日仏交流の人たち
フランス人もしくはフランスに育った人々で、日本に暮らす人々や帰化した人が数人思いつく。
クロードチアリ、ピーターフランクル、滝川クリステル、カルロス・ゴーンなどである。
また、日本の相撲ファンで、大相撲の優勝杯に「フランス杯」を加えたシラク大統領の名が浮かぶ。
ただしシラク大統領は、モンゴルを防いだ「元寇」に興味をもって日本史を学んだが、その「フランス杯」の多くがモンゴル出身の力士に渡ることは予想できなかったに違いない。
さて、日本人は伝統的にフランスに憧れをもつが、フランス人が日本に住むには、それぞれのファミリー・ヒストリーがあるに違いない。
さて,フランス人とえば1965年、シルヴィ・バルタンのCMソング「レナウン・ワンサカ娘」はインパクトがあった。
シルビィはフランス国籍ではあるが、1944年ブルガリアに生まれだ。
彫刻家でもあった父のジョルジュ・ヴァルタンは、フランス国籍を有するブルガリア人で、首都ソフィアにあるフランス大使館に勤務していた。
ブルガリアは社会主義圏で、両親と兄の家族4人でフランスに亡命したのは、1952年12月だった。
祖父もフランス生まれでフランス語を話し、父はソフィアのフランス語学校で学び、音楽教育も受けていて趣味で作曲をしたりした。
兄はジャズ・ミュージシャンとなり、シルヴィもパリに住んだことで、兄に連れられてマイルス・デイヴィスやオスカー・ピーターソンなど、一流のジャズメンがオランピア劇場で公演するライブを見て育った。
1961年の春、兄が担当していた男性歌手フランキー・ジョルダンのレコーディングで、急にイギリス人女優が降板した代わりに歌ってほしいと頼まれて、デュエット・ソングを歌ったのが17歳でのデビューとなった。
もともとは舞台俳優を目指していたシルビシィだが、その歌が予想外のヒット曲になったことで、兄のもとで音楽の道を歩んでいくことになった。
1963年には3枚目のアルバム『Sylvie à Nashville(邦題:夢のアイドル)』を制作するために、アメリカのナッシュヴィルにあるスタジオに行き、エルヴィス・プレスリーのオーケストラやコーラスとともに、兄のプロデュースでレコーディングを敢行した。
そのなかの1曲が映画『アイドルを探せ』で主題歌として使われて、シルヴィ・バルタンは世界的なスターになっていった。
映画で共演したジョニー・アリデイと1965年4月に結婚したが、人気にかげりが出ることはなく、5月には世界ツアーの一環で初来日して大歓迎を受けた。
3週間に及んだ日本滞在では全国各地をまわり、そのエレガントな振る舞いと親しみやすさによって新たなファンが急増した。
そんなシルヴィをいちはやくCMに起用したのが、新興のファッション・メーカーだった「レナウン」である。
来日中に制作した日本語で歌った「レナウン・ワンサカ娘」が1965年版としてテレビで流れると、もともと斬新だった楽曲に新たな魅力が加わったことで、レナウンという企業名の認知度をふくめて評判が高まった。
これはCMソングの王様といわれる小林亜星のデビュー作で、1960年に作られた時に歌ったのはロカビリー出身のかまやつひろし、そしてシルヴィ・バルタン来日直前に歌っていたのは弘田三枝子、当時の日本を代表するアイドル歌手だった。
「シルヴィ旋風」の記憶がいまだ消えない頃に日本で知られるようになったフランス人といえば、フランソワーズ・モレシャンである。
個人的には、アース製薬の『セボン』のCMで『トイレにセボン』などが記憶に残っている。
モレシャンは、一体どんないきさつで日本に住むことになったのか。
モレシャンの父は亡命したポーランド人技師、母はフランス人。モレシャン3歳の時に第二次世界大戦が勃発し、4歳の時にパリがナチスに占領される。
そのために本人はスペインに近いトゥールーズに疎開している。
そして父親がナチスが使用する武器を作るための製鉄工場で働いていた際、偽装工作していたことが発覚し、ゲシュタポに連れて行かれたという衝撃的な体験をしている。
幸い家族はパリ解放直前にフランスのパリに戻り、中国語かロシア語の通訳を目指したが、日本の将来性に賭けソルボンヌ大学日本語学科に学んだ。
卒業後の1958年に日本に移住し、自宅でフランス語教室を開きながら、日本航空や外務省でフランス語を教えた。
そしてNHK「フランス語会話」で講師として人気を集め、その陽気で闊達な話術でテレビ朝日の「フォックス名画座」など、多数の番組に出演するようになる。
1964年に一旦フランスに帰国し、クリスチャン・ディオール、レブロンなどで経歴を積み、1974年にシャネル美容部長として再度日本に移住した。
そしてライフスタイル・アドバイザーやファッション・エッセイストとして活躍。いわば「ファッションジャーナリスト」の草分け的存在になった。
実はモレシャンは1964年に一旦帰国した際、社会学者ギイ・モレシャン結婚し子供を出産した。
モレシャンが、現在の夫・永瀧達治と出会ったのは、モレシャンが再来日し、離婚したばかりの頃だった。
永瀧は当時、モレシャンが出演した番組のADをしていた。
永瀧達治は静岡大学中退後パリ第3大学に進学し、帰国後の1970年代から評論家、プロデューサーとして、数多くのフランスの歌手を日本に紹介している。その中には「雪が降る」が大ヒットしたアダモやミッシェル・ポロナエフなどがいた。
永瀧達治は、モレシャンの良き相談相手となってくれ、国際結婚に至る。
モレシャンは2004年、母国フランスの最高勲章であるレジオンドヌール勲章を授与され、2020年には旭日小綬章を受章するなど、「日仏交流」に貢献したことが両国から認められる。
トットちゃんで知られる「トモエ学園」は創始者は、小林宗作。小林は東京音楽学校をでて、28歳で音楽教師として音楽の楽しさを伝えたいと意気込んでいた。
それは、「大正デモクラシー」というつかの間の平和な時代であった。
しかし小林は、こころの奥に葛藤を抱えていた。
当時の学校は一斉教授と模倣が中心だった。図画の授業は好きなものを描くのではなく、見本を正確に写し取らせる。作文も大人が書いた手本を書き写して教え込む。
音楽は、おとなが教えたい道徳的な内容を含んだ唱歌ばかりだった。
小林はいら立ちをこめて綴っている。
「こんな心持が子ど心のどこにあるか。こころにもないことを歌わされているこどもがかわいそうだならない。子供の頃の無邪気な歌声が、年が上がるにつれてい消えていく」。
音楽教師としての自分に限界を感じた小林は、30歳で教師を辞めた。
新たな教育を探し、あてもなくヨーロッパにむかった小林に、ある出会いがあった。
当時、国際連盟事務次長であった新渡戸稲造に船の中で行き会ったのだ。新渡戸は小林に当時話題になっていた学校を紹介してくれた。
それは、パリにあったダルクローズ先生の「リズムの学校」である。
感性の豊かな音楽家を育てるために考案された「リトミック」という方法が実践されていた。
大切にされていたのは、自分の中に流れるリズムに逆らわないこと。
小林は、日本の教育とのあまりの違いに驚ろかされた。ここでは教師が知識を教えてはいない。
自分の力で、みずからの表現を培っている。教育は子供の好奇心をくすぐり、みずからのリズムで学ぶことのできる環境をつくることではないのか。
小林は、この学校に学ぶことを決意した。
そして小林はもう一度、教壇に立ちたいと思った。
1937年4月、小林の教育理念に賛同した人々の支援をうけて、「トモエ学園」を開校した。
奇しくもこの年、日本は日中戦争に突き進んでいた。
教育に軍国主義が色濃く反映された時代であったが、教室には子供たちがワクワクするようにと、使わなくなった電車の車両を持ち込んだ。
この学校には、様々な事情のある子が入学してきた。
障害をもつ子、差別を受けた子、他の学校で受け入れられなかった子が多くいた。
フランス人の祖父をもつ子は、町で唾をはかれる差別をうけ、いつも防空頭巾で顔を隠していた。
体の成長が止まる小さな子もいた。黒柳は活発すぎる言動が他の子に迷惑だと小学校を1年生で退学になった。
しかし、こころのなかに寂しさをかかえていた。
小林校長の信念は、「どんな子も素晴らしい才能をもっている」であった。そして、それをかなえる教育をやってみたいというものだった。
黒柳は小林校長との初対面で、なんでもいいから話してごらんといわれ4時間ずっと話した。
小林校長はそれをさえぎることなく聞き続け、黒柳は「この人はいい人にちがいない」と大好きになったという。
トモエ学園は全校で40人ぐらいの規模で、黒柳っは学校に行くのが楽しみでずっと居たかったという。
授業は独特で、小林のひくピアノによるリトミックが毎日行われた。防空頭巾で顔を隠した女の子は、リトミックで魚になりきったという。
小林の教育理念に共感した教師があつまっていた。助手で採用された女性は、これまでみたこれまでみたことのない教師とこどもの、なんでもいえる関係に驚いたという。
