1959年、動物作家の戸川幸夫は網走経由で知床入りを目指していた。当時、知床は文字通りの「地の果て」。
道・道斜里宇登呂線が前年の前年に開通したばかりで、網走の人にとっても「行ったことないべ」。
後に、イリオモテヤマネコの発見にも関わる戸川氏にとって、「秘境知床」は興味そそられる地であったことは間違いない。
しかし、網走市の観光課の人でさえ知床半島に行ったことがないというありさまで、当時の観光係長にお願いして知床半島に行ったことのある市民四人に事情を聞いたくらいだった。
その時は知床半島のウトロまで行くのに営林署のジープに便乗し、営林署の宿舎に泊めてもらい、鮭の集荷船に乗って突端の番屋に行き、そこから先は番屋づたいに転々と移動して半島を旅したという。
東京日日新聞(現・毎日新聞)の社会部長、そして毎日グラフ編集次長まで務める戸川の取材は、1960年に小説『オホーツク老人』となって実を結ぶ。
当時、夏場には漁師が番屋に滞在し、交通船という船で物資や人材を定期的に運んでいた。
知床半島の羅臼側先端部、赤岩海岸には今でも数軒の番屋がある。
そんな番屋も、夏だけの季節移住の「漁業基地」であるから、海の荒れる晩秋から流氷が去る春までの休漁期間はほとんど無人状態となる。
もちろん、厳冬期には船が近づけない厳しい自然に「封鎖状態」になってしまう。
ところが、大切な漁網をネズミの被害から守るために番屋では猫が飼育される。
冬も猫がネズミの番をするのですが、この猫のお守り役の「留守番さん」である。
小説『オホーツク老人』は、この老いた「留守番さん」が主人公の感動ストリーである。
森繁久弥は小説『オホーツク老人』を読んだ時、これは「おれのために書いてくれた小説だ」と感銘を受け、「森繁プロダクション」を設立、その第1作映画がこの『オホーツク老人』であった。
1960年、東宝・森繁プロダクションの手で、「彦市老人」を主人公とする映画が誕生する。
それが、森繁久彌主演、久松静児監督の映画『地の涯に生きるもの』である。
映画のロケは60年3月にウトロ(斜里郡斜里町)で始まり、同年7月に羅臼町でフィナーレを迎えた。
そして、森繁が映画『地の崖に生きるもの』の撮影で知床半島の羅臼に滞在していた時に名曲が生まれる。
森繁久彌の作詞・作曲の「知床旅情」は、1960年、撮影の最終日に地元の人たちに「さらば羅臼よ」というタイトルで歌われた。
また、倍賞千恵子が、あるテレビ番組で「オホーツクの舟歌」という曲を歌ったが、メロディは「知床旅情」である。
「オホーツクの舟歌」は、「知床旅情」の元になった歌で、森繁がぜひ倍賞に歌ってもらいたいとお願いしたという。
「知床旅情」と「オホーツクの舟歌」は同じメロディーだが、前者が夏を歌った歌に対し、後者は冬の厳しさを歌った歌である。
「オホーツクの舟歌」は、途中に次のような台詞がはいる。
「何地(いずち)から 吹きすさぶ 朔北の吹雪よ わたしの胸を刺すように オホーツクは 今日も 海鳴りの中に
明け 暮れてゆく 父祖の地のクナシリに
長い冬の夜があける日を 白いカモメが告げるまで
最涯ての茜の中で わたしは 立ちつくす
何故か 眼がしらの涙が凍るまで」。
寺山修司(1935年~83年)は、戦後の日本を駆け抜けた歌人であり、劇作家である。
警察官の父・八郎と母・ハツの長男として生まれ、少年時代は青森県で過ごした。
しかし父は出兵先のセレベス島で戦病死しており、このことは彼の詠む短歌にも大きな影響を与えた。
ある女友達の影響により中学の頃から俳句や詩を作りはじめ、18歳にして華々しい歌壇デビューを飾るも、翌年ネフローゼ症候群のため長期入院を余儀なくされる。
しかし療養中も積極的に詩作を続け、第一作品集『われに五月を』を刊行し、高い評価をえた。
寺山が精力的に短歌を作り続けた期間は短く、デビューから10年あまりに過ぎない。
その後は表現の場を映画、作詞、演劇、写真など、あらゆる分野に広げていき、生涯で膨大な量の文芸作品を発表している。
中でも演劇には情熱を傾け、「天井棧敷」を主宰し国際的にも大きな反響を呼んだ。
個人的に印象に残る寺山の短歌に、「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」という歌がある。
「マッチを擦る一瞬、海に深い霧が立ち込めている情景が浮かび上がる。我が命を捧げるほどの祖国はあるのだろうか」という意味になる。
夜の波止場でマッチに火をつけた一瞬の明るさで、暗い海に霧が深く立ち込めていることが浮かび上がるが、すぐに消えてしまう。
その束の間の情景が、定まらない作者自身の心情が重なり、心深くに抱いていた「祖国」への疑念をあぶりだしているように描かれている。
