日本で野球は戦前から大人気で、その人気はプロ野球誕生前、学生野球から始まった。
日本人に野球が人気があった理由は、アメリカ生まれのスポーツでありながら、日本人精神の「昇華」をそこに見い出したからではなかろうか。
カナダに居留する日系人の野球チーム「バンクーバー朝日」が、2003年に野球博殿堂入りしたのは、バンクーバーに近いシアトル・マリナーズのイチローの活躍に触発されたのかもしれない。
確かなことは、そのスタイルとスピリットが、多くの人々の記憶に残っていたからだろう。
2014年制作の映画「バンクーバー朝日」は、カナダに大志を抱き海を渡った日本人たちの物語である。「排日運動」のさなか1912年に結成されたアマチュア野球チーム「朝日」が結成された。
1914年に始まった第一次世界大戦では、日系人が大挙してカナダ軍に従軍し命をかけて闘ったものの市民権を得るまでにはいたらなかった。
バンクーバー朝日は、白人チームとは対照的な犠牲打、盗塁、守備などの巧みさで有名となり、日系人以外にも大勢のファンを持つに至った。
頭脳プレイを駆使し、大柄で強打の対戦相手を打ち負かし、1919年から1940年の間に市のタイトルを10回勝ち取って、チームはバンクーバー・リーグのリーダーとなった。
映画でも描かれているとおり、バンクーバー朝日軍が本当に目指したものは、日本人としての誇りを取り戻すことであった。
バンクーバー朝日の活躍は、日系人にとっての希望の灯火となり、その絶頂期を通して日系人は遭遇した困難、緊張、差別に 耐え、そして打ち勝つことができたのである。
しかし1941年日本が真珠湾を攻撃しカナダは日本に戦線布告して彼らの運命は一変する。
戦時措置法により、日本国籍者は全員「敵性外人」として登録しなければならなくなり、カナダ海軍によ1200隻におよぶ日系の漁船は没収された。
全ての日本語学校は閉鎖され、保険は解約される。
バンクーバー朝日は、人気、実力ともに「絶頂期」の時に解散を命じられたが、この「バンクーバー朝日」が現地の人々の脳裏に鮮烈に焼付いたのは、何よりその「精神」だった。
ビーンボールを投げられても怒ることもなく、ホームランを打っても表情をくずさずにグランドをまわる選手達の姿。
新聞記者がたずねると、チームのメンバーは意外にも「武士道」について語った。
「武士道とは何か。それはフェアプレーの精神であり、スポーツマンシップであり、ジェントルマンシップのことであり、かつまたそれ以上のものである。フェアプレーの精神は卑怯な振る舞いをしないということだが、武士道は大きな包容力で敵の卑怯な振る舞いをすら許す」と。
いわゆる「サムライ野球」であるが、「身を粉にする」という日本人的発想から、「ペッパーミル」を共通サインとしたのが、
昨年のワールド・ベースボール・クラシックであった。
なかでも、すべてのプレイが全力で人気が高まったのが、ラーズ・ヌートバー選手である。
その父・チャーリーさんは、オランダ系アメリカ人で、高校まで野球をしており、それなりの実力者だったらしい。
母親の久美子さんは埼玉県東松山市で地元の高校で、ソフトボール選手として活躍し、専門学校に進学する。
夫婦が出会ったのは、久美子さんが、専門学校卒業後に語学留学をしている時である。
、
日本に興味があるアメリカ人がいると当時カリフォルニア・ポリテクニック州立大の学生だったチャーリーさんを紹介されたのだという。
そのときは特に関係が進展せず、久美子さんは帰国するが、チャーリーさんは日本語の勉強を続けるために日本へ向かおうとした。
しかし、土壇場でホストファミリーが受け入れを拒否。唯一の知り合いだったクミさんに電話をして頼った。チャーリーさんは家族に受け入れてもらい、それ以来、二人はずっと一緒だという。
大学卒業後、チャーリーは日本企業の東洋水産に就職して、シアトルに二人で転勤したり、転職したりを経て、彼の地元カリフォルニアに戻ってきた。
現在はカリフォルニアでゴルフ用品などの輸出業をしているという。
1953年6月19日、広島カープ(現広島東洋カープ)に入団するため、日系米国人の兄弟2人が広島入りした。
球団にとっては初の外国人選手。後援会が募った400万円もの資金を元手に健三と弟の健四、同じく日系2世の光吉勉の計3選手を招聘(しょうへい)した。
当時の中国新聞は、市民の熱狂ぶりを「沿道に拍手して迎える十万余のファン」と伝える。
米国で教職に就くことが決まっていた健三は約2カ月後に日本を離れたが、健四は56年まで活躍してオールスター出場も果たした。
兄弟は、来日するわずか8年前まで両親と共にアリゾナ州の強制収容所に入れられていた。
旧日本軍のハワイ・真珠湾攻撃から2カ月後の42年2月、日系人の強制収容につながる大統領令が出されたためである。
その間、抑圧された生活は終戦まで続いたが、敷地内でプレイした野球が救いとなった。
父健一郎が施設の管理者に掛け合い、一家は自力で「球場」を造った。
