第一回横溝正史ミステリ大賞を受賞した作品『この子の七つのお祝いに』(斎藤澪原作)は、1982年に映画化された。
その中に登場する、よく的中するという女占い師(岸田今日子)の元に、大物政治家達が様々な政治判断を占ってもらおうと訪れた。
その女占い師はなかなか姿をみせず帷幄(いあく)の内側から、答えを出していく。
「帷幄」というのは、日本史で「帷幄上奏」という言葉があるように、人々が天皇にお伺いを立てることで、「すだれ」を意味する。
しもじもには神聖な天皇の顔をみることは許されないのだ。こんな時、一番困るのが御用カメラマンで、ノンフィクション作家工藤美代子の「工藤写真館の昭和」には、カメラマンがどのように天皇の御姿を撮影したか、ユーモラスに描いている。
ところで、映画の中で女占い師が登場する場面が思い浮かんだのは、最近のAIの進化のニュースを知ってからである。
もしも、正体が見えない御簾(みす)の向こう側に現代の「超知能」とよばれるシロモノが鎮座していたらどうだろう、という妄想が働いたからである。
さて、世界の歴史を振り返ると、人間は様々な偶像を作って崇拝をしてきたが、我が妄想をさらに掻き立てたのは正義の名の下で最も多くの人々が殺害された「恐怖政治」の時代。
フランス革命においてジャコバン派が主導した時代で、キリスト教が否定されて人々が崇められるように求められたのが「理性」であり、「最高存在」という極めて抽象的な存在である。
アンシャン=レジーム(旧体制)のもとで王権と結びついていたカトリック教会に対しては、革命当初から批判が強められていた。
国民公会でカトリック暦が廃止されて「革命暦(共和暦)」が採用されたことで非キリスト教化運動は盛り上がっていた。
例えば、ブリュメール(霜月)やテルミドール(熱月)という新たな月名がつけられた。
教会の破壊や聖職者非難が進められ、その一方で「理性の祭典」が組織されていった。1973年10月、パリのノートルダム大聖堂は革命派に占拠され、祭典が強行された。
11月10日の祭典は、ジャコバン派の中の急進派であるエベール派がの主導でおこなわれ、宗教が新しい共和主義的なかたちをとって、「理性」が18世紀の偏見にたいしておさめた勝利を祝った。
そこでは、狂信に打ち勝つ女性という筋書きの下、彼女の聡明さが狂信のベールを剥ぎ取って闇と怪物を追い散らすという筋書きで演出がなされた。
ノートルダム大聖堂の内陣中央に人工の山が設けられ、その頂上にギリシャ風の神殿が建てられ、その四隅にはヴォルテール、ジャン=ジャック・ルソー、シャルル・ド・モンテスキューといった啓蒙思想家たちの胸像が設置された。
その神殿のなかから「自由と理性の女神」に扮したオペラ座の女優が現れるといった趣向で「理性の祭典」が始まった。
キリスト教の祭壇が取り壊されて「自由への祭壇」が設けられ、大聖堂の扉の上方には「哲学へ(et de la losophie)」の碑文が石に刻まれていた。
祝祭の少女たちは白いローマ風のドレスとトリコロール(三色)の帯を身にまとい、自由の女神のまわりを動き回った。
真実を象徴する祭壇の上では、炎が燃えあがった。女神像は、偶像崇拝を避けるため彫像ではなく、実際に生きている女性たちによって描かれた。
赤いボンネットをかぶった女神は、白いドレスに青いマントを身につけて、手には黒檀の槍を持ちつつグリーンに彩色された玉座におもむく。
そこに「狂信はいまや正義と真理に決定的に席を譲った。今後司祭は存在せず、自然が人類に教えた神以外に神は存在しないであろう」というアナウンスが入ると、革命賛歌の歌声が聖堂全体に響きわたった。
ちなみに、このモチーフこそが、アメリカのニューヨークにたつ「自由の女神像」であり、フランスからアメリカの独立を祝ってに贈られたものだ。
しかし、ジャコバン派の中でロベスピエールを中心とする公安委員会は、「理性の崇拝」の強要は「無神論」であり、またその強要は信仰の自由に反するとして、エベール派を批判した。
その結果、94年3月にロベスピエールによってエベールが反革命分子として処刑され、「理性の崇拝」は廃止された。
そしてロベスピエールはキリスト教の神に代わる「最高存在」を革命のシンボルとしてつくりあげて、それを祝う祭典を計画し、同年6月に「最高存在の祭典」を挙行する。
もともと信仰深いではロベスピエールが唱えた「最高存在」とは一体何なのか。
それは、神の存在を啓示によらず合理的に説明しようとする立場で「理神論」とよばれるものである。
宇宙の創造主としての神の実在を認めるが、聖書などに伝えられるような人格的存在だとは認めない。
神がおこなったのは宇宙とその自然法則の創造だけで、それ以降、宇宙は自己発展するとする。
神の存在を認めるという点において有神論だが、人間理性の存在をその論の前提とし、奇跡・啓示・預言などによる神の介入はあり得ないとして排斥される。
