中国の「ピンポン外交」「パンダ外交」は、それぞれ日本が決定的に関わっている。
アメリカと中国は、1950年朝鮮戦争の時には互いに介入し戦った関係であり、そう簡単に歩み寄れる関係ではなかった。
この強張った米中関係に小さな「風穴」をあけたのが卓球であった。
1971年世界卓球選手権名古屋大会で、中国選手団のバスにアメリカ選手が間違って乗り込んできた。
当時、中国には「アメリカ人とは話をするな」という不文律があったのだが、元世界チャンピオン荘則棟は、チームメートの制止をよそに、アメリカ選手に気軽に話しかけたのだ。
これがきっかけとなり、翌年それまで国交のなかったアメリカに中国卓球選手団が招かれたのである。
さらには「米中接近」が始まるのだが、一般には中ソ間の「覇権争い」による関係悪化をアメリカが利用して「ソ連封じ込め」を行ったものとみられていた。ところが真相はちがっていた。
ニクソン訪中の前年に行われた周恩来とキッシンジャ-国務長官の会談では、長引くベトナム戦争に手を焼くアメリカが中国に対して「北ベトナム支援」を手控えるように要請した見返りに、中国側が主張する「ひとつの中国」を支持することを表明したというものだった。
ただこれは、台湾の意向を完全に無視したもので、今日にいたる米中間の外交問題となっている。
1972年2月23日にニクソン大統領が訪中が実現し、米中の国交が正常化した。
さて日本が中国に「ピンポン外交」に一役かったというのは、後の世界卓球連盟協会会長の荻村伊智朗の存在を抜きに語ることはできない。
現在世界の「卓球王国」中国の台頭は、1961年~65年の三大会連続の世界チャンピオン荘則棟にはじまるが、文化大革命により一度は国際舞台から姿を消した(67年・69年は男女とも日本人が優勝)。
この荘則棟が若き日に、映画「日本の卓球」を繰り返し見て「師」とあおいだのが荻村伊智朗であった。
荻村は当時世界最強の日本チ-ム団を率いて中国を訪問した際、周恩来に中国がこれから卓球に力をいれていくのに力を貸して欲しい旨を告げられた。
その際に、周恩来は荻村に驚くような内容のことを語り明かしている。
中国には早くから国家的にスポ-ツを振興しようという政策があったのだが、その時ネックとなったのが女性の間で広がっていた「纏足(てんそく)」という習慣であったこと。
纏足とは足を小さな頃から強く縛って発育させないようにするもので、小さな足がが美しい(可愛い)とされたからであった。
しかし纏足は女性を家に縛りつけておこうという男性側の都合でできたとんでもない悪習で、それが中国人の体格の悪さの原因ともなっていた。
卓球を広めていくことはこの纏足をやめさせることに繋がるというものであること。
また、中国人はアヘン戦争に負けて以来、外国人に劣等感を持っていること。
日本が卓球で世界一となり、外国に対する劣等感をはねかかえしたのにならい、中国も卓球というスポ-ツで自信を回復したいということ。
さらに、中国は貧しい国なのでお金のかかるスポ-ツを採用する余裕はないが、卓球台ならば自給自足で何台でもつくれるので卓球をスポ-ツ振興のために採用するということなどであった。
当時20代だった荻村は、自分の胸の内を明かすように語った周恩来の言葉をしっかりと受け止めた。
以後、荻村伊智朗は選手引退後国際卓球連盟会長として、日中国交や朝鮮半島の南北交流に繋がって行く「ピンポン外交」に大きく貢献していく。
荻村が若き日に抱いた外交官になりたいという夢は、少し違ったかたちで実現したのである。
アメリカでは、1930年代より中国からもたらされた”珍獣パンダ”が大人気であった。
