福岡県玄界灘に面してある宗像大社は、いわゆる「宗像三女神」を祀る。
宗像市田島にの「辺津宮」、筑前大島の「中津宮」、沖ノ島の「沖津宮」がそれぞれ鎮座し、三社を総称して「宗像大社」とよんでいる。
2017年に「「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群が遺跡群」として世界遺産に登録された。
特に、沖ノ島には国宝、重文を含む約8万点ものご神宝が納められていて、「海の正倉院」と称される。
これほど朝廷や地方豪族に崇められた理由は、古代から行なわれてきた海外との交易の安全を祈願したからであり、また同時に海外からの脅威に対しても防衛の意味での祈りが捧げられていたからである。
沖ノ島は立ち入りが「禁制」なのだが、特別に「沖津宮」に入ることが許された人ならば、そこに「瀛津宮」(おきつみや)との名が記されていることが目に留まるであろう。
この中の「瀛」の文字は、あの大海人皇子の和号「天渟中原”瀛”真人」に見出される一文字なのだ。
さて「日本書紀」によれば、天智天皇死後、子の大友皇子(近江方)と弟の大海人皇子(吉野方)の勢力争いがおき、672年の「壬申の乱」へと発展する。
壬申の乱の帰趨を決定的にしたのが、なんと「宗像氏からの援軍」だった。
実は大海人皇子の后こそ「宗像族」の后・尼子郎娘(あまこのいらつめ)であり、尼子郎女を通して宗像氏は瀬戸内海を通って「援軍」にかけつけたのである。
さて「日本国」の名が登場したのは、7世紀天武天皇の時代といわれる。しかし「日本書紀」では、後に「天武天皇」として即位する「大海人皇子」の正体をほとんど明かしていない。
ともあれ、沖津宮の「瀛」という文字は、宗像氏と大海人皇子との深い関わり暗示しているかのようだ。
ところで、宗像市に隣接する福津市には、宮地嶽神社がある。人気アイドルグループ「嵐」出演のCMで有名になった「光の道」がみられる神社である。
天武天皇(大海人皇子)の第一皇子は、「壬申の乱」の将軍となって戦ったのが高市皇子(たけちのみこ)であるが、その母こそ「胸形君徳善(とくぜん)の女(むすめ)尼子娘(あまこのいらつめ)」である。
この「胸形君徳善」は、宮地嶽神社の裏にある宮地嶽(みやじだけ)古墳の主と推定されている。
九州北部玄界灘沿岸を、宗像市から北九州に向かうと響(ひびき)灘に面した遠賀郡・芦屋町がある。
この芦屋町を流れる遠賀川の水運は古くから開け、1130年には大宰府の観世音寺領の碓井村の年貢米が本寺の奈良東大寺に納入された記録がある。
近世になると、藩の財政は大阪や江戸の市場経済と結び、遠賀川の舟運も年貢米や物資を運ぶ水上ルートとして重要視されていった。
近代になると、遠賀川の舟運は、鉄道が開通する前までは、石炭輸送として重要視され、遠賀川の河口に位置する芦屋港は石炭の積出港となっていた。
遠賀流域では、こうした舟運を「五平太舟」とよんでいる。北部九州の五平太という人が「燃える石」(石炭)を掘り出した伝説からである。
また芦屋町には、中世の時宗信徒の「念仏踊り」が始まりとされる「芦屋役者」と呼ばれた集団がいた。
意外なことに、芦屋役者の始まりは、中世の「踊り念仏」だという。
「踊り念仏」の祖・空也は京都の人だが姓氏は明らかではない。903年の生まれで、醍醐天皇皇子とも常康親王の子ともいわれている。
21歳のころ尾張国分寺で出家して空也と称し、国内をまわって道路修理・架橋・廃寺再興・死体埋葬また井泉を堀るなど慈善救済事業につとめた。
京都で「市聖(いちひじり)」 と呼ばれながら念仏教化をつづけ、六波羅密寺(西光寺)を建立している。
空也は、10世紀半ば8名の供をつれて芦屋に来たと言い伝えられている。