また教育が日常生活の中から題材をとっていた。例えば、キャラメルを食べていて、残ったキャラメルの数は子供にとって重大な問題である。
子供にとって「引き算」ができるありがたみを教える上で、これ以上ないやり方で伝えた。
小児麻痺の子と一緒に遠足した。一緒にやるんだよという言葉にすべてが包含されている。
赤穂浪士の討ち入りの日には泉岳寺に行き、その秘話を歴史の授業で教えた。トモエ学園の卒業生は、忠臣蔵についてよく知っていた。
太平洋戦争が始まると、「国民学校」にかわり教育への圧力が強まり、子供たちも一人一人とトモエ学園から去っていった。
小林の教育理念に対して、息子がやり方を変えようと意見したが、小林は「教育は20年後をみてやるものだ」とぶれることはなかった。
ひとり山内という虚弱体質の子がいた。友達と遊ぶことができずにいた。小林は、「君にしかできないことをみつければいい」とアドバイスした。すると山之内は、教室の中で実験に没頭するようになった。
また低身長症の高橋という子は、早く走れないハンディキャップがあった。そこで障害物競走など体の小さな高橋に有利なような競技がそれとなく用意してあり、1位になったこともあった。
黒柳は相変わらずに騒動を起こしていたが、小林は黒柳に「本当は君はいい子なんだよ」といつもいい続けてくれ、「自分は他の子と違うかもしれない」という寂しさは薄らいでいった。
戦争のさなか
1945年、本土空襲がはじまり、トモエ学園は授業は続けられなくなった。
そこで、小林のふるさと群馬で山を開拓し食糧を確保し、即席の教室で授業を行った。
皆、電車の教室で一緒に学ぶ日を夢みていたのだが、1945年アメリカ爆撃で、東京南西部をおさい、4月15日トモエ学園を爆撃した。
小林び家族は学園が燃えおちるのを見ていた。小林は、燃えている学園を見ながら長男の巴に「今度はどんな学校を作ろうか」とつぶやいたという。
戦後の混乱や経済的困難のために、トモエ学園の復興はならなかった。
終戦後、小林は「さくら幼稚園」を設立し初代園長に就任するなどして、自分の教育理念を後進に伝えようとしてした。
国立音楽大学講師などを歴任などして1963年になくなった。
小林がかつて「君にしかできないことをみつければいい」と語った山内は、東京教育大学(現在の筑波大学)からフルブライト留学生としてアメリカに渡った。
そしてロチェスター大学で博士号をとり、フェルミ国立研究所で副所長になり、「ウプシロン中間子」の発見によりノーベル賞候補となるほどの業績をあげた。
また低身長症の高橋は明治大学物電気工学科に学び、浜名湖近くの電機会社に就職し、調査役のポジションにあってIC技術を後輩に指導するなどしてきた。
小さいころ運動会で1位になったことが大きな励みになったことを黒柳に語っている。
トモエ学園の卒業生には他にも、女優の池内淳子や津島恵子がいる。
トモエ学園の卒業生たちが、小林の「教育は20年後をみてやるものだ」とい教育理念の正しさを実証してみせた。
背振山は福岡市と佐賀県神埼市との境に位置する標高1055メートルの山である。
近年この背振山が東北の北上山地とともに、世界の物理学者達が熱い視線を注ぐ国際的な巨大プロジェクトの「候補地」となった。
結局背振山は東北北上に敗れたかたちとなって「背振」が世界に名を知られる機会を失う結果となったものの、実は「背振」の名はすでに世界的に知られる出来事が起きていた。
1936年11月19日の夕方、佐賀県との背振の山麓で、耳をつんざくような爆音がすぐ頭の上を通り過ぎ、ふいに音が途絶えたかと思いきや地を切り刻むような音がした。
山懐の住民は、何事が起ったのか訝しがったが、大音響がおきた現地へと向かったところ、機体に挟まれて呻くひとりの外国人の若者を見出した。
実は、この事故の5年前の1931年8月26日、単独大西洋無着陸横断で「世界的英雄」となったアメリカのリンドバーグが、博多湾の名島にも着水して颯爽と舞い降りて、福岡市民の「大歓迎」を受けたことがあった。
今度はフランスの飛行機野郎・アンドレー・ジャピーが日本に来ようとしていたのだが、そのことを知る人はほとんどいなかった。
一方、フランスの人々にとって「ジャピーの命運」は大きな関心事であった。というのもジャピーは、これまでにも数々の冒険飛行に成功している「空の英雄」であったからだ。
そんなジャピーが今回挑んだのは、この年フランス航空省が発表した「パリからハノイを経由して東京まで100時間以内で飛んだ者に、30万フランの賞金を与える」という主旨の「懸賞飛行」であったのだ。
当時ハノイのあったベトナムは「仏領インドシナ」と呼ばれるフランスの植民地であり、ハノイ経由の懸賞旅ジャピーが香港経由で日本の長崎県の野母崎上空まで来た時に、燃料が足らないことが判明し、福岡の雁ノ巣飛行場に一旦不時着することにした。
しかし濃霧の為に迂回をすると、しばらくすると突然眼の前に山の形が浮かび、木製の軽い機体は、山オロシの「下降気流」にたたき落されたのである。
そして、ジャピーは、背振の人々に発見され、翌日には福岡の九州大学病院に収容された。
傷が癒え、別府の温泉で体力を回復したジャピーは、日本に深い感謝の思いを残しつつ、約2週間後には神戸から船でフランス帰国の途についたのである。
脊振山山頂近くにあるジャピー機の墜落現場には、現在「ジャピー遭難」の記念碑が建っている。
明治専門学校(現九州工大)の助教授であった藤田哲也は、1947年背振において「下降気流」の実証研究を行い、それによりアメリカの大学に招かれた。
その「ダウンバースト」研究により、航空機事故を激減させた藤田は「ミスタートルネード」とよばれた。
、小林がどのような影響を受けたか、支援を受けたか、影響を与えたかについて検討しながら、音楽教師
として教育者として小林が深まっていく過程について考察したものである。
その結果、小林はこの5人との出会いによって、音楽教師として教育者として深まり成長していったこ
とを確認した。具体的には、東京音楽学校乙種師範科入学と成蹊小学校ほかに勤務することになったいきさ
つ、渡欧する機会を得た経緯、小学校長・大学附属の幼稚園長・小学校部長としての小林の言動が児童や学
校運営者を支えたことなどからである。
また、日本の幼児教育分野におけるリトミック教育の創始者、普及者としての小林の功績に加え、小学校
の音楽教師としての実践や教育観から音楽指導への示唆を得るものも多いことが導きだされた。
Keywords : 小学校音楽教師、出会い、音楽指導、リトミック、教育者
はじめに
小林宗作(以下小林)は、日本の幼児教育分
野へのリトミック1)の普及者として位置付けら
れていることから、小林についての研究の多くは、
リトミックをテーマとして論じられてきている2)。
一方、一般の人々の間に小林の名が広く知られ
るようになったのは、『窓ぎわのトットちゃん』
3)である。ここには、トモエ学園の校長先生とし
ての小林が描かれている。
本稿ではこれらをふまえながら、これまで研究
対象として詳細な形で論じられることは少なかっ
た小林が影響を受けた人々、小林から影響を受け
た人々に着目し、考察を進めていくことにしたい。
資料とするのは、小林自身の記録、随筆、論文、
著書と『東京音樂學校一覽』などの一次資料、お
よび小林に関するこれまでの研究のなかでもっと
も総括的で充実した内容となっている佐野和彦4)
による『小林宗作抄伝』5)、小林の幼児教育にお
けるリトミック導入の草創期について論じた小林
恵子の論文6)、などの二次資料である。これらと
1.宮城学院女子大学
その周辺の資料に基づいて、小林と中館耕蔵、岩
崎小弥太、真篠俊雄、黒柳徹子、早坂禮伍との出
会いとかかわりを整理しながら、小林が音楽教師
として教育者としてどのように深まっていったの
かを明らかにしていくこととする。
1.小学校音楽教師としての出発
小林の教育者としてのスタートは、小学校の代
用教員であった。その後訓導7)となり、今日の
小学校の教師となった。さらに音楽教師、いわゆ
る音楽専科8)教師になるまでに、どのような経
緯を経ていったのか、中館耕蔵との出会いと東京
音楽学校乙種師範科入学をとおしてたどってみる。
小林は明治26(1893)年6月15日に、群馬
県吾妻郡元岩島村三島大竹の農家に5人兄弟の末
子、三男として生まれた。後の昭和初め頃に岩
島村岩下大村の金子家に嫁いだ長姉の養子となり、
「金子宗作」となるが、著作物や仕事の関係はほ
とんど「小林宗作」の名前を用いていた9)。すぐ
上の兄、次男の長十郎は、高崎師範学校10)出身
で卒業後、高崎市内の小学校に奉職したが、末子
の宗作は師範学校には進まず、高等小学校11)を
松本晴子
(34)