初めてジャイアントパンダを連れて帰ったアメリカの探検家ルース・ハークネスはペンシルバニア州のタイタスビルで生まれで、もともとは服飾デザイナーであった。
1934年に、夫ビル・ハークネスはパンダを探すため中国を訪れた。しかし、36年初めに上海で喉頭がんでなくなった。
当時ニューヨークに住んでいたルースは、夫の探検を継ぐことを決めた。ルースは上海を訪れ、中国系アメリカ人の探検家クエンティン・ヤンの助けを得て、パンダ探しを開始した。
重慶、成都を通過後、チームは山岳地帯に到着し、1936年11月9日に、彼らは生後9週の子パンダに遭遇し、捕獲した。
その子パンダはヤンの義理の姉の名前をとって「スーリン」と名付けられた。
ハークネスは上海とアメリカへ戻る道中、「スーリン」を人工ミルクで育て、檻でも鎖でもなく彼女の腕で抱えて連れて帰った。
パンダはアメリカの新聞等で大評判となり、最終的にシカゴのブルックフィールド動物園に落ち着いた。
その後、ハークネスは2回目のジャイアントパンダ探しを開始し、2頭目となる「メイメイ」を1937年に連れて帰った。
ルース・ハークネスは、「スーリン」との冒険についての本「The Lady and the Panda」を書き、ペルーやメキシコでの冒険譚を書籍にしたり、新聞に寄稿した。
1947年にピッツバーグのホテルに滞在中、急性胃腸炎で亡くなった。
さて、東南アジアのある外交官は、「パンダは地政学的な動物だ。新しい国にパンダを提供するプロセスは地政学に左右される」と語っている。
パンダのいる国は、中国に「あなたは私のベストフレンドですよ」と言われたのと同じ。かつて金印を授けられた国とまではいかないが、中国政府はパンダを”ソフト外交のツール”として活用しているようだ。
それは嫌中感情をトーンダウンして、二国間の緊張を消し去るなどの効果があった。
ただし、パンダを渡す際、この国は本当に我々の友人なのかと熟慮して、吟味するようになっている。
パンダにまつわる交渉は中国側からオファーがあり、今日では米欧中心の国際秩序に異を唱え、ロシアや北朝鮮、イランなどに加え、「グローバルサウス」とよばれる国々との連携強化のためにパンダ外交が展開されている。
また中国は、台湾に対する世論工作にも利用した。
2005年には、訪中した国民党の連戦主席にパンダの寄贈が中国から提案された。
民進党の陳水扁政権総統は、「統一工作」だとして拒否したが、2008年に国民党の馬英九氏が総統に就任すると、「パンダは共産党員ではない」として受け入れを表明した。
そして中国は2頭のパンダを、「台湾への国内移動」と位置付け、世論工作にパンダを最大限利用した。
そもそも中国におけるパンダの生息域は、チベット侵略によって中国とされた地域である。
現在は、中国から国外に出されるパンダも中国国外で誕生したパンダもすべて中国国籍となっており、返還を求められれば返還しなくてはならない。
1981年に中国はワシントン条約に加盟し、絶滅危惧種であるパンダは贈与せず、繁殖や研究を目的とした「レンタル」へと変更したからである。
ちなみに、日本においても動物は外交における友好の証として各国に贈ってきたし、様々な動物の贈呈も受けている。
上野動物園にインドから贈られた象は、「日印友好関係」の象徴とも言えるものとなった。
1949年9月にインドから上野動物園に象が来日するが、これは、同年5月に台東区の子供議会が、「地元の上野動物園に象が欲しい」と決議したことがきっかけである。
上野動物園では戦時中に象が餓死するなどしていた。
この子供達の思いを受けて、日印における有力者が仲介しインドのネルー首相に子供達の作文などを届け、ネルー首相はいたく感激しメスの象を日本に贈ることを決めたのである。