芦屋において空也上人は、毎日迂々に立ち、鰐口を敲きながら、腰には瓢箪をぶらさげて、手振り模様もおもしろおかしく念仏踊りをやっては、善男善女を集めて仏教のおしえをといていた。
ところが或る日のこと、空也上人は、突然18名の供人を置きざりにしたまま、京都に帰ってしまう。
たちどころに困ったのは18名の者は、明日からの生活もどうしてよいか判らなかった。
思案に暮れた結果、見馴れ聞き覚えた空也上人の念仏踊りを真似ながら、辛くもその日その日の生活を凌ぐことになった。
この附人(つきびと)たちの子孫が江戸時代になって歌舞伎を手がけ、有名な「芦屋役者」になったのである。
芦屋町の「安長寺」は初め空也堂として、役者町の人達が建立したものである。
安長寺につき、書に「寺中町に在。 西空山極楽院と云。 光明寺に属す。 空也堂なり。 上人の木像并ならびに古画像あり」とある。
安長寺の東側一帯の町を以前は「寺中(じちゅう) 町」と言われていて、芦屋歌舞伎の役者たちが住む役者町であった。
大衆演劇はサービス精神が旺盛で、役者の体温が伝わってくるような親近感が魅力であった。
石炭景気を背景に、昭和初期、筑豊地方には劇場が数々生まれ、芝居好きの炭鉱労働者たちがヤンヤの喝采を送ったという。
明治中期ごろまでは盛んで津々浦々を巡業し、かたわら若者たちに歌舞伎や踊りの手ほどきなどをして、村芝居の興隆にも大いに貢献した。
記録によれば、1848年の寺中町人口は284人、67軒であった。そして1903年、申し合わせを行い、各座一斉に解散している。
解散の理由については、 経済的理由以外にも、職業的偏見がその理由の一つと昔から指摘されている。
芦屋役者」発祥地の安長寺はひっそりと伽藍を構え、 門前の道路は結構車の往来が激しいが、そのすぐ裏手には遠賀川の河口が広がる。
安長寺に「芦屋歌舞伎の役者町跡」の石碑が立っている。
また芦屋には、「芦屋役者」以外にも「旅行商人(たびゆきしょうにん)」という旅する人々がいた。
彼らがいつどのようにして生まれたか、詳しい資料は残っていないが、江戸時代の「文政・天保年間(1818~44年)に旅行商人」が最も盛んになった。
芦屋山鹿の舟は、まず生蝋(きろう)やくり綿などの遠賀川筋の特産品を芦屋から伊万里へ運び、そこで「伊万里焼」を仕入れた。
当時の芦屋山鹿には裕福な商屋がたくさん軒を連ねており、最盛期には伊万里焼の3分の1を旅行商人があつかっていたほどであった。
佐賀の伊万里は鍋島藩の御用窯で、三方を山に囲まれ、もう一方の入口には関所が置かれ、至高の技術の漏出を防いだという。
そして「旅行商人」は瀬戸内を大坂へ、また山陰、北陸から遠くは蝦夷、松前(北海道)まで交易に出かけ未踏の地なしといわれるほどあった。
これは、芦屋や津屋崎にも寄港した「北前船」を利用したと推測されるが、もともと個人経営で資本も巨大でなく、苦労の多かった「旅行(たびゆき)」は、明治以降の国内交通網の整備などによって衰退し、明治末には「旅行」の名は歴史から消えていった。
特に、この地で生まれ全国的に名を馳せた「芦屋釜」は、こうした「旅行商人」の存在と無関係ではないであろう。
芦屋町の魚見公園の一角を占める「芦屋釜の里」がある。長屋門をくぐり抜けると、季節の花と緑あふれる3千坪の日本庭園の情緒ある眺めが広がっている。
その中に「芦屋釜資料館」、いつでも抹茶がいただける「立礼席」「芦屋釜復興工房」などがあり、庭園内に大小の茶室も配している。
一般的な茶釜の産地は千利休が活躍する桃山時代後に発展しているが、芦屋釜はそれ以前にすでに確固たる地位を築いていたことから、歴史深い茶釜としても茶道経験者の中ではよく知られていた。
