技術は転移する

家の中には、軍事「転用」技術が溢れている。「ミシン」は機関銃、「ライター」は手榴弾、「掃除機ロボット」は地雷探査機など。
ペンタゴンが通信施設が破壊されても情報交換が可能になるように開発したのが「インターネット」。
一番身近なのは、ボールペン、衣服においてもカーディガン、トレンチコート、さらには割烹着までも。
満州事変後に銃後を守る女性のファッションとして広まったのが、「割烹着」である。
割烹着はもともと料亭で着物が汚れるのを防ぐために着用されていたのだが、大日本国防婦人会が「貞節な妻」のユニフォームとして定めた。
この思想は、戦後も企業戦士の「出社後」を守る女性の理想像として生き残ったのである。
ボールペンが誕生して普及する背景には戦争がある。
第二次世界大戦のこと、爆撃機などが高空でも航空計算に使える筆記具を必要とした。なぜなら万年筆ではインクが漏れるからだ。
第一次世界大戦のイギリス軍で、寒冷な欧州での戦いに対応する「防水型」の軍用コートが求められた。
その原型は既に1900年頃には考案されていたが、「トレンチ(塹壕)」の称は、このコートが第一次大戦で多く生じた泥濘地での「塹壕戦」で耐候性を発揮したことによる。
1853年、クリミア戦争に砲兵少尉として従軍した若き日のトルストイは「セヴァストポリ物語」で戦場の悲惨を生々しく描いた。
そして、ロシア軍とトルコを支援する英仏軍はクリミア半島で激突した。要塞に立て籠もったロシア軍は349日めに、力つきて降服した。
この壮絶なクリミア戦争で後世に名を残したのは、敵味方関係なく兵士を看病した「クリミアの天使」ナイチンゲールばかりではない。
司令官として参戦したイギリス軍のカーディガン伯爵は、負傷兵が着やすいように「前あきのセーター」を考案した。
保温のための重ね着として着られていたVネックのセーターを、怪我をした者が着易いように、「前開き」にしてボタンでとめられる様にしたのである。
この服は、男爵の名前をとって「カーディガン」と名づけられた。

日本でミシンはいつ頃から使われるようになったのだろうか。
1854年にペリーが2度目の来航をしたときに、将軍家にミシンを送ったという古い記録である。
この後、1860年にはジョン万次郎がアメリカからミシンを持ち帰っている。ちなみに、日本で最初にミシンを扱ったのは、天璋院だといわれている。
日本でミシンが普及をはじめるのは明治になってからで、最初は輸入のみで、修理などを通じて技術を取得した技術者によって、徐々に国内生産された。
最初の製造業者は、江戸時代までは「大砲職人」であった左口鉄造であるとされ、1881年に東京で開かれた第2回内国勧業博覧会に国産ミシン第1号として展示された。
大正時代から、日本でもミシンの量産がはじまったが、量・質ともに「シンガー」などの輸入品にはかなわなかった。
第二次世界大戦が始まると家庭用ミシンの製造は禁止され、戦時中、ミシンは軍用ミシンのみ製作されることになる。1945年に終戦を迎えると、国内で大ブームとなったものが「家庭用ミシン」だった。
戦後洋服が普及し、家庭で縫われるようになったためである。
国内に100社を超えるミシンメーカーが乱立し、トヨタや三菱も参入した。そして銃をつくる機械装備があったジューキも製造へと乗り出した。
「ジューキ」の創設は1938年12月で、太平洋戦争中に陸軍が使用する「九九式小銃」を生産するために設立され、1943年に「東京重機工業株式会社」に改称した。
終戦の焼け跡の中、敗戦により苦肉の策でパンやアイスキャンディの製造で窮地を凌いだこともあった。
当時、ミシンの市場はドイツやアメリカのメーカーが席巻し、80社もの国内工場がつぶれた。「ジューキ」は外国のミシンをコピーしながらも、なんとか生き残っていた。
しかし故障が頻発、苦境に立っていた。たまたま欠員が出て小塚忠(こづかただし)という当時35歳の男を採用した。
小塚は採用早々、「外国のモノをコピーしているのでは売れるはずがない」といいはなった。
そこで小塚に「縁かがりミシン」の改良が命じられた。周囲は、小塚にそんな改良ができるわけがないと冷ややかだったが、小塚は黙って図面と向かいあい、2ヵ月後に作った図面を上司に提出した。
