情報を得るにはコストがかかる。コストとは金銭的費用ばかりではなく、時間や労力を含む。
インターネットが発達したおかげで,全般に情報コストは随分下がったが、今度はその情報がウソかマコトかを判別するめのコストが急速にあがっている。
情報に惑わされウソを信じればさらに大きなコストを支払わされる。
夏目漱石の言葉をパロると、智に働けば角が立つ、情報に棹させば流される。とかくに人の世は住みにくい。
さて、世の中にはお金も時間もあり余っていて、「好奇心」で難事件に挑むTVドラマの主人公のようなケースもあるのかもしれない。
特に、犯罪捜査のような場合は自らの安全を危険にさらすことにもなるので、なかなか踏み込めない。
とはいえ、マスコミも気づかない、動けないような問題を自らのコストで提起するようなケースもある。
1990年代前半に、衆議院議員選挙の候補者の「学歴詐称」が話題となった。
それを提起したのは一般人で、ある議員がアメリカのある大学を卒業したことになっているのがあやしいと思い、実際にアメリカの大学にコンタクトして調査したのだという。
結果はクロで、そこからマスコミによって「学歴詐称問題」がとりあげられるようになった。
あの小池百合子東京都知事の「学歴詐称疑惑」にまで発展した。
さて2023年、自民党派閥の「パーティー券収入不正問題」の発端は、共産党の機関紙のスクープだったそうだが、その実態解明はひとり人の大学教授によるものだった。
神戸学院大の上脇博之(かみわき ひろし)教授は、政治資金収支報告書チェックを行い、刑事告発を行い、「事件化」されたが、こうした活動を在野でずっと続けるのは労力・費用の面で大変だったと語る。
政治資金規正法は20万円を超える政治資金パーティー券を購入してもらった場合、購入者の名前や金額、購入日などの明細を収支報告書の収入欄に記載することを義務付けている。
上脇教授は自民党5派閥の政治団体の収入明細を確認し、総務省などが公表する業界の政治団体側の支出欄と突き合わせていった。
まずは金額が大きかった清和政策研究会(細田派)からはじめた。報道を手掛かりにパーティー券を購入していた政治団体の収支報告書の記載をひとつひとつ確認して積み上げていった。
そして、架空の支出記載は考えにくく、派閥側の「未記載」と考えた。
報道以外にも未記載はないか、地べたにはいつくばるように、地道に調べていったという。
3カ月後、結果的に当初のスクープで指摘された以上の2018~21年分で計約4000万円に上る「不記載」を見つけ、東京地検に告発した。
上脇教授の場合、情報獲得にも情報分析に相当な労力を使われたように思えるが、世の中には、情報コストをほとんどかけずに、重大な事実が解明されたケースがある。
情報にコストがかからないのは、誰もがアクセスできる「公開資料」をもとに、その人の直観もしくはひらめきによって、秘密のベールが開かれるといったケースである。
そうしたもっとも劇的なケースとして思い浮かぶのが、「鴻臚館遺跡の発見」である。
九州大学の医学部の中山平次郎教授が、「歌に読み込まれた」少しばかりのデータをヒントに古代の迎賓館であった鴻臚館の位置の推定をした。
そして、その場所が後年の発掘によってソノ推定の正しさが見事に「立証」された。
中山平次郎は、まず鴻臚館を訪れた遣新羅使が故郷・新羅を思い詠んだイクツカの歌に注目した。
例えば「万葉集巻15」の736年の遣新羅使の詠唱する歌「山松かげにひぐらし鳴きぬや志賀の海人」の中の「志賀の浦」などに注目した。
この歌から鴻臚館(筑紫館)は、志賀島と荒津浜を同時に見渡せ荒津の波呂が同時に聞こえる小高い丘にあったことがわかる。
この歌は鴻臚館から朝鮮の故郷を望んだ歌とされるものであることから、志賀島が眺望できて山松のかげの蝉声が詠まれる条件を満たす場所が福岡城内において外に求められないとその所在を推定したのである。
1950年代の終わりから60年代のはじめの福岡城跡内の平和台球場は、西鉄ライオンズの黄金時代に燃えていた。
その半世紀後、平和台球場の下に多くの陶磁器が出土し、大宰府の迎賓館にあたる鴻臚館があったことが判明したのである。
鴻臚館の発掘は平和台球場のとり壊しの際に行われたものであるが、この場所の発掘により中山平次郎博士の予測の正しが証明されたのである。
1956年に亡くなった中山平次郎博士の死後約40年めのことであった。
現在、平和台球場跡には遣新羅使の作った歌をしるした万葉歌碑が立っている。
1950年代に福岡の人々を熱狂の渦に巻き込んだ舞台のその下に、こうしたロマンを秘めた遺跡が眠っていたとは驚きである。
近年では「オシント」という言葉が定着しつつある。なんのことかと思えば、「Open Source Intelligence」(OSINT)の略で、一般に公開されている情報を統合的に分析して、独自の有用な情報を導き出すための手法なのだという。