名器と呼ばれるものの条件として見た目に重厚感があり、手取りは軽やかであるということが挙げられ、芦屋釜はその2つを兼ね備えている。
「真形(しんなり)」と呼ばれる端正な形。他にはない曲線美。そして銅部に表される優美な文様の数々であった。
地紋には、松竹梅・花鳥・山水などが描かれており、これは芦屋釜づくりを支援していた戦国大名大内氏が当時庇護していた雪舟の水墨画に影響があるといわれている。
実際釜の中には、雪舟が下絵を描いたとされるものも存在している。
芦屋釜は国の重要文化財に指定されている9点の茶釜のうち、実に8点をこの芦屋釜がしめている。
お茶の世界ではその名を知らない人がいなかった芦屋釜だが、江戸の初期に、今まで後ろ盾となっていた戦国大名の大内氏が陶晴賢に滅ぼされたことにより、250年の歴史に突如終止符が打たれ、「幻の名器」とよばれている。
宗像の南西に位置し同じく玄界灘に面した津屋崎(福津市)には前述のように、古代宗像族の首長である胸形徳善の古墳が存在するため、宗像と「同一文化圏」と考えてよいであろう。
この宮地嶽古墳に近い津屋崎港は、九州一の塩田がひかえ「塩の積出港」として栄え、現在も渡(わたり)半島には塩田跡や、塩倉庫が残っていて「塩浜」という地名がそれを物語っている。
この辺りは、深く入り込んだ入り江が製塩に適し、古くは室町時代から製塩が行われていた。
いわゆる「入浜式塩田」で、塩田を堤防で囲み、溝を縦横に走らせた塩田地場に、樋門から導いた海水を浸透させ、自然蒸発後,塩の結晶の着いた砂を集めて濃縮海水とし,これを煮つめて塩を生成した。
津屋崎の塩田が本格的に開発されたのは1741年、八代将軍・徳川吉宗時代に四国の讃岐国津多浦から商用で津屋崎を訪れた大社元七(おおこそ・もとしち)が、津屋崎から勝浦にわたる海岸の原野を見て、「塩田開発」を福岡藩に申し出たのがはじまりだという。
宗像には前述の「旅行商人」以外にも、遠く北陸の地に出向いていった人々がいる。
NHKの番組「あまちゃん」は、海女(あま)という存在に光をあてたが、そのルーツは芦屋の南に位置する宗像の鐘崎(かねさき)である。
鐘崎には、海女の装束を纏った女性像があり、その足元には「海女発祥」の地を示す石板がある。
鐘崎は、「魏志倭人伝」でも伝わる頃からとくに漁が上手だったということだが、漁場が狭く、次第に出稼ぎに出るようになった。
五島列島・対馬・壱岐・朝鮮半島から、輪島・舳倉島までの日本海の広範に広がったといわれている。
そして各地で漁を教え、住みついていった。
江戸時代には300人ほどいた海女も、大正には200人、戦前で100人あまり、戦後は30人足らずと衰退してしまった。
実は、「あまちゃん」の舞台となった伊勢志摩の海女は北九州を拠点としていた海人族安曇(あずみ)氏の女であり、安曇氏が山東半島から朝鮮半島西岸経由で北九州に到達しており、潜水技術も済州島辺りに滞在していた安曇氏の海女から鐘崎の宗像氏の海女に技術が伝承されたと考えられる。
さて、石川県能登の輪島には、この宗像の海女たちが移住したと伝えられている「海士町(あままち)」という集落がある。
宗像の「海女発祥の地」鐘崎は、700年ほど前は対馬の守護代宗氏の領地、鐘崎の海人はそのつながりから対馬で漁業権を得て潜水漁を行っていた。
ところで、能登半島地震で甚大な被害が出ている石川県輪島市は海女漁が盛んで、宗像市鐘崎とは455年前に遡る縁がある。
「筑前鐘崎漁業誌」や「海士町開町三五〇年記念誌」などによると、1569年、筑前国鐘ヶ崎(現在の鐘崎)の海士又兵衛ら男女13人が、北東へ約700キロ離れた能登半島に上陸した。春から漁期の間は現地に滞在し、秋に九州へ帰る「アマアルキ」と呼ばれる季節移動を繰り返した。