この作品が発表された当時の日本は、終戦から立ち上がり、復興・発展にむけて走りはじめている時代。多くの人々は希望に満ちた未来を語り、自由を謳歌する一方、信じるべき理念を失った不安の影がゆっくりと広がりつつあった。
寺山が「身捨つるほどの祖国」と詠んだ背景には、大日本帝国のためと信じて戦い死んでいった父の姿があるにちがいない。
終戦直後、寺山は満10歳という少年であった。
戦時中「欲しがりません勝つまでは」と「滅私奉公」を強いられていた日々は一転し、大人たちはこぞって「戦争は反対だった」「今まで教えていたことは間違いだ」という。
その姿に、早熟だった少年・寺山は「祖国とはなんなのか」「父の死の意味は」「自分のあり方とは」と様々な自問自答が脳裏に満ちていたことであろう。
また寺山は、価値が転換する時代において、「戦死した父のようには生きられない」とよるべない不安を抱えていたであろう。
祖国だけでなく、自身の命を捧げてまでも信じられるほどのものは何もないんだという、若者の孤独を浮き彫りにしている。
個人的な話だが、寺山のこの短歌に吉田拓郎の曲が思い浮かんだ。その曲とは、吉田拓郎の曲の中でカラオケで一番歌われている「落陽(らくよう)」という曲である。
この曲は吉田曲の作詞を多く担当した岡本おさみが、北海道を放浪した時に「或る老人と出会った」体験をもとに作られたものである。
岡本が旅の途中で出会った老人は、サイコロ賭博に明け暮れる人生を送っているのだが、わざわざ苫小牧港から仙台港に向かうフェリーに乗る岡本をわざわざ見送りに来てくれた。
その老人の人生の哀歓がよく伝わってくる歌である。
その中の歌詞(1番)は次のとうり。
♪のぼったばかりの夕陽の赤が水平線から もれている 苫小牧発仙台行きフェリーあのじいさんときたら わざわざ見送ってくれたよおまけにテープをひろってね 女の子みたいにさ♪
歌詞にでてくる「テープ」というのは、船出する際に船から桟橋で見送る人に向けて投げる「紙テープ」で、このしきたりは日本特有の「別れを惜しむ」情感が込められている気がする。
また、「苫小牧発仙台行き」はあくまで岡本の旅なのだが、それを見送る老人の姿には、ふるさとへの思いがこめられているのかもしれない。
フェリーで旅立つ主人公が投げたテープを旅先で出会ったこのおじさんが拾い、別れを惜しんでいる様子が描かれているのは、家族と別れ出稼ぎでいることを推測させる。
苫小牧港は当初、石炭積み出し港で、1973年がピークとなり、以後は炭鉱の閉山・縮小により、そこに通じる鉄道は廃止されてゆく。
また、歌詞(2番)は、おじいさんの、よりパーソナルな歴史が垣間見える。
♪女や酒より サイコロ好きですってんてんのあのじいさん
あんたこそが 正直者さこの国ときたら 賭けるものなどないさ
だからこうして 漂うだけ♪
このおじいさん、お国のために戦争にいった経験をもった人であろう。
ただ、「この国ときたら 賭けるものなどないさ」という歌詞が、寺山修司の「賭けるほどの祖国ありや」の短歌の心情と重なる。
おじいさんは戦後、高度成長期を支えた「黒いダイヤ」ともいわれる石炭を掘る仕事についたのだろうか。
♪みやげにもらった サイコロふたつ 手の中でふれば
また振り出しに 戻るに 陽が沈んでゆく♪
サイコロ賭博にはさまざまなバリエーションがあるが最も代表的なものが「丁半博打」である。
高倉健と藤純子の「花と龍」(火野葦平原作)では、北九州若松の港湾労働者の世界での「サイコロ賭博」が、芸術美のように描かれていた。
また、炭鉱労働者の世界でもサイコロ賭博が盛んにおこなわれていたようだ。
それは、明日ともしれない命の危険をともなう仕事であったことの裏返しだったかもしれない。
「みやげ」として老人からもらった2つのサイコロは、まるで彼の生き様そのものを象徴しているかのようだ。
アメリカ映画の名作『ショーシャンクの空に』(1994年)はスティーヴン・キングの執筆した『刑務所のリタ・ヘイワース』が原作である。
ショーシャンク刑務所に、若き銀行の副頭取だったアンディー・デュフレーン(ティム・ ロビンス)が、妻と間男を殺害した罪で入所してきた。
最初は刑務所のしきたりにも 逆らい孤立していたアンディーだったが、刑務所内の古株で“調達係”の年老いた黒人レッド(モーガ ン・フリーマン)は彼に他の受刑者達とは違う何かを感じていた。
入所1か月後、アンディと初めて口を利くが、ロックハンマーの調達を依頼するというものであった。
そんなアンディーが入所した2年後のあるとき、刑務所では屋根を工事する「外での仕事」が入った。
厳しい環境での労働に、アンディーは囚人仲間になんとかしたい思いにかられる。
そんな時、監視役のハドレー主任が抱えていた遺産相続問題を耳にして、それを解決する書類を作成する代わりに、囚人仲間にビールをふるまうように要求する。
ハドレーはその要求を訝しく思いながらも、アンディのアドバイスに納得し、要求をうけ入れる。