仲間を集め、試合も繰り広げた。
「ゼニムラ・フィールド」は、同胞に生きる希望をもたらした。
米カリフォルニア州ロサンゼルスから飛行機で約1時間。かつて広島カープに在籍した日系2世の銭村健三(90)が暮らすフレズノは、同州中部に位置する。
干しぶどうやアーモンド、桃などの産地。郊外には広大な畑が広がる。
豊かな大地を目指し、戦前の日本から大勢の移民が渡った地でもある。
健三の妻も広島出身の両親をつ日系2世の妻ベティ(85)。1968年11月13日、交通事故のため68歳で亡くなった。健一郎の父が亡くなった時、地元紙「フレズノ・ビー」は、翌朝の紙面で「二世野球の主、死去」と大々的に報じた。
米国では「日系人野球の父」とも呼ばれる。
健三は、「父は40代になっても僕たち兄弟を負かすほどの選手だった。その上、優れた監督でもあったんだ」「多くの2世選手の才能を見いだし、どんなチームでも一流に育て上げた。僕らを広島に送ったのも父なんだよ」と誇らしげに語った。
1900年、現在の広島市中区竹屋町で生まれた。
外務省の資料によると、行き先は「布哇(ハワイ)」、渡航理由は「父ノ呼」。先にハワイ・ホノルルへ渡っていた父政吉に呼び寄せられたことが分かる。
政吉は白人家庭の使用人として働いていたという。
7歳の健一郎がハワイに渡った頃、野球は日系移民の間で既に人気のスポーツだった。
ただ両親がプレーさせたがらなかった。それは、健一郎が大人になっても身長が1メートル52センチ。体重は50キロ以下だった。
健三は、「父は一人息子。祖父母はけがを恐れたのかもしれないね」と語っている。
ただ健三の記憶によれば、バットやグラブを外に隠して、ひそかに野球をしに行っていたという。
小柄ながらも、健一郎は高校の野球部で頭角を現した。内野手や捕手として活躍しただけでなく、強いリーダーシップを発揮。主将時代はチームを初めて、ハワイ全島のチャンピオンに導いている。
そして、より本格的な野球に挑戦したかったのか、20年に親元を離れ、米本土を目指した。
選んだ先は、同郷の日系移民が多いフレズノだった。
銭村健一郎はフレズノで24歳の時、広島出身の両親を持つ日系2世のキヨコと結婚し、息子3人を授かった。
自身の名前に「一」が入っていることから、上から順に健次、健三、健四と名付けた。
父子3人は戦中、キヨコと共にアリゾナ州のヒラリバー強制収容所に送られ、約3年を過ごした。
5人家族のうち今も健在なのは、フレズノに住む次男の健三だけとなった。
「スポーツ一家」を絵にかいたような家族だった。
健一郎は野球一筋。捕手や遊撃手、投手をこなし、若いうちからコーチや監督を兼任した。
健三と健四も父の背を追って、少年時代から野球に没頭。2人ともフレズノ大学で好成績を残し、それが彼らの故郷で誕生したプロ野球球団「広島カープ」に聞こえた。
ただ、長男の健次はサッカーを選んだ。「長男には日本の教育を」と、祖父母が戦前のうちに広島へ連れ帰ったことが弟たちとの道を分けた。
進学先の修道中に野球部がなかったため、当時の蹴球部に入部。戦後も日本に残り、Jリーグ・サンフレッチェ広島の前身に当たる「東洋工業蹴球部」で、フォワードとして活躍した。
日本人選手は、1990年代の野茂英雄以来活躍するようになったが、日系人の中でメジャーリーグにおいて監督的存在はいなかった。
しかし、大谷選手の移籍先ドジャース監督デーブ・ロバーツがその壁を打ち破った。
MLB史上初の日本生まれの監督であるばかりか、ワールドシリーズで指揮をとり世界一になった。
1972年、返還直後の沖縄県那覇市でアフリカ系アメリカ人の父親(退役軍人)と日本人の母親の間に生まれた。
一家はカリフォルニア州サンディエゴに移住し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校に進んだ。
1994年でデトロイト・タイガースに指名されプロ入りを果たすも、クリーブランド・インディアンスへ移籍。1999年の8月の対デビルレイズ戦でメジャーデビューしている。
2002年からはロサンゼルス・ドジャースでプレーし、チーム最多の45盗塁。
2004年はシーズン途中の7月にボストン・レッドソックスへトレードで移籍。両チームで41回の盗塁を試みて38回成功し、成功率92、7%は両リーグで2位の記録だった。
2005年にサンディエゴ・パドレスへ移籍し、2006年オフにサンフランシスコ・ジャイアンツに移り故障で戦線離脱したが、チーム最多の31盗塁を決め、バリー・ボンズ以来球団史上10年ぶりに30盗塁を達成した。
2009年現役引退を発表。引退後はパドレスの特別補佐役を務めていたが、2010年に血液のガンを発症して闘病。克服後の2011年にコーチとして現場復帰を果たす。
2015年6月15日のオークランド・アスレチックス戦では、シーズン中解任された監督の代理監督を務め、MLB史上初の日本出身監督となった。
