帰ってきた「幻の戦闘機」

2017年11月の1週間、福岡県春日市岡本の「市奴国(なこく)の丘歴史資料館」で、「遺産の大切さ気付いて」というテーマで特別展が開催された。
奴国といえば、志賀島で発見された「金印」を授かった奴国王の王墓であるため、そのための特別展かと思いきや、全く予想ははずれた。
実はこの「遺産」の中身とは、特別展の副題によってすぐに判明した。~「米軍ハウスの世界~あのころ、春日のまちにアメリカがあった」。
戦後、占領軍が福岡にも進駐、1950年に朝鮮戦争が勃発すると、米軍板付基地などの人員も急増した。
「米軍ハウス」とは50~60年代に基地外に建てられた将校向けの住宅のことで、春日原、白木原地区と福岡市の西戸崎地区とで約1200戸が建設されたという。
現在、春日原・白木原地区に約50戸残り、住宅やカフェとして活用されたりしている。
マンションの建設で米軍ハウスは消えつつあるが、今回の展示で地域の歴史的遺産としての大切さに気付いてほしいという趣旨で開催されたものである。
さて、この「奴国(なこく)の丘歴史資料館」のある岡本のすぐ前は、米軍ハウスがあったあたりで、現在は陸上自衛隊の春日駐屯基地となっている。
ここからJR南福岡駅には徒歩で20分ほどでつく。この駅のあるあたりは、「雑餉隈(ざっしょのくま)」という名の街で、西鉄電車の駅は「雑餉隈」で、基地とセットのように歓楽街が広がっている。
町の名前にも似て、この町には武田鉄矢や千葉真一など雑草のように逞しい人々を生み出している。
今や世界企業の「ソフトバンク」や地場のスーパー「マルキョー」などの創業の地である。
また、この地はモノ作りにおいても、優良工場や達人を生み出したが、それは進駐軍が駐屯していたという事実と関係がある。
雑餉隈の町工場の経営者・吉村秀雄は、オートバイのマフラーやカムシャフトなど奇跡の部品を生み出し、その手は「ゴッドハンド」とも言われた。
終戦後に吉村の実家は鉄工所をはじめたが、商売の足として使用していたオートバイに興味を覚えるようになり、オートバイ屋「ヨシムラモータース」を創業。
1954年進駐軍の兵士からレース用にと「バイクの改造」を依頼され、板付基地で行われたドラッグレースに出場した吉村は、オートバイの加速に戦時中に体験した「飛行機の離陸」に通じる魅力を感じたという。
そして勝利を重ねる町工場「ヨシムラ」の名は、瞬く間に全国に広がり、あの本田荘一郎でさえも「ヨシムラ」が生み出す部品に脱帽するほどであった。
1978年に「第一回鈴8時間耐久レース」にうって出るや、並み居る大メーカーを退けて優勝をさらう。
そしてその後の優勝を含め、通算4度の優勝を果たしNHK「プロジェクトX」で紹介された。
ところで、雑餉隈にはJR「南福岡駅」があり、駅近くの相生町辺りに「渡辺鉄工株式会社」がある。
この「渡辺鉄工」は現在、鋼材を切るスリッターラインの技術において日本でトップクラスといわれる技術を擁しており、バスの車体や潜水艦の船体などを製作している。
実は、この工場もともとは軍事工場で、かつて「九州飛行機工場」とよばれていた。
ちなみに、福岡市の繁華街天神から薬院にとおる「渡辺通り」の名は、「渡辺鉄工」を経営する「渡辺家」の名からつけられたものである。
太平洋戦争末期、敗戦色濃厚な日本の「起死回生の切り札」として、戦闘機「震電」がこの工場で開発された。
震電は太平洋戦争末期、B29の爆撃から日本を守るために開発された戦闘機で、従来の戦闘機では飛行できなかった高度1万メートルまで上昇することを目ざしてジェットエンジンを搭載する予定だった。
「震電」は、第二次世界大戦末期に米軍爆撃機B29の迎撃用として開発が進められた戦闘機で、前翼型(エンテ型)といわれる形状であり、胴体後部にプロペラのある特異な形を特徴とした局地戦闘機であった。
