第二次世界大戦中に、日本軍が連合軍向けにラジオ放送で太平洋の島々に魅惑の女性「東京ローズ」の声が聞こえた。その目的は敵の戦意を削ぐことであった。
その「東京ローズ 」とは、プロパガンダ・ラジオ番組「ゼロ・アワー」でアナウンサーを務めた女性の愛称である。
ラジオ番組内ではアナウンサーの名前は紹介されなかったため、アメリカ軍兵士は彼女らを「東京ローズ」と呼んでいたが、その放送を担当していた女性は複数いた。
「今頃あなた達の奥さんや恋人は他の男と宜しくやっている」などとトゲある言葉をマシュマロのような甘い声に包んだ「東京ローズ」のひとりが日系アメリカ人のアイバ・戸栗・ダキノであった。
ダキノは、自分が日本のプラパガンダに利用されているという自覚はなく、むしろアメリカ兵の慰安を行っているという気持ちがあったようだ。
それでもダキノは終戦後、「国家反逆罪」で有罪判決を受け収監され、アメリカ市民権を剥奪された。
アイバ・戸栗・ダキノは、1916年ロサンゼルス生まれの日系2世。
普通にアメリカ人として教育を受け、アイデンティティを持ち、成長した。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校在学中の1941年7月に、叔母の見舞いのために初来日。その滞在中に何と太平洋戦争が勃発し、アメリカに帰れなくなってしまう。
ダキノは戦時中に特高警察から何度も日本国籍に変えるよう迫られるも、その都度断っている。
仕方なく生活費を稼ぐために、最初は通信社で通信傍受とタイピングの仕事をしていた。
しかし1942年から日本放送協会(NHK)の対外宣伝ラジオ番組のスタッフとなる。
最初は原稿の翻訳をやっていたが、その愛らしい声を見込まれてアナウンサーの1人となった。
そして、担当するラジオ番組「ゼロ・アワー」は連合軍兵士の間で人気になり、いつしか彼女たちは「東京ローズ」 という名前で呼ばれるようになる。
終戦後、数人いた「東京ローズ」の中でダキノのみが「自分が東京ローズだ」と公言したことがきっかけで、GHQに呼び出されて反逆罪で巣鴨プリズンに収監されてしまう。
そしてアメリカ人でありながら、敵国・日本に加担したとして、ダキノは逮捕され、サンフランシスコで「東京ローズ裁判」にかけられる。
ダキノは「自分は米兵の戦意喪失を図るような放送はしていない」と主張したものの、結局、女性としては史上初となる「国家反逆罪」で禁固10年・アメリカ国籍剥奪の有罪判決を受け、刑務所に服役することになる。
ところで、歌手森山良子の父森山久も「ゼロアワー」の担当スタッフであった。
久の父は、かの地で写真術を学び、サンフランシスコで写真屋を始めた。
久は日系二世として育つも1929年、世界恐慌がはじまり、「日本でジャズをやればカネになるぞ」という話があり、1944年に久は日本に渡る。
そのうち、日中戦争が勃発しジャズは不要不急の音楽であり、急激に下火となっていった。
アイバ戸栗とは反対に、日本人帰化を受け入れた。
久は、日本国籍を回復した3日後、南方慰問団に徴用され出発。南方から帰った久は、対米謀略放送「ゼロアワー」、ラジオトウキョウの演奏責任者になった。
終戦後、進駐軍の将校クラブで、ニュー・パシフィック・オーケストラという大半が「ゼロアワー」のメンバーで演奏した。
しかし、対米謀略放送にかかわった日系二世の追求が始まり、「東京ローズ裁判」の証人として、「ゼロアワー」関係者19名が召喚され、久もサンフランシスコ裁判所の証言台にった。その記録が残っているが、「覚えがない」「聞いたことがない」というのが、精一杯の答弁であったようだ。
一方10年の禁固刑をうけたダキノは模範囚であったため6年2ヶ月で釈放される。
1970年代に入ると、当時の裁判は「人種差別に基づく不当なものであった」という声が、日系アメリカ人団体や退役軍人会からあがり、ダキノの名誉を回復する動きが出てきた。
そして新聞で当時の裁判はリハーサルも行われた茶番で、到底公平な法に基づくものではなかったことがリークされた。
最終的に、1977年のフォード大統領による特赦でダキノはアメリカ市民権を回復するに至った。
さらに死亡する直前の2006年には、第二次世界大戦のアメリカ退役軍人会がダキノを「彼女の揺るぎない精神、国を愛する心がアメリカ国民に勇気を与えた」として「エドワード・J・ヘライヒー賞」を授与された。
「今日は人生最良の日」と涙ながらに語った。その8ヶ月後に脳卒中で他界した。90歳であった。
一方、同じ日系二世の森山久は、娘の良子がシンガーとして活躍し始める頃に引退した。
久は、良子たちに戦争が始まってからのことは、一切話さなかったという。
1971年、24歳の長男・晋が突然、心不全で亡くなるが、その体験を森山良子は「涙そうそう」に歌った。