それを見た上司は息をのんだ。小塚の設計図は強度はもちろん部品の動きまで精密に書かれていたばかりか、明らかにアメリカのミシンの構造とは違ったからだ。
小塚は17歳で難関の海軍兵学校に入学し、海軍士官の道を目指したたが、敗戦で中断された。
実家のある岐阜に帰る途中、焦土となった広島を見、くやしさがこみ上げた。
幼いころから機械が好きで、技術で国のために尽くそうと誓った。就職したのは、鉄を延ばす圧延工場。
しかし圧延機械はすぐ故障し、鉄が冷め延びなくなっていた。小塚はノートを計算式で埋め尽くして改良のアイデアを考えた。そして、機械を改良してみると、実際に鉄は赤く燃え続けた。
小塚は、そのことにより「技術の求道者」になろうと決めた。そしてもっと高いレベルの技術を得ようと会社を渡り歩いた。その結果が会社を8つも辞めたということだったのだ。
絶えず自分の限界を打ち破りたいと思っていた小塚にとって、同じ会社に3年いてはマンネリ化するしかないと感じていた。
いわば「武者修行」で、小塚が設計したのは、小型化した「農耕機用エンジン」、ガスの燃焼効率を飛躍的にあげた「湯沸かし器」、10倍の耐久性をもつ「印刷機」などで、小塚改良の新型機は各分野20種類におよんでいた。
小塚は「振動がなく、縫い目がきれいなミシン」を完成させまたもやここではこれ以上得るものがないと会社を去ろうと思っていた。
そんな時、ひとつのミシンに目が留まった。ドイツ・カフ社の「穴かがり」ミシン。
一瞬にしてボタン穴をつくり、世界最高の性能といわれた。小塚はその構造に釘付けになった。これが小塚の「ミシン開発」の果て無き戦いの始まりとなった。
上層部から小塚に声がかかった。小塚は世界で誰にもできないミシンの開発に武者ぶるいが起こった。
そして小塚がリーダーで、中堅社員、若手社員3人によるプロジェクトができた。
彼らは、世界でただひとつのミシンの開発に向かう決意を固めた。
小塚は、かつて設計した農耕機のエンジンのノートを見て「カム」の仕組みを思いついた。
針とメスをふたつの動力で独立させるのではなく、ヒトツの動力にすればいい。連動するような仕組みにすれば針があがる瞬間にメスで糸が切れる。
この「カム」の仕組みは、機関銃つきの戦闘機で、銃弾をプロペラの間に通過させる技術でも使われているものだった。
プロペラが機銃の射線を塞いでいる間、機銃の発射を抑える装置で、自らプロペラを破壊しないよう射撃をプロペラの回転に合わせる「連動装置」が組み込まれていた。
1946年6月、パリで4年に1度の世界百社が参加した国際ミシン見本市が始まった。
ジューキも、会社の命運をかけ、「自動糸きりミシン」を出品した。他にも自動糸きり機を装備したミシンはあったが、ジューキの「自動糸きり」の性能は他を圧倒した。
ブースに続々と人々が集まり、小塚を取り囲んだバイヤーから一斉に拍手が起こった。
なんとか受け入れてもらえばいいと、三人のプロジェクトで開発を進めたミシンは、今や世界市場シェアの4割をしめている。

オルガンを弾く人の姿、どこかTVなどでみる”機織り”をする人の姿に似ていないだろうか。
オルガンは、足踏みによって加圧した空気を鍵盤で選択したパイプに送ることで発音する鍵盤楽器であり、パイプオルガンと呼ばれる。
一方、足踏み式の機織り機は、足元にある角材のような踏み木を足で踏むことで、横糸を通すために縦糸のスキマを開口させる方式の織機である。
実はオルガンは、機織り機や、「からくり人形」、ゼンマイ仕掛けの複雑な時計を高度に組みあわせたような精密緻密な楽器であるといってよい。
「からくり人形」は、江戸時代期以来多くの庶民に親しまれた木製の自動人形であり、「江戸のロボット」である。
久留米出身の田中儀右衛門(初代・久重)が「からくり人形」の代名詞として知られ、儀右衛門は、”からくり興行”を全国各地で行い広がっていった。
人形を動かす「からくり仕掛け」は、ぜんまいで動き、歯車などで動きを制御し、その仕組みは、エネルギーを変換してロボットを動かすという点で、今日のプログラミングで動きを制御するという現代のロボット技術と重なる。
ただ、「からくり人形」のコンセプトは、決して人間そっくりの動作を実現することを目的として製作されてはいない。
からくり人形は人間の意志に反して、自ら暴走することはなく、観客や周りの人々を最優先して働くものである。