海軍航空技術廠の鶴野正敬技術大尉を主任設計者とし、制作図面30万枚、2万工程という苦闘の果てに完成した。
1945年8月に蓆田(むしろだ)飛行場(現福岡空港)で脚を出した状態で3回の試験飛行を行い、飛行特性の良さが確認されていた。
しかし初飛行から約10日後、日本は終戦をむかえ、3機の試作機は実践に使われることはなかった。
終戦後、米軍はこの軍需工場に早くから目をつけており、米軍はこの軍需工場のすぐ近くに駐留して、いちはやく「震電」を接収しアメリカに運んだ。
現在、アメリカ軍が駐留していた場所は、「自衛隊春日駐屯地」となっているが、その正門はほとんど「渡辺鉄工所(旧九州飛行機工場)」と向かい合うように立っている。
雑餉隈で開発された幻の名機「震電」は、解体された状態のままスミソニアン博物館に保管されている。 日本に原爆を落とした「エノラゲイ」は同博物館に展示されたところ、反対にあい撤収された。
、 「震電」の試験飛行の様子が貴重なフィルムに残されているものの、国内にはその機体は残っておらず、「幻の戦闘機」と言われている。
知るひとぞ知るこの飛行機が、2024年「アカデミー賞視覚効果賞」受賞の「ゴジラー1.0」でCGによるVFX(視覚効果)を駆使し、再び蘇ったのである。

「筑前町立大刀洗平和記念館」は、2009年10月に陸軍大刀洗飛行場の跡地に開館した資料館で、大刀洗飛行場の歴史と概要が展示・紹介されている。
館内にはここにしかない零戦三二型や陸軍九七式戦闘機の実物を展示され、開館以来、航空技術のシンボルである「震電」の紹介されてきた。
関係者の長年の悲願は、「震電」をなんとか日本に引き取り、震電開発の中心地となった大刀洗平和記念館に展示し、当時の日本人の努力と勇気の結晶を見てもらいたいということであったという。
この点につき、たまたま『何でも鑑定団 お宝鑑定スペシャル』(2019年4月放映)で知ったひとつのエピソードを思い浮かべた。
「心に残る逸品」のコーナーに俳優の石坂浩二が出演して、2005年にアメリカから出品された『戦艦長門の日章旗』を、自費で買い取って「大和ミュージアム」(広島・呉)に寄贈していたというのだ。
石坂によると、「戦艦長門にはいろいろな逸話があり、一つは、戦争が始まるときに『ニイタカヤマノボレ』という暗号を、日本が打った」こと。
「長門」は、山本五十六が指揮をとったの連合艦隊の「旗艦」であったが、そういう船の日章旗が向こうにアメリカに渡っており、アメリカの方からそれが出品されていたのだ。
それは、鑑定依頼人の父が、元海軍将校フリン大佐から死の直前に託されたものだという。このフリン大佐こそ、終戦後に長門がアメリカ軍に接収された際、指揮を取っていた人物である。
その日章旗の鑑定結果は、1000万円であった。
石坂は これは日本にあるべきだと自費でこの旗を買い戻し、翌2006年9月に、広島県呉市の大和ミュージアムに寄贈したという。
芸能人とはいえ、財産があるとはいえ、1000万円は、気軽に出せる金額でははない。
それでも石坂浩二は、かつて日本のために戦った、栄えある帝国海軍の元・旗艦に掲げられていた大事な日章旗が、アメリカ人に「戦利品」として接収されていることを看過できなかったのだろう。
石坂が生まれたのは、戦争が始まった年、戦禍をくぐりぬけ、長門は唯一終戦時に残存した戦艦であった。
戦争が終わって兵隊も徐々に帰ってきて、石坂も含めて「生き残った」との思いが強かった。
買い取った軍旗を寄贈したのは、石坂の人生と重なるところがあるからだ。
生き残った長門だが、その後はビキニ沖で核実験の標的艦となる。この時、長門は、一度では沈まず、二度目もすぐには沈まなかった。