「理神論」は17世紀のスピノザらを起源として、イギリスで論争が起こり、18世紀のフランス・ドイツの啓蒙思想家たちに受け継がれ、フランス革命期の「最高存在の祭典」の思想的背景になった。
人工知能の開発は、1990年発表の「スペースインベーダー」というゲームの開発が発端であった。
そのゲームでは、最初はプレイヤーよりエイリアンの方が圧倒的に強く、数秒も経たないうちに撃破されて、あっという間にゲームオーヴァーとなった。
しかし30分もすると、その弱々しいプレイヤーは、いつ撃ち返せばいいか、いつ隠れればいいかといったゲームのコツをつかみ始める。
そしてついに1発の弾も無駄にしないほどゲームに熟達してしまい、エイリアンを撃退しながら、敵の母艦をやすやすと破壊していくようになった。
実はこのプレイヤーは、「DeepMind(ディープマインド)」というロンドンに本拠を置く企業が開発した、「コンピューターアルゴリズム」なのだ。
デミス・ハサビスを共同創業者兼CEOとするディープマインドの開発した人工知能プログラムは、49種類ものTVゲームに何も教わることなく臨んだ。
ところが格闘ゲームから3Dのレーシングゲームまであらゆるゲームをマスターし、何度も(人間の)プロゲーマーに圧勝した。
しかしディープマインドは、これまでに製品をひとつも発表していない。
2014年1月、グーグルがイーロン・マスクなどの投資家の支援を受け、ディープマインドを買収したからだ。
グーグルにとって4億ドルという買収額は、ヨーロッパ地域での過去最大の投資となった。
グーグルが興味をもったのは、ある分野で学んだ知識を、別の分野に応用できるようなアルゴリズムである点である。
現在でも、チェスや自動運転といった特定の仕事であれば、かなりうまくこなせる専用プログラムをつくることはできる。しかし、その知性はプログラムのなかにはなく、プログラムを開発したチームの頭のなかにしかない。つまり、プログラムそのものは何も学ぶことはできない。
しかしディープマインドは、人間の脳を模倣したニューラルネットワークと強化学習アルゴリズムの2つの有望領域を、基礎的なレヴェルで統合していた。
ハサビスが目指すのは人間の脳のような汎用的なアルゴリズムを作ることで、「汎用人工知能(Artificial General Intelligence:AGI)」を実現することである。
従来の人工知能のほとんどは、プログラムされた通りに動くコンピューターにすぎないが、我々が目指すのは、自分自身で学ぶ能力をプログラムに組み込むことであり、それは生物が学習するプロセスであり、いまある人工知能よりもはるかに強力なものとなると表明している。
ディープマインドのウェブサイトには、「知性を解明すること」というシンプルな企業ミッションが掲げられているとうり、ハサビスは事業を立ち上げることよりも、研究開発に関わる道を選んだ。
そんなハサビスはどのような経歴を歩んできたのであろうか。
幼少の頃よりゲームに興味をもったハサウビスは、ケンブリッジ大学を卒業すると、新しい会社ライオンヘッド・スタジオに就職し、ゲーム「ブラック&ホワイト」のトップAIプログラマーを務めた。
そのうちハサビスは「認知神経科学」の博士号を取ろうと思いたち、ロンドン大学ユニヴァーシティカレッジで「記憶と想像」に関する研究に取り組んだ。
その点につき、ハサビスは「コンピューターはエピソード記憶をうまく扱えなかったので、その研究をやろうと思ったんです。人間は未来のことをどのように頭のなかで可視化しているのか、といった想像のプロセスを調べました」と語っている。
「エピソード記憶」とは何か。例えば、毎朝元気なコリー犬を散歩させている30代の男性を見かけるとする。するとある日、その男性に驚くほどよく似た白髪の女性が、同じ犬を連れて通りを歩いてくる。
無意識のうちに、我々は即座に一連の推論を行う。男性と女性は同じ家庭の出身なのかもしれないし、女性は男性の母親か、他の近親者かもしれない。
つまり我々は、記憶から材料を引き出し、一貫性を持たせながら見知らぬ人々についての複雑な物語を紡いでいる。
複数の記憶を統合する能力は、経験に対する新たな洞察を得て、それらの遭遇全体のパターンを一般化するための最初の認知ステップである。
このステップがなければ、我々は永遠に断片化された世界に生きることになる。
それは「認知の超能力」であり、ディープマインドはそうした能力をAIに活用しようとしたのである。
結局、AIがいかに優れているといっても、エピソード記憶の柔軟な使用に依存するタスクでは人間が依然として有利であり、人間がこれを可能にするメカニズムを理解できれば、それをAIシステム内で再現しようというわけである。
そして「認知科学」は人間の記憶を結びつける役割を担う「神経回路」を解明し、そのデータからアルゴリズムを抽出した。その成果は、いつの日か「非生物知能」にも適用されるだろうことを予測させるものであった。