嘆く家族に久は、「そのことで悲しむのは、もうお終い」といい、家で英語はほとんど話さない人だったが、「WE MUST LIVE」と言った。1990年、80歳で亡くなった。
第一次世界大戦中に約4600名のドイツ兵が中国青島で日本に敗れ俘虜になった。
彼らは日本各地の俘虜収容所に収容された。
驚くべきことに、ドイツ人俘虜は家族ぐるみで日本の片田舎の人々と交流を温めた。そしていつしか日本を愛すようになった。
それは、戦争後も少なからぬ人々がドイツ本国に帰るよりも日本での生活を選んだことからもわかる。
そして徳島坂東の収容所でベートーベンの「第九」が、日本ではじめて戦争された記念碑的な出来事であった。
またドイツ人達は、ハムやホットやハムやバームクーヘンの作り方を日本人に伝えた。
これらは現在「原爆ドーム」として知られる「広島物産陳列館」で紹介され一般に知られることになった。
また、福岡県糸島市では福岡市内に収容されたドイツ人が、元寇防塁の修復にあたっている。
2024年、日本の「被団協」のノーベル平和賞受賞をきっかけに、「原爆ドーム」のもう一つの歴史が知られることにも期待したい。
カール・ユーハイムは、1908年、中国・山東省青島のドイツ菓子の店で働いていた。
ドイツの軍港であったこの地は、イギリスと同盟していた日本軍により占領され、ユーハイムは捕虜となった。
そして1915年から瀬戸内海に浮かぶ「似島」(にのしま)の捕虜収容所で暮らすことになる。
似島といえばドイツ人捕虜達が、日本人に本場のサッカーの技術を教えたことで知られる。
この島で育った森健兒(Jリーグ創設)森浩二(元アビスパ福岡監督)らが日本のサッカー界の牽引役となった。
1919年のドイツ降伏で自由の身となったユーハイムは、東京・銀座で働きやがて横浜で妻の名を冠した「E・ユーハイム」という店を持った。
しかし1923年の関東大震災に遭い、着の身着のままで神戸へやってきて、三宮にケーキと喫茶店を出して成功した。
ドイツ菓子のメーカー「ユーハイム」は、バームクーヘンの店として知られ、ハイカラ神戸のシンボル的存在となった。
しかしユーハイムは、1945年8月14日つまり終戦前日に亡くなり、経営は夫人のエリーゼ・ユーハイムに託されることになった。
しかし終戦後の様々の難事も重なって、エリーゼ社長は経営の実権を失うところにまで追い詰められた。
そんなエリーゼ社長が見込んだのが、ユーハイムに乳製品を納めていた河本春男という人物であった。
エリーゼ社長は河本の人柄を見込んでだのだろうが、
その出会いには不思議な運命の糸が絡んでいた。
前述の似島でドイツ人捕虜達が日本人に本場のサッカーを伝えたというのは、広島高等師範(広島大学)の学生達が、毎週似島を訪問しドイツ人捕虜と練習試合をしたことによるものであった。
そしてその高師出身の教師により、「神戸一中」が強豪高となり、そこに河本春男が赴任してくる。
河本は1910年愛知県に生まれで、中学校でサッカー部に入り3年時には全国大会で優勝した。
刈谷中学(現・刈谷高校)から1928年に東京高等師範学校(現・筑波大学)に進学した。
東京高等師範はその前身の「体操伝習所」(1878年設立)以来、日本サッカーの「草分け」として、すでに50年の歴史があった。
河本は1年生で東京高師のレギュラーとなり、1924年の東京コレッジリーグ(現・関東大学リーグ)の創立メンバーでもあった。
河本は高師を卒業後、神戸一中(神戸高校)の校長のじきじきの要望によって神戸へ赴任した。
しかしこの「神戸赴任」が、河本の「第二の人生」を決定づけることになるとは、予想だにしなかったにちがいない。
神戸一中は小柄な選手が多いチームだったが、河本部長の下でその特性の素早さを生かして体格の不利を補い、数々の「栄冠」を獲得することになった。
河本が神戸での7年の指導期間で日本サッカー界に与えた影響は、彼の母校・東京高等師範が世に送り出した多くの優れた教育者、スポーツ指導者のなかでも、ひときわ輝くものだったといえる。
しかし、その河本氏とサッカーとの関わりを突然に断ち切ったのは、太平洋戦争の勃発であった。
河本は戦局の悪化とともに軍隊に入り中国大陸へ渡って転戦した。
終戦による復員後、岐阜県高山の実家に近い牧場でバターを製造・販売する商売をはじめ、「アルプスバター社」を設立した。
そして河本にとって思い出の深い神戸の地の菓子メーカーにバターを売りに行くことにした。
この時、神戸一中でサッカーを指導した時代から、すでに20数年の月日が過ぎていた。
そんな時、カール・ユーハイム妻で当時未亡人のエリーゼ社長から「降って湧いた」ような話が持ち上がったのである。
河本に、会社「ユーハイム」を引き継いでくれないかという話である。現状、引き受けられるハズがないほど経営状態は厳しかったが、エリーゼ社長の熱意に押しだされたかたちとなった。