同年ドジャース監督に就任することが発表され、16年は就任1年目にして地区優勝し、最優秀監督賞を受賞した。
2017年、18年監督としてワールドシリーズに出場したが、いずれも敗退。2019年は地区優勝したものの、リーグ優勝を逃した。
2020年には監督として2年ぶりにワールドシリーズ出場を果たし、タンパベイ・レイズとのワールドシリーズを4勝2敗で下し、「日本出身監督としては初のワールドシリーズ優勝監督」となった。
ところで、日本のサッカー界に多大な貢献したオシム監督は、セルビア系・イスラム系・クロアチア系などの選手をまとめていくことに心血を注いだが、日本のアマチュア野球監督に、複数民族をまとめて強豪チームにした人がいる。
台湾が日本統治下にあった1931年、夏の甲子園大会に出場し決勝にまで進出した台湾チームがあった。その時の監督は近藤兵太郎という人だった。
近藤は1888年に愛媛県松山市萱町で生まれで、1903年に松山商業に入学し、創部間もない弱小の野球部に入って内野・外野手として活躍し主将も務めた。
卒業後松山歩兵二十二連隊入営、陸軍伍長として満期除隊し、家業を継いだ。
周囲からは「コンピョウさん」と呼ばれ、親しまれる反面、生徒から「まむしと近藤監督にはふれるな」といわれるほどに恐れられた。
1918年に母校・松山商の初代・野球部コーチ(現在の監督)となり、翌年にははやくも松山商を初の全国出場(夏ベスト8)へと導いている。
1919年秋、野球部コーチを辞任するや台湾へと赴き、1925年に嘉義商工学校に「簿記教諭」として着任した。
その後1931年、同じ嘉義にある嘉義農林学校の野球部監督に就任した。
この年はやくも嘉義農林を第17回全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)においてチームを初出場ながら決勝まで導いている。
決勝では、この年から史上唯一の3連覇を達成する事になる中京商に0-4で敗れ「隼優勝」となった。
近藤は1946年に日本に引き揚げ、晩年は新田高等学校や愛媛大学などで野球部監督を務めた。
近藤は嘉義農林の野球部が台湾人、日本人、原住民族の混成チームであることに違和感を覚えず、校内で野球に適した生徒を見つけて野球部に入部させた。
そこで台湾最強チームを作るべく、松山商直伝のスパルタ式訓練で選手を鍛え上げ、チームを創部3年めにして、全国準優勝するまでの強豪へと育て上げた。
準優勝したメンバーのうち、レギュラーメンバーは日本人が3人、台湾本島人2人、先住民族(高砂族)4人であった
当時の嘉義農林の活躍はセンセーショナルで、作家・菊池寛は観戦記に「僕はすっかり嘉義びいきになった。日本人、本島人、高砂族という変わった人種が同じ目的のため共同し努力しているということが、何となく涙ぐましい感じを起こさせる」と記している。
また近藤兵太郎は、「日本人、台湾人、先住民族(高砂族)が混ざりあっている学校、そしてチーム、これこそが最も良い台湾の姿だ。それが負けるとしたら努力が足りないからだ」とまで言っている。
足の速い台湾の原住民族、打撃が素晴らしい漢民族、そして守備に長けた日本人の3つの民族の混成チームが弱いはずがないというわけだ。
ちなみに、かつて北海道日本ハムファイターズの「陽岱鋼」(よう だいかん)は、台湾の台東県台東市出身で、台湾の原住民・アミ族出身である。
台湾人史上最高位の指名(ドラフト1位)を受け、台湾では話題となった。
日本国籍を持たないが、日本の高等学校(福岡第一高校)に3年以上在籍していたため、規定により日本国籍を持つ選手と同等の扱いを受けている。
そして2014年台湾で、近藤が指導した嘉義農林学校(現・国立嘉義大学)の野球部の活躍を描いた映画がつくられた。
「KANO 1931海の向こうの甲子園」で、日本でも公開され、永瀬正敏が近藤を演じている。
「KANO」は、そ嘉義農林学校が、日本人監督に率いられ、夢の甲子園で大旋風を巻き起こしたストーリーで、台湾映画史上、空前の大ヒットとなった。
ところで、近藤兵太郎は、嘉義農林を率いて春夏連続出場した1935年夏の甲子園で、準々決勝の相手は母校の松山商業であった。
延長戦の末4-5で惜敗したが、松山商はその後、準決勝・決勝と勝って初の全国制覇を達成している。
応援に駆け付けた近藤兵太郎は松山商を率いていたかつての教え子・森茂雄監督と涙を流して喜んだという。
1935年嘉義農林学校が夏の甲子園に出場し8強に進んだ時の日本人選手の中に、今久留主淳(いまくるす すなお)という選手がいた。
今久留主淳は、戦後はプロ野球・西鉄(現西武)などで内野手として活躍し、現役引退後、西鉄のコーチや寮長として選手を育てた。
その息子・今久留主邦明は、1969年夏の甲子園に博多工業の捕手として夏の甲子園に出場し、岩崎投手とともにベスト4進出の立役者となった。
近年では福岡市の筑前高校野球部のコーチをつとめた。