来福の世界的スター

世界的スターの「来福」。「来福」とは「福岡を訪れた」という意味だが、市民にとってまるで「福が来た」ような出来事であった。
その一つが、マリリンモンロー夫妻の「来福」である。
マリリン・モンローは1950年代当時を象徴するアメリカの女優で「百万長者と結婚する方法」「七年目の浮気」など有名なハリウッド映画に多数出演している。
そんな大女優のモンローは1954年2月に米大リーガーの夫ジョー・ディマジオと共に約1ヶ月間、新婚旅行で日本を訪れて、「米空軍基地」の慰問で板付基地のあった福岡にも滞在した。
その際、ジョー・ディマジオは香椎球場でプロ野球選手に直接指導をおこなった。
かつて、福岡市東区香住ヶ丘(現住所)に「香椎球場」はあった。
現在は香椎浜MOTOWNになっている場所で、香椎球場は、そのジェットコースターの辺りであった。
香椎球場が出来たのは1939年で、香椎チューリップ園(後の香椎花園)と共にオープンした。
ホームベースは現在の東区体育館・福岡県立香住丘高等学校に向かい合うように設置されていた。
1939年に博多湾鉄道汽船に香椎チューリップ園(現在のかしいかえん)とともに開場。その後博多湾鉄道汽船は1942年に西日本鉄道に合併され、同時に二つの施設は西鉄がオーナーとなった。
戦後は芋畑として使用されていたが、進駐軍の協力を得て1947年に野球場として再整備された。翌年の国体の際に軟式野球の会場として使われ、プロ野球球団・西鉄ライオンズの「二軍施設」となった。
1970年代後半まで使用されたが、二軍の施設は、早良区の百道浜に移され、香椎球場は廃止された。
さて福岡の企業史をひもとく時、板付飛行場(現在の福岡国際空港)に駐在した米軍の存在はかかすことができない。
ロイヤル・ベスト電器・嘉穂無線などは、米軍からの需要によって成長したといって過言ではない。
「ロイヤルホスト」の発祥は福岡で、第一号店は1953年に福岡市中洲でオープンした「ロイヤル中州本店」である。
初の本格的なフランス料理の店として、終戦から8年たった当時、財界人や在日米軍の将校らの社交場であった。
その後、ロイヤルは1971年に北九州市を皮切りに「ロイヤルホスト」を全国に展開し、現在のファミレス界での人気店になっていった。
一方、その原点となった中洲本店はその後改装して「花の木」と名前を変え、1989年に大濠公園内に移転した。
大濠公園の湖畔にあるボートハウスは、ファミリーレストランとして有名なロイヤルホストが運営する施設である。
実は、「ロイヤル」が一躍有名になったのは、女優マリリン・モンローの訪問であった。
二人がお忍びでロイヤル中洲本店に来店した際、こちらのオニオングラタンスープを気に入り、その後3日間連続で通ってスープを注文したとされている。
そのため、「花の木」では今でもオニオングラタンスープが名物だという。
歴史ある店内の壁には、マリリン・モンローの写真も飾られている。
通称「モンロールーム」と呼ばれる部屋では、重厚な造りの天井や壁など当時を再現され、モンローが実際に座った椅子や、テーブルなどの調度品が今でも残っている。
夫妻が宿泊したのは、中洲那珂川べりの、かつて「城山観光ホテル」があった場所で、モンロー宿泊当時は「国際ホテル」という名のホテルが存在した。
記者たちの取材、報道も過熱気味で、なんとかその姿を捉えようと多くの人が集まり、その時の写真はスクープとして新聞紙上をにぎあわせた。

世界的スターの来福といえば、香椎から5キロほどの地になる名島(なじま)の地に立つ「記念碑」がそれを示している。
「翼よ、あれがパリの燈だ」という言葉で知られる空の英雄「リンドバーク」の着陸である。そこには水上飛行場があったのである。
ところでリンドバークといえば我々には「飛行機乗り」ぐらいのイメージしかないが、後に政治家となり、あのルーズベルトの「政敵」となるほどの存在となる。
