶対オスカーとりますよ」と言ってしまった。
アカデミー賞・受賞決定の報告に、青木は世の「商業主義」に屈せず、あきらめずにこの作品を完成させた本木に、心底「敬意」を表したいと思った。
しかし青木にとって、「おくりびと」が映画作品としてどんなに素晴らしいとしても、「納棺夫日記」とはどうしても一線を引かざるを得ないものだった。
それは「おくりびと」において、「後生」(来世)という一大事が完全に削除されてしてしまっているということである。
だからこそ原作者「青木新門」の名前を外してもらったのだ。
青木は1937年、富山県黒部近くの入善という村で生まれた。5 歳で旧満州に渡り、奉天( 現瀋陽)で暮らした。
父はシベリヤへ行き、8 歳の時終戦となった。妹は4 歳、弟は1歳半であった。
父はシベリアに行ったので、母と4人で、難民キャンプに収容されたが、弟はすぐに死んだ。
キャンプでは発疹チフスが蔓延し多くの人がなくなった。母も罹病し隔離され、やがて妹もなくなった。
青木は、誰かが焼かれている時に、妹の死体をそっと「焼き場」に置いてきた体験があった。
今から10年前、アメリカの写真家・ジョー・ダネルが長崎で「我が心良くて殺さずにあらず」という写真展を開いたことがあった。
ジョー・ダネルはGHQの一員として日本にやてきたが、終戦後の日本の風景をひそかに撮っていた。
青木は、その写真展の片隅にある写真を見たとき、動けなくなった。
一人の少年が子供を背負っている写真であるその子供は力なくぶら下がっている感じである。
傍らの「説明書き」を読むと、原爆で亡くなった弟の死体を背負って火葬場の前で「直立不動」の姿勢で立っているのだった。
そのキット結んだ口の少年の姿に、青木は妹の死んだ体を置いてきた自分の姿と重なり、とめどなく涙があふれるのをとどめることができなかった。
それを見ていたダネルが青木に近寄ってきた。
青木はダネルに、中国で「この少年と同じことやってきた」と自身の「原体験」を語った。
ダネルは、その後その少年を探しを会うことを願い、色々と手を回されたようだが、その願いはついにかなわなかった。
ダネルは、晩年は離婚して日本で暮らされたが、放射能の後遺症で亡くなられている。
ダネルは、サイン入りの写真をくれ、その写真は今でも青木の机の上に飾ってあるという。
青木はあることを否定するのは、それに「反する」ものではなく、「似て非なる」ものによって打ち消されると語られている。
青木が、自身の作品「納棺夫日記」と映画「おくりびと」と一線を画し、映画から原作者である自分の名を「外される」ことを願った理由は、両者が相反するものではなく、「似て非なるもの」だったからである。
「おくりびと」は、「宗教性」というものが完全に消された形で、生と死のテーマが提示されていたのである。
映画「おくりびと」は、人の死の不安に対応していないものだった。
「愛別離苦」の悲しみに出あって、如何にして「心を癒す」かというところ以上には進展していない。
人は宗教を見失った時にせいぜい「癒し」を求めるぐらいである。
「おくりびと」は近代ヨーロッパ的人間愛で貫かれおり、その人間愛や山形の美しい自然の風景が「癒し」として表現されていたにすぎない。
癒しなら「娯楽」でも得られるし、そういう意味で「おくりびと」は現代人の感覚にフィットするように作られているといっていい。
青木が「後生」を一大事と実感するようになったのは、「納棺の現場」で死者たちが見せた「安らかな」死顔であった。
それは遺された者たちへの「後生の一大事」を伝えるメッセージであると思うようになった。
青木は、今日のほとんどの人が「今生」を一大事と思っているばかりで、「後生」を軽んじている。
それが「人間中心」の世界観を生み様々な破綻を引き起こしていると語った。
アメリカで、小説「風と共に去りぬ」の陰にかくれたもうひとつのヒット作が、小説「ベンハー」である。
アメリカで200万部を売るベストセラーとなった。
それ以上に映画化により、「ベンハー」は知られることとなった。
原作「ベンハー」の副題が「キリストの物語」であることは、ウイリアム・クラーク博士の「ボーイズ ビー アンビシャス」に、「イン クライスト」の言葉が続くことほどに知られていない。