その「からくり」の製作こそが近代日本のモノづくりの”跳躍台”となったのではないか。
実際、名古屋のモノ作りの伝統に「からくり」が深く関わっていて、「からくり→織機→自動車」という技術展開していくのだ。
豊田佐吉は1867年、遠江国敷知郡(現在の静岡県湖西市)に生まれ、父伊吉は、農業の傍ら、生活のために大工として働き、腕のいい職人として信頼を集めていた。
佐吉は18歳にして専売特許条例を知り、自らの知恵による発明に一生を捧げようと決意した。
石炭に変わる原動力を案出しようと考えた佐吉は、1890年、東京・上野で行われた「第三回内国勧業博覧会」で最新機械に衝撃を受け、その年の秋「豊田式木製人力織機」を完成し、発明品第1号となる。
そして織機の動力の自動化(自動織機)が、後の自動車の生産に繋がっていく。
豊田佐吉、愛知ではなくその東に隣接する静岡出身であるが、静岡県にも「からくり精神」は生きていたようだ。
特に浜松は、HONDAのオートバイやヤマハ楽器で知られている。
浜松には徳川家康をまつる「東照宮」があり、その周囲には、河岸段丘を利用した石垣がある。
家康は武田に対抗するため、天竜川の河岸段丘のヘリであるこの地に浜松城を建て、浜松の町が誕生した。
中心地から10kmほど離れた町へ行くと、川の近くに小さな高まりがあり、ここで「暴れ天竜」こと天竜川が頻繁に氾濫するこの地帯では、「島畑」という”高まり”を構築して綿花を作っていた。
浜松の綿花で織られた木綿は江戸でも評判となり、大量の織機が必要となった。そのため、複雑な機工をもつ織機を作ることができる高い技術力を持つ大工が浜松に集まってくる。
さらに、南アルプスから天竜川で運ばれた木材と、山を越える乾いた空っ風による乾燥という地形的な面でも、浜松は木製品を作るのに適していた。
このような環境の好条件に恵まれ、浜松は「楽器の町」へと発展していく。
明治維新後、アメリカ製のオルガンが浜松にもやってくるが、2か月で故障することになった。
そこで、医療機器の修理工だった山葉寅楠が、細工大工を集めてオルガンを修理した。これをきっかけに寅楠はピアノ作りを志すようになり、国産初のピアノを独学で作り上げる。
そして、織機の技術を生かして国産のオルガンをも完成させる。
実はピアノの木工技術は、意外な歴史をたどっており、それは他の楽器作りにも活かされている。
航空自衛隊の浜松基地。実は航空機の木製プロペラには、ピアノ作りの木工技術が使われていた。
そして後にプロペラが金属製になると、その金属加工技術が、トランペットなどの管楽器製作につながり、浜松は”楽器の街”とよばれるようになる。
つまり、静岡では「からくり→織機→楽器」という技術展開をしたのである。

1968年に世界初のレトルトカレーとして生まれた「ボンカレー」。
「ボンカレー」という新商品発売だけでなく、世界初の市販用レトルトカレーの発売でもあったので、2007年に2月12日を「ボンカレーの日」「レトルトカレーの日」と定め、日本記念日協会にも登録しました。
1964年、関西でカレー粉や即席固形カレーを製造販売していた会社を、大塚グループが引き継いだのが[大塚食品]の始まりである。
「他社と同じことをやっていてもしょうがない」と、「お湯で温めるだけで、誰もが失敗しない一人前のカレー」の開発に取り組んだ。
その頃は、日本の高度経済成長期。世の中全体が忙しくなって、食品でも簡便なものが求められるだろう、きっと役に立つだろうという予感や読みがあったのも確かだ。
アメリカの包装資材の専門誌で、ソーセージを真空パックにしたものが紹介されていました。それを見た社員が、カレーをそのようなパック詰めにすれば「お湯で温めるだけで食べられるようになるのでは」と考えついた。
大塚グループとしては、医療分野がホームグラウンドだが、「医食同源」の言葉があるとおり、「医」と「食」は地続きで繋がっているという思いから食品事業がスタートした。
「ボンカレー」で使用しているレトルトパウチは、袋に入れた食品を専用の釜に入れて袋が膨張して破裂しないよう、圧力をかけながら加熱するという技術。
この製造方法は、もともと大塚グループで点滴液を高温処理で殺菌する技術の応用で、試行錯誤のうえ確立させた。