また脳科学とAIとの関わりといえば、人間の意識に匹敵するものを実在するロボットに実装する研究が始まっている。
人が様々な思考をしている状態でMRIを通じて脳活動をみることで、どの部位が活動しているかなどはわかってきていても、「意識の解明」にはまだ至っていない。
そこで、ロボットに何らかの「意識」をもたせようという試みが、「意識」を従来とは異なる観点からアプローチしようとする研究を加速させることになった。
こうした動きに対してイーロン・マスクは以前(現在は撤回)、人工知能は「潜在的に核兵器より危険」であり、「悪魔を召還するものだ」と警告を発している。
また理論物理学者のスティーヴン・ホーキング「人類史上最悪の過ちになる可能性がある」と次のような警告をしている。
「このテクノロジーは金融市場を支配し、人間の研究者をはるかに超え、人間のリーダーたちを惑わせ、わたしたちの理解できないような武器をつくり出すかもしれない」。
結局、グーグルとディープマインドは買収の要件として、倫理と安全についての委員会を設置することに合意している。
近年、ロシアが偽動画をたくさん作って敵対国の「世論操作」を行っているが、それは国家の意思にもとづいておこなわれている。AIが政治に影響を与えるといっても、まだ人間がAIにデータを仕込んり命令を下している段階である。
しかし、AIが自律的な意志をもつということになると、世界はまったく異なる様相を帯びることになり、それは現実に起こっても少しも不思議ではない。
そこに至るには、いくつかのステップがあるがそれを見ていきたい。
今進化中の生成AI・対話型AIは、まるで人間のように言葉を紡ぎ、意味を理解しているかのようだ。
さらなる理想郷として語られはじめたのがAGIだ。定義は定まっていないが、限定的な用途に特化したAIではなく、人間のようにどんな問題にも対応できる知能をさす。
これこそがデミス・ハサビスが目指したもので、Gneneral(汎用)なAIとよばれるものである。
さらに機能が増すことでASI(superが加わった「認知脳」)が実現し、人間を超える日が遠からず到来するとみる企業もある。
AIは人間よりはるかに多量のデータを読み込み、言葉の意味の理解などもできるようになった。
AGIに近づく次のステップが、自分で判断して動く「自律性」だとされる。
言語を含む基盤的なモデル(AI)を架け橋にして、視覚やロボットの運動、物事の意味などを結びつけて、世界を認識したり制御したりする能力が高くなった結果、初めてのタスクに対応できる汎用性や、自分で判断できる「自律性」が高くなっている。
画像に写っているものを、「寝ている面白いネコだ」などと言語で結びつける「CLIP」や、長い文脈を理解できる大規模言語モデル、ロボット技術などが進んだことで、周囲の環境や概念をAIが学んで把握する「世界モデル」が急発達している。
最近発表された「SORA」では、例えば「パンダが川べりでギターを弾く」と入力するだけで、本物と見紛うばかりの「動画」を瞬時に作成でき、衝撃を与えた。
一方、こうした能力が高まることで、AIに人間の意図とは異なる独自の価値観や意図が生まれないかという懸念もある。
さらにAIが、自身や別のAIをプログラミングできるような能力が加われば、人間が気づかないうちにAGIが超知能の段階に短時間に進み、人間に対する配慮を優先しない存在になる可能性もあると指摘されている。
知能とは、問題を解決できる能力ともいえるが、世界や環境を思い通りにする能力ともいえる。
遠いと思われていたAGIや超知能のリスクがずっと手前にあるのではと、多くの研究者が感じ始めている。
例えば、人間の介入を避けるために、世界各地のサーバーにウイルスのように自分自身をコピーしたり、生物兵器にアクセスしたりする恐れもあると指摘されている。
特に、生命科学研究におけるロボットやの活用が進んでおり、AIに様々な実験条件に柔軟に対応できる自律性を付与することで、人間が介在しない「自律実験」ができるようになるという。
ところで現代世界を覆う気候変動や経済問題さらには疾病などシステムは複雑に絡み合っており、人間の専門家が理解できることには限界があるという問題に直面しつつある。
そして人間がその解決を「超知能」により頼んでいくようになると、いつしかフランス革命で起きた「理性の祭典」や「最高存在」のように崇められる存在にならないとも限らない。
「超知能」に手足はないが、人間の意識をコントロールするプロパガンダでさえ学び、人間がそれにつき動かされるということである。
そのうち創造者である人間を超え、自らが永久存在となるようにアルゴリズムを書き、「最高志向の存在」としての祭典を主宰するなどということがSFの中だけの話だと、いつまでいいきれるだろうか。