ところで、アメリカで人気が高まったパンダを、最初に「政治的」に利用しようとしたのは蒋介石夫人である。
中国近代史において、いつも英雄たちの陰にいたのが、浙江財閥の代表といわれる「宋家」であった。
創業の宋嘉澍(そうかじゅ)は海南島の商人の家に生まれた。
密航を企て幸い乗り込んだ船長の好意で、敬虔なキリスト教メソジスト教会の信者に預けられ、バンダービルト大学神学部に学び、14年間のアメリカ生活を終えて、中国の開拓伝道へと派遣されることになった。
帰国後同じくメソジスト教会の女性と結婚して生まれたのが、靄齢(あいれい)・慶齢・美齢の三姉妹および三兄弟(子文・子良・子安)である。
宋嘉澍は、当初聖書の出版・印刷で成功して、製粉業や製麺業に投資し金融業に進出した。
躍進著しい宋家を孫文が、革命に必要な軍資金を集めるために、訪れたのことにより運命が展開していく。
孫文は医者を目指して、兄を頼ってハワイにいきキリスをト教の洗礼を受けている。それは宋嘉澍と重なるものがあり、孫文の気宇壮大なビジョンに共鳴し、伝道よりも革命に命を注ぐべきことを決意し、事業の合間をぬって孫文を助けた。
そして、宋嘉澍の次女の宋慶齢は孫文の秘書となり、その二年後、亡命先の東京で二人は結婚する。
孫文の国民党は、そうした援助をうけて次第に大きな力を得て、ついに清朝を倒して辛亥革命を成功させ、「中華民国」が成立する。
さて、国民党は「三民主義」に基づいて資本主義を目指すという方向性をもっていたが、その一方で社会主義を目指す「共産党」も勢力を伸ばしていた。
コミンテルン(ソ連の共産党の国際組織)の指導のもとに中国共産党が成立したのだが、コミンテルンは国民党にも積極的にはたらきかけていた。
理想家であるとともに現実主義者である孫文は、これに応えてコミンテルンの援助を受け入れ、共産党員が党籍を維持したまま国民党に入党することを認めた。
こうした「連ソ容共」の考えの下で、最初の「国共合作」が成立したのである。
しかしその翌年の1925年、孫文は病に倒れ、59歳でこの世を去った。
翌年、国民党は中国の軍事的統一を目指して、革命軍を広州から北上させた。北には国民党に服さない、封建制のなごりというべき「軍閥」が割拠していたからである。この時「北伐軍」の総司令官に任じられたのが蒋介石である。
蒋介石は、孫文の遺志を受け継ぎつつ「北伐」を続けるやに見えたが、上海に至るや突然にその矛先を共産党に向けたのである。
ここに至って蒋介石は、孫文とは明らかに違った路線を歩むことを内外に示すことになった。
蒋介石は実質的な力を失った武漢の国民党政府(汪兆銘中心)にかわり、南京に新たに「国民党政府」を作りあげる。
蒋介石は宋慶齢に南京政府への参加を促したが、慶齢は「蒋介石を裏切りもの」と攻撃。蒋介石はもはや孫文の後継者ではないと宣言した。
さらに慶齢を苦しめる出来事がおきる。妹の美齢があろうことか裏切り者の蒋介石と結婚したのだ。
ニューヨークタイムズは、この結婚を「(蒋介石)が中国での影響力を高めるための政略結婚」と報じた。
ともあれ、妹の美齢こそが中国のファースト・レディーになったのだが、このころ中国は日本との全面戦争に突入していた。
国民党政府があった重慶は、日本軍の空爆で5年間も無差別攻撃を受けていた。
そこで「抗日」よりも「反共」に走る蒋介石政権に対する抗議運動は、各地で広がっていった。
そんな折、蒋介石が北方の視察のために西安にある楊貴妃の保養地(華青池)を訪問した時、晴天の霹靂ともいうべき事件が起きる。
北方軍閥の雄・張学良によって蒋介石が拘束されてしまったのだ。しばらくは蒋介石の生死さえ不明であった緊迫の時間が過ぎていった。