最初の「ボンカレー」には高密度ポリエチレン/ポリエステルの2層構造の半透明パウチを使っていたが、これは光を通すため、わずかながら空気も通すので時間が経つと酸化によって風味を損なうという問題があった。
未知の分野の商品だっただけに、最初は阪神地区限定だった。振動などの衝撃に弱く輸送中に破損するというケースもあり、そのままでは販売地域を拡大するわけにはいかなかった。
この課題に対して、包材メーカーの協力も得て、ポリエチレン/アルミ/ポリエステルの3層構造のパウチを開発した。
これは光と酸素を遮断し、衝撃にも強くなり、賞味期限は、半透明パウチが冬場でも3ヶ月間が、3層構造パウチでは一気に2年間まで伸ばすことに成功した。
ところが、レトルト釜で高温殺菌し、保存料も殺菌剤も必要ないのだが、2年間も腐らないのなら保存料や殺菌剤を使っているにちがいないという誤解を受けて、商品の本当の価値が伝わらなかった。
全く新しい商品を売り出すには、イメージづくりと広告にも熱心に取り組んできた。
当時、映画女優の松山容子を商品パッケージに起用した。「着物でカレーを作れる」手軽さを表したのかもしれない。
その後、若者に人気の笑福亭仁鶴が、時代劇のヒット作「子連れ狼」に扮するというもので、「3分間待つのだぞ」が流行語になった。
「お父さんにも手軽に食事が用意できる」という商品の特徴、消費者のメリットを表現し、「ボンカレー」が全国区でブレイクした大きなきっかけとなった。

折しも元校正職のハンガリー人がボールペンの開発に取り組んで、完成させた。ある米国人がそれを特許に触れないように改良し、米軍は大量に採用し、爆撃攻撃に大活躍したのである。
映画「カサブランカ」でハンフリー・ボガートが着ていたトレンチコート姿は、「ハードボイルド」のイメージを植え付けたといってよい。
浜松が「楽器の町」になる5つのステップの1つ目として上げられるのが、「ここに家康が浜松の町を作ったこと」。まず、浜松市の中心部を歩くと、徳川家康をまつる「東照宮」を発見。さらに周囲には、河岸段丘を利用した石垣がある。家康は、武田に対抗するために、天竜川の河岸段丘のヘリであるこの地に浜松城を建て、浜松の町が誕生したという。 2つ目が、「家康の領地で綿花を栽培したこと」。中心地から10kmほど離れた町へ行くと、タモリらは川の近くに小さな高まりを発見。「暴れ天竜」こと天竜川が頻繁に氾濫するこの地帯では、この「島畑」という高まりで「綿花」を作っていたとのことだ。 3つ目は、「織機をつくる細工大工が集まったこと」。浜松の綿花で織られた木綿は江戸でも評判となり、大量の織機が必要に。そのため、複雑な機工をもつ織機を作ることが出来る「高い技術力を持つ大工さん」が浜松に集まってきたとか。 そして、4つ目は「山葉寅楠がピアノ作りに成功したこと」。明治維新後、アメリカ製のオルガンが浜松にもやってくるが、2か月で故障。そこで、医療機器の修理工だった山葉寅楠が、細工大工を集めてオルガンを修理。これをきっかけに寅楠はピアノ作りを志すようになり、国産初のピアノを独学で作り上げたのだそう。 そして最後は「木材と空っ風」。南アルプスから天竜川で運ばれた木材と、山を越える乾いた空っ風による乾燥という地形的な面でも、浜松はピアノ作りに適していたそう。このようなステップをたどって、浜松は「楽器の町」になったのだという。 さらにタモリは、最先端のピアノ工場を見学。「木の板はどうやって曲げているのか?」などの疑問を探る。 楽器の街となったはじまりは市内の小学校のオルガン修理からでした。 足踏み式リードオルガンを修理したのは、日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ)創業者、山葉寅楠(やまはとらくす)。 当時、医療器械の修理工であった山葉寅楠は、アメリカから輸入されていた高価なオルガンを手の届きやすい価格で販売できるようにしようと考えました。 そして修理がてら構造を模写しオルガン作りをはじめ たのです。 1897年(明治30年) 日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ)設立。 山葉寅楠のもとでピアノ作りをしていた河合小市(かわいこいち)が独自のピアノアクション(音を出す仕組み)を発明。 