内在的論理:プーチンとネタニエフ

ロシアの「ウクライナ侵攻」やイスラエルの「ガザ侵攻」は、国際世論は批判的だが、国内世論は一定の支持率がある。
外務省で旧ソ連・ロシア外交に従事した作家の佐藤優が強調するのが「内在的論理」、相手が物事を判断するにあたって「何を重要視しているか」という、価値観や信念の体系のことである。
例えば、中国のような巨大な国を統治するとして、政権にとって、批判的な知識人・企業家がいて、少数民族を多く抱え、共産党員ですら賄賂に走るなら、「国家の安定」のためには言論を封じるなど、人権を弾圧する他はない、ということにもなる。
それは、現在のロシアにもあてはまることであろう。
プーチンのウクライナ侵攻の背景には、ナポレオンと戦った1812年戦役や、ロシア革命後に欧米の干渉で生じた戦争(1918~20年)がある。
そうした侵略を経験したロシアでは、欧州はスキを見せれば襲いかかってくるという被害者意識がある。
とりわけ政権は、約2700万人の死者をだした「独ソ戦の記憶」をロシア国民に繰り返し想起させ、愛国心をあおってきた。
また、「旧ソ連崩壊」によって超大国の座から転落したという屈辱も、ロシア国民の欧米観に影響しているにちがいない。
旧ソ連は、共産党の一党独裁に基づく中央集権体制であった。そのソビエトの「民主化」という偉業をなしたゴルバチョフは、ロシア本国での評価は高くなく、2022年8月に91歳で亡くなった。
ゴルバチョフ大統領がやった「ペレストロイカ=改革」と、「グラスノスチ=情報公開」も、経済的停滞の中でアメリカとの軍拡競争を行うことには限界があり、やむにやまれる状況で行ったことだった。
既得権益に大胆に踏み込んで行ってよくも暗殺されずに済んだものだが、ゴルバチョフ体制にとって最大のイメージダウンは、国家行事(メーデーの式典)を前にして、1986年4月チェルノブイリ原発事故の「情報公開」が遅れた点である。
その5年後の1991年8月、ソビエト共産党、軍、治安機関の「保守派」が、「民主化の流れ」を止めようとした事実上のクーデターが起きた。
クリミアの別荘に休養中だったゴルバチョフ大統領を病気として「軟禁」、秩序と国の統一の回復を訴えて「全権掌握」と「非常事態」をテレビで布告、モスクワには戦車部隊を導入した。
また国営テレビやラジオはクーデター側が抑えていて、クーデターは、完全勝利であるかにみえた。
しかし人々は自由がなかった時代に戻りたくないという一心で、「ロシア最高会議ビル」の周りに、特殊部隊が制圧に来るとの情報が流れる中、数万人の群衆が恐怖にひるむことなく集まっていた。
ロシア最高会議ビルに軍の戦車が近づいてくるとエリツィン大統領は、側近の制止を振り切り、兵士たちと話をしたいと外に出て、戦車の上に乗っかって顔を出した兵士に話しかけたかと思うと、国民への「呼びかけ」を読み上げた。
それは「テレビもラジオも放送してくれない。合法的な連邦大統領が失脚させられた。これは右翼反動勢力による非合法なクーデターだ」というものだった。
戦車の上に立つエリツィンの胆力は見事なもので、巨大なソビエト体制への「抵抗のシンボル」となった。
モスクワの抵抗が各地に広がる中、軍や治安部隊が命令を「拒否」する事態も相次ぎ、保養中のクリミアで軟禁されていたゴルバチョフ大統領がモスクワに戻り、クーデターの参加者は逮捕され、わずか3日で失敗に終った。
エリツィンのよびかけで、ロシア・ベラルーシ・ウクライナの三共和国の大統領がミンスク近郊の別荘に集まり、ソビエト連邦の消滅を決定した。「我々は連邦に代って「独立国家共同体(CIS)を創設する」と宣言し、他の共和国の加盟をよびかけた。
ゴルバチョフはそんなものは認められないと「連邦を維持する」ためロシアやウクライナを含む9つの共和国と、共和国権限を大幅に拡大した新たな「連邦条約・主権国家連邦条約」で合意した。
その調印は8月20日に行われることになっていたが、その前日に軍と治安機関のトップを含む連邦の保守派が「国家非常事態委員会」を組織して事実上のクーデターを起こしたのである。