リンドバークは、第二次世界大戦における「アメリカのヨーロッパへの参戦」に反対した。つまりリンドバーグこそは、「アメリカ・ファースト」の唱道者といってもよい。
それを示すのが、1941年9月11日、まさにアメリカ参戦の直前にアイオア州のデモイン市で行った演説である。
「われわれは戦争の瀬戸際に立っています。しかし、まだ間に合います。自由な人々に戦争を強いることを止めましょう。建国の父が確立したアメリカの独立と尊厳を守ることはできます。 未来はわれわれの肩にかかっています。われわれの行動、勇気、知性にアメリカの未来がかかっています。もし、あなたが戦争に反対するなら、声をあげて下さい。われわれの活動を支援して下さい。あなたが選出した政治家に手紙を書いて下さい。民主主義と代議政治こそわが国の政治体制なのです。われわれの意志を政府と議会に知らせましょう。アメリカ国民がそうすれば、独立と自由は生き続け、外征戦争をする必要はなくなるでしょう」。
この演説にみられるように、かつての郵便飛行の飛行機乗りの面影を消し去るほどの雄弁さをもって、ルーズベルトと国家を二分するほどの存在となっていくのである。
しかし、リンドバークは空の英雄としてドイツに招かれて以来、「ドイツ寄り」になっていったこことが、その人気に影がさすようになる。
致命傷となったのは、ある演説の冒頭に、「アメリカを戦争へ向かわせている主体は、イギリス、ユダヤ人、ルーズベルト政権、この三つです」と、ユダヤ人を非難したことが「ヒトラー擁護」と受け止められたことだった。
。 この文章の草稿を読んだ夫人が、「ユダヤ人」の箇所を除くように意見したが、リンドバークはそれを拒否した。
後に夫人は、「彼は人の意見に聞く人ではなく、もっとも、それを聞く人なら大西洋横断もなかったでしょう」と語っている。
その後ヒトラーの非道ぶりが明らかになるにつれて、アメリカ参戦の世論が高まっていく。
その最後の「一押し」をルーズルトは探したが、それがドイツの同盟国である日本の「真珠湾攻撃」であった。
アメリカからの黒船ペリーが日本を鎖国から開国へのと向かわせたが、日本の真珠湾がアメリカを孤立主義から開戦へとむかわせた。
また、リンドバーク来福が満州事変勃発の日であったことも、皮肉な「歴史のめぐりあわせ」である。

2024年6月19日は、米軍による福岡大空襲の79周年にあたるという。
その爆心地はかつてアインシュタインが講演を行った劇場付近であった。
「相対性理論」で有名なアルベルト・アインシュタインは南ドイツ・ウルム出身の理論物理学者である。
1922年、ノーベル賞授賞として世界各地を歴訪途中、雑誌「改造」の招きで日本も訪れた。
アインシュタインは「光学の粒子波性格」でノーベル賞を受賞したが、その後発表した「相対性理論」こそはあらゆる科学現象の土台を変える理論であった。
それは特定の現象に限らず、すべての物理現象が発生する環境そのもの、つまり「時空」を説明する。
人間を取り巻く世界と自然を説明し理解するために、何千年もの間、人間の知性が追い求めてきたのが、世界共通で永久不変の測定単位のシステムである。
時間と空間の理論である相対性理論は、他のどんな理論よりも優先され、他の理論はそれと整合的でなければならないのである。
さて、神戸入港の郵船・北野丸で、夫人とともに初めて日本の土を踏んだアインンシュタインは、記者団の質問に次のように答えた。
「小泉八雲の著書により初めて日本を知り、其国民性に就き深い興味を有しております。 私は日本に対しては相対性理論を与える外、日本からも何物かを得て帰りたいと思います」。
アインシュタインは1922年11月17日に神戸に上陸してから12月29日に門司を後にするまで約6週間にわたって各地を廻り講演と名所めぐりをした。講演は東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡で行われ14000名がこれを聴いた。その他東京大学で専門家向きに6日間の講義を実施120名が出席した。