核兵器で攻撃されても、なお沈まないという姿に痛々しさを感じたという。
石坂は、「そうした様々な象徴である長門は、日本人が戦争を考える材料として、博物館に展示すべきで。長門の顔であるあの軍艦旗は、核兵器に対する無言の抗議になると思いました」と語っている。
さて戦前、大刀洗の地には東洋一と謳われた陸軍大刀洗飛行場があり軍都として発展した。
この飛行場は特攻隊の中継基地として、数多くの若き特攻隊員たちの出撃を見送った場所でもある。
太刀洗で特攻機の教官をしていたのが、漫画家の松本零司の父や、俳優の千葉真一の父であった。
大刀洗飛行場の近くには、陸軍の飛行機やその部品をる太刀洗航空機製作所があり、これらの製作所を設立したのが、前述の渡辺鉄工所、かつての九州飛行機株式会社である。
大刀洗平和記念館はそういう軽から、大刀洗に縁の強い「震電」を展示したいと考えてきたが、なかなか実現できないまま年を重ねてきた。
そんなとき届いたのが、映画制作のために「震電の実物大模型が製作されている」という知らせであった。
そこで関係者は、この「実物大模型」を購入し、記念館に設置、展示、一般公開したいと考えたという。
大刀洗平和記念館では、飛行場の歴史や空襲、特攻なども紹介しているが、展示のもう一つの大きなテーマは「航空技術の発展」である。
九州飛行機で開発された震電を、大刀洗の地で、航空技術発展のシンボルとして展示することに大きな意義があると、その費用の一部をクラウドファンディングによる寄附で集めた。
そしてついに、震電のふるさとで「実物大模型」を購入し、2022年7月6日から一般公開している。

2021年3月21日、第五福竜丸の元乗組員で最後の生存者、大石又七さんが亡くなった(87歳)。
「第五福竜丸事件」では乗っていた23人の乗組員全員が被曝。半年後に無線長久保山愛吉さんが死亡し、大石さんも後遺症に苦しんだ。
1954年に米国により広島型原爆1000個分以上の威力を持つ水爆の実験が太平洋のマーtシャル諸島ビキニ環礁で行われた。大石さんは、被曝した静岡のマグロ漁船「第五福竜丸」の元乗組員で、核廃絶を訴える活動を続けていた。
この事件に触発され、放射能の恐ろしさを体現する怪獣として「初代ゴジラ」が誕生。ビキニ環礁での核実験の8月後に封切られ大きな反響を呼んだ。
これが現在公開中の『ゴジラ-1.0』につながっている。ちなみに水着のビキニも、小型ですさまじい威力を発揮する核実験のように衝撃的だというところから名付けられたそうだ。
核実験場の名前を水着に付けるあたり、欧米諸国が問題を深刻に受け止めていなかったことがうかがえる。
第五福竜丸は現在、東京・江東区の「夢の島公園」にある。ごみ処分場だった夢の島の岸で廃船となって朽ち果てようとしていることが報道され、保存運動が広まって陸上で修復が行なわれ東京都が引き取った。だから今でも実物を「都立第五福竜丸展示館」で見ることができる。
さて「第五福竜丸」の被ばくは、広島・長崎以降初めての被爆といわれるが、厳密にいうとそれ以前にビキニ環礁の水爆実験の被爆した日本船舶がある。
それが前述の「戦艦長門」である。
「長門」は1945年8月30日に、連合国軍のひとつの国のアメリカ軍に接収され、1946年7月の「クロスロード作戦」の「標的艦」となった。
「クロスロード作戦」とは、要するに「核実験」のことで「第一実験」「第二実験」に使われた。それでも「長門」は海上に浮かんでいた。
しかし、4日後に同艦の姿は海上には海上になく浸水の拡大によって沈没したものと見られる。
また、アメリカでも水爆をテーマにした映画が1970年に制作されている。
1966年、水爆4発を積んだがB52が空中給油機と空中衝突して墜落した。水爆は3発がスペインのパロマレス近郊の農地に落ち、1発は近くの海中に落ちた。