もともと軍事・諜報活動で利用されてきた手法であるが、現在ではマーケティングやビジネス、セキュリティなどさまざまな分野で活用されるようになった。
我が大学生の頃、月の満ち欠けと野球選手の打撃成績やら投手成績を比較して、「月夜の晩」に活躍する選手を調べた人がいて、それが本になっていた。
本を見て、これらなら自分でも出来るのにと思いつつ、その目のつけどころに感心した。
ちなみに、「月夜の晩」に活躍する選手として巨人軍投手・江川卓(えがわすぐる)の名が挙がっていたのを微かに覚えている。
アメリカのメジャーリーグ「オークランド・アスレチクス」の奇跡の復活を描いた「マネーボール」は、ホームランでもヒット数でもなく、「出塁率」に注目してコスパのいい選手を集めることによって赤字経営を脱出した。
このような野球選手のデータは、インターネットによって容易に手に入れることができる。
これこそがOSINTに該当するものであろう。
この他にOSINT的な事実解明で思い浮かべるのは、同じ頃に注目されたジャーナリストの立花隆による田中金脈追求の元となったデータは「公開資料」、つまり誰でも手に入る資料であった。
総務省が出す田中関連の政治資金報告書、全国各地の法務局で会社・土地登記簿を集めて回り、角栄の金脈と人脈を隈なく洗い出していった。
、
そしてこれらのデータを元に、文芸春秋「田中角栄角栄ーその金脈と人脈」(1974年11月号)で当時首相の田中を辞任に追い込んだのである。
自民党総裁だった田中が指揮した1974年の参院選は「企業ぐるみ選挙」と呼ばれた。
大企業に自民党候補への支援を要請、巨額のカネが選挙運動に注ぎ込まれ、札束がいるいろなカタチで隠されて届けられ、金権政治への疑問が世間に広がっていたことがあった。
「田中角栄角栄ーその金脈と人脈」は数々の金脈事件を暴いたというより、それらの疑惑の一つひとつを適切に結んで、金脈の全体構図を描き出し、その背後にある仕掛けを描き出すことにあった。
より具体的にいうと、土地の登記簿の中から「架空会社」をあぶり出すことだったといっていよい。
文芸春秋の「立花部屋」には約20人ほどのスタッフが働き、スタッフが集めてきたものを夕方やってきた立花が1枚1枚読み込んでいく。
その繰り返しだったが、立花の仕事でもっとも評価すべきは、権力の迷宮へと恐れずに切り込む覚悟にあったともいえる。
ちなみに、立花隆はこの時34歳、田中角栄は54歳。
田中角栄は、炭鉱国管疑獄で逮捕されたこともあり、第二審逆転無罪となったものの、そのファミリー企業や政治団体に関しては、様々な疑惑が噂されていた。
戦時中に創業した田中土建工業を起点に、成功街道をのぼりつめた。しかし立花隆によれば、田中の資産をふくらませたのは、「実業」よりむしろ「虚業」だったのではないかと指摘する。
新星企業や室町産業といった、実体のないユウレイ企業を作って土地を買い占め、短期間に巨額の利ざやを載せて転売する、いわゆる「土地転がし」である。
長岡市の信濃川河川敷の買い占めが、角栄がらみの新潟での不明朗な土地取引の代表として知られていた。取材班は、土地登記簿の履歴をこまかく辿ることで、その実態を暴き出していったのである。
立花の下のスタッフが政治資金収支報告書に載っている、角栄系政治団体に年間5万円以上の寄付をした会社に、片っ端から電話をしてあたっていくと、大概は今社長はいないといった風に逃げられた。
しかし匿名を条件にすると、驚くほど赤裸々に政治献金のカラクリを教えてくれた会社もあったという。
例えば、上越新幹線は計画が決まった時には、もう業者が決まっていて工区割りまで決まっていたなど。
土建業者からの献金の見返りに、「予定落札価格」を漏らすなどして、田中角栄を総理の座に押し上げた莫大な政治資金の原資は、きわめてワイロ性の高い金だというのである。
新潟と東京をつなぐ上越新幹線(総工費1兆6860億円)は、田中角栄が通産大臣当時の1971年に着工している。
また、関東と日本海側を隔てる越後山脈をぶちぬき、高速道路を通す上での最大の難所・関越トンネルが策定されたのは、その前年だった。
こうした巨額の公共事業の指針となったのが、角栄が総理に就く直前に政策集として発表した、『日本列島改造論』である。
そこには本州四国連絡橋や、北海道や西九州の新幹線など、現在にまで至るインフラ整備計画がずらりと並んでいる。
田中角栄と会って話せば、懐が深くて実に魅力的だったようだ。なにしろ派閥の重鎮二階堂進は、あなたの趣味は何ですかと聞かれ
、「田中角栄」と答えたほどだった。
最大派閥のドンとしての田中の特徴は目先の損得にとらわれず、他派閥の議員にまで気前よくカネを配ってシンパを広げる。国会の警備員の名前もよく覚えていた。
田中という人物は本から学んだ理屈ではなく、経験から学んだ人生の知恵が蓄積された人物だった。
田中政治は都会と比べてインフラの整わない、日蔭の地といわれた貧しかった地方に、高度成長の恩恵を分け与えようとしたという見方もできる。