講演、歓迎会の多忙な日程の合間をぬって、日光、松島。浅草、熱田、京都、奈良、宮島の名所旧跡観光と能、歌舞伎などの伝統芸能も堪能した。(宮島訪問の際、広島に立ち寄っている)
アインシュタインは「日本見聞録」の中で日本の文化、風景、芸術・芸能を充分楽しみ、瀬戸内海に点在する小島が朝日に輝く風景や雪に覆われた富士山の頂上の輝きと日没の美しさは他に並ぶものがないと書いている。
この本の中で、優雅なリズムと色彩で描かれた日本画は日本人の心を示す美しい証であるといい、出あった芸者さんや旅館のおかみさんや街の人にも優しく接し、子供達の真剣な質問に丁寧に答えている。
そして、当初は予定になかった「福岡行き」を強く希望したのである。
それは、九州帝国大学外科教授の三宅速を表敬訪問するためであった。 来日途上の北野丸船上で体調を崩したアインシュタインを、欧米の医療事情視察を終えて帰国するために偶々同船していた三宅速が、 流暢なドイツ語を駆使して懇切丁寧に診療したことに端を発していたのである。
粘血下痢便をみたアインシュタインが、自分は直腸癌ではないかと心配したが、幸いに軽い痔出血のようなものであったというのが真相のようであり、 アインシュタインを診察した三宅速が、このことに関して多くを語らなかったこともあり、 巷間アインシュタインは船上で盲腸の手術を受けたなどといわれたこともあった。
この辺の事情は三宅速が自身の日記をまとめた「或る明治外科医のメモランダム」に詳しく書いてあるという。
そして、この時大きな恩義を感じたアインシュタインが、滞日中に三宅速を表敬訪問したいと強く希望したことから、福岡行きが実現したのである。
の時アインシュタインがエルザ夫人とともに投宿したのが、その当時橋口町にあった福岡の迎賓館ともいうべき「栄屋旅館」であった。
日本式旅館と日本式「おもてなし」に大いに満足したアインシュタインは、館主の要望に応じて毛筆で揮毫(サイン)を遺し、それらが「栄屋旅館」に扁額として大事に保管・展示されている。
その後の裏話として、「ユダヤ人のサインを展示しているのは怪しからん」と当局からお咎めを受け、戦時中は市外に疎開していたため、昭和20年6月の福岡大空襲による焼失を免れたとのこと。
アインシュタインが残した揮毫(きごう)、館主が修猷館の関係者であったということから、レプリカとして石版が修猷館高校資料館に遺されている。
欧米の学術視察からの帰途、マルセイユから北野丸に同船した九大医学部三宅速教授や在京中の九大教授・桑木或雄らの尽力で福岡市大博劇場での講演会が実現の運びとなった。 午後1時からはじまった講演は延々5時間に及ぶ。
通訳は石原純博士で、当時のことを「この碩学の風貌を見、新学説の片鱗をうかがおうと、全九州はいうまでもなく、山口、広島からもきた聴衆3000人余は大博劇場を埋めた」と語っている。
アインシュタインは、講演後福岡市の栄屋旅館に一泊し、九大歓迎会に臨むなどして、滞日1ヶ月余の後、門司出帆の郵船・榛名丸で日本を離れた。このとき福日新聞に次のメッセ-ジを寄せた。
「日本を去るにのぞみ、日本国民に御挨拶する。 殊に私に深い印象を与えるものは、この地球という星の下に、今も尚こんなに優美な芸術的伝統をもち、あの様な簡単さと、心の美しさとを備えておる一つの国民が存在しているという自覚であります」。
ところでアインシュタインが日本について知ったのは小泉八雲(ラフカディオ・ハ-ン)の書籍によるものであったが、小泉は日露戦争にむかおうとする軍靴の響きに不安をもち、このまま進めば日本が崩壊することを語っていた。アインシュタインもスイス・ドイツ・アメリカと転住し、小泉と同じように国家を超えた意識の中で生きてきた。
しかしアインシュタインにとって原爆が実際に使用されたことと、それがかつて訪れた美しい国に投下されようととは思いもよらぬことだったに違いない。その痛恨の思いがアインシュタインをラッセルや湯川とともに核廃絶運動にむかわせた要因だといってよい。
