2013年、和食が「食」のユネスコ無形文化遺産に登録された。正式な名前は、「和食;日本人の伝統的な食文化」で、世界で5番目となる。
和食が登録された理由は、和食の「お寿司」や「お刺身」、「天ぷら」などの特定の料理や食材などが評価されたのではなく、和食が「日本の伝統的な食文化」であること、そして「世代を超えて受け継がれ、地域の結びつきを強めている」ことが評価された。
その一方で、海外で和食に限らず「食文化」を切り開いた日本人や日系人もいる。彼らは、「食」のサムライとよぶにふさわしい人々である。
アメリカのジャパンタウンのある都市には、「BENIHANA」という日本食レストランを見かける。
このレストランが全米に知られたのは、高い帽子をかぶったコックの鉄板焼きで見せる派手なパーフォーマンスであるという。
これが日本人の考えた演出だとしたら、型にはまらぬ面白い人物だったに違いない。
創業者の青木廣彰(あおきひろあき)は、1938年東京中野生まれ。もともと、「ロッキー青木」の名で知られたレスラーである。彼こそはアメリカ日本食ブームの先駆者だった。
青木家は江戸時代は紀州徳川直参の旗本だった和歌山県士族の旧家である。
1957年に慶應義塾大学経済学部に入学し、在学中にはレスリング部に所属し、レスリング日本選抜で米国遠征し、そのままアメリカに残った。
ニューヨーク市立大学シティカレッジ に入学、レストラン経営学を学んだ。
1962年、ニューヨーク市ハーレムで移動アイスクリーム屋を開き、「和傘のミニチュア」をアイスクリームに添えるアイディアが功を奏し成功。
また1960年代前半、レスリング全米選手権のフリースタイルとグレコローマンスタイルでそれぞれ優勝し、レスリング選手としても活躍。
1964年、米国選手として東京オリンピック出場選手に選ばれるがアメリカ合衆国の市民権がなく、オリンピックに出場することができなかった。
同年、両親が既に日本橋を本店に銀座などで洋食屋「紅花」を数店舗経営していたため、両親兄弟を含む家族ごと渡米し、鉄板焼きレストラン「BENIHANA OF TOKYO」第1号店をニューヨーク・マンハッタンに開業した。
ロッキー青木の父は、かつて「郷宏之」の芸名で活躍していた俳優・タップダンサーで、後にレストランチェーン紅花(BENIHANA)の共同創業者となった。
実は、鉄板焼きのパフォーマンスは、コメディアン的ボードビリアンの青木湯之助のアイディアでを取り入れて始めたものである。もの珍しさも相まって多数のマスコミに取材され店は繁盛した。
ヒルトンホテル会長・バロン・ヒルトンからも出店依頼が来るようになり、後に米国内80店を含む世界110店舗を展開する、一大日本食チェーンとなる。
さらにロッキー青木はバックギャモンの全米チャンピオンになるなど活動の幅を広げ、パワーボート世界大会で2位になるなど多方面に顔が知られた。
そればかりか、店の「広告塔」になるために気球で太平洋横断を行なうなど、型破りな冒険家であった。
青木は2008年に亡くなったが、病室の引き出しの中から生前に書いたであろうメモ書きが見つかり、夫人宛に震える文字で“幸せだった。ありがとう”“I love you forever without you I am dead”と書かれていた。
当時、妻である青木恵子は、「BENIHANA」をやるパッションは残ってなかったものの、そのメモ書きを見て夫の遺志を継がないといけないと奮起し、BENIHANAのCEOに就任する。
10年はやろうと決意し、米国内での新規店舗の開店はもちろん、17か国でのフランチャイズ展開でさらなる事業拡大を図った。
どの国でもロッキーが考えた“エンターテインメント色の強いレストラン”という核の部分は守ってきた。
昔からのメニューは絶対に外さず、時代の流行に合わせてヘルシー志向やベジタブル、豆腐ステーキ、シーフードを増やすなど様々な工夫をした。
彼女はロッキー青木の3番目の妻であるが、ロッキーとどんな出会いがあたのであろうか。
恵子は山脇学園短期大学卒業後にハワイ大学に留学し、在学中にニューヨーク在住の日本人ビジネスマンと結婚してグリーンカードを取得したものの、1年半ほどで離婚する。
その間、ニューヨークのセレブマダムたちの交流の場だった“主婦の友”の理事に気に入られて五番街にオフィスを借りた。
そこで毛皮と下着の日本での輸入販売を大成功に収め、小野恵子(ロッキーと結婚前の旧姓)の名はニューヨークのビジネス界で知られるようになる。
そして、地場産業や観光産業の仕事にも関わるようになり、ロッキー青木と知り合うこととなった。
「BENIHANA」10年でくぎりをつけてCEOを退任後、好きなシェフを自宅に呼ぶことができるビジネスや介護用品の開発を同時並行で行ってきた。介護用品では実用性にすぐれなおかつオシャレで身につけたくなるようなデザイン性の高い寝巻きなどを開発した。