卒業してから、明治40(1907)年、群馬県甘楽
郡の下仁田小学校で代用教員として小学校教員生
活の第一歩を踏み出した。その後、検定試験によ
って教員免許を得ている。おそらく小学校の担任
教師をしながら音楽教師になる夢を持ち続けてい
たのだろう。音楽教師となって音楽指導に取り組
みたいと考えるようになった根底に「特に音楽が
好きで、子どもの頃は、よく家の前の川辺で指
揮棒を振ったり、歌ったりしていた」(佐野1985,
p.42)ことがあげられる。小林は音楽が好きで
唱歌を歌うことを得意としていたことが推測され
る。しかしながら、「当時はピアノがある家庭は
非常に珍しく、群馬県の山地でピアノがあるとこ
ろといえば学校だけ」(佐野1985,p.44)であ
ったことから、小林が音楽の素養としての基礎的
な技能や知識を身に付けるには限界があった。音
楽教師になる希望を持ち続けていたものの、実現
するためには、どのようにしてどんな音楽の技能
を身に付け、音楽の知識を深めていくと良いのか
思いあぐねていたのではないだろうか。小林が高
等小学校を卒業し、下仁田小学校代用教員となっ
た明治40年頃、東京から演奏家が来て下仁田小
学校を会場として音楽会が開かれていたようであ
る。この音楽会で聴いた研鑽を積んだ歌声や楽器
演奏12)に魅了され、音楽教師になる決意を確か
なものにしたのかもしれない。
明治44(1911)年、音楽教師になるために東
京へ出て、東京市新宿牛込小学校教師として勤務
しながら、東京音楽学校(現在の東京芸術大学音
楽学部)入学をめざし勉学に励むこととなる。当
時東京音楽学校には、本科(声楽部と器楽部)と
師範科があり師範科には修業年限が3箇年の甲
種と1箇年の乙種13)があった。乙種師範科は1
年間ではあったものの、入学するのは大変厳しか
ったようである。小林は乙種師範科入学を目指し
ていたが、思うような成果が得られず苦労してい
たと思われる。そんな時期、大正4年頃に、小
林は高崎で開かれた音楽会を聴く機会に恵まれる。
その音楽会の企画に携わっていたのが、中館耕蔵
(以下中館)である。
中館は、明治28(1895)年9月3日、岩手県
遠野町(現遠野市)の名家遊田家の三男として生
まれ、幼児期に中館家の養子となった。明治43
年学業を終えると、その年の7月から大正2年
7月まで4年間、岩手県上閉伊郡土淵尋常高等小
学校教員として勤務するが、まもなく職を辞して
上京する。中館が小学校教師を辞し上京したいき
さつについての詳細な記録は残っていない14)も
のの、上京後、遠縁の紹介で神田の東京楽友会で
ヴァイオリンを習ったこと、大正4年に神田の学
友会有志で音楽会を行うことになり、地方のまと
め役を担い、高崎と沼津で音楽会を開いたこと、
大正4年10月には宮内省式部職楽部教師有志と
共に東京興楽会を組織し、音楽教授をしたという
記録がある15)。以降中館は、67年の永きにわた
り、音楽教育の振興につとめた。とりわけ日本の
私立音楽大学のなかでは、多くの音楽家、音楽教
育者を輩出している国立音楽大学(くにたちおん
がくだいがく)の創立に関わり、国立音楽大学の
経営担当、後理事長として発展に尽力している。
国立音楽大学の経営にあたっては、発足当時、
財政的には豊かとはいえないなかでも、良質な音
楽の演奏や音楽研究の探究心には強い拘りを持っ
てあたった16)。昭和24(1949)年国立高等学校、
国立中学校設立、昭和25(1950)年2月大学に
教育音楽学科設置、同年7月附属幼稚園設立、昭
和28(1953)年附属小学校設立と現在の国立音
楽大学の基礎を築く牽引車となって活躍する。
小林は中館の企画した音楽会を通じて中館と面
識を得たことによって、音楽教師になる夢を実現
させるために必要なことについての助言を受ける
ことができたのではないだろうか。そして、東京
音楽学校に関係のある声楽家に発声や歌唱の指導
を仰ぐなどを行ったと推測する。小林の長男金子
巴が、「東京へ出て来て東京音楽学校へ入ったの
は、中館先生のお世話になったのではないかと思
う」(佐野1985,p.44)と語っていることからも、
中館と出会うことがなければ小林は、音楽教師に
なりたいという憧れを抱きつつも、実現できない
状態が続いていたかもしれない。小林は音楽会で
教育者としての小林宗作の成長の過程
(35)
出会った以降も時折中館と交わり、音楽教師とし
ての実情やリトミックに関心を持ち精力的に研究
していることなどを報告していたと思われる。
一方中館は、音楽指導への情熱と意欲を持った
小林と出会い、支援したいという思いに駆られた
のではないだろうか。高崎での音楽会の出会いか
ら両者の信頼関係が築かれていったことが確認で
きることとして、後年中館が国立音楽大学理事長
として運営にかかわり、大学に教育音楽学科を設
置したり、附属幼稚園を設立したりなどを進める
にあたり、小林を招聘したことがあげられる。二
人を引き寄せた要因の一つとして、小林が中館よ
り2歳年上でほぼ同世代だったということ、中館
も小林も養子となっていることなど同じような境
遇であったこともあるのだろうか。
東京に出て5年後、中館と出会った翌年、大正
5(1916)年23歳の時に、小林は東京音楽学校
乙種師範科に入学し学ぶこととなる。大正5年
の乙種師範科入学者は、14人(男9人女5人)
であった。出身地は東京、静岡が3人、岩手、茨
城、滋賀、鳥取、島根、福岡、熊本、群馬が各1
人で、小林の出身地は本籍地の群馬県になってい
る17)。
『東京音樂學校一覽 自大正五年至六年』によ
ると大正5年の東京音楽学校乙種師範科の入学試
験学科目は、1.唱歌(小学唱歌集初級ノ程度)、
2.国語、3.日本歴史、4.地理、5.算術と
なっている。選抜は、「第一ノ試験ニ合格シタル
者又は第一乃至第五ノ学科二就き試験ノ上之ト同
等以上ノ学力を有する者タルヘシ」とあることか
ら、唱歌が上手であることが合格の第一条件であ
ったこと、入学してからの授業科目を考慮すると、
ほとんどの受験生が第1の試験科目である唱歌を
選択したであろうことが推測される。小学唱歌集
初級曲集には、《かをれ》《蝶々》のような比較的
易しい楽曲と、《蛍》(現在の《蛍の光》)、《うつ
くしき》、《思ひいづれば》などのように音域もあ
る程度広く難しい楽曲も含まれている。
そもそも乙種師範科は、小学校の唱歌教員、音
楽専科教員を養成するというねらいがあったこと
から、大正5年のカリキュラムの音楽に関する科
目をみても、唱歌が10時間と多く、音楽通論は
2時間、音楽教授法18)は第三学期に1時間、オ
ルガンは3時間であった。一週間の時間割がどの
ようなものであったかは今後の調査によることと
しても、唱歌の時間が一週間に10時間というこ
とは、毎日2時間ほど歌唱の時間が設けられてい
たと考えられ、合わせてオルガンの時間が一週間
に3時間行われていたということは、授業に備え
た実技の練習時間を相当要したことであろう。こ
の時代に東京音楽学校に入学する師範科の学生に
は、個人でピアノやオルガンなどの楽器を所持し
ていない場合も多かったようで、楽器貸付規則な
どが定められている。おそらく小林も一生懸命練
習したと思われる。
大正6年3月東京音楽学校師範科乙種を卒業し
た小林は、同年4月から同大学選科19)の唱歌専
攻に進み唱歌法についての研鑽を積みながら、同
時に東京府千寿第二小学校(2002年より足立区
立千寿小学校)へ勤務した。その後大正7年8
月に東京市山吹小学校に転勤し、大正9年には公
立小学校から成蹊小学校に移動している。公立小
学校の唱歌教師をしながら、東京音楽学校選科唱
歌に在籍し、唱歌の技能と知識を深めていたとい
うことは、唱歌の技能を磨くことに意欲的であり、
音楽への飽くなき探求心を抱いていたことが伺え
る。
東京音楽学校の選科唱歌の在籍名簿には、大正
10 年度まで小林の名前が記載されているが、大
正11年度には見当たらない。修了者名簿の大正
10年7月、大正11年3月、7月にも見当たらな
い。修了に至らなかったのは、成蹊小学校に勤務
することになり、仕事と学業の両立が難しくなっ
ていたこと、海外の音楽教育に目が向くようにな
ってしまったことなど様々な理由が考えられるが、
小林の真意は定かではない。東京音楽学校の学則
で選科の修業年限は満5年以内の在籍と決められ
ていたことから、5年間在籍していたことは在籍
名簿から明らかである。
松本晴子
(36)
2.音楽教師としての悩み
東京音楽学校で学び、憧れの音楽教師として理
想を持って公立小学校で勤務を始めた小林であ
ったが、私立の成蹊小学校に移籍することになる。
そのきっかけは、次節で取り上げる真篠俊雄と
の出会いによると思われる20)。ここでは成蹊小
学校で取り組んだ音楽指導について検討しながら、