また、アインシュタインが中洲の「大博劇場」で行なった一般向け講演の際、福岡高校(旧制福岡中学)から借り出した黒板に3つの説明図を記載した。
それを貴重であると考えたある教諭がニスを塗って保管していたが、終戦後に行方不明となり、写真だけが残されている。
1933年ナチスに追われてアメリカに亡命、1940年に市民権を獲得した。
1939年7月アインシュタインはニュ-ヨ-ク州の別荘でドイツが原子爆弾の製造を勧めていることを知った。アインシュタインは、ナチスの脅威に対抗するため、原爆製造の必要性をル-ズベルト大統領に求める勧告書にサインした。
ところが1941年ドイツと同盟を結んだ日本軍によるハワイ真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発した。
1942年6月ニュ-メキシコ州ロスアラモスの研究所で厳しい監視体制の下、数千人の科学者が動因され、原爆製造研究が始まった。
しかしこの段階で原爆製造計画は完全にアインシュタインから離れ一人歩きをしていた。
原爆開発の詳細はアインシュタインには全く知らされていなかったのだ。
後にアインシュタインとともに核廃絶運動に参加する、日本の物理学者・湯川秀樹はまだ少年時代だった。湯川は1934年に「中間子理論」を発表していたが戦後1948年に日本初のノ-ベル賞をもたらす。
1948年に京都大学教授になっていた湯川をアメリカ・プリンストン高等研究所の客員教授に招く。
所長はなんとマンハッタン計画のリ-ダ-であったオッペンハイマ-であった。
オッペンハイマ-は原爆製造の罪の意識からか日本人がアメリカで研究する体制をつくろうとしていたといわれている。
この時、湯川はこの研究所の特別研究員となっていたアインシュタインに招かれたことがある。
湯川夫妻はアインシュタインとの出会いを緊張しながら迎えた。 しかし意外にも、アインシュタインは湯川夫妻と出会うなり、手を握りながら涙を流したという。
そして広島・長崎に落とされた原爆について「誠に申し訳なかった」と語った。
理論が原子爆弾開発に繋がったというのなら、基礎研究はすべてそうである。
ただ、後にアインシュタインが「GO」サインを出した原爆製造計画(マンハッタン計画)が、まさか日本をタ-ゲットにすることになろうとはアインシュタインはこの段階では予想だにしていなかったのだ。
1945年3月の東京大空襲より始まった米軍のB29爆撃機などによる空襲は、1945年に入ると全国の都市に拡大した。
被害を受けたのは北海道から沖縄にいたる163都市に及び、死者は50万人以上と推計されている。
爆撃の目標は軍需施設から一般の市街地に拡大したが、三宅夫妻は1945年5月に岡山市にいた長男の三宅博の家へ疎開していた。
同年6月29日の岡山大空襲に遭い、妻と共に亡くなった。ちなみにその10日前が福岡大空襲である。
アインシュタインと三宅博士は、来福以後も多くの書簡を交わし、三宅が渡欧した際はアインシュタインの家を訪ねるなど親交を深めていった。
後に息子の三宅博がアインシュタインへ三宅が1945年に空襲で死亡した旨を伝えると、哀悼の言葉が手紙で伝えられた。
美馬市の光泉寺境内の墓の近くにあるアインシュタインから送られた言葉が刻まれた石碑は、その9年後に両親の遺骨を穴吹町の生家近くの寺に埋葬するとともに建立されたものである。
三宅夫妻の墓石には、アインシュタインの追悼文が刻まれている。
「ここに三宅博士と妻・三保夫人が眠る。ふたりは人類の幸せのために尽くし、そして人類の過ちの犠牲となって、この世を去った」とある。

門司港れとろロを代表する建物のひとつ三井倶楽部は大正10年(1921年)に三井物産の接客・宿泊施設としてできた建物です。
平成2年(1990年)に現在の門司港駅前に移築・復旧され、JR門司港駅と並ぶ国の重要文化財になっています。