1900年(明治33年) 山葉寅楠が国産ピアノの第1号を完成。 1914年(大正3年) 日本楽器製造株式会社がハーモニカ生産を開始。 その後、卓上オルガン・木琴などの生産を始めます。 1927年(昭和2年) 河合小市(かわいこいち)が河合楽器研究所(現在の株式会社河合楽器製作所)を設立。 1952年(昭和27年) 鈴木楽器が創業。ハーモニカ制作に本格参入。 ※現在では世界有数のハーモニカメーカー。 1965年(昭和40年) ヤマハが管楽器の製造を開始。 2000年代 浜松周辺の管楽器生産量(フルート、サキソフォンなどの木管・トランペット、トロンボーンなどの金管)が全国割合の8割以上になります。 ピアノから始まった浜松の楽器産業が楽器全般に技術を広げていきました。 ヤマハとカワイの創業者 楽器の街となるきっかけになった、ふたりの楽器メーカー創業者。 あらためてどんな人物だったのでしょうか? 山葉寅楠(やまはとらくす) 1851年5月20日‐1916年8月8日 日本楽器製造株式会社(現在のヤマハ株式会社)の創業者。 日本の初期のオルガン製造者の一人で日本のピアノ製造業の創始者の一人でもあります。 父が紀州藩で天文係を務めていたこともあり、幼い頃から機械いじりが得意でした。 16歳頃には剣術修行に出て腕を磨きましたが職人の道を歩むことになります。 1871年 長崎で英国人のもと時計の修繕法を学びます。 その後大阪の医療器具店に勤め医療器具の修理工として働きました。 1884年 時計や医療器具以外にも機械器具全般の修理をするようになりました。 1887年 浜松尋常小学校(現在の浜松市立元城小学校)でアメリカ製オルガンの修理を手掛けたことから後にオルガン製造に成功します。 手先も器用なうえ剣術の腕もあったとは、いろいろな才能をお持ちだったのですね。 剣術の道に進んでいたら今のヤマハや「楽器の街」としての浜松市もなかったかもしれません。 浜松市にとって本当に貴重な方だったのですね。 河合小市(かわいこいち) 1886年1月5日‐1955年10月5日 車大工、谷吉の長男として誕生。 谷吉は浜松名物「凧の糸車」を発明考案した人物です。 小市の幼い時はわんぱくでした。 谷吉は30歳の若さで死亡。 父の仕事場で小市は模型馬車を作り上げました。 その器用さから山葉寅楠に弟子入りすることになります。 1897年 11歳の時に山葉風琴製造所(後の日本楽器・現在のヤマハ)に丁稚に入ります。 山葉寅楠からピアノ調律と製造技術を磨きました。 1900年 ピアノを国産化する際に大きな課題であったアクション(音を出す仕組み)を独学で完成させます。 1926年 日本楽器製造株式会社を退社。 1927年 河合楽器研究所(現在の株式会社河合楽器製作所)設立。 「完全な楽器を造るには完全な音楽原理を知らなければ」と自らオルガンをたたいて音の分析や音の持つ原理を突きつめました。 楽譜を見ればすぐに演奏できる腕前だったそうです。 「河合楽器のすべての楽器は、精神の音を出させよ。ひとつひとつの楽器には魂をこめておけ。その魂が楽器の生命となっていつまでも美しい魂の音を鳴らせるようにせよ。」という信念を持っていました。 幼い時にすでに才能を開花させていたのですね。 はやくから自分の好きなもの得意なものに出会い、その道をあゆみ続けられたことは幸せなことだと思います。 現代では何をしていいかわからないと言う人たちが多いですよね・・・。 浜松が楽器の街になったのはなぜ?徳川家康と職人たちの意外な関係 浜松が楽器の街になったのはなぜ?徳川家康と職人たちの意外な関係 浜松が楽器の街になったのはなぜ? 徳川家康が浜松に来た理由は? 楽器作りのルーツとなった職人とは? その疑問、解消します! 日本の三大楽器メーカーの本社がある由来、 中堅楽器メーカーや各種楽器部品工場が集中する理由も含めて、 わかりやすくお伝えします。 スポンサードリンク    浜松に集中する楽器メーカー 先日、友人たちと人生一番最初の習い事はなんだったか、という話で盛り上がりました。 わたしは幼稚園の年少のときに、ヤマハ音楽教室に通ったのが最初の習い事で、 「♪小鳥がね お窓でね♪」 と始まる『ヤマハおんがくきょうしつのうた』を、ウン十年経った今も歌えると話していたところ、友人のひとりが 「オレはカワイ音楽教室だったけど、歌なんかあったかなー」 と皆、しばし幼年期の音楽教室の思い出話に。 