青木恵子は、「挑戦することがなくなることが怖い」と語るなど、ロッキー青木と似た者同士の結びつきだったといえよう。
昔から、ハワイのお土産といえば「マカダミアナッツ・チョコレート」というのが定着している。
19世紀後半のハワイ王国の経済のおよそ半分を支えていたのは砂糖産業であったが、サトウキビ農園での労働力は常に不足。そこでハワイ王国は移民を頼って海外からの労働者を募ることにした。
これに応じた日本人の一人が山口県で農家を営んでいた滝谷源助という人物がいた。
源助は農家の貧しい暮らしから抜け出せると夢を抱いて妻と共にハワイに渡った。
ハワイで生活の基盤を作ろうと奮闘するうちに、1989年には滝谷夫婦に息子の滝谷勘一が誕生する。
勘一は商才を発揮し、ソーダやアイスクリームの販売業で財を成すことに成功する。
そして勘一のもとに三男として生まれたのが滝谷守で、「マカダミアナッツ・チョコレート」の生みの親になる人物である。
守は生後すぐに山口県の親戚の家に預けられて成人するまでは日本で育つが、守が20歳を迎えた時に突然父親の勘一からハワイに戻るようにと呼び戻される。
この頃の勘一はハワイで6つの会社を経営していて、守はそのうちの一社であるソーダ飲料を製造する会社を手伝うことになった。
初めてハワイに渡った守は現地に早く馴染もうと一から英語を学び、それから4年後の24歳の時にハワイで日系人の愛子を妻に迎えた。
守は父の仕事を手伝っているうちに次第に自らの会社を立ち上げたいという夢を抱くようになり、父親の会社を助けたいという思いと板挟み状態となった。
守の背中を押してくれたのは「自分の好きなようにおやりなさい」という妻の一言であった。
守はこれに一念発起して起業家としての一歩を踏み出すが、その矢先1941年の真珠湾攻撃のあおりを食う形でソーダ飲料の会社はアメリカの管理下におかれた。それだけでは済まず、監視下におかれ、自由さえも奪われることになった。
戦争が終わると父の勘一は経営から身を引く決断をし、守は起業の夢をすてきれないまま、家族の生活の安定を優先し、アメリカの管理下を離れた会社を軌道に戻すために力を尽くした。
そして5年後、守が38歳の頃に経営状態は改善を見せ、ここで改めて起業する夢に向かう事になる。
そこで守の目に留まったのがサトウキビ農園を囲む防風林。そこに植えられていたのはマカダミアの木。
当時は商品価値が低かったマカダミアナッツを食べてみると、守は「これはいける」と確信した。
早速1本4ドルのマカダミアの苗を5000本(現在の価値で約7200万円分)購入する決断をした。
これにより一世一代の賭けに出たといえる。
しかし、それらが順調に実をつけていよいよ収穫というその時、折悪くハリケーンがハワイを襲ってマカダミアの木は全滅してしまう。
また一からのスタートとなった守が、ハワイで人気のないマカダミアナッツをどうしたら売れるかを思案していると、姪っ子のキャレンが守の口にチョコレートを放り込んだ。
そこで偶然マカダミアナッツとチョコレートの相性の良さに気付いた守は、全くお菓子作りのノウハウが無い状態から研究をスタートさせた。
そして何百種類もあるチョコレートとマカダミアナッツの相性を自ら食べ比べてナッツ本来のクリーミーさが損なわれないような味を追求した。
さらにマカダミアナッツにも加工を施して、こんがりと炒る事で新鮮な味を封じ込めるという工夫もした。
こうして開発スタートから10年が経つ頃に世界初の「マカダミアナッツ・チョコレート」が誕生する。
守は自らの足で営業を行ってハワイ在住の日系人に試食してもらう日々を送るが、その努力もむなしくハワイでは全く売れずじまいで、大赤字を出してしまう。
ハワイの現地人はマカダミアナッツを好んで食べる習慣がなかったのである。
ただ、日本でハワイ観光ブームが巻き起こった事もあり、「お土産需要」を狙って売り出すという作戦に切り替えた。
1964年の東京オリンピック開催をひかえた日本では観光目的の海外渡航が自由化を認める動きが活発化しており、そこで守が日本人観光客向けに考えたのが「手提げ箱」であった。
手提げ箱のパッケージを作ることで手に取りやすく、ハワイらしい土産という印象を強める事に成功して、心血を注いだマカダミアナッツは人気商品になる。
こうして夢をかなえた守は1988年、75歳でこの世を去ることになる。
守の遺志は今でも形を変えず、守が生み出した当時のレシピそのままで、今もハワイ土産の定番として、人々に親しまれている。
「カリフォルニアワイン」と言えば、名産地のナパやソノマという地名をイメージする人は多い。
サンフランシスコから約1時間半車走ると到着する「ワインカントリー」と呼ばれるこの地域には、広大なブドウ畑と1000軒を超えるワイナリーやレストランが集まる。
ワインカントリーの美しい景色に出会えるということもあって、観光客をよびよせている。
今から約1世紀以上前の1875年、ようやく開拓者によってブドウ栽培が始まりだしたこの土地に、一人のサムライが足を踏み入れた。