アインシュタイン博士が宿泊された2階のゲストルームは、現在は「アインシュタインメモリアルルーム」となっています。
当時のベッドルームや浴室、宿泊当時に使用されたアンティーク家具など、今でも当時のままの状態で残され、常時見学が可能です。
アインシュタイン博士は全国講演で日本に43日間滞在され、そのうち福岡では数日間をこの旧門司三井倶楽部で過ごしています。
福岡の大博劇場で行われた講演では、九州一円からなんと3000人の聴衆が集まるほどの人気に。

「欧州で戦争が始まったとき、アメリカ国民は戦争への介入に強く反対しました。なぜでしょう。アメリカは世界で最も防衛しやすい立場にあります。わたしたちは欧州からの独立を伝統としてきました。アメリカは一度だけ欧州戦争に参加しましたが、欧州の問題は解決されぬまま残り、アメリカへの債務は支払われませんでした。 1939年に英仏が対独宣戦布告をした際、アメリカ全土の世論調査によれば、第一次大戦と同じ政策をとることに賛成した人々は10%未満に過ぎませんでした。しかし、国内外にはさまざまな人々がいるもので、戦争にアメリカを参戦させることによって利益を獲得したいと願っている人々もいるのです。彼らの存在と手段をわたしは明らかにします。彼らの努力に対抗し、彼らが誰なのかを知るために、わたしは率直にありのままを話します。 アメリカを戦争へ向かわせている主体は、イギリス、ユダヤ人、ルーズベルト政権、この三つです。 これら三主体の背後には資本家や英国崇拝者や大英帝国の支配をのぞむ知識人などが存在していますが、それほど重要ではありません。これに加え、共産主義者もいます。共産主義者は数週間前までは参戦反対でしたが、いまは盛んに参戦を煽動しています。 わたしは、煽動者のみならず、善良ではあっても騙されている人々や、プロパガンダによって怯えさせられていたり誤情報によって混乱させられている人々が戦争へと導かれている事実についても話します。すでに申し上げたとおり、戦争の煽動者はごく少数です。しかし、彼らは巨大な影響力を持っています。戦争を回避しようとするアメリカ国民の意思に対抗するため、彼らはプロパガンダや金銭や後援者を戦力化しています」。 彼らの正体について考えてみましょう」。
そして、イギリス、ユダヤ人、ルーズベルト政権のことを述べた後、次のように結んだ。
欧州戦争が始まって2年が経過しました。1939年9月から現在までアメリカ合衆国を紛争へ巻き込もうとする策謀が盛んに行われています。 この策謀は外国勢力によって実施されています。ごく少数のアメリカ人が協力しているだけですが、この策謀は成功しつつあり、わが国は戦争の瀬戸際に立たされています。 戦争が三度目の冬に突入しようとしている今、われわれが置かれている立場と環境を再認識することは適切なことでしょう。なぜ、われわれは戦争の瀬戸際に立たされているのか。われわれは欧州の戦争に深く関与する必要があるのでしょうか。わが国の政策を、中立と独立から欧州問題への介入へ変化させた責任者は誰なのでしょう。 いま論ずべきことは、この戦争が起こった原因と経過を検討することだと私は信じます。もしも事実と真実がアメリカ国民の眼前に提示されるならば、アメリカが危険な介入をすることはあり得ない、そのようにわたしは主張しつづけてきました。 海外戦争を唱道する人々と、アメリカの独立を守るべきだとする人々との根本的な相違点を皆様にお示ししたいと思います。 記録が示すとおり、海外戦争への介入に反対する人々は常に事実を明らかにしようと努めてきたのに対し、介入主義者は複雑な議論によって事実を隠そうとしてきました。 戦争が始まる前から最近に至るまでわたしたちが何を主張してきたか、それをぜひ読んでいただきたいのです。わたしたちの記録は公開されており、それらはわたしたちの誇りでもあります。 わたしたちは皆さんをごまかしたり、プロパガンダしようと考えてはいません。わたしたちは、アメリカ国民を望まぬところへ行かせたりしません。