岩崎小弥太と出会った経緯について探ることとす
る。
成蹊小学校は大正4(1915)年、中村春二(以
下中村)によって創設された。成蹊小学校の由来
について、成蹊学園六十年史に掲載されている中
村が記した設立趣旨から触れておきたい。
「教育に関する理論や技術の研究は、今日のと
ころ可(ママ)なり進歩しているように思います。
しかし、実際の方面を見ると、遺憾に思うことが
はなはだ多いのは心細い次第です。(中略)六ヵ
年の基礎教育さえうんとやれば、中学に行っても
大丈夫な筈です。こういう訳で、私は小学校の教
育をしっかりやって見たいと思ったのです。これ
が成蹊小学校を設立した第一の要因です」(1973,
pp.208-209)。
「(前略)成蹊小学校では、入学の第一日目から、
毎日毎日、遠足させるつもりです。自主自立の精
神を確立させるには、遠足がもっともよいと信ず
るからです。つぎに、何事にも自奮自励の精神を
もって当たらしめ、自分のための教育だというこ
とを、小さい時からしっかり会得させたいと思い
ます。教育は、自分自身の発達進歩のために、自
分から進んで受くべきものだということが、本当
に分かりさえすれば基礎の教育は成功したと思っ
てよいと思います。ですから、自学自修の習慣を
確立させるということが、小学校教育の根底です。
この根底をつくるのが、わが成蹊小学校の使命で
あると考えます(後略)」(1973,p.209)。
日本の教育が個性を無視した画一教育に陥って
いるという現実に直面した中村は、自由な立場で
真の人間教育を行いたいとの思いで学生塾「成蹊
園」を開塾、その後成蹊実務学校、成蹊中学校、
成蹊小学校などを創設していく。小学校において
は少人数制、日記指導、凝念21)などの特色を生
かした教育を行い、これは現在も踏襲されている。
この中村の考えに共鳴したのが岩崎小弥太(以
下岩崎)と今村繁三(後の今村銀行頭取)であっ
た。中村、岩崎、今村は東京高等師範学校(現筑
波大学)附属中学校で出会い親友となり、それ以
降中村のよき理解者となって、経営基盤を支え続
け、成蹊学園を支援した。
周知のとおり岩崎は土佐藩出身の岩崎弥太郎の
弟弥之助の長男である。弥太郎が創立した三菱商
会を基盤に、第二次大戦GHQによって解体され
るまで続いた三菱財閥の4代目社長として、また
三菱重工業創業者として活躍した。岩崎は成蹊
学園のために吉祥寺に約8万坪の土地を購入し
1938 年に寄贈したり、元箱根の岩崎家のゴルフ
場だった土地6.3万坪を寄贈したりなどしてい
る。資産、資金の援助だけでなく成蹊の卒業生を
三菱に受け入れることもしている。まさに成蹊学
園理事長として学園の経営と発展に大きく貢献し
たといえよう。この背景には岩崎自身がケンブリ
ッジ大学に留学し、個性を尊重しながら自由な雰
囲気の中で行われている英国の学校教育に衝撃を
受けた22)ことも一因と思われるが、中村の自由
主義、個人主義の教育理念に心から共鳴していた
こと、中村と岩崎の関係がいかに深いものであっ
たかを物語るものでもある。岩崎は成蹊学園に全
面的な支援を行ったのである。
また岩崎は西洋音楽に対しての造詣も深く、チ
ェロを習い、東京フィルハーモニック会23)の後
援者であった。このことから西欧に留学を志す留
学生への援助も行っており、山田耕筰、そして小
林も援助を受けた一人であった。
個性を重視した柔軟な自由主義教育を校風とし
ていた成蹊小学校に勤務することは、小林にとっ
て音楽教師として、新しい実践ができるかもしれ
ないという希望を抱かせてくれるものだったので
はないだろうか。子どもの唱歌に関する論考、音
楽の歴史に関する論考、作曲した曲24)などを成
蹊学園の学内誌に投稿しながら、音楽教師として
教育者としての小林宗作の成長の過程
(37)
経験を積み上げていく。
成蹊小学校という理想的な環境の中で音楽指導
にあたっていたと思われるのであるが、小林は徐
徐に音楽教育の目指す方向性と現実の子どもたち
の音楽の力について考えるようになる。
「私のなやみ かつては理想の音樂教師を夢に
見てずゐぶん勉強したつもりだった。(中略)初
めて教壇に立ったのは明治44年、それから大正
12 年まで、成蹊今の成蹊高等学校の前身で暮し
た。最後の5年間は遂に私をして音樂教師たるに
耐えられなくした。子供等は実によくのびのび
と育って行く、教師さへよければ、いくらでもの
びるものだ……といふことを私に實感させてくれ
た、(中略)此のいくらでものびる子供を充分に
指導するに足る器であるか……私は……なやんだ
……その頃名のある音樂の先生達の授業は片っぱ
しから參觀して廻った……僕だけが特にまづいの
だとも思へなかった……而し之でよいのか音楽教
育は……遂に私は私を是認することが出來なくな
った。そして大正12年音樂教師を辭めたのであ
った。
何をなやんだか その頃、尋一25)の女子8人
同時にバイエルを始めた。半年も過ぎる頃には8
人そろつて上げて了つた、野邊地君26)は3年だ
つた、チェルニーの卅番の中どしどしと一曲一
夜で上げて来る。上手といふのではないが間違ひ
ではない、かくして卒業までにはまだ3年もある、
音樂學校の豫科でもバイエルの上がらない人が1
人や2人ではなかつた頃の事だ、なやまざるを得
ない。更に問題は、子供達は紙と鉛筆を與へると
自由に何やら書きなぐる、どうやら畫の始まりな
んで、綴方にしても自由選題とかいふて書き度い
事を自由に書いて中々表現がうまい。(中略)何
故音樂だけがいつまでも、ポッポッポー……ハ
イッ ドレミファー……ハイをやつてゐるの
か。(中略)私が參觀廻りを始めたのもその頃だ。
そして策のないことを悟つた。遂に私は音樂教師
たる事を辭したのだつた。私の心耳には出なほせ、
出なほせというさゝやきがきこえる。とに角先進
國欧米を見てから……さう思つて日本を後にした
のであった、どうなるか見透しの付かない事であ
るが故に、目的をあいまいにして日本を発つたと
いうのが眞實である」(小林1934,pp.18-20)。
成蹊小学校の子どもたちの中には、野邊地や井
上園子27)のように自宅にピアノがあり幼い頃か
らピアノを弾くことのできる環境にある子ども、
チェルニー30番をものともせず一晩で仕上げて
くるピアノの技術の優れた子ども、両親がクラシ
ック音楽に造詣が深く音楽的環境に恵まれている
子どもなど音楽的に秀でている子どもが在籍して
いたであろう。唱歌指導中心の音楽の授業を行い
ながらも、退屈そうで生き生きした様子が見られ
ない子どもの様子に行き詰まり、魅力ある音楽指
導とは何か、音楽を総合的に芸術として指導して
いくことが大切なのではないかということを思案
するようになっていったのではないだろうか。小
林が音楽劇、オペレッタに取り組んだのは、その
ことへの挑戦と考える。この音楽劇への取り組み、
指導が、歌うことと演技すること、音楽に合わせ
て身体表現することなど多くの問題を小林に投げ
かけたと考える。しかし学校教育における音楽指
導は、相変わらず唱歌指導一辺倒になっているこ
とは、小林が目指す音楽指導とは相容れなかった
側面もあったのかもしれない。
さらに、次のように述べている。
「私はその頃成蹊小學校の音樂教師をしてゐま
して幼兒の音樂性を觀察してから小學校の一年生
の音樂の教授中に觀察した一年生の音樂性とはそ
の間に實に大きな悲しむべき結果を見たのでした、
幼兒の音樂的敏感性は何時の間に失はれたもの
だらうか、それでも五六年頃の子供にくらべると、
まだまだ生氣が溢れてゐるが、大きくなるに從つ
て此の敏感性と有機性が失はれて行く事に氣がつ
きます、そして私の才能ではそれをどうしてよい
か全く見當がつかなかつたので、遂に私は音樂教
師を一生の職業とするに耐えられなくなつて職を
辭したのでした」(小林1932,p.5)。
松本晴子
(38)
幼児期には誰もが持っている音楽的敏感性と有
機性を育て伸ばすような小学生への音楽指導を模
索し、名立たる音楽指導者の授業を参観し、その
指導法の答えを見つけようとするが、日本の音楽
教育界においては、叶わないと判断する。さらに、
その当時行われていた幼児期の律動遊戯、表情遊
戯を見直すことの必要性と幼児期の音楽教育法を
構築することも大切なのではないかと考えるよう
になる。まさに小林の音楽教育者としての情熱は、
成蹊小学校に勤務したことによって、前進するこ
とになったといえる。幼児期に持っている音楽的
敏感性を小学生になっても、高学年になっても表
現できる指導方法、音楽を系統的に指導していく
方法、音楽を総合的に指導する大切さなどに気付
くことになったのである。
小林は4年間勤務した成蹊小学校を退職し、
新しい音楽教育法を求めてヨーロッパに旅発つこ