この一件を機に、アンディーは刑務所職員からも受刑者仲間からも、一目置かれる存在になっていく。
そして親子ほど年の差のある黒人レッドもまた、若いアンディとの友情を築いていく。
しかし、多くの囚人とは雰囲気の違うアンディに通称ボクズが目をつける。
彼はレッドらにクズ呼ばわりされるほどの悪党で、アンディは暴行を受け、その後も目を付けられる生活が2年ほど続く。
その後、アンディの能力は刑務所のノートン所長にも認知され、図書室での仕事を言い渡される。
図書館の仕事といっても、実際は税金の書類を行ったりと会計士のような仕事をしていた。
ノートン所長はアンディを「ただ働き」の会計士として都合よく使っていたにすぎない。
ノートンは外部の仕事を安く請け負い、利益をピンハネして、隠し金を稼いでいたのだ。
そんな中、若いトミー・ウィリアムズが新入りとしてやってくる。トミーは驚くことに、アンディの「無実」を決定づけるような話を聞いていた。
別の刑務所でプロゴルファーの愛人と、ある人妻を殺したことを自慢げに話す囚人がいたと言う。
その囚人が言うには、「オレではなく、その亭主が捕まった」とまで口にしていたという。
その話にピンときたアンディは無罪をはらすために、さっそく「再審」を要求する。
だが、ノートン所長は有能なアンディを手放すわけにはいかないと、トミーを懲罰房へと閉じ込める。
そればかりか、トミーをハドレーに射殺させる。その真実は当然アンディに伝えず、「脱獄をはかったから殺した」と嘘の説明をした。
アンディに一瞬見えた希望の光も潰えてしまったた感がする。
しかしアンディはそんな絶望的な状況の中でも、メキシコにあるジワタネホにて、ホテルを経営したいという夢をレッドに語る。
ショーシャンク刑務所に希望なんてないと言うレッドだが、アンディは希望を一切捨てていないようで、レッドが仮釈放が認められた後に果たすであろう「ある約束」について語る。
その翌日、アンディは独房から姿を消し、刑務所内は騒然となる。
実はアンディは、レッドに調達を依頼したあのロックハンマーで、脱獄の穴を掘り続けていたのだ。
その穴は人気女優のポスターの裏に隠されていて、看守も含む皆がポスターを大事にしてため、誰もそのポスターを剥がそうとはちなかったのだ。
アンディは脱獄前に、ノートンに依頼され誤魔化していた会計簿を、正しい家計簿に入れ替え、脱獄後にその不正を告発し、ノートンを自殺に追いやった。
刑務所で這いつくばるように生きたアンディが、最後は思いのままに命令を下してきた所長ノートンに鉄槌を下したことは、見る者にとって痛快である。
また老いたレッドは、若いアンディとの出会いによって改心し、仮釈放の面接にも通過、遂に外の世界へ出ることとなる。
そしてアンディが約束で示していた牧草地に向かうと、約束通りに岩場の下に箱が隠されていて、その中にレッドへの手紙とお金が入っていた。
メッセージは「仮釈放おめでとう。オレの仕事を手伝ってほしいからあの場所へ来てくれ」と。
この物語は、アンディとレッドとの年齢・人種を超えた「友情」の物語であり、そしてどんな境遇にも光をみつけようとする「希望」の物語である。
ところで、この物語に「ひとりの老人との出会いから生まれた曲」が思い浮かんだ。
その曲のタイトルは「ミスター・ボージャングルス」。
アメリカのミュージシャンのジェリー・ジェフ・ウォーカーは、ニューオーリンズの刑務所での大道芸人との出会う。この曲を書くきっかけになったと語っている。
ウォーカーはその時、公然の酩酊状態で刑務所に入っていたが、その時に「ミスター・ボージャングルス」と名乗るホームレスの男に出会った。
彼は、当時世間の注目を集めた殺人事件の後に行われた警察の貧困層の捜索の一環として逮捕されていたという。
重くなりがちな囚人の達の語らいの中、独房にいる誰かが気分を明るくするために何かを要求したところ、ボージャングルスはタップダンスを踊り、一機に所内の雰囲気が変わったという。
「ミスター・ボージャングルス」は、そんなウォーカーの体験をもとにできた曲であるが、世界的エンターテイナーであるサミー・デイビス・ジュニアは、この曲をテレビでタップダンスに乗って披露するや大反響が起こる。
以後、この曲はタップの名人たるサミーの「代名詞」となっていく。
そして、この曲をなんと、あの山本リンダが「日本語訳」で歌っていた。
♪昔、ボージャングルズという一人の男がいた。僕が初めて彼に会ったのは、あの暗い監獄の中だった… いつもどこにいてもステップ踏んでいたよ飛ぶように軽やかに踊ってた昼も夜も僕に人生を語ってくれた優しいあの目で…なのに肌の色がちがう ただそれだけで でも彼はいつも言っていたよ 朝のこない夜はないさ ほら朝日が昇るよ 今 心に だから…ダンス ダンス Mr. Bojangles Mr. Bojangles♪