保守派は、「社会主義」も「ソビエト」という言葉もない「新連邦条約」の内容に激怒し、既存の「連邦」を守ろうとした。
つまり、ソビエトを構成する民族共和国が、それぞれ独立する動きを強めたことを受けて、ゴルバチョフの改革は”行き過ぎ”だと、危機感を抱いた保守派が、彼を軟禁したのである。
ただ、前述のように、クーデターの試みは3日間で失敗に終わったことにより、想像以上に「民主化の弾み」をつけたといってよい。
「ソビエト共産党」が消滅し、ゴルバチョフ大統領が共産党書記長を辞任した。
15の共和国のうち11までが、エリツィンに賛同し、ゴルバチョフによる「連邦条約調印」の可能性は消え、各共和国の自立は一気に進みそれそれまで自立に消極的だった中央アジア諸国も「主権宣言」を行った。
ソビエトが崩壊した当時、プーチン現大統領は当時レニングラード・今のサンクトペテルブルクで「民主派市長」の側近として働いていた。
ところがエリツィンは、自分の後継者にプーチンを指名する。とはいえプーチンにとって皮肉なことは、かけがえのない「祖国ソビエト連邦」を喪失したという気持、それは連邦を守ろうとした「保守派」の心情と相通じるものがあったことが推察できる。
遡ること2年、1989年11月9日、「ベルリンの壁」が崩壊する。プーチンはNATO担当の「KGB職員」として東ベルリンに滞在し、その混乱を目の当たりにしている。
ベルリンの壁崩壊から東西ドイツの統一により、ドイツとNATOとの関係をどうするかが大きな問題として浮上した。
これに最初に言及したのは西ドイツのゲンシャー外相が演説で、東欧の変革とドイツ再統一がソ連の安全保障利益を損なうことがあってはならず、「NATOは東への領域拡大を排除すべきだ。すなわちソ連国境に近づくようにすべきではない」と述べた。
さらに、ベーカー米国務長官が1990年2月にゴルバチョフ・ソ連党書記長と会談した際、NATOを「東方へは1インチたりとも拡大しないことを保証する」と述べた。
ただ、「東方不拡大」の約束を明示した条約はなく、あるのは当時交渉にあたった者の会談でのやり取りや演説での言及にすぎない。
また「東方」が何を意味するか、双方に共通理解があったわけではない。
問題は、東欧諸国はその後もNATO加盟にこだわり、米国でもそれへの支持が広がったことだ。
バルト三国がNATO、そしてEUに加盟する。
ロシア側からすれば裏切られたという思っていただろう。こうした経緯が、エリツィンがKGBのNATO担当プーチンを後継者に選んだことにも関係するかもしれない。
そもそもNATOはソ連を対象につくられた軍事同盟である。冷戦も終わり、ソ連崩壊後にもなぜ拡大する必要があるのだろうか。
ロシアを危険な国家にしたのは、アメリカおよびNATO側にも原因があるといえる。
2014年、ロシアのクリミア併合後、地域の安定を取り戻す交渉で、ウクライナ東部ドンパス地方に強い「自治権」を認める「ミンスク合意」が結ばれた。
ゼレンスキー大統領がロシア寄りの「ミンスク合意」を無視しようとしたことが、ロシアのウクライナ侵攻の直接的な原因であるが、その根は、ウクライナがNATOへの加盟を阻止するためである。
元々ウクライナとロシアは非常に近い関係にあり、ロシアには必要な国でもある。そこに、米国の核ミサイルが並ぶことだけは阻止したいのである。
それにしても、NATOの「東方不拡大」を公言してきたアメリカが、何故それを撤回したのか。
クリントンの時代、アメリカがIT革命により好景気を呈した。東欧諸国は自由化する一方、市場は未成熟であり、アメリカの企業からみてビジネスチャンスの宝庫といって過言ではない。
ウクライナの「オレンジ革命」「マイダン革命」といった”色つき”の革命が東欧諸国であいついで起きている。
資源大国ウクライナが独立した共和国である以上、アメリカがロシア主導からアメリカ主導の経済に組み込むために、わざわざウクライナに内部対立を引き起こすよう仕組んだのではないか。