とを決意する。自費で海外留学するにはかなり資
金が必要であったことを考えると、成蹊学園に勤
務したことによって岩崎の援助を受けることがで
き、留学することができたといえる。当然ながら
小林は、成蹊学園の理事である岩崎の存在を周知
していたと思われるが、岩崎の方は、成蹊小学校
の子どもたちが発表した音楽劇、オペレッタを見
て感心し、指導者の小林を評価したようである。
小学校の音楽指導といえばほとんどが唱歌指導で
あった時代に、小林が成蹊小学校の子どもたちに
オペレッタを指導したことは、総合芸術としての
音楽を考慮した先駆的な試みだったのかもしれな
い。岩崎は、欧州へ勉強に行きたいと音楽教育へ
の熱い思いを真剣に語る小林を見込んで、留学に
かかる費用を全額提供したのである。しかも、ど
ういうふうにそのお金が使われようと、岩崎は何
も言わず支援した(佐野1985,p.85、小林1978,
p.80)ようである。岩崎の資金援助を得て、小
林は、ヨーロッパに2回留学している。成蹊小学
校に勤務し岩崎という理解者、支援者と出会った
ことは、日本の音楽教育界にリトミックという新
しい指導方法を導くもとになったもといえる。
3.学業と音楽教師の両立
小林に海外留学の決意をさせたと思われる人物
の一人として真篠俊雄(以下真篠)の存在がある。
真篠とはおそらく東京音楽学校で出会ったのでは
ないかと推測される。
大正5(1916)年4月に小林は東京音学校乙
種師範科に入学するが、真篠はこの時、東京音楽
学校本科器楽部オルガン専攻の3年生であった。
東京音楽学校では入学者に戸籍謄本の提出を求め
ていた28)ことから、おそらく小林の入学式、新
入生歓迎会などの折に、群馬県出身の同郷者とい
うことで面識を得たのではないだろうか。真篠と
の出会いによって、小林の音楽の世界は広がって
いくこととなる。真篠の略歴を調べたところ次の
ようである。
明治26(1893)年11月9日、群馬県大野郡
美土里村(現藤岡市)に生まれた。小林は同年の
6月15日生まれであるから、二人は同年齢であ
る。真篠は明治42(1909)年に群馬師範学校を
卒業し、鬼石小(現藤岡小)の訓導を経て、大正
3(1914)年に東京音楽学校本科器楽部(オル
ガン専攻)に入学している。東京音楽学校の本科
は3年間から5年間在籍することになっていたが、
真篠は4年間在籍し、卒業年度は小林と同じ大正
6(1917)年3月である。本科を卒業した大正
6(1917)年4月に、成城小学校に音楽専科教
員として勤務するが、同時に東京音楽学校の教務
嘱託としてオルガン指導を行いつつ、東京音楽学
校研究科に進み2年間学び大正8(1919)年3
月25日に修了している。
真篠が成城小学校に勤務することになったいき
さつについて、成城小学校二代目主事として奮闘
していた小原國芳29)は次のように記している。
「音楽学校でオルガン科の出身。よくも、貧乏
学校の訓導に、しかも、月給二十五円均一の学校
に。当時、音楽学校出の相場は少なくとも六七十
円でしたろうに。沢柳先生30)と知り合いだった
群馬県の堀越豊平先生がスイセンなすったのだそ
うです。みな、就職論文を出さされそれについて
教育者としての小林宗作の成長の過程
(39)
の口頭試問があったのだそうです。快活で、ジ
ャン切り頭。しかも、やさしくて、堂々たる体軀。
いの一番に採用された人らしいです(後略)」(小
原1967,pp.190-191)。
東京音楽学校のオルガン科出身にもかかわらず、
決して待遇的には恵まれてはいなかった成城小学
校に勤務をしていた真篠に対して、小原は少し懐
疑的だったのかもしれない。真篠の授業を参観す
ることによって、その指導力、音楽的資質の高さ
に魅せられ絶対的信頼を置くこととなる。真篠は
紙屑カゴやハタキ、ヤカンや皿のいくつかを持っ
て入ってきて、様々の音を叩いては子どもたちに
ドレミファとあてさせて音感訓練をやったり、紙
屑カゴをハタキで叩きながらショウショウ寺の狸
踊りの歌を躍らせながら歌わせたり、三年生くら
いの子どもに何か題目を出しては作曲をさせ、い
い曲を採用しては黒板の五線の上に書いたり、楽
典の理論を織り交ぜながら曲をまとめ上げたりた
りなど今日でも質の高い音楽指導と思われるよう
な授業を展開していたのである。
大正9(1920)年、真篠はパイプオルガンの
技能を磨くために職を辞し、大正13(1924)年
までベルリンに留学する。帰国後、東京音楽学
校教務嘱託としてオルガン指導を続け、昭和7年
には同学校教授となりオルガン、音楽理論、和声
論を担当している。この時には出身地を群馬から
東京に変えている。その後、真篠は東京学芸大学、
小原に迎えられて玉川大学など、大学教育におい
てオルガン指導、オルガン教育、オルガンテキス
ト製作、音楽理論の指導などに尽力する。
小林は乙種師範科卒業した大正6(1917)年
4月、さらに唱歌の技能を磨くため、選科の唱歌
専攻に進み、小學校の音樂教師をしながら仕事と
勉学の両立に励んだ。これは小林自身の意欲と向
上心が旺盛であったことに加えて、真篠が仕事と
勉学の両立に取り組んでいた姿から何らかの影響
を受けたのではないかということが推測される。
ベルリンに留学した真篠は、ヨーロッパの音楽
文化の高さ、日本の音楽教育との違いなどを小林
に伝えていたのではないだろうか。小林は真篠が
留学したことによって、強く海外に目が向くよう
になっていたように思われる。
大正12(1923)年3月、成蹊小学校を退職し
た小林は、3か月後の6月にヨーロッパに旅発つ。
この時は、どこの国で何を学ぶということがはっ
きりしていたわけではなかったようであるが、ベ
ルリンに真篠が留学中であったことは心強かった
といえよう。小林は精力的に調査活動を始める。
「大正十二年の七月、ジュネーヴで新渡戸博士
にすゝめられて始めて(ママ)リトミツクを知
つた31)、同年九月ベルリンで始めて(ママ)石
井漠氏に會つた、漠氏もリトミツクが一番良い
とすゝめられた、眞篠教授にもたいへん御世話に
なつた、ボーデーの表現體操を見付けたのも此の
時だつた、實はベルリンに着くと直に小學校の先
生と幼稚園の先生を一人づゝ研究の顧問に雇ふ
た、そして音樂と遊戯の最もよい學校を各五つづ
つ選ぶやうに……とそして一々案内してもらつた、
(中略)これはどうだ!とばかり舞踊學校から體
操學校まで案内してくれた。そして最後に出たも
のがボーデーの表現體操だった、之はよい……
私はそこに一週間通ひつゞけた、而し之を小さい
子供達に如何にして適用されるか……と考へた時
如何にも程度が高過ぎる……さう思つてあきらめ
た。そうしてパリーに出た、漠氏のすゝめに従つ
て、歌手小森譲君のお兄君をたよりにリトミツク
の學校に入學して正式にリトミツクの修業を始め
た。初めの豫定では兎も角欧米を一巡してから最
もよい處に逆もどりしてねりなほす……といふつ
もりであつたが、リトミツク學校に入つて一ヶ月
たち半年たつ間にもう之でよい、理想的だと決定
してよいと思ふ様になり遂々そこで一年を過して
了つた。之でよいと思ふと急に實驗して見たくな
り、矢もたてもたまらなくなつて歸朝した。眞篠
教授の御世話で丁度成城で實驗させて呉れるとい
ふので成城入りをしたのが大正十四年、かくして
數年間の實驗の結果はリトミツクは實に音樂教育
ばかりではない實に様々な方面に有意義なる展開
松本晴子
(40)
をなす事がわかつた。(中略)同時に又いくらか
の不完全をも感じないわけには行かなかつた。そ
れ等の解決に逼られて昭和五年再び渡歐せねばな
らなくなつた」(小林1934,pp.20-21)。
音楽に純粋に反応する幼児期、特に「5、6才
頃の音楽教育は一生の中で最も重大なもの」(小
林1932,p.5)と考えていたことから、5,6
歳の子どもたちにはどんな音楽指導法が良いのか
を見つけ出しという意志を強く持って渡欧したこ
とが読み取れる。その根底には、唱歌教育、唱歌
指導に偏っていた日本の小学校音楽教育に疑問を
持っていたこと、音楽と舞踊、音楽と身体表現の
かかわりが切り離されている日本の音楽指導の在
り方へのもどかしさがあったのかもしれない。こ
のことから、「一般に日本では舞踊が體操の様に
思はれてゐるがリトミツクは純粹なる音樂教育改
革案である」(小林1934,p.21)という主張が
なされたといえよう。納得できる音楽教育法に出
会うまでは、妥協をしないで探しだそうとしたこ
とは、音楽教師としての誇り、理想の高さ、情熱、
意思の強さが伝わってくる。
また、初めからリトミックを習得したいと決め
ていたわけではなく、もっと良い方法はないかと
求め続けていた様子も伺える。結果的にリトミッ
クで良いと判断するものの、再度渡欧することや
後の著述32)をみても決してリトミックの全てを
