「歴史の娘」を探して

「歴史の目撃者」なら数多くいるが、「歴史の娘」とうほどの人はざらにはいない。
本稿のタイトルを「歴史の娘」と題したのは、犬養道子の著書「或る歴史の娘」にちなんだものである。
犬養道子は、5・15五事件より青年将校によって殺害された犬養毅首相の娘であり、彼女の母親は、その現場に居合わせている。
彼女によれば、事件はすさまじい嵐のごとき破壊力で襲って来た。しかし、過ぎ去った後は不思議な静けさがやってきたという。
来るべきものが来てほっとしたという安堵感とも解放感ともつかぬ気持になったそうだ。
しかしながら、この事件が犬養家一人一人の人生に、消えることのない印刻を押したことはいうまでもない。
とくに母親は、唯一の現場立ち合い者でありながら、将校達に夫をむざむざと撃たせてしまったことを、終生苦悩してきたという。
さて犬養道子が、自伝的小説「花々と星々と」の中で、この5・15事件の「真相」はこれ以外にはないと断わったうえ、ことの「顛末」を紹介している。それは次のとうりである。
海軍と陸軍の青年将校ら五人が首相官邸に突入してきて夕食前の食堂に向かっていた祖父と母と弟(康彦氏:四歳)に廊下で遭遇し、やにわに一人が祖父に向かって引金をひいたが弾丸は出なかった。
「まあ、せくな」と、祖父は議会の野次を押える時と同じしぐさで、ゆっくりと手を振った。
「撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう、ついて来い」といって、日本間に誘導して、床の間を背に中央の卓を前に座った。
煙草盆をひきよせると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、「まあ、靴でも脱げや、話を聞こう」といった。
その時、前の五人よりはるかに殺気立った後続四人が走りこんできて「問答無用、撃て!」の大声。
次々と九つの銃声。そして兵たちは走り去った。
母が日本間に駆け入ると、こめかみと顎にまともに弾丸を受けて血汐の中で祖父は卓に両手を突っ張りしゃんと座って、その指からは煙草を落していなかった。
母に続いて駆け入ったお手伝いのてるのおろおろすがりつく手を払うと、「呼んで来い、いまの若いもん、話して聞かせることがある」と語った。
病院に運ばれ、午後6時40分に医師団の最初の発表があった。こめかみと顎から入った弾丸三発。背にも四発目がこすって通った傷があるが、傷は急所をはずれている。生命は取りとめる。
道子の父・健が大きく笑って言いに来た。
「お祖父ちゃん、冗談いってさ、いつもとおんなじだよ。9つのうち3つしか当たらんようでは兵隊の訓練はダメだなんて言ってるよ」と。
しかし、結局、午後11時分に祖父の顔に白布がかけられた。
この場面で、「健」とは犬養毅の長男で、犬養道子の父親にあたる人物、後の法務大臣である。
犬養健法相といえば、造船疑獄の「指揮権発動」で佐藤栄作運輸大臣らの逮捕を防いで免れさせて、自らの「政治生命」を葬った人物である。
その犬養健は、意外なことに学生時代は「白樺派」の小説家でもあった。その血を道子も受け継いだ。
ところで、児童文学の作家の石井桃子は犬養健と交流があり、犬養家に司書のようなかたち出入りしていた。
そして5・15事件が起きた1933年に、石井は犬養家で運命的な「出会い」を体験している。
事件後に犬養家を訪問したところ、イギリスから帰国したばかりの犬養健の友人・西園寺公一が子供達(道子と康彦)へのプレゼントとして送った、”The House at Pooth Corner”という本が置いてあった。
子供達に「これを読んで」と言われて、翻訳しながら読み聞かせたが、石井自身がふいに不思議な世界に迷いこんでしまった。
その時の気持ちは、温かいものをかきわけるような、または軟らかいとばりを押し開けるような感覚であったという。
そのうち、子供達の不満げな様子をよそに、石井の読み聞かせは自然と「黙読」になってしまった。
この場面をあらためてまとめると、後に児童文学者になる石井桃子が、5・15事件で祖父・犬養毅を青年将校の凶行により失った孫達に、英語訳がでたばかりの「こぐまプーサン」を即興で訳して語り聞かせていたのである。
この石井桃子と「プーさん」との出会いから7年、石井さん訳した「プーさん」が岩波書店より出版され、多くの子供達の心を掴んでいった。
悲劇的な5・15事件の副産物が、「小熊のプーサン」だったのである。
犬養道子に似た惨劇に遭遇した「歴史の娘」がもうひとりいる。
2・26事件で父親の陸軍「教育総監」の渡辺錠太郎を失った渡辺和子である。
自宅を「皇道派」青年将校に突然に襲撃されて、父親が43発の銃弾をあびて果てた様子をごく真近で目撃している。
その時、渡辺は小学校3年生9歳であった。
激しい怒号でトラック1台に乗ってきて、三十数名の兵士達が門を乗り越えて入ってきた。
そして、玄関のガラス戸に銃弾が撃ち込まれ、居間に入ってきた兵士達に父親は銃撃された。