選挙前に主張したことを今日も繰り返し、繰り返し、わたしたちは主張しています。あれはキャンペーンのための誇張だった、などとは言いません。 介入主義者やイギリスの代理人やワシントンの政治家が、過去をふりかえって過去の記録を検討して下さいとみなさんに言ったことがありましたか。民主主義の妨害者が、参戦問題を国民の投票によって決めようと主張したことがありますか。海外における言論の自由やアメリカにおける検閲の排除を彼らが主張したことがありますか。 あらゆる方面からの詐術とプロパガンダがアメリカ国内に存在しているのは明らかです。それらによって隠された真実をあきらかにするため、今夜、わたしは詐術の一部を突破してみようと思います。 まずイギリスです。大英帝国がアメリカ合衆国の参戦を望んでいるのは明確であり、完璧に理解することができます。イギリスはいま危機に直面しています。ドイツとの戦争に勝利し欧州大陸に侵攻するためには、イギリスの人口は寡少であり、イギリスの軍事力は不充分です。 イギリスは、その地政学的条件のために航空戦力のみで戦争に勝利することはできません。たとえアメリカが莫大な数の航空機をイギリスに供与したとしてもです。もしアメリカが参戦したとしても、連合軍が欧州を侵略し、枢軸国を殲滅できるかどうかは不確実です。しかし、確かなことがあります。もしイギリスがアメリカを参戦させたら、イギリスは、戦争を遂行しかつ戦費を負担する責任の大部分をアメリカの肩に移し替えることができるでしょう。 皆さんがご承知のとおり、アメリカは先の欧州大戦時の債権を放棄しました。もし、われわれが今後の展望に十分な注意を払わなければ、われわれは再び債権を放棄することになるでしょう。戦争の軍事的財政的責任をわれわれに課すことがイギリスの望みではないとするならば、イギリスは欧州の平和について数ヶ月前に協議することができましたし、そうすべきでした。 イギリスは、これまでも、そしてこれからもアメリカを参戦させるために全力を傾けるでしょう。先の大戦時、イギリスはアメリカを参戦させるために巨額の資金を使いました。その懸命なお金の使い方についてはイギリス人が本に書いています。 今次大戦でもイギリスは巨額の資金をアメリカにおけるプロパガンダに投入しています。もし、われわれがイギリス人だったら同じことをするでしょう。しかし、われわれの関心は第一にアメリカです。イギリスの国益はアメリカを参戦させることにある。このことをアメリカ国民は理解しなければなりません。 次に重要なのはユダヤ人です。 ナチスドイツの打倒をユダヤ人が望む理由は明確です。ドイツ国内でユダヤ人が直面している迫害は、民族的な敵を生むのに十分だったといえます。 人権意識を有する人なら誰でもドイツにおけるユダヤ人迫害を許すことはできないでしょう。しかし、正直な人なら誰でも戦前の政策の危険性を知っていたはずです。ユダヤ人は、戦争を煽動するのではなく、あらゆる手段を尽くして戦争に反対するべきです。 忍耐は、平和と強さに依存する徳目です。戦争と荒廃が人から忍耐を奪うことを歴史は示しています。一部のユダヤ人はこのことを知っており、戦争介入に反対しています。しかし、ユダヤ人の大多数は違います。 ユダヤ人はアメリカの映画業界、新聞業界、ラジオ業界、政界に強い影響力を持っています。 わたしはユダヤ人やイギリス人を攻撃しようとは思いません。尊重しています。しかし、イギリス人とユダヤ人の指導者がアメリカを戦争に参加させようとしている事実を指摘せざるを得ません。 彼らの信仰や利害を非難することはできません。しかし、われわれアメリカ人にもわれわれの信仰と利害があります。アメリカを破壊に導くような歪んだ情熱や偏見を許すことはできません。 ルーズベルト政権は、この国を戦争に導こうとする第三の勢力です。アメリカ史上初の三選を達成するために戦争の危機を利用しました。彼らは史上最高額の軍事予算をかちとるために戦争を利用しました。