映画「ベンハー」の原作は、アメリカの小説家ルー・ウォーレスが1880年に書いた小説である。
アローマ帝国支配時代のユダヤ人貴族ベン・ハーの数奇な半生にイエス・キリストの生涯を交差させて描く。
「ベンハー」は1899年に舞台化され、映画の時代が訪れると年に最初の映画化がおこなわれたが、その時代は無声映画だった。
我々はよく知っているウィリアム・ワイラーが監督しチャールトン・ヘストンが主演で、1959に公開されるや大ヒットし、アカデミー賞では作品賞を始めとする11部門で受賞した。あらすじは次のとおり。
メッサラは任地のエルサレムで幼馴染のベン・ハーとの再会を喜び合う。
しかし、二人の立場はエルサレムでは支配者と被支配者。そのことが二人の友情に亀裂を生むことになる。その折も折、新総督グラトスの赴任パレードをベン・ハーと妹のティルザが屋上で見物しているとき、ベンハーが手すり越しに手をのせた古いタイルの破片が落下して危うく新総督にぶつかりそうになる。
ベンハーは親友だったメッサラに総督暗殺未遂の濡れ衣をきせられ、家族離散、自身は当時奴隷以下の扱いの罪人にされる憂き目にあう。
護送中、苦しむ彼に一杯の水をくれた若者がいた。
この若こそがイエス・キリストであることをベンハーはまだ知らなかったが、この出会いによって一時ベン・ハーの復讐心が氷解する。
罪人としてガレー船のこぎ手とされたベンハーは、番号で呼ばれ、船が沈没すれば捨てられる捨て駒の身分だったが、海戦において司令官アリウスの命を救う大殊勲をあげ、彼を見込んだアリウスの養子になる。
その後ベンハーは戦車競走の新鋭として注目されることになる。ユダヤへ戻って家族を探していたベンハーは母と妹が死んだという報に涙し、メッサラへの復讐の鬼と化す。
やがてベンハーはエルサレムでの戦車競走で不敗のメッサラに挑むことになる。
激闘の末、メッサラを倒したベンハーは、母と妹がらい病で隔離されていることを知り、「癒し」を行うと評判の二人を連れて行き、その力にすがる。
それはかつて砂漠で水をくれたイエスとの再会であったが、母と妹は奇跡的に癒される。
映画「ベンハー」には、「戦車での格闘シーン」以外にも、印象的な場面がある。
その再会の場面とは、キリストが十字架を背負ってゴルゴダの丘へと石畳をあえぎながら歩いて行く途中、苦しみに耐えかねて崩れるように倒れるシーン。
その群衆のなかに、ベンハーがいたのだ。そしてベンハーが水を差し出し恩返しをするのだが、ローマの兵卒に強制されて十字架を運ぶはめになる。
実はこの場面、聖書の記述どおり(マルコの福音書15章)で、「クレネ人シモン」といわれる人物がそこに居合わせたのだ。
聖書には、シモンがイエスに「水を差し出す」行為はないものの、このシモンこそは最もイエスの苦悶を最も身近にみた人物で、その後家族もキリストの救いにあずかっている(ローマ人への手紙16章)。
原作者のルー・ウォーレスは、ある時父の書斎で「メキシコ征服史」を見つけ、それが刺激となって「美しき神」という小説を書き始めた。
そのうち、メキシコ戦争が起こると、インディアナ州の義勇軍として参加するなどして、帰国後、弁護士試験をパス。地方検事から、その後州議会議員になる。
結婚後は安定した生活の中で「美しき神」の執筆を続けたが、やがて南北戦争が起こると「北軍」として戦いに参加している。
陸軍少佐に昇進したものの、些細な過ちからグラント将軍の不興を買い、その後退役し45歳で借金を抱え、生活に窮するようになった。
こうした不遇の時代に「美しき神」の執筆を再開し、これを完成し出版した。
そんな時知り合った神学者の感化でキリスト教を学び始める。
その後外交官となり、中近東に出向した機会に集めた資料を基に書き上げたのが「ベンハー」であった。
実は、ルー・ウォーレスは、徹底した「無神論者」であった。
聖書は嘘偽りの書であることを証明するために数年の歳月を費やして、あらゆる文献を調べ上げていくうちに、聖書が真実の書であると確信するに至った。
晩年はインディアナ州クロフォーズビルに引退。1905年77歳の生涯を閉じている。
ルー・ウォーレスがもし生きていたなら、もともと宗教性の高い原作が、大スペクタルと化した映画「ベンハー」を、どう受け止めただろうか。