その時の父の脚は肉片が飛び散り、骨だけになっていたという。
この時、現場に居合わせた母と娘に与えた心の傷は、我々の想像を超えてたものである。
渡辺は、18歳でキリスト教の洗礼を受け、聖心女子大学から上智大学大学院を卒業した。
29歳でノートルダム修道女会に入会した後にアメリカへ留学、ボストン・カレッジ大学院で博士号を取得した。
その後、36歳という異例の若さで岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に就任している。
1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなどをした。
ところで、渡辺和子は、父親の死について一つの「疑念」を抱き続けてきた。
それは、当日の父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵たちの行動である。
渡辺宅を襲撃した兵士達は斎藤内大臣を殺害したあとなのに、なぜ電話が無かったのか。
お手伝いの話では、確かにその日、早朝に電話があり「(電語口に)憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は何もいわずそのまま二階に上がっていった。
しかし、一階で父と一緒に寝ていた渡辺のもとには何の連絡も入ってこなかったという。
渡辺によれば、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなどして逃げることも出来たはずである。
また襲撃が始まってても、憲兵は父親のいる居間に入ってこず、父は一人で応戦して死んだ。
命を落としたのも父一人だった。
しかし、憲兵は約1時間ものあいだ、身仕度をしていたというのだが、兵士が身仕度にそんなに時間をかけるのだったら、兵士が勤まるはずがない。
つまり、この二名の憲兵は、当日朝の電話で襲撃を予告され、かつ襲撃の妨害をしないよう言い含められた可能性が高いという。
陸軍内部には、統制派と皇道派の勢力争いがあり、憲兵隊にも「皇道派」の影響力が及んでいた可能性は充分あるのだ。
そのぎりぎりのせめぎあいのような場面に渡辺錠太郎はいたということで、結局、渡辺は「見殺し」にされたというこかもしれない。

歴史的人物の血を芸能の世界にも見出せる。
岩倉具視といえば明治維新当時、下級公家ではあったが新政府軍と連絡をとりながら維新へと導いた人物で、時に「妖怪」とさえよばれた豪胆な人物である。
岩倉が説く公武合体派が尊譲派におされたために、1862年より5年間洛北の地で蟄居生活を強いられたことがある。
維新後、この岩倉氏が建てたのが、湘南茅ヶ崎のパシフィックパークホテルであるが、岩倉具憲が実際の経営を行い、俳優の上原謙と子息の加山雄三らが共同オーナーとなっていた。
実は、加山(本名:池端)の母方の高祖父は、政治家の岩倉具視である。
加山の母は岩倉具視の曾孫にあたる女優の小桜葉子で、本名が池端具子で、旧姓岩倉である。
小桜葉子は多くの映画に出演したが、メロドラマの美男スターとして活躍していた俳優の上原謙(池端清亮)と結婚し、芸能界から引退した。
パシフィックパークホテルを実際に経営していた岩倉具憲は、小桜葉子の弟にあたる人物である。
1960年代「若大将」として名を馳せた加山雄三だったが、けっして順風満帆な芸能人生を歩んだわけではなかった。
1970年のパシフィックパークホテル倒産時には、最大23億円もの借金を抱え、1個の卵を夫婦2人で分けあって、卵かけご飯を食べたという苦労も味わったという。
パシフィックパークホテルは18億円で売却できたものの、加山氏がこれだけの借金を10年がかりで返済した。
ところで、岩倉が欧米使節として視察して一番痛感したことが、全国的な鉄道の敷設の急務であったと。
加山も鉄道マニアであり、西伊豆・堂ヶ島にある「加山雄三ミュージアム」には自身の鉄道模型コレクションが多数展示されている。
東京上野には岩倉高校という通う学校がある。
1903年鉄道界の恩人、故岩倉具視公の遺徳に因んで、「岩倉」の二文字を校名に冠し、鉄道員を育てる目的で「岩倉鉄道学校」として創立された。
さて、サザンオールスターズの曲には岩倉と加山が共同オーナーだったパシフィックパークホテルのことを歌った「ホテルパシフィック」という曲がある。またサザンオールスターズと研ナオコの歌った「夏をあきらめて」にも、このホテルの名前が登場する。
♪潮風が騒げばやがて雨の合図/悔しげな彼女と逃げ込むパシフィック・ホテ~~ル♪
サザンオールスターズの「ホテルパシフィック」は、2000サザンオールスターズ茅ヶ崎ライブの記念曲として制作・発売されたものである。
加山の父で俳優の故上原謙が経営にかかわった会社に桑田の父親が勤めており、お互いの父親はマージャン卓を囲んだり、一緒に旅行に出かけるほど親しかったという。
桑田佳祐も幼い頃から遊びに行き、加山との古くからの知り合いで、桑田は「嘉門雄三」を名乗って音