その場にいた7名全員が音楽教室に通っており(時代かなw)、ヤマハ音楽教室派4名、カワイ音楽教室派3名とほぼ半々に分かれました。 ご存知のようにヤマハもカワイも日本の有名な楽器メーカーですね。 ヤマハとカワイ、この2つにに同じく日本の電子楽器メーカーのローランドを加えて、 ヤマハ株式会社(YAMAHA) 株式会社河合楽器製作所(KAWAI) ローランド株式会社(Roland) これらは「日本の三大楽器メーカー」と称されています。 中でもピアノ製造ではヤマハが世界シェア第1位。 そして、河合楽器が第2位と、 世界に数あるピアノメーカーの中でも特に高い評価を得ています。 これは、日本の自動車メーカーが取り入れた大量生産方式を、早い時期からヤマハとカワイがピアノ生産にも取り入れたからだと言われています。 その上で、品質においても世界の一流演奏家たちから認められ、名だたる国際ピアノコンクールにも採用されています。 実家のピアノはヤマハでしたが、従姉妹の家のピアノはカワイ、初めてローランドのシンセサイザーを弾いた時はあまりの軽いタッチが衝撃でした。。。 などなど鍵盤にまつわる思い出は尽きることなくありますが、 ヤマハ・カワイ・ローランド、 この3社全ての本社は、静岡県の浜松市にあるんですよね。 日本の三大楽器メーカーが、ひとつの「市」に集中しているってすごくないですか。 他にも、メジャーな中堅楽器メーカーや、各種楽器部品の工場も浜松市内に集まっており、 なんと楽器メーカーだけで、実に200社以上が浜松に拠点をおいています。 そんなわけで、浜松市はピアノ・管楽器・電子ピアノの生産では世界シェア1位を誇っています。 ハーモニカやリコーダーで有名な鈴木楽器製作所も浜松市です。 鈴木楽器製作所はオルガンも有名で、鍵盤ハーモニカの「メロディオン」も鈴木楽器製作所が作っています。 また、エフェクターブランドのBOSSも浜松にあります。 エフェクターとは、楽器のサウンドに様々な変化をつけたり、高音や低音などのバランスを自分の好きに調整することが出来る装置で、 たとえばエレキギターなら、ギターとアンプの間に繋いで、電気的に音を変化させます。 ミュージシャンであれば誰もが一度は目にし、プロミュージシャンのサウンドメイキングには欠かせないアイテムがエフェクターです。 装置上面に取り付けられているペダル(スイッチ)を足で踏むことによって「ON」と「OFF」の切り替えを行い、自分の好きなタイミングで音色を替えることができます。 BOSSのエフェクターは、日本のみならず、世界中で多くのミュージシャンに愛用されています。 そして、新幹線で浜松駅につくと改札内にはグランドピアノがあります。 企業用の展示ブースなので、置かれているピアノも様変わりするのですが、駅の利用客が自由に弾けるようになっています。 時折、玄人筋と思われる人が弾いていたりして、それがSNSにアップされ話題になる演奏もあります。 超高価なグランドピアノが展示される際には、わざわざ遠方から弾きに来る人もいるとか。 ピアノといえば、世界て活躍するジャズピアニストの上原ひろみ氏も浜松出身ですね。 楽器関連のメーカー以外にも、静岡県浜松市では国際的な音楽コンクールが開催されています。 なぜ浜松がこれほどの楽器の街になったのでしょう。 そのルーツをたどると、やはり世界のヤマハ&カワイに行き着きます なぜ浜松が楽器の街になったの? ヤマハやカワイ、ローランド、BOSSなど楽器メーカーの本社が数多く集まっている浜松には、世界の楽器が展示されている国内唯一の公立楽器博物館『浜松市楽器博物館』もあります。 浜松が楽器の街となったのには歴史的な背景も影響しています。 浜松は徳川家康の城下町 歴史好きなら、浜松といえば、江戸幕府を開いた初代将軍・徳川家康が思い浮かぶのではないでしょうか。 徳川家康は、29歳のときから45歳で駿府(すんぷ)城に移るまでの17年間、浜松城を居城にしていました。 浜松城は江戸幕府300年の原点となったお城で、天下統一への足がかりとなったことから、「出世城」とも言われています。 