そこに、河本がにサッカーで培った「一歩先んじ、一刻を早く」という神戸一中時代の「出足論」が生かされることになった。
また河本の経営には、選手の心をつかみOBたちの気持ちを一つにまとめた誠意と気配りが底流にあったことがある。
そして「ユーハイム」の経営は軌道に乗り、1971年エリーゼ死去の後には、河本は同社社長に正式に就任した。
さらに河本の長男・武専務(当時)の案で、ユーハイムは1976年フランクフルトのゲーテハウスにケーキの店と日本料理店を出している。
河本は1985年に経営を長男に任せ、自身は会長に退いた。息子の河本武社長は東京ディズニーランドのスポンサー企業となり、フランスのペルティ社と契約し、ドイツにも2、3号店をオープンさせるなど常に改革を図ってきた。
カールユーハイム自身は似島収容所時代にサッカーをしたわけではないが、この島でのドイツ人捕虜と広島高師の学生達のサッカー交流が、戦争で人生を大きく狂わせられた夫人と河本との出会いのお膳立てとなったといえよう。
1936年、ベルリンオリンピックのマラソン競技で金・銅メダルを獲得したのは日本代表だった。
優勝の孫基禎(ソン・ギジョン)、3位の南昇龍(ナム・スンニョン)は、ともに、朝鮮半島出身の朝鮮人である。
彼らは日韓併合(1910年)で帝国日本となった時期、朝鮮民族でありながら帝国日本のマラソンランナーとなったのである。
孫の快挙は、日本では「国威発揚」に利用され、朝鮮では民族の優秀性を示す英雄として扱われた。
孫は、日韓併合の二年後、1912年に現在の北朝鮮・新義州で生まれた。
貧しい家庭に育った少年は、走ることに喜びを見出した。
10代半ばで中距離選手として頭角をあらわし、20歳でフルマラソンを初めて経験した。
1935年にオリンピック第二次予選を兼ねた競技会で世界最高記録(最終選考レースは2位)、ベルリン五輪では当時の五輪最高記録を打ち立てた。
日本は喜びの熱狂で沸き、新聞は「半島選手の勝利」を植民地支配の成果と結びつけて報じた。
一方、朝鮮の新聞では「世界制覇の朝鮮マラソン」という見出しが躍った。だがその時に大問題に発展したのが8月25日朝鮮の新聞「東亜日報」が掲載した写真である。
表彰台の孫の胸にあるはずの「日の丸」が意図的に消されており、同紙は発行停止処分となった。
孫の与り知らぬことではあるが、日本の当局は、朝鮮の民族運動を誘発する人物として彼を警戒するようになる。
このため、10月になって帰国した孫には警察官が張り付き、朝鮮内で予定されていた歓迎会も大半が中止された。
孫自身は当時より民族意識が強く、世界最高記樹立時の表彰式でも「なぜ君が代が自分にとっての国歌なのか」と涙ぐんだり、ベルリン滞在時には外国人へのサインに「KOREA」と記したりしていた。
このうち後者は当時の特別高等警察によってチェックされて「特高月報」に記載されており、帰国後に「要注意人物」として監視を受けることにも繋がった。
一方で、戦時中には学徒志願兵の募集など、「対日協力」に従事したことも明らかになっている。
そんな複雑な立場に置かれた孫は、陸上競技、マラソンを断念せざるを得なかった。
1945年、朝鮮半島は植民地支配からの「解放」を迎えたが、50年に朝鮮戦争が勃発。孫が郷里に帰ることはかなわなくなった。
翌年明治大学専門部法科に進むが競走部への入部は認められず、卒業後、朝鮮陸連の紹介で京城の朝鮮貯蓄銀行本店に勤務した。
そして、大韓民国の建国後は「韓国籍」となり、コーチとして活動するようになり、「マラソン普及会」を南昇龍らと結成し、ボストン・マラソンに出場する若い才能のある選手に「祖国の記録」を取り戻す願いを託した。
そして1947年のボストンマラソンでは徐潤福が孫の世界最高記録を12年ぶりに更新する2時間25分39秒で優勝、1950年のボストンマラソンでも韓国選手が上位3着を独占した。
1995年のバルセロナ五輪男子マラソンで韓国の黄永祚選手が優勝し、マラソンゲートの正面付近で応援していた孫基禎が満面の笑顔を見せている姿が写真にとらえられている。
1988年、民主化後の韓国でソウル五輪が開催されるに至り、開会式のスタジアムに聖火を持って現れたのは、75歳になる孫基禎、その人であった。
孫銀卿(ソン・ウンキョン)は、幼い頃に触れあった祖父について、「スポーツを通じた世界平和」を訴えていた。
豪快ではっきりと物を言う人であったが、様々な経験をしたため、場をわきまえて発言をしていた。
長男の孫正寅(ソン・ジョンイン)は在日本大韓民国民団の事務部長として横浜市に在住し、小学校などの講演などで、いつも「あのマラソンで日本は勝ったんです。でも日本人が勝ったわけじゃない。それがどういう意味なのかを考えてほしいです」と語っている。