幸い核爆発はしなかったものの、2発は猛烈な放射線を放ちかつ毒性をもつ核物質のプルトニウムが漏出したが、米軍により除染、土壌の入替が行われた。
スペインの観光大臣がビーチで泳いで見せて安全をアピールする事態になった。
この実話を元に作られたのが「魚が出てきた日」(1972年)。知性派女優として名をはせる若き日のキャンデイス・バーゲンが出演している。
ストーリーは1972年ギリシャの小さい島に2人のパイロットが不時着する。飛行機に積んでいた2個の原爆と1個のケースを彼らは落下させておくが、原爆は海中へ、ケースはその島のどこかに落ちた。
当局に連絡を取ろうとするパイロットたちをよそに、山羊飼いの夫婦にケースが拾われた。
しばらくして軍関係者が変装して島に上陸、遺跡を求めて考古学者たちも現れる。
増え始める観光客たち、島民は予期せぬ賑わいに色めき立つが、そんな中、変形した魚の死体が海面に浮かんでいるのが発見される。
2014年は「ゴジラ生誕60年」にあたるため様々な特集が組まれた。
東宝映画で「ゴジラ」企画は前からあったが、1954年版「ゴジラ」は、この第五福竜丸事件に着想を得ている。それは、機関士長の久保山愛吉の死から2ヵ月後のことであった。
また1954年版「ゴジラ」の制作指揮をとった円谷英二チームの中には、北海道出身でゴジラの音楽担当の伊福部昭や福岡県の古賀市出身で、ゴジラ特撮シーンでデザインを担当した井上泰幸や、という優れたプロフェンショナルがいた。
ところで江戸時代の歌舞伎「白波5人男」が、戦隊物「ゴレンジャー」の元となっているが、ゴジラも「伝統劇」の文化と結び付いている。
野村萬斎、狂言師。はじまりは黒澤明だった。まだ野村萬斎ですらなかった17歳のとき、本名の野村武司で『乱』に出演。シェイクスピアの『リア王』を戦国時代に翻案した作品で、主人公を破滅させる少年・鶴丸を演じた。
実は野村萬斎が、映画『シン・ゴジラ』(2016年)において、主人公を演じている。
新ゴジラの正体は、なんと狂言師だったのだ。とはいっても、ぬいぐるみの中に入っているわけではない。
現実の人物や物体の動きを、デジタル的に記録する「モーションキャプチャー」が使用され、本作では野村の動きをフルCGで作成したゴジラに反映させているという。
野村萬斎は樋口監督から電話でオファーを受けたことを明かした。
そして次のように語っている。「日本の映画界が誇るゴジラという生物のDNAを私が継承しております。650年以上の狂言のDNAが入ったということを大変うれしく思っております」。
さて、このたびアカデミー賞受賞の『ゴジラ-1.0』のタイトルにある「マイナス1.0」の意味はなんであろうか。
『ゴジラ-1.0』のストーリーは、第二次世界大戦末期の1945年から始まり、特攻隊員敷島浩一がゴジラと初めて遭遇する島に不時着するところから展開する。
終戦後、敷島は焼け野原となった東京に帰還し、様々な人々と出会い、新たな生活を始める。
しかし、米軍による核実験により巨大化したゴジラが再び現れ、東京に壊滅的な被害をもたらす​​。
この映画は、戦後の日本の復興というテーマと、ゴジラという存在による破壊と再生のサイクルを描いている。
タイトルの「-1.0」は、この作品が単なるゴジラの物語だけでなく、戦後日本という「マイナス」から出発している状況を示唆していると考えられる。
また「マイナス」がタイトルにつけられているのも、この映画が「低予算で作られた」評価も含めてツボにはまっている。
また、終戦直後にアメリカに接収された「幻の戦闘機」が映象の中で再現され、アメリカ映画界の最高の栄誉を受けることで、日本に帰ってきた感がある。