アメリカがCIAを使って、南米のニカラグアやアルゼンチンなどで行ってきた工作を考えれば、十分に想像できることである。
つまり、ロシアのウクライナ侵攻は、ウクライナが「ミンスク合意」を破ったことが直接的原因だが、そこには西側の執拗な分断政策がもたらした面も否定できない。
また東ベルリン市長であった当時のベルリンの壁崩壊、そしてKGB議長であった当時に見たソ連崩壊が、その思考様式に大きな影響を与えたにちがいない。

イスラエルの「ガザ侵攻」について、国家としてよりもネタニエフ首相個人の「内在的論理」の方に興味がある。その強硬姿勢の裏に何があるのだろうか。
20世紀初頭、中東の大部分を支配していたオスマン帝国では、多民族・多宗教を容認する国家であった。
しかし、まもなくその共存関係を壊す出来事が起きる。1914年に勃発した第一次世界大戦である。
オスマン帝国はドイツ陣営にはいり、イギリスなど連合国と戦った。
イギリスはユダヤ人とアラブ人それぞれを味方にしようと「二枚舌外交」を行った。
外相バルフォアはユダヤ人財閥から戦費をだしてもらう見返りに、戦後パレスチナにユダヤ人の郷土をつくることを支持すると約束した。
イギリスは大戦に勝利するが、双方の約束を守ることなく、パレスチナはイギリスの「委任統治領」となった。
ユダヤ人は結局、自力で国家を建設するしかないと、多くの移民を送りこんだ。つまり国家建設の既成事実を積み上げようとした。
ところで「シオニズム」つまりパレスチナ帰還運動のきっかけは、ドイツのナチスによるジェノサイド(集団虐殺)に先立つこと30年、帝政ロシアによる「ポログラム」(ロシア語:集団虐殺)によるものだった。
多くのユダヤ人がポログラムを逃れパレスチナに帰還したてめ、社会主義的な集団農場(キブツ)が生まれたのは、そのためである。
ユダヤ人がキブツで井戸を見つけた喜びを表す踊りがが、日本の運動会でも歌われる「マイムマイム」だ。
従来、イギリスはアラブ人の反発をおそれ、ユダヤ人のパレスチナ移住を制限していた。
しかし1930年代、ナチスヒットラーにより600万人が虐殺された。明族そのものが抹殺されようとされたにもかかわらず、不法移民は難民として閉じ込められ、ヨーロッパに送り返された。
結局、手におえなくなったイギリスはパレスチナの移民統治を放棄。1947年、解決を国際連合に委ねることとなり、エルサレムなどを「国際管理」として、アラブとユダヤそれぞれで土地を「分割」する案を提示した。
国連総会で、ユダヤ人は融資をチラつかせて、人口の少ないユダヤ人に半分以上の土地を与える「ユダヤ寄り」の分割案を承認させることに成功した、
翌年の5月14日、ベングリオン首相は「イスラエル建国」を発表するものの、その日、エジプトがイスラエルに侵攻を開始した。
しかしベングリオンはその事態を想定していて、あらかじめ不要になった兵器を世界中から買い付けるなど、周到な準備をしていた。
戦いは1年余りで終了、ガザ地区とヨルダン川西岸以外を領土するなど、分割案よりも拡大した。
ただ、エルサレムの「嘆きの壁」はアラブ側に残された。
その後、イスラエルは国力を充実させるために「帰還法」う制定して世界中によびかけ、15年間で人口を倍にした。
増えた人口を養うために北部から巨大な水路を建設する一方、同じ水源をつかうアラブ周辺国に被害をもたらす結果となった。
再び緊張がはしり。1967年エジプトはアカバ湾を封鎖し、物流が途絶えた。
しかしイスラエルの戦力は空軍がエジプトの4分の1など、周辺諸国と戦えるほどの力はなかった。
そこで、イチかバチかの、おおきなカケにでる。
自国の防衛を捨てて、ほぼすべての戦闘機200機をエジプトにむかわせ、エジプト軍の基地はわずか3時間で破壊され、反撃不能の状態になった。
ガザ地区やヨルダン川西岸を制圧し、戦闘はわずか6日間で終了した(六日間せ戦争)。
この時指揮をとったラビンは「国民的英雄」となり、7年後に首相となる。なによりもイスラエル人をよろこばせたのは聖地「嘆きの壁」を支配下においたことであった。