浜松は、東京と大阪のほぼ中央に位置します。 北は天竜の山々、 南は遠州灘(えんしゅうなだ)、 西は浜名湖、 東は天竜川に囲まれた自然の恵み豊かな地です。 現在では楽器やオートバイ、綿織物などの産業が盛んですが、 浜松市が本格的に産業発展したのは、徳川家康の在城がきっかけです。 1568年(永禄11年)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。 「天下をとるためには、まず信玄を倒さなければならない」 と判断した家康は、1570年(元亀元年)、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠(すんえん)経営の拠点としました。 駿遠とは、駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部)と遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに:現在の静岡県西部)の2つを指します。 他にも、徳川家康がこの場所に浜松城を築いた理由は、 ・幼少時代に駿府にあった今川義元のもとで人質生活を送ったことで土地勘があったこと、 ・冬も暖かく温暖な地であること、 ・米や野菜がおいしいこと、 ・南の遠州灘・西の浜名湖・東の天竜川といった天然の要塞があること、 ・諸大名が参勤交代で通る際の拝謁に便利だったこと、 などが考えられます。 城下町に職人が集結 家康公が浜松城の築城を決めると、徳川家康の城下町として浜松の街並みを整えるべく、各地からさまざまな職人が集められました。 スポンサードリンク そうして、城や町が整備されてゆくと、自然と商いも増えてゆき、それにつれて、また職人たちが集まってきます。 人が集まるところ、技術も進歩し、経済的にも活気が出るのは今も昔も変わりません。 腕が命の職人衆の中でも特に幅を利かせていたのが「大工」と「鍛治(かじ)」で、職人であると同時に、町の顔役的な存在でもありました。 鍛冶とは、鉄などの金属を熱して打ち鍛え、製品を製造することで、刃物や釘、鉄砲や農具などを作ります。 他にも家康公の城下町になった浜松には、ものづくりのために、自然といろいろな業種の職人が各地から集まるようになりました。 このような背景から、木工や鉄工、鋳物や漆塗りなど、様々な技術が求められるピアノやオルガン作りに役立つ人材が、江戸時代から揃っていたわけです。 ヤマハ創業者・山葉寅楠が浜松に来た! 江戸時代から時を経て、時代は明治に変わります。 楽器・音響機器メーカーのヤマハ株式会社(YAMAHA)の創業者は山葉寅楠(やまは・とらくす/1851~1916年)という人物です。 紀州藩士・山葉孝之助の三男として生まれた寅楠は、幼い頃から手先がとても器用でした。 1867年10月14日、15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に還し、江戸幕府を消滅させます。 明治維新を迎え、虎楠は大阪に出て、そこで見た懐中時計に興味を持ちます。 そして、長崎に出てイギリス人から時計修理の技術を学びました。 のちに再び大阪に戻り、医療器具店で修理工として働きます。 32歳の時、浜松市にあった浜松病院の医療器具の修理を依頼され、宿に部屋を借りて住み込みながら修理を請け負っていたところ、 1887年、35歳になった寅楠に、浜松尋常小学校の壊れたオルガン修理の依頼が舞い込みます。 当時、オルガンは高級品で、すべて輸入に頼っていたこともあり、仕組みを理解している人は浜松には誰もいなかったのです。 地元出身の貿易商社員がアメリカから輸入して、浜松尋常小学校寄付した貴重なオルガンは、米1斗(20㎏)が1円の時代に45円もしたといいます。 その高価な楽器、オルガンがある日突然、音を出さなくなったので 「医療機械を直せる山葉寅楠なら直せるかもしれない」 ということで虎楠に白羽の矢が立ったんですね。 修理は大成功、 この経験から、寅楠は自分がオルガンを製作することを決意します。 寅楠は依頼されたオルガン修理の際、分解修理をしながらすべての部品を図面に書いていました。 その図面をもとに1887(明治20)年、日本初のオルガン製造に成功。 