ロシア発「よみひと知らず」

ロシアの反体制活動家・ナワリヌイ氏が、シベリアの刑務所で突然亡くなったという報道があった。
刑務所内でのナワリヌイ氏の映像からみる限り、最近まで元気だったようだ。
それだけに、体制側により意図して殺されたものと世界中で批判が高まっている。
ロシアの文豪・ドストエフスキーの「死の家の記録」(1860年)が思いうかぶ。
それはドストエフスキーが、若い時シベリアに流刑になった体験を元に書いたものである。
その強制労働の中で、「穴を掘らされ、次はその穴を埋めさせられる」という作業の描写がある。看守にスコップを渡され、半日かけて穴を掘り、半日かけて埋めていく。
創意工夫も他者とのコミュニケーションも無く、ただひたすらに穴を掘って埋めるのである。
肉体の虐待に、精神の虐待も加えた強制労働である。
そんな収容所の実態は、後に旧ソ連のソルジェニーツェンという作家の「収容所群島」(1973年)で明かされ、「ノーベル文学賞」受賞作となった。
日本人も、約60万人が第二次世界大戦後に、「シベリア抑留」という同様の体験をしている。
この「シベリア抑留」とは、敗戦時に満州にいた日本軍がソ連軍によりシベリアに連行され、過酷な環境の中で強制労働をさせられた出来事である。
そして1947年から日ソが国交回復する1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われた。
シベリアでは約5万の命が失われたが、栄養失調の為、帰還時には痩せ細って別人のようになって還ったものが多くいた。
シベリア抑留からの帰還者の中には、陸軍参謀の瀬島龍三もいたし、後に政治家になる相沢英之、宇野宗佑、財界人では坪内寿夫、その他芸能スポーツ界では、水原茂、三波春夫、三橋達也、作曲家では吉田正や米山正夫がいた。
瀬島龍三は、伊藤忠商事の副社長となって航空機の売り込みで、会社を業界二位の会社におしあげた。
巨人軍の名将・水原茂は、試合の土壇場で戦える選手と弱気になる選手を見極め、選手起用に生かした。
また作曲家の米山正夫は、水前寺清子の「三百六十五歩のマーチ」や「ヤン坊マー坊天気予報」のテーマ曲で知られる。
そしてシベリアからの帰還兵士の舞台が、福井県・若狭湾の舞鶴港で、「岸壁の母」という名曲が生まれた。
そんな中、永田行夫(当時24歳)とよばれる無名の帰還兵がいた。航空修理廠隊長として100名あまりの部下とともにソ連軍の捕虜となった。
ソ連は投降した日本兵をソ連各地に送り込み強制労働させたが、送り込まれた先は、当時ソ連の一部であったウズベキスタン共和国の第四ラーゲルとよばれた収容所であった。
所長は、2年後ソ連共産党は革命30周年を迎え、日本人捕虜に「オペラハウス」をウズベキスタン人と共に完成させてもらいたいと要望した。
その劇場の名を、「ナボイ劇場」といった。
長い戦争に疲れ、さらに、鬼畜扱いされていた捕虜たちは、先の見えない状況に生きる希望を失いかけていた。た。
彼らの唯一の楽しみは食事であったが、黒ぱんなど粗末なものばかり。しかもノルマ未達成の者には量を容赦なく減らされた。
そこで食べ物をめぐって争いもおこり、永田隊長は、こんなことで2年で完するかことはできないと訴えた。
永田の本当の使命は、部隊を一人も死なせずに無事に帰国し家族と再会することだった。
我々は日本人だ。こんな時こそ和のこころを思いだそうと、永田は食事の多いものが、少ないものに分けあたえるようにした。
所長のアサードフは、「社会主義では働いたものが多くもらい、働かない者はすくない量しかもらえない」といった。
ソ連共産党に逆らえば下手をすれば死刑になる危険さえあったが、永田は所長にひとつの質問をした。
社会主義政策では、働いたうえで一度もらったものは、個人の自由で処分できるのではないか。
それもソ連の社会主義の素晴らしいところであるのなら、最初から平等に配分していただければ、分ける手間がはぶけてありがたいといった。
アサードフは考えておこうといったが、結局永田の提案は受け入れられ、捕虜たちに日本に帰れるかもしれないという希望が生まれた。