ラビン自身も、生涯でこれほどの喜びはないと語った。
決国、イスラエルが領土を拡張するたびにアラブ人から土地を奪われ、1948年には、70万人のパレスチナ人が難民となり、その後も増え続けた。
アラブ人側は、民間志願兵を集め「武装ゲリラ」を組織し、PLO(パレスチナ解放機構)を結成した。
「嘆きの壁」近くで育ったリーダーのヤセル・アラファトのもとに、家を失った難民などが集まった。
そのパレスチナゲリラと最前線で戦ったイスラエル兵士が、「ベンヤミン・ネタニエフ」である。
ネタニエフは18歳の時、尊敬する兄ヨナタン・ネタニエフと同じ道を目指し、軍のエリートが集まった「特殊部隊」に入ることを希望し、そこに配属された。
1976年、多くのユダヤ人がのるテレアビブ空港で、航空機がハイジャックされる事件が起きる。
犯人はパレスチナ人で106人を人質にして仲間の釈放を要求、アラブを支持するアフリカのウガンダに移動し立てこもった。
それに対してイスラエル首相ラビンは、ネタニエフの兄ヨナタンが所属する「特殊部隊」に困難極まりない作戦を命じた。
4000キロも離れたウガンダに特殊部隊100人を送り、武力で人質100人を奪還飛行機するという強攻策であった。
特殊部隊を乗せた飛行機は敵に気づかれにように深夜の空港に隠密着陸、飛行機から降ろしたのは「黒塗りの高級車」であった。
それは、ウガンダの大統領の車列かのように「国旗」を立てるなどして扮装した。
そして犯人がたてこもる建物に侵入。特殊部隊はわずか1時間半で106人のうち102人を救出した。
そして人質は、テレアビブで家族と対面し救出を喜び合った。
しかし敵の銃撃をうけ、ひとりのイスラエル将校が命を落としていた。それが、ネタニエフの兄ヨナタンであった。
ネタニエフは、兄ヨナタンが死んだという知らせに、「人生が終わったように感じた。もう立ち直れないと思った」と語っている。
さてイスラエルは1970年代から80年代にかけて外国からの投資をよびこみ経済発展をとげた。
人口も400万を超えた。国家予算の4分の1を軍事費に投入、巨大な軍需工場を設立。
イスラエルのパレスチナ自治区への「非合法的入植」などにより、国際世論はアラブ側に傾いていく。ガザ地区ではじまった「インデファダ」とよばれる、イスラエル軍に石をなげる抵抗運動が頻発した。
この運動を支援するため、イスラム教の支援団体「ハマス」を組織する。
1997年 ラビン首相とアラファトで「オスロ合意」で平和共存の道が開けるかと思われた。しかし2年後の和平記念集会でラビンが車に乗り込もうとした瞬間に、至近距離から銃弾が放たれ即死した。
犯人は和平に反対するユダヤ人の若者だった。
混乱のなか首相になったのが、右派政党の党首となっていた「ベンヤミン・ネタニエフ」である。

イスラエルはアメリカなどから最新兵器を提供され、世界有数の軍事大国となった。
近年、イスラエルと中東とは融和傾向が高まっていたのは、イスラエルにはとてもかなわないというアラブ側の動きであった。
しかし、その融和ムードは、逆にハマスを孤立させた。
その一方で周囲をアラブ世界に囲まれたイスラエル側には、ヒトラーによる「ジェネサイド」という民族的トラウマがある。
ちなみに佐藤は、当時のゴルバチョフ大統領が進めていた「ペレストロイカ」に反対するクーデターの際に、ゴルバチョフの安否情報を、世界に先駆けて掴んだことで知られる。
佐藤によれば、ゴルバチョフからエリツィンの時代はむしろ例外的な時代で、その前のブレジネフやスターリン、そしてプーチンは「帝政ロシアの時代」と繋がる指導者像であり、ロシア人の多くは「プーチンの論理」が支持している。
に、 中東においてキリスト教徒とイスラム教徒は、長い歴史の中で対立よりも共存の歴史の方が長かった。
イスラム世界では他民族を支配するうえで、人頭税(ジズヤ)や地税(ハラージュ)払いさえすれば、土地から追い出されることなく、共存してきたのである。