彼らは連邦議会の権限を制限し、大統領権限を拡大するために戦争を利用しました。 ルーズベルト政権の権力は戦時の危機に立脚しています。ルーズベルト政権の正統性はイギリスの戦勝に依存しています。ルーズベルト政権の危険性はその虚偽にあります。ルーズベルト政権はわれわれに平和を約束する一方で、われわれを戦争へと導いているのです。 これらが戦争を煽動する三大勢力です。これらのうちのたったひとつでもいい、戦争への煽動をやめたら、参戦の危機はほとんどなくなるとわたしは信じます。 三大勢力のうちの二勢力ではアメリカを戦争へと導くには不充分だと思います。すでに述べたとおり、これらの三大勢力が問題なのです。その他の弱小勢力はたいしたことがありません。 1939年、欧州で敵愾心が高まったとき、アメリカ人は参戦の意志をまったくもっていませんでした。そのことを知った三大勢力は、第一次大戦の時にアメリカを参戦させた方法を用いれば再びアメリカを参戦させることができると信じたのです。 かれらは次のように計画しました。まず、アメリカの防衛を装って戦争準備を推進する。次いでアメリカを参戦させる。最後に、アメリカ国民をして葛藤に直面させ、逃げられないようにする。この計画を推進するために三大勢力はプロパガンダをします。 映画館は戦争賛美映画に満ちあふれるでしょう。新聞雑誌がもし反戦記事を掲載したら、広告収入を失うでしょう。参戦に反対する個人が攻撃対象となるでしょう。アメリカの参戦は国益に反すると主張する人々には、第五列、裏切り者、ナチス、反ユダヤ主義などの言葉が投げつけられるでしょう。反戦を口にすると失業することになるでしょう。多くの人々は沈黙するでしょう。 講演会場は戦争賛美者に占拠され、反戦をとなえる人々は講演会場から締め出されるでしょう。おそろしいキャンペーンが始まっています。航空機の発達がアメリカの国防を脆弱にしてしまったと言われています。大げさなプロパガンダです。 アメリカの国防を装えば、莫大な予算を獲得するのは容易です。国民は国防計画によって動員されます。銃や飛行機や戦艦が充当され、世論は押し潰されます。軍備はアメリカのためではなく、欧州のために整備されるのです。 たとえば、1939年、ルーズベルト政権は空軍力を5000機に拡充すべきだと言っていました。連邦議会はこれを承認しました。数ヶ月後、政権は、アメリカ防衛のためには5万機が必要だと主張しはじめました。しかも、工場で製造された戦闘機は、可能な限り迅速に海外へと送られました。戦争が始まって二年が経過している今日、国内には戦闘機も爆撃機も乏しく、大部分はドイツに行っているのです。 軍備計画は、アメリカ防衛のためではなく、欧州戦争のために推進されているのです。 アメリカは戦争準備を進めています。この計画は、「戦争の一歩手前」という合い言葉のもとに進められています。 アメリカが兵器を輸出し、戦費を補充してやるだけで、英仏は戦争に勝利するでしょう。それにもかかわらず、アメリカを参戦させるキャンペーンが推進されるでしょう。「アメリカを守る最善の方法は連合軍に参加することである」と。 アメリカ政府は、まず、欧州へ兵器を売ることに同意し、次いで欧州へ兵器を貸与することに同意し、そして、欧州の海域を警備することに同意し、いまや欧州の戦争海域内の島にアメリカ軍が進駐しています。いま、われわれは戦争の瀬戸際に立っています。 戦争推進者は、すでに3ステップの内の2ステップまでを達成されました。そして、史上最大の軍事化が進められています。 アメリカは実戦にこそ参加していないものの、事実上の参戦状態です。 アイオワ州のみなさんこそ戦争を止め得るのです。反戦世論が高まっています。民主主義が試されています。たとえ勝利しても、戦争は疲弊と混沌をもたらすだけです。 われわれは戦争の瀬戸際に立っています。われわれには準備ができていません。勝利の計画もありません。戦争になれば、強力な敵が待ち受ける海岸線に大洋を渡って上陸せねばなりません。