1945年2月23日、ソ連は劇場の建設を急がせるために、二百数十名の新たな捕虜を第四ラーゲリに送り込んだ。
ソ連指導部は、大学建築学科出身の当時21歳の若松律衛少尉を現場の総監督に指名した。
しかし若松は、永田は一生懸命に働いている姿をソ連にみせつけて帰国をはやめようとしているというもっぱらのうわさである。必死になって見苦しいかぎりだと若松は、それをことわった。
それに対して永田は、「我々はなにもソ連に評価されたいがために必死にやっているわけではない。私はここを世界最高のオペラハウスにしたいと思っている」と語った。
若松は、「ばかばかしい、そんなことをして何が残るのか」と反論した。
それに対して永田は、「後世の人にはわれわれの貢献など知られることさえないだろう。だがそれでいい 世界一の劇場を完成さえることで、この戦争で失ってしまった日本人の誇りをとりもどしてもらいたい」と応えた。
その翌日、若松が監督を引き受け、捕虜たちはひとつとなって劇場のは完成に向かって邁進した。
しかし、粗末な食事にたえた日本人兵の疲労は限界に達しようとしていた。
そんな中、ウズベキスタンの親方が、監視兵にみつからないようにこれを食えと食糧を渡した。
親方は、日本人は鬼畜だと思っていたが、日本人の働きぶりをみて、それが間違いだとわかったと語った。
そしして、ウウズベキスタン人との心の垣根が消えていき、「さくら さくら」を共に歌ったりした。
そして1947年9月にナホイリ劇場が完成し、内覧会がひらけれ、美しい装飾は人々の目をうばった。
それは日本人のもてる技能をすべて注ぎ、ウズベキスタン人ととみに血と汗を流した魂の結晶で、世界最高峰のオペラハウスというのにふさわしかった。
若松は、永田のいうとおり、自分たちの働きを誰もしられないのが悔しいと語った。
永田は、我々がこの劇場を作ったことは、まぐれもない事実だから、それでいいと語った。
ソ連全土で60万人の抑留者のうちに9万人が死んだといわれる中、タシケント第四ラーゲリの死亡者は、列車事故1名、転落死1名にとどまった。
結局、457名中455名が帰国を果たした。
ウズベキスタンは1991年のソビエト崩壊と同時に独立した。
ナボイ劇場には「日本人の捕虜が建てた」と建設当時に書かれた石碑があったが、新しい大統領は「彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな」と命令して、「日本国民がナボイ劇場の建設に参加し、完成に貢献した」と書き直させたという。
ナボイ劇場のプレートには、「極東から強制移送された数百名の日本国民がアイシェル・ナボイ劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」と記された。
そして2017年、日本人捕虜のためにタシケントの市民の要望で1000本の桜がタシケントにもちこまれ、ナボイ劇場や日本人墓地に植樹された。
さらに、ウズベキスタンの人々は、国内に点在する17か所の日本人墓地を守り続けた。
日本人抑留記念館館長は、「日本人は丁寧な仕事で様々な施設を建設してくれた。今のウズベキスタンがあるのは日本人のおかげです」と語った。
永田らにならい、他の日本人捕虜も水力発電や運河の建設などインフラ整備に全力で貢献した。彼らは、そうした日本人の功績をけして忘れなかった。
2010年4月に永田は他界するが、永田は457名の住所録を作成していた。
それは、ただの住所録ではなかった。帰国時メモを所持しているとスパイとみなされるために、全員の名前と住所を暗記し、帰国後に書きだしたものだった。
帰国後、記憶をもとに住所録を完成第四ラーゲ会がひらかれ、年に一度かつての戦友たちとあうことができ、永田の墓参りもはたした。
また、40年後にナボイ劇場でオペラを鑑賞し、かつての所長アサードフとも再会することができた、

「吉田学校」といえば、終戦後に吉田茂首相の下で働いた若き官僚達で、後に有力な政治家になる池田勇人、佐藤栄作 前尾繁三郎などである。
しかし、もうひとつの吉田学校がある。作曲家・吉田正が育てた歌手(or俳優)として活躍した吉永小百合、橋幸夫、三田明などである。