良しと受け止めていたのではないことが示されて
いる。
真篠に世話になったという小林の記述から、ベ
ルリンの幼稚園や小学校見学するにあたっての手
配、幼稚園と小学校の教師を一人ずつ紹介しても
らうことなど、真篠を信頼し相談したり依頼した
りしていたのではないかということが推側され
る。真篠は、小林の初めてのヨーロッパ留学を支
え、小林の意向を叶えようと力を貸していたこと
は明らかである。
帰国後小林は真篠の推薦で当時成城小学校主事
であった小原國芳と会い、大正14(1925)年5
月の成城幼稚園設立にかかわることとなる。
真篠はオルガン研究、小林は音楽教育研究と目
指していた方向は異なるものであったが、音楽と
いう共通の土台をとおして、よき友人であり理解
者であったといえる。それは、小林が真篠の後を
引き継ぎ成蹊小学校に勤務したこと、留学の決意
と留学中の音楽面での援助、真篠の推薦で成城小
学校、成城幼稚園に勤務しリトミックを実践する
機会を得たことなどの経緯から確認できる。
4.成城小学校、成城幼稚園からトモエ学園へ
小学校の音楽教師時代の教え子のなかには、成
蹊小学校で指導し、後に日本を代表するピアニス
トとなる野辺地や井上などがいる。
リトミック普及者、指導者として尽力するのは
成城小学校であるがその一端は、学園便りの音楽
と劇の会の報告33)に示されている。この報告の
一部から三部までは、《雀たづねて:海野厚作詞、
中山晋平作曲》、《汽車:菊池訳:ドイツ曲》《あ
しぶみ:北原白秋作詞、山田耕筰作曲》、《赤とん
ぼ:三木露風作詞、山田耕筰作曲》などの歌をク
ラスごとに発表し、ピアノ独奏を二人が行ってい
る。
「四部はリトミツク。小林さんが父兄方に説明
しながら進行させてくれたので、今迄わかつてゐ
たリトミツクの深い意味が一層はつきりされた。
『リトミツクは音樂教育としては最も基礎的のも
のでして、目的はリズムによつて人間の心と體の
調和を図り實現力と想像力の調和を計るためであ
ります。……今迄音樂の成績の善し惡しは耳にの
み關すると言つてゐたがさうばかりでない事がわ
かりました。耳を通して神經中樞に音を傅へる事
は誰にも出來る……たゞそれを復び出す事が出來
ないのです。復び表さうとする時、故障があつて
變つて外にとび出る、頭で計劃された事は肉體を
通して外に表現されねばならぬが、神經中樞から
肉體に出る時、肉體に故障があり表現する力が缺
けてゐた時音樂の妨げとなるのです』と言ふ話し
出しであつた」(相沢節1928,p.84)。
小林は、留学で学んだリトミックを成城小学校
で実践することができ、成城幼稚園には、まさに
教育者としての小林宗作の成長の過程
(41)
産声を上げた時から主任としてかかわり、その運
営を任されていた。成城幼稚園設立当初は、園舎
もなくかなり苦労したようであるが、幼稚園教育
を理想的なものへという熱意、音楽教育において
リトミックを普及するという情熱が衰えることは
なかった。成城学園に勤務しながら、リトミック
に関する論文や報告書を多数執筆していることか
らもこのことはうかがえる。
そして昭和12(1937)年3月成城幼稚園を退
職し、同年4月に、小林自らがトモエ幼稚園とト
モエ学園(小学校)を設立する。園舎もない仮住
まいからスタートした成城幼稚園での実績、留学
で学んだリトミックを実践した成城小学校での経
験が、小林に自分の教育観を実現する学校設立と
幼稚園設立の思いを抱かせたといえよう。子ども
を自然の中で自由に育てるという理想に燃え音楽
教育にとどまらず教育者として校長として子ども
の教育に情熱を傾けることとなる。この時の教え
子の一人が黒柳徹子(以下黒柳)である。黒柳は
著書のなかで、トモエ学園での体験について、講
堂にテントを張って野宿したこと、畠の先生に教
わったこと、等々力渓谷で飯盒すいさんをしたこ
となど子どもの心をつかむ楽しい企画がたくさん
あったことを記している。また、小学校一年生の
子どもだった自分と、四時間も向き合ってずっと
話を聞いてくれた校長先生について、そしてどの
子どもにも包容力にあふれた接し方をしていた校
長先生について記している(黒柳1981)。
小林のリトミック指導についても、いくつか記
している。たとえば、「ふつうの小学校と授業方
法が変わっているほかに、音楽の時間が、とても
多かった。音楽の勉強にも、いろいろあったけど、
中でも「リトミック」の時間は、毎日あった」
(1981,p.107)。
「講堂の小さいステージの上のピアノを校長先
生が弾く。それに合わせて、生徒は思い思いの
場所から歩き始める。(中略)自由に流れるよう
に歩くのだった。そして、音楽を聴いて、それ
が“二拍子”だと思ったら、両手を大きく指揮者
のように上下に振りながら、歩く。(中略)「足の
親指をひきずるように、体を楽に、自由にゆすれ
る形で、歩くのが、いい」と先生はいった。(後
略)」(1981,p.109)。
「生徒ははくぼくを持って講堂の床の思い思い
の場所に陣取って自由な姿勢で準備する。校長
先生がピアノを弾く。そうすると、みんなは、そ
の講堂の床に、先生の弾いている音楽のリズム
を、音符にするのだった。(中略)音符といって
も、五線を書く必要はなく、ただリズムを書け
ばいいのだった。しかも、それは校長先生とみん
なで話し合って決めた、トモエ流の呼びかたの
音符だった。(中略)♪はハタ(旗のように見え
るから)、♫はハタハタ、♩は黒、(中略)床に、は
くぼくで描く、というのは、校長先生の考えだっ
た(後略)音符の授業が一区切りすると、校長先
生が下りてきて、ひとりずつのを見て廻る、とい
うやりかただった。(中略)そして「いいよ」と
か「ここはハタハタじゃなくて、スキップだよ」
とか、いってくださった。(中略)どんなに忙し
くても、人まかせにすることは、絶対になかった。
そして、生徒たちも、小林校長先生じゃなくちゃ、
絶対に、面白くなかった」(1981,pp.234-236)。
このような黒柳の記述から、小林はリトミック指
導を、自分が校長を務めるトモエ学園の小学校の
子どもたちと、心から楽しみながら行っていたの
ではないかと思われる。紙という一定の空間では
なく、子どもにとって自由にのびのびと好きな場
所に移動できる講堂の床に、白墨で音符を書くと
いう小林の発想は、黒柳にとって忘れられない楽
しい活動として心の奥深くに刻まれた。校長とし
て、教育者として、小林がもっとも充実していた
時期といえるのではないだろうか。ただそれは長
くは続かなかった。昭和20(1945)年空襲によ
りトモエ学園は焼失してしまい、昭和21(1946)
年4月に小学校は廃校されることとなる。トモ
エ幼稚園は存続させることになるものの、小学校
で黒柳たちと深くかかわったように幼稚園の子ど
もたちと接する小林の姿はあまりなかったたよう
である。
黒柳がトモエ学園での生活、出来事を鮮明に覚
松本晴子
(42)
えていて著書にしたことは、黒柳の記憶力が優れ
ているというのはもちろんのこと、小林との一つ
一つのかかわりが心に温かく強く印象付けられた
からともいえよう。校長先生としての小林の教育
は、子どもの心にまっすぐ響く、愛情あふれるも
のであったと考える。
5.国立音楽大学附属幼稚園長・小学部部長時代
昭和24(1949)年、国立中学校、国立音楽高
校を設立することになった折に、中館はリトミッ
ク指導者として小林を招聘する。さらに翌年4月、
国立音楽大学に教育音楽学科を設置するにあたっ
て講師として依頼したり、7月に附属幼稚園を設
置するにあたり、園長に据えたりする。これらの
ことは第1節で述べたように、中館と小林は大
正4年頃に出会って以来、交流を持ち続け信頼関
係が築かれていたことを示している。
早坂禮伍(以下早坂)が記憶する小林との出会
いは、昭和28年国立音楽大学附属幼稚園の卒園
式のようである。早坂の略歴に触れながら小林と
のかかわりを確認したい。早坂は大正2(1913)
年仙台市に生まれている。仙台市立東二番町小学
校に入学したが、その後東京で過ごし、旧制台北
一中、旧制台北高等学校、東北帝国大学法文学部
国文科を卒業、札幌の北星学園、東京女子大学、
専修大学で教鞭を取っていた。専修大学在職中に
宮城学院学院長の就任を懇願されて専修大学を退
職する。昭和54年(1979年)4月、第5代宮城
学院学院長として、二期8年間在職する。その間
は、仙台市東三番町のキャンパスから同市桜ヶ丘
の新キャンパスに移動するという大きな転換期で
あった。創立百周年行事、軽井沢山荘の改荘など
新しいキャンパスでの宮城学院の基盤を精力的に
築きながら、キリスト教精神をふまえた宮城学院
の教育の発展のために尽力した34)。
早坂が専修大学に勤務していた時の住まいは、