幕末の1865年、開国か攘夷かで日本が揺れていた時代、薩英戦争を経験した薩摩藩は、そこで西欧の文明と海軍技術の落差を思い知らされた。
薩摩藩は、欧州の文明と技術を日本に取り込むため、若い藩士達を密航という形で英国留学に送り出した。
選ばれた15人の中には、五代友厚(ごだいともあつ)や森有礼(もりありのり)らがいて、薩摩藩英国留学生は帰国後もそれぞれが政財界で活躍し、近代社会の礎を築いた。
そんな15人の中で最年少は、まだあどけなさが残る13歳の長澤鼎(ながさわかなえ)だった。
実は、幕府から海外渡航は固く禁止されていた為、「長澤鼎」という名前は藩による変名であったのだが、その名前を生涯貫くことになる。
長澤は英国に渡っても若すぎた為、大学には入れず、英国北部でホームステイをしながら高校に通い、抜群の成績をおさめたという。
約2年後、ほとんどの留学生は帰国したが、長澤と他5人は新興宗教家で思想家のトーマス・レイク・ハリスと出会い、彼が率いる教団コロニーがある米国ニューヨーク州に渡った。
そこでブドウの栽培やワインの醸造に従事しながら、他の仲間達と自給自足の共同生活を送った。
やがて他の藩士5人も帰国し、長澤だけが取り残されたかたちとなった。
その後、ハリスはコロニーを解散し、1875年家族と数人の信奉者と共にカリフォルニア・ソノマ郡のサンタローザに移住した。
ハリスは新規ビジネスに賭けるパートナーとして、絶対の信用が置ける長澤に全てを託した。ここから「ワイン王」としての長澤伝説が始まることになる。
長澤のブドウ作りは、当時カリフォルニアで蔓延していた害虫との戦いだった。
彼はまずアメリカ品種の弱い苗と害虫に強いヨーロッパ品種の苗をつなぐ「接ぎ木」を導入し、強い品種に改良をする事で克服した。
広大な土地「ファウンテングローブ」を開拓して作られたブドウ畑に1882年、醸造所も完成させ、「ファウンテングローブワイナリー」と名付けた。
彼が建設した厩舎「ラウンドバーン」も建てられ、ワインビジネスは益々繁栄した。
そしてヨーロッパへと出荷され、「ファウンテングローブワイナリー」はソノマのワイン生産の90%を占めるまでになっていたという。
長澤の人柄は、口数が少ないが真面目で、人に親切なオーナーだったと伝わっている。
従業員は家族のように扱われ、給料も他よりも優遇されたという記録がある。長澤はやがて、「King of grape」の名声を授けられ、「バロン(男爵)長澤」と呼ばれるほどに、財を成していったのである。
しかし1920年に施行された「禁酒法」により、長澤の快進撃は急に終わりを遂げる。ワインの醸造ラインはストップし、経営困難に陥った。
だが、長澤は私財を投じてこのワイナリーを守りぬき、なんと「禁酒法」が廃止された後の1934年、長年、倉庫で眠っていた長澤ワインは再出荷されたのである。
ところがカリフォルニアワインの黄金時代に向かって突き進むかに思えた矢先、長澤は82年の人生に終止符を打った。
残された広大なブドウ農園とワイナリーは、彼の強い希望で甥に託されたが、州の法律により、土地所有の権利は移民者には認められなかった。
その後ファウンテングローブは荒廃し、牧草地となり、分配されていった。
その後、第2次世界大戦が勃発。日本人移民は皆敵とみなされ、戦後は誰も彼の事を語ることはなく忘れ去られていった。
長澤の名前が再び轟いたのは1983年のことである。日本を訪れた当時のアメリカ大統領のドナルド・レーガンが国会 で演説した際、「長澤」の名前を取り上げ、「日本の薩摩スチューデント、ナガサワがアメリカのワイン業界で歴史的な偉業を遂げた」と発言したのである。
レーガンはかつてカリフォルニア州知事であったので、「長澤」を知っていたのだ。
そして、レーガンはカリフォルニアワインが世界にその名を馳せるようになったのは、長澤の功績が大きいと述べたのである。
長澤は生涯独身を貫き、武士だった過去は決して語らずとも、部屋にはいつも木刀があり、時折素振りの音が聞こえたという。
長澤没後60年の1994年、「ファウンテングローブ」跡地の一部を新たな家族経営者が継承した。
再びこの地にワイナリーを建設し、長澤レジェンドを蘇らせたのが、「パラダイスリッジ・ワイナリー」である。
しかし、2017年にカリフォルニアをおそった山火事により「パラダイスリッジ」は焼失してしまった。敷地内に設立された長澤記念館や、長年サンタローザ市のシンボル的存在になっていた「ラウンドバーン」も焼失した。
数ヶ月後、ソノマの復興の過程で「長澤の刀が焼け跡から見つかった」というニュースがあり、
長澤の名前が再び注目を集めるようになり、「長澤ワイン」と銘打っったワインはあっという間に完売した。
サンタローザと鹿児島では、美術館で「長澤伝説」についての展覧会が企画されて話題を呼び、不死鳥のように蘇る「長澤鼎」を、人はラストサムライとよぶ。