その後、一部が定住し、半島から48キロ沖の舳倉(へぐら) 島や七ツ島で貝や海藻を採って生計を立てた。
1649年、加賀藩から1000坪の土地を拝領して移り住んだのが、「海士(あま)町」の始まりとされる。
この海士町の成立は比較的新しく、1649年に加賀藩より拝領したもので、それより以前は、多くの海女たちは冬場にアワビ等の漁の為にやってきて、秋口にはまた九州へ帰っていくという「移住生活」を繰り返していたようである。
現在も町やその近辺に120~130人の海女が暮らし、舳倉島、七ツ島などで漁をし、鐘崎と似通った方言や風習も伝わる。
2018年には「輪島の海女漁の技術」が国の重要無形民俗文化財に指定された。
さて、江戸時代中期に登場した「北前船」は、明治中期にかけて日本海を航行した木造帆船のことをいう。
船の形は、巨大な帆を張って風力で動く弁才船(べざいせん)で、多くの荷物を比較的安全に輸送できる船として、日本海の海運の発展に一役買った。
北前船は荷物を運んで運賃を得るだけの船ではなく、荷物を買って運んで売る「買い積み」が主体の船であることが特徴である。
例えば、新潟では米は安いけれど北海道では高く売れるとすると、この「価格差」を利用することによって儲けになるが、それは船頭の才覚にかかっていた。
必要なのは、情報収集能力と、商機を読むセンス。
つまり、情報をもとに、どこで何を仕入れ、どこで売るかを考えて航路を描くことが船頭には求められた。
北前船は今で言う総合商社のような役割を担っていて、海上を動く「総合商社」といってもよい。
ひとつの航海で千両稼ぐことも夢ではない反面、難破したら船も荷物も失ってしまう。
まさにハイリスク・ハイリターンの商売だったということである。
そこに一攫千金の北前船ロマンが生まれ、様々な伝説が語り継がれることになる。
北前船は寄港地に着くと、毎回決まった回船問屋に世話になることが決められていた。
世話になるとは、港に滞在する期間に寝泊まりし、商品の売買を仲介してもらうことで、回船問屋は船頭を儲けられるように売り先を選び、また様々な情報を提供して北前船の商売を支えていたという。
内田康夫の「化生(けしょう)の海」はこうした「北前船」を題材にした小説で、「津屋崎千軒」の町並みが舞台となった。
それは、北海道の余市で起きた殺人事件から、北前船の寄港地となった加賀(石川県)から津屋崎(福岡県福津市)へと「謎解き」が展開していく。
殺された男性は松前(北海道南端)と言い残して旅立つ。しかしその3日後、男性の遺体が石川県の橋立港で発見される。
その不可解な死の謎を解のき鍵となったのが、男性の遺品の中にあった「土人形」である。
その土人形は、作者を示す「卯(う)」のマークが印字してあった。この「卯」マークの人形の出どころは、福岡の津屋崎の「土人形」であることが判明する。
現在も「津屋崎千軒」とよばれる町並みに、この人形店が存在する。
江戸時代に、海女の季節移動以外にも、宗像に隣接した津屋崎が、北前船の寄港地であったことから、北陸・能登との繋がりが生まれた。
その繋がりが関係しているのか、両地域にはいろいろな共通点がみられる。
津屋崎の入浜式、能登の揚浜式の違いはあれ、「製塩業」が盛んであったこと。
また、能登の「輪島塗」に対する芦屋の「芦屋釜」といった伝統工芸の存在、能登の「一向宗」に対しての芦屋の「時宗」など民衆宗教の地域の絆をつくったことなどである。
2024年2月,宗像漁協と宗像大社は、鐘崎との450年を超える古くからの結びつきから、多くの海女が暮らす震災の被災地・輪島市海士町への直接支援に動き出した。