国立(くにたち)にあった。居を構えた昭和25
年頃の国立は、まだ雑木林が林立し開発が進んで
いなかったものの、町づくりは自分たちの手で行
っていこうと夜な夜な駅前の喫茶店に集まって熱
く語り合う人々がいた。メンバーには、国立音楽
大学学長の有馬大五郎、同大学理事長中館、ティ
ンパニー奏者小森宗太郎、ピアニストのレオニー
ド・クロイツアー、早坂などがいた。コーヒー一
杯で天下国家を論じたり、夢を話し合ったりして
いたようである。昭和27(1952)年に国立は文
教地区に指定されるが、市民運動の大きな力とと
もに教育委員長であった早坂の力が牽引したと思
われる。
早坂は昭和26年、長女を国立音楽大学附属幼
稚園に入園させる。小林は初代幼稚園長としてす
でに活躍中であったが、早坂が小林と初めて会っ
たのは、長女が幼稚園を卒園する時であった。こ
の頃、国立の教育委員長としても活躍していた早
坂は、中館から「小学校を作りたいがどうだろ
う」と持ちかけられる。父親として長女を受け入
れてくれる小学校を思案していた時であり、国立
の教育委員長という立場からも私立の小学校は是
非欲しいということで、大賛成した(佐野1985,
pp.289-290)ようである。こうして国立音楽大
学附属小学校は昭和28(1953)年)設立される。
小林は小学校部の部長ともなり、それからは早坂
と小林が会う機会は増えていく。早坂が晩年の小
林と親しかったことを知った佐野は、小林の話を
聞きたいと仙台の早坂宅を訪問している。その際、
早坂は次のように語っている。
「小林先生を私が最初に意識したのは、娘が小
学校へ入って、まだ小学校の校舎が出来ていなく
て大学の片隅で授業をやっている時、大学生の生
徒と、小学生の生徒が20人位ずつ一緒になって
リトミックをやっているのを見た時でした。見て
いるとなかなか面白くて小学生はすぐ出來るの
に、大学生がちっとも出来なかったりして、非常
に興味をそそられました。この時小林先生がこう
言われたのを覚えていますよ。『手を動かすとピ
アノが鳴る。ピアノが鳴ったら手を動かす。こう
いうように逆にしてみると体を動かしたら音が出
る、音が出たら体が動く。というように考えると
体で音楽が分かる筈ですね。これがリトミックで
すよ』本当に今になってみると中館先生も、小学
教育者としての小林宗作の成長の過程
(43)
校へ集まって来られた先生方も、皆さんが小林先
生の教育理念に惹きつけられて小林先生の考えを
体現されていたんだなあ、というのがわかります
ね。……」(佐野1985,pp.290-291)。
「私は小林先生を真似しているんです。それは
小学校の運動会で、赤組、白組が細長い校庭で一
生懸命競争した後、最後の得点を発表して、白組
が勝つと、小林先生はこうおっしゃったんです。
『今日は白組が勝っておめでとう』子供達は一斉
に拍手をします。『赤組は負けたけど、赤組のお
かげで白組が勝ったんだから、赤組さんありがと
う』子供達は前にも増して盛大な拍手です。私は
今、宮城学院で、幼稚園、中学校、高校と運動会
の最後にあいさつさせられます。幼稚園、中学校
では、毎年、必ず小林宗作先生を思い出して言う
のです。『今日は赤組が勝っておめでとう。白組
は負けたけど、白組のおかげで赤組が勝ったん
だから、白組さんありがとう』必ず湧き上がる拍
手の中で、“私はトットちゃん教育の真似をして
いる。何てすがすがしい嬉しさなんだろう”とそ
の度に、小林先生の思い出に、ひたるのです。…
…」(佐野1985,p.293)。
早坂は佐野から30分という申し入れを受けて
会見することになったのに、小林との楽しい思い
出話を佐野に語るうちに、4時間が経過していた
ことを記している(早坂1988,p.233)。子ども
の心に寄り添った教育者小林の姿に影響を受けた
早坂は、宮城学院理事長として、幼稚園児や中学
生、高校生、大学生とのふれあいのなかに、その
一端を実践していたのである。
おわりに
音楽教師として教育者として小林宗作がどのよ
うに歩み、深まっていったかについて、中館、岩
崎、真篠、黒柳、早坂との出会いとかかわりとい
う視点から考察を行った。小林についての研究対
象として、中館、真篠との出会いとかかわりにつ
いて踏み込んで取り上げたのは、本稿がはじめて
であろう。
中館、真篠との出会いがなければ、また岩崎の
支援がなければ、小林はどのような人生を歩むこ
とになったのだろうか。この出会いが小林の音楽
を愛する気持ちを刺激し、音楽指導に情熱を傾け
させる原動力ともなって音楽教師として教育者
として成長させたと考える。さらに、東京音楽学
校師範科乙種を卒業後、同大学選科唱歌に5年間
在籍し、小学校教員をしながら学んだことが明ら
かとなった。これは小林が美声の持ち主で、唱歌、
歌うことを得意としていたことを裏付けるもので
ある。
成蹊小学校時教員時代の考察からは、(1)小
学校の音楽教師として、唱歌教材に片寄りがちな
指導内容を変えたかった(2)幼児期に誰もが持
っている音楽的敏感性を成長してもそのまま伸ば
し生かすための指導法を探っていた(3)音楽教
育に新しい指導法を導入したかったという3つに
集約できるのではないだろうか。小学校の音楽指
導を充実させるためには、幼児期の音楽指導の見
直しが必要であり、そのために、リトミックの試
みや普及活動を精力的に行い、幼児教育の大切さ
を訴えていたように思われる。
黒柳と早坂とのかかわりからは、校長として教
育者として子どもの心に寄り添い自らも楽しみな
がら、心の通う教育を実践していたことを確認し
た。
本稿は小林と5人の出会いとかかわりから、音
楽教師として教育者としての小林の深まりについ
て全体像を把握した。これまで小林は幼児教育分
野におけるリトミック教育の創始者、普及者とい
う捉えられ方が大勢を占めていたが、小学校音楽
教師としてスタートしたことを鑑みると、音楽教
師としての実践や教育観から、教材や音楽指導の
あり方への示唆を得るものも多いと考える。今後
さらに資料収集を進め、研究を深めていきたい。
註
1)スイスで活躍したダルクローズによって提唱された音楽
指導法。リズム、ソルフェージュ、即興演奏という3つ
松本晴子
(44)
の柱を基本としている。
2)例えば、松坂仁美(1987)「幼児教育へのリトミックの導
入―小林宗作と天野蝶を中心として」『美作女子大学・美
作女子短期大学部紀要』32、水野恵子(1988)「大正期の
リズム教育について―小林宗作のリトミック教育―」『愛
知県立大学文学部論集』37。福元真由美(2004)「1920-1930
年代の成城幼稚園における保育の位相―小林宗作のリズ
ムによる教育を中心に―」乳幼児教育学研究第13号など
がある。また、小林自身の論考『総合リズム教育概論』、『幼
な児の為のリズムと教育』などは『大正・昭和保育文献集』
第4巻に所収されている。
3)黒柳徹子が子どもの頃を回想し著した書で、1981年刊行
以来2011年には第97刷を重ね、35ヵ国で訳されている
人気の本である。扉には「この本を、亡き、小林宗作先
生に捧げます。」と記してある。
4)佐野和彦は横浜高商(現横浜国立大学経済学部)入学し
合唱部に入部、バッハの音楽に魅了されて中退。東京芸
術大学音楽学部楽理科に入学、卒業後テレビ朝日(当時
の日本教育テレビ)に入社、テレビ番組の制作現場に入る。
大学の講師、子どもへの音楽指導を行った。1976年2月
2日からスタートし、現在も続いている『徹子の部屋』
の当初のチーフ・プロデューサーとして活躍した。子ど
もへの音楽指導を行いながら小林宗作については、資料
を集め10年間くらい研究を続けていた。
5)『トットちゃんの先生小林宗作抄伝』は、佐野和彦によっ
て小林宗作の生い立ち、論考などを含む全体像がまとめ
られた著書で、小林について最も詳細に記された書である。
6)小林恵子の論考は、小林宗作が成城幼稚園において日本
ではじめてリトミックを教えたことを中心にまとめてい
るが、成蹊小学校時代、新渡戸稲造との出会いなどにも
触れている。
7)訓導は、第二次世界大戦前の日本の教育制度における旧
制小学校の正規の教員の称。現在の学校教育法教諭と同
等の職である。
8)小学校において特定の教科のみを担当する選科担当教員は、
戦前においては、専科教員として免許制度上定められて
いた。明治33(1900)年の小学校令で、全教科担任者を
本科正教員として、図工、唱歌、裁縫などの教科を専科
教員として位置づけていた。小林宗作は私立の成蹊小学
では音楽教師という言葉を用いているので、本稿では音
楽教師を用いることとした。なお現在は、一人の教員が
全教科を担当し、一つの学級の全ての児童に責任をもつ
学級担任制が原則である。しかし教員によっては教科指