しかし父親(張作霖)を日本軍に爆殺された張学良の目的は、蒋介石を殺すことではなかった。国民党が共産党と戦うのをやめて、日本軍と共に戦うという「方向転換」を蒋介石に説得するためであった。
この時にどのような説得が為されたのか、わからない。
拘束から約10日後に解放された時、蒋介石は孫文がかつてた様に共産党と手を組み、日本軍と対決する(抗日)に方向転換したのである。
これで、北方軍閥を利用して中国東北部への勢力を伸ばそうとした日本軍の目論見ははずれることになる。
この二度目の「国共合作」で、上海クーデター以降引き裂かれていた宋家の三姉妹も相まみえ結んだ。
日中戦争が長引く中、蒋介石の妻で三女の美齢は、さらなる手にうってでる。アメリカの軍事支援をえるためにワシントンに乗り込んだのだ。
美齢は米国議会で「あなたがたは中国とともに、情熱をもって協力し、侵略者たちが人類を血塗られた運命に導かれないように平和世界びための楚を築くことに尽くさねばなりません。これは我々のためだけでなく、すべての人類のためです」と訴えた。
美齢は留学先のジョージアで身につけた流暢な英語と凛とした美貌とでアメリカ人の心を掴んだ。
美齢の支援要請により、アメリカの中国への軍事支援が本格化した。
1937年日中戦争が始まり、「国民党政府」が重慶を臨時首都とした。
日本軍に追い込まれていた国民党政府は、米英などの国際社会を巻き込んで協力を取り付けなければ、ますます戦況が不利になるとみていた。
そのため米国でもてはやされるようになったパンダを宣伝戦の一環として送り、「中国は米国と同じようにパンダを愛する文明国で、日本の不当な侵略に苦しんでいる」と訴え、援助を得ようとしたのだ。
要するに、蒋介石政権は日中戦争を国際問題化するため、パンダをプロパガンダに使って米国からさらなる引き出そうとした。
そしてこれがパンダを外交政策的に利用した最初の事例とみられる。
当時の日本の朝日新聞に次のような記事がある。
「重慶側は、アメリカにイギリスにめまぐるしい秋波を送り続けているが、これは宣伝に抜けめのない宋美麗が考え出したアメリカのご機嫌取りのひとつ」。
そして1945年8月、日本が敗れ終戦、宋姉妹(慶齢・美齢)は共に勝利の喜びを分かち合った。
しかしその喜びも長くは続くかなかった。
日本軍という共通の敵がいなくなると、国共の再び内戦がはじまり、宋姉妹は再び敵と味方に分かれることになった。
最終的には共産党が内戦に勝利し、敗れた蒋介石は美齢および100万の国民党軍とともに台湾に逃れた。
長女の宋靄齢は一家の不正が発覚しアメリカに渡っており、中国に残ったのは慶齢だけだった。
共産党は孫文の未亡人宋慶齢を国家副主席の一人にした。それは、孫文の正統な後継者は共産党にあることを示す必要があった。
1948年の新中国建国の8年後、毛沢東国家主席がソ連を訪問をする。社会主義国どうしの同盟を結び、ソ連と軍事協力を約束するためであった。
この時、毛沢東とともに外交団の顔となったのは宋慶齢であった。
しかし、慶齢と毛沢東との信頼関係はすでに崩れていた。慶齢はやがて政権中枢から遠ざけられた。
ちなみに、1957年に旧ソ連に対してパンダが贈られている。
宋美齢は、蒋介石の死後台湾を離れ晩年の38年間をアメリカで暮らし105歳までも生きた。
米中国交回復の翌年の1973年、田中角栄首相と大平正芳外相が中国(毛沢東主席/周恩来外相)を訪問し、米中国交回復が実現する。
1975年4月には、カンカンとランランの二頭のパンダが日本に贈られ、上野動物園にはパンダ見たさに連日行列が続いた。