ただその政治姿勢の基本は、票と絡めた利益分配のシステムを確立することによる、あくなき政治権力の拡大にあったといえよう。
最近知って一番驚いたのは、当時の文芸春秋の編集長が、立花の原稿を抱き合わせで掲載するべく、同世代のノンフィクションライター児玉隆也に、角栄の後援政治団体の金庫番だった佐藤昭に焦点を当てた『淋しき越山会の女王』という原稿を依頼している。
そうしたのは、田中・自民党サイドに対して、カネではなく女性問題を探っていると思わせ、立花の取材活動をカムフラージュするためだったという。
立花隆は「田中金脈追求」にはじまり「知の巨人」と称されるに至ったが、2021年10月に亡くなった。
「公開資料」(裁判記録)を頼りに、権力の迷宮を探索した人物がもう一人思い浮かんだ。
久留米の有馬家に仕えた儒者のの家系から広津柳朗(りゅうろう)という一人の小説家が生まれた。
広津は、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて本能の発動から犯罪を犯す人々を描いた。
ソノ息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。
その際、広津の戦う道具はペンであり、武器は「言葉」に対する感性であったといえる。
1949年、鉄道に関わる不可解な事件が相次いだ。下山事件・三鷹事件・松川事件である。
同年8月、福島県の松川駅(福島市)付近で、列車の脱線転覆事故が起きた。
松川事件は東北本線松川駅で列車が転覆し、機関士3名が殉職した事件である。
線路の枕木を止める犬釘がヌカレており、誰かが故意に何らかの目的をもって工作したことは明らかであった。こうした謎に満ちた「三事件」に共通した点は二つあった。
第一には事件の捜査が始まらないうちから、政府側から事件が共産党又は左翼による陰謀によるものだという談話が発表されたことである。
その背景には鉄道における定員法による「大量馘首問題」があった。
国民の大半は共産党の仕業という「政府談話」を信じ、広津和郎でさえその例外ではなかった。
実際に、国鉄の労組はそれによって、「世論」を味方にすることもできず、「馘首」は相当スミヤカに行われていったという。
第二には、これらの事件の背後にアメリカ占領軍の影がちらつくことであった。
列車転覆の工作に使われたと思われるパーナには、外国人と思われる「英語文字」が刻んであった。
小説家・広津和郎がどうしての裁判を終生のテーマとしたか、についてである。
広津は「長い作家生活の間で、私は書かずにいられなくて筆をとったということはほとんどなかった。しかし松川裁判批判は書かずにいられなくて書いた」と語っている。
広津自身はもともと、三つの事件を「共産党の仕業」と思い込んでいた。
ところが、広津がこの事件に関わった契機は、「第一審」で死刑を含む極刑を言い渡された被告達による無実の訴えの文集「真実は壁を透して」を読んでからである。
この文章には、一片のかげりもないと直感した。
この点では、アメリカ映画「十二人の怒れる男」を思いだす。陪審員の一人が、被告の青年の顔を見た時、その翳りなく表情に犯罪者とはどうしても思えなかったことによる。
しかし広津はあくまで小説家であり、刑事事件の専門家ではない。いわば素人である。
広津は松川裁判の虚偽性を暴くために、新しい証拠を見つけたり、極秘資料を探したわけではない。
広津は「公開された」裁判記録のみを材料に、この裁判の虚偽性を追及していったのである。
裁判記録の乾ききった言葉の背後にあるなまなましい真実を暴くために、言葉の端々を吟味していった。
したがって、広津の最大の武器は、論理的思考と文学者としての言葉に対する嗅覚であったといえる。
その吟味の結果、警察が当初、組合に属しない立場の弱いものを捕まえて「嘘の自白」を強制し、その調書から架空の組合員による「共同謀議」にもっていこうというプロセスを浮彫にしていった。
何よりも、密室の取調べと自白偏重による判決の非論理性と非人間性を見事に明らかにしている。
広津の処女作は「神経病時代」という作品で、自己同一性を保つことのできない青年を描いている。
広津はそういう作家的な関心をバックに、松川裁判の被告の言葉から、監禁状態の中で取調官のコントロールにより「自己喪失」していった青年達の心理を見抜いたのである。
自白を偽装して組み立てられた捜査陣の物語からいくつもの矛盾が現れた。
犯行に向かった道筋が途中で変更されたり、「謀議」に参加したとされた者が、アリバイがあるために自白の中から曖昧に消え去ったり。
なによりも国鉄から10人、東芝(松川工場)から10人と名簿の中から拾い出したような逮捕者が謀議をし、列車転覆工作をしたとすること。
そのための論理の綻びや不自然な継ぎ当てが公判で露わになった。1963年、最高裁は検察側による再上告を棄却、被告全員20人の無罪が確定した。