導に得意・不得意があり、すべての教科に高い指導力を
期待することは難しいことから、技能教科に属する、音楽、
図画工作、家庭、体育などの特定の教科を担当する教員
を置いているのが普通である。
9) 小原國芳(1928)「わたしたちの幼稚園」『教育問題研究
全人』第21号pp.32-39.の中で「主任の金子君(元の
小林君)に…」と記していることから、成城幼稚園に勤
務していた昭和3年頃、金子家に養子入籍し、小林宗作
から金子宗作に変えたようである。しかし、すぐに小林
宗作と名乗るようになっている。
10)佐野によると、次兄は高崎師範学校卒業と記している
(1985,p.42)が、群馬県立図書館に調査依頼をしたと
ころ、高崎師範学校は明治9年8月から明治11年3月ま
では存在していたが、その後前橋に移り群馬県師範学校
となったとの回答を得た。さらに佐野は次兄長十郎と記
しているが、塚田長重郎(旧姓:小林)の名前が、昭和
35年に出された後継である群馬県立大学の同窓会誌の卒
業者名簿に掲載されていることが判明した。
11)明治19年(1886年)4月9日小学校令(第1次)の公
布により尋常小学校4年間(無償)、高等小学校4年間(授
業料徴収)が設置された。小林はこの第1次の時代に高
等小学校に入学し卒業している。
12)佐野(1985)の資料から下仁田小学校での音楽会のプロ
グラムの調査を行ったが、下仁田小学校、群馬県立図書館、
国立音楽大学附属図書館にも存在しなかった。おそらく
東京音楽学校で学ぶ学生もしくは教師が、ピアノ演奏や
独唱、ヴァイオリン演奏などを行ったものと思われる。
13)『東京音樂學校一覽 自大正五年至六年』の學則によると、
甲種師範科は満16歳以上、師範学校中学校もしくは修業
年限4カ年の高等女学校本科を卒業し当該学校長の推薦
を受けた者が入学試験を受ける資格があった。修業年限
は3カ年あった。一方、乙種師範科は、高等小学校を卒
業した者で、修業年限は1カ年であった。
14)中館は遠野市の名誉市民となっていることから、遠野市
および岩手県立図書館に調査を依頼したが、中館が名誉
校においても唱歌教員として採用になっているが、自身
市民に選ばれた経緯、来歴、上京時に関する資料は残さ
教育者としての小林宗作の成長の過程
(45)
れていないとのことであった。ただ、昭和53年に市民文
化賞を受賞しており、その時の授賞理由は、国立音楽大
学(くにたちおんがくだいがく)を設立、西洋音楽の普
及を行った、昭和52年に遠野で特別演奏会を開き、その
売上げを市教育文化財団へ寄付し、市民文化への貢献を
果たした、となっていることは判明した。
15)中館についての資料は少ないため、国立音楽大学に調査
依頼を行った。国立音楽大学校史編纂準備室より、回答
を得たものである。
16)平成24年度全日本音楽教育研究会大学部会部会大会国立
音楽大学プロジェクト研究『音楽を学ぶ大学生のキャリ
ア教育』の資料p.9.
17)『東京音樂學校一覽 自大正五年至六年』近代デジタルラ
イブラリー、国立国会図書館
18)上掲書によると、音楽教授法は第3学期1と記されてい
ることから、1、2学期は行われていなかったようである。
19)『東京音樂學校一覽 自大正六年至七年』學則第四章 學
科目及其課程 第二十條には「選科ノ學科目ハ本科ノ主
科ニ属スルモノ及筝ニ限ル 但シ同時ニ三學科目以上ヲ
併修スルコトヲ許サス」とある。専攻する科目を学ぶこ
とに特化した学科であることが読み取れる。小林が選科
に入学した大正6年には唱歌、ヴァイオリン、ピアノ、
オルガン、セロ、筝専攻の入学者が471名いる。本科65名、
研究科35名、乙種師範科18名、甲種師範科84名と比べ
てかなり多い人数である。
20)成蹊小学校90年の歩み『すもも』に、小学校が設置され
た大正4年(1915年)から今日までの教職員一覧が掲載
されている。それによると、大正8年(1919年)年度の
1年間、真篠俊雄が唱歌講師として勤務したこと、大正9
年(1920年)から小林宗作が唱歌教員として勤務したこ
とが記されている。
21)成蹊小学校の創立当時から行われているものに凝念と心
力歌があり人格教育を象徴している。凝念は手をかさね、
左右の親指をあわせ桃の実の形をつくり黙想する。
22)岩崎は英国留学それに対して、日本は教科書の詰め込み
主義で自主的精神が足りないことを痛感し、官庁の制約
を受けない理想的な教育のできる学校設立を考えていた
ようである。(http://www.seikei.ac.jp/gakuen./struct/
history/reimeiki.html)
ムページ大学概要に次のように掲載されている。東京音
楽大学の前身である東洋音楽学校は明治40年に設立され、
翌年には管弦楽部を設け、明治43年に英国大使夫妻、岩
崎小弥太夫妻の後援を得て、ロンドンのロイヤル・フィ
ルハーモニーにならい、東京フィルハーモニー会が設立
された。このオーケストラは山田耕筰に引き継がれ、新
交響楽団、現在のNHK交響楽団へと発展し、クラシック
音楽の普及に大きく貢献した。三菱グループのホームペ
ージによると、英国大使を誘ったのは岩崎のようである。
24)成蹊学園史料館には、子どもの唱歌に関する「子供の唱
歌の今と昔(1)(2)」『母と子』、音楽の歴史に関する「音
樂の歴史」『子鳩』の論考、作曲した《鯉幟の歌》などが
残されている。
25)尋常小学校一年生のこと
26)野辺地瓜丸は、 昭和前期から中期にその名を残す伝説的
ピアニスト。フランス奏法を戦前の楽壇にいち早く紹介
し繊細で可憐なタッチ、美しいピアニッシモで多くのフ
ァンを魅了した。後に勝久と改名する。
27)井上園子は昭和前期のピアニスト。11歳でモーツァルト
ピアノ協奏曲第23番を独奏した。国際ピアノコンクール
に日本人として最初にエントリーした。父は眼科医。
28)『東京音樂學校一覽 自大正四年至五年』學則第六章 入學、
休學、退學 第廿九條には、「本校ニ入學セントスル者ハ
第一號及第二號書式ニ據り入學願書ニ履歴書及戸籍謄本
ヲ添へ差出スヘシ」とある。その他、入学を許可する者
には、品行善良ということも求められていた。
29)小原國芳は成城小学校主事、のちに玉川大学を創立し第
3代学長となる。日本基督教団のクリスチャンであった。
詳細は『小原國芳全集』を参照されたい。
30)沢柳先生とは沢柳政太郎(以下沢柳)のことである。沢
柳は文部官僚時代に小学令を改正し修業年限4年間から
現在の修業年限6年間の課程に改正したり、旧制高等学
校を増設したりしている。東北帝国大学初代総長、京都
帝国大学総長などを歴任後、陸軍士官学校の予備校であ
った成城学校の校長に就任。新教育の実験校として大正
6年4月成城小学校を創立した。小原國芳は沢柳に見出
され成城学園の運営を任されることとなった。
31)新渡戸稲造は当時、国際連盟事務局に勤務しており、欧
米の事情を把握するには、新渡戸を訪ね教えを乞うこと
23)東京フィルハーモニー会については、東京音楽大学ホー
が良いと小林は考えたのかもしれない。詳細は板野晴子
松本晴子
(46)
2011「小林宗作によるリトミック移入と新渡戸稲造によ
る示唆」『ダルクローズ音楽教育研究』Vol.36.を参照さ
れたい。
32)『総合リヅム教育概論』の補足で小林は次のように述べて
いる。「力の解放―ダルクローヅ氏のリヅム體操に就いて
は、肉體運動に當つて筋肉の力の解放といふことが完全
に行はれてゐないのである。(中略)理論として又基本練
習として一應は訓練されるのであるが、私が見たところ
では、ダルクローヅ先生自身に於いても、リトミツク學
校教授及上級生徒の實際を見ても、不徹底であると思わ
れる」(pp.195-196)。さらに、社交ダンスは狂的悦境を
さまようのに、表情遊戯、律動遊戯、體育ダンスもそれ
がない。リトミツクにもそれがなかった。ところがボー
デー氏の表現體操は一目見て全興味が集中されたこと、
音階練習についてもジェグルジュ式という新しい研究が
ダルクローヅ式に勝る幾多の美点があること、ピアノ即
奏法は、表現においてタイプライティングであると思う
と記している(pp.196-198)。
33)大正9年から昭和8年にかけて成城学園では、学園職員
による研究論文や実践記録を収録した『教育問題研究・
全人』を発刊している。その内容には学園便りが含まれ
る号もある。
34)早坂の父親早坂哲郎が、明治21年創立間もない宮城女学
校の数学と修身の教師として赴任しており、姉たちも宮
城女学校出身ということで宮城学院については、思い入
れが強かったように思われる。学院長という役職の依頼
があり、父親の足跡をたどることも含めて、相当の覚悟
で赴任したようである。
引用・参考文献