1889(明治22)年には、浜松に『合資会社山葉風琴製造所』を設立しました。 「風琴(ふうきん)」とはオルガンのことです。 情緒のあるきれいな文字ですね^^ 山葉風琴製造所では、のちの『河合楽器製作所』の創業者となる河合小市(かわい こいち)が、1897年(明治30年)、11歳の時に山葉寅楠の元に弟子入りしています。 河合小市は、浜松市菅原町の車大工の子どもで、12歳の少年時代から山葉寅楠のもとで国産初のピアノ作りに取り組み、 「発明小市」と呼ばれたほど、手先が器用で研究心があったといいます。 ヤマハとカワイの出会い、なんとも不思議な縁ですよね。 紆余曲折を経ながらも、寅楠の山葉風琴製造所の評価は高まっていき、 1897年(明治30)年10月12日には、資本金10万円で日本楽器製造株式会社を設立し、寅楠は初代社長に就任しました。 1900(明治33)年に、国産第一号となるピアノが完成。 勢いにのって、は1902年にはグランドピアノを完成させます。 そして、1904(明治37)年、アメリカのミズリー州セントルイスで開催された万国大博覧会に、オルガンとピアノを出品し名誉大賞を受賞します。 1907(明治40)年、寅楠の日本楽器製造はピアノとオルガンの生産日本一となり、 このころから寅楠は優秀な技術者を育てる見習生制度をスタートさせ、数多くの優秀な技術者を誕生させました。 日本楽器製造は順調に業績を伸ばし、河合小市も腕をふるっていましたが、1916年(大正5年)山葉寅楠が他界します。 その後、2代目社長のもとで大規模な労働争議が勃発、 外部から社長が来て経営の合理化を図るのですが、結果として、河合小市ら技術者にとってはなじめないものとなり、日本楽器を去っていくこととなります。 1927年(昭和2年)、河合小市を中心とした技術者7人が、浜松に河合楽器研究所(のちの河合楽器製作所)を設立。 こうして、浜松に楽器メーカーの2大巨頭が並び立ったわけです。 浜松市で創業する楽器メーカーと移転してきた楽器メーカー 1953(昭和28)年になると、教育楽器の鈴木楽器製作所が浜松で創業します。 鈴木楽器製作所は、河合楽器製作所を退社した鈴木萬司によって創業されました。 さらに、1972年(昭和47年)に大阪で創業したローランド株式会社が、2005年(平成17年)に、本社を浜松に移転します。 先述のエフェクターのBOSSはローランド株式会社のブランド(子会社)のひとつです。 さらにローランド株式会社は2016年、DJ向けを中心とするヘッドホンを展開していたアメリカの V-MODA LLCの株式を取得して子会社化したことにより、高級ヘッドホンなどのブランド「V-MODA」もローランド(株)のブランドとなりました。 またひとつ、浜松に楽器関連のブランドが増えたわけですね。 浜松が楽器の街になったのはなぜ?徳川家康と職人たちの意外な関係 まとめ こうして歴史から見ていくと、浜松が楽器の町になった一番の理由は、やはりヤマハとカワイの存在ですね。 浜松という拠点ができると、本社機能や工場、周辺のインフラが集中&整理されることで、生産効率が上がります。 また、前述のように、徳川家康公の城下町だったことで江戸の時代から職人が多かったという土地柄もあります。 日照時間が長く温暖な浜松の気候の特徴も、ものづくりに適した環境です。 そして、東京と大阪の真ん中に位置する浜松は人の交流も多く、職人が集まることで、より一層、ものづくりへの気質や土壌が育まれてきたといえます。 楽器のみならず、世界を代表する企業であるスズキ、ホンダもこの浜松で創業しています。 ヤマハ・カワイ・スズキ・ホンダ、 これら外国人でも知っている有名メーカーが、すべて日本のひとつの街、浜松で創業したというのは驚きですよね。 なんだか、一時のIT企業・スタートアップの聖地『シリコンバレー』を思い起こさせます。 浜松市を含む遠州(えんしゅう)地方の進取の気性に富んだ起業家精神は『やらまいか精神』と呼ばれています。 この言葉は「やってみよう」「やろうじゃないか」という意味で、 遠州人の 「あれこれ考え悩むより、まず行動しよう」 という、積極的に新しい物事に取り組む進取の精神を表すものです。 こういった浜松市民の気質も、浜松が楽器の街となった一翼を担っているのかもしれませんね。