ところで吉田正作曲のヒット曲には、 三浦洸一「異国の丘」 鶴田浩二「傷だらけの人生」 フランク永井「有楽町で逢いましょう」 松尾和子「誰よりも君を愛す」 橋幸夫「潮来笠」 吉永小百合「いつでも夢を」 三田明「美しい十代」などのほか数多くある。
吉田正は1921年、茨城県日立市に生まれた。
1942年に満州で上等兵として従軍し、敗戦と同時にシベリアに抑留されている。
従軍中には部隊の士気を上げるため、またシベリア抑留中には仲間を励ますために曲をつくった。
その抑留兵の一人が詩をつけ、その歌が「よみ人しらず」として、いつの間にかシベリア抑留地で広まっていった。
1948年8月、いちはやくシベリアから帰還した抑留兵の一人が、NHKラジオの「素人のど自慢」で、この「よみ人しらず」の歌を「俘虜の歌える」と題して歌い評判となった。
吉田は、その直後に復員して半月の静養の後に「俘虜の歌える」が評判になったことも知らず、以前の会社(ボイラー会社)に復帰していた。
ところが9月、ビクターよりこの評判の歌に詞を加えられて「異国の丘」として発売されてヒットするや、この曲の作曲者が吉田正と知られるところとなり、翌年吉田は日本ビクター・専属作曲家として迎えられたのである。
その後、吉田は数多くのヒット曲を世に送り出し、1960年に「誰よりも君を愛す」で第2回日本レコード大賞を受賞している。
一方、昭和を代表する作曲家として若い歌手を育て、1998年6月肺炎のため77歳で死去したが、その翌月には吉田の長年の功績に対して「国民栄誉賞」が授与された。
吉田の作曲の原点は、1945年10月から1948年8月の舞鶴港帰還までの「シベリア抑留体験」である。
吉田は21歳の時に徴集され、ソ連との戦闘で瀕死の重傷を負い、その後シベリアに抑留され過酷な収容所生活を強いられた。
近年、吉田が軍隊にいたときや、シベリア抑留中に作ったとみられる未発表の歌が、レコード会社などの調査で次々に見つかっている。
吉田の戦後の再出発のきっかけとなったのが「異国の丘」(作詩:増田幸治 佐伯孝夫)だが、その原点ともいうべき満州時代に自らが作詩・作曲した「昨日も今日も」という習作があったことが判明した。
生前、吉田自身は、軍隊・抑留生活の中で作った作品を公にしてこなかったが、戦友や抑留経験者たちが“ヨシダ”という仲間が作ったという記憶とともに密かに歌い継いでいた曲だった。
戦後の日本歌謡の「原点」となるとして音楽関係者の注目を集め、作曲数2400曲と言われる吉田メロディーに、新たな楽曲が加えられ、レコード会社ではCDとして残していくという。
さて封印を解かれかのように見つかったこれらの曲は、敗戦に打ちひしがれていた日本を照らす「希望の旋律」でもあった。
実際にシベリア抑留兵の中には、あの時あの歌があったからこそ、いつか帰れる日を信じることがでたという人々も多い。
しかし、吉田自身は当時作った曲を忘れたと話していて、それらを残そうという気持ちはなかったようである。
むしろそうした歌を「封印」したフシさえあるのだが、自らが知らぬうちに「異国の丘」としてラジオで流れていたのである。
その時、吉田に戦後の復興にあたる日本を励ます歌を作ろうという思いが芽生えたにちがいない。
さて、戦争体験を一切語らなかったといわれる吉田正はシベリアで何を見たのだろうか。
その前に、そもそも「シベリア抑留」とは何だったのだろうか。
ソ連はどうして50万もの日本兵をシベリアにつれて生き、極寒の地で労働に従事させたのだろうか。
しかも、「生きて虜囚のはずかしめを受けるな」という戦陣訓に反して、それほど多くの日本兵がシベリアに向かったのはなぜだろうか、実は謎だらけである。
ただ中国東北部の関東軍は、南方戦線の軍人たちとは基本的に考え方が随分違い、沖縄・硫黄島といった自決をも辞さない徹底抗戦という動きは見せていない。
ソ連時代から今日まで、シベリア抑留がいつどのように決まったか公文書の公開が行われていないため、今もって真相はわかっていない。
最近のNHKスペシャルでは、元シベリア抑留兵が「カタツムリさえも争って食べた」というほどの飢餓生活だったことを証言している。
シベリア抑留が、長引いた原因として、日本の米軍統治の問題がある。
米軍統治下の日本はソ連との国交回復のための運動がほとんどできず、捕虜解放のための交渉が大幅に遅れることとなった。
また、日本の自由党は米国からの支援を継続させるために、ソ連との交渉に消極的であったということや、日本国内の左派政党の内部事情も大きく作用した。
結局、親米一辺倒の吉田茂から鳩山一郎首相に替わって対ソ連交渉がはじまるまで、なんの進展もみせなかったというのが実情だった。
1956年に「日ソ共同宣言」をまとめた鳩山一郎は訪ソの前に次のように語っている。
「北方領土返還が最大の課題として話題になっているが、ソ連に行く理由はそれだけではない。シベリアに抑留されているすべての日本人が、一日も早く祖国の土を踏めるようにすることが、政治の責任である。
領土は逃げない、そこにある。しかし、人の命は明日をも知れないではないか」。
吉田正は育てた教え子達には戦争中の体験を語ることはまったくなかったという。そして自分が満州やシベリアで書いた曲を「封印」したかのようであった。
満州やシベリアでともに暮らした元日本兵の証言から推測する他はない。
満州時代に歩兵だった吉田は音楽の才能を認められ、軍歌を作っていたといたという。
四三七部隊のために作曲した「四三七部隊歌」は上官が書いた勇壮な歌詞に曲をつけたものである。
その四三七部隊は1934年の秋、南方の激戦地レイテ沖などで戦闘に臨み、300人以上の命が失われる。
同じ年、吉田が所属していた歩兵第2連隊は南方ペリリュー島の守備を命じられたが、日本軍1万人のうち最後まで戦って生き残ったのは34人であった。
吉田は部隊が転戦する直前に急性盲腸炎を発症し、満州に留まったために、仲間のほとんどが命を落とす中で生き残ったのである。
生前、吉田は次のようなことを語っている。
「突撃するためにはマーチが必要だ。しかし突撃して亡くなった人々の責任を誰がとる」と。
さて吉田は、あるTV番組で次のようなことを語っている。
「いつの日か、あの”異国の丘”がそうであったように、私の歌を私の歌と知らないで、みんなが歌って いる光景に出会いたいと思っています。
歌はいつからか詠み人知らずになっていきます。そして本当のいい歌は永遠の命をもつのではないでしょうか。私の作った曲の中から1つでも詠み人知らずになり、その歌を聴く日を楽しみに作曲を続けたいと思っています」。

ロシアの南西に位置するウズベキスタンという国は、もともと旧ソ連に属していた。
そこに、日本人が建てた「ナボイ劇場」という建物がある。
ウズベキスタンは中央アジアにある小さな国。その首都タシケント市にあるのがナボイ劇場で、今でも多くの市民に親しまれている。
第二次世界大戦が終わった時、満州(今の中国)で捕虜となった日本兵を、ソ連(今のロシア)はシベリアなどで森林伐採や鉄道建設のために強制労働させた。
そして、そのうちの一部の日本兵に対し、戦争で工事が中断していたナボイ劇場を完成するように命じたのである。
工事を命じられたのは500人ほどの部隊で、隊長の永田大尉は24歳であった。
彼が考えたのは、隊員たち全員を無事に日本へ帰国させることであった。
そればかりか、劇場を、捕虜が作った手抜き仕事と言われるものではなく、日本人はすごいと尊敬されるような立派な建物にしようと考えた。
捕虜としての強制労働は苦しく、十分な食事も与えられず、お風呂もまともに入れなかった。
それでも一生懸命に劇場建設に取り組む日本人を見て、地元のウズベク人も次第に敬意を表し、そっと食事を差し入れすることもあった。
子どもたちがパンを差し入れした時には、数日後、同じ場所に日本人が木で作った玩具が、お礼の意味で置いてあったという。
日本人の活躍もあり、ナボイ劇場は2年で完成した。
ほとんどの日本人も無事に帰国することができた。
それから19年後の1966年、タシケント市は直下型の大地震に襲われ、街はほぼ壊滅した。
しかし、その中でナボイ劇場だけは壊れることなく、避難所として大きな役割を果たした。
大地震に耐えたナボイ劇場の話は、日本人の技術の高さや勤勉さ象徴する話として、ウズベキスタンから中央アジアの各国に伝わり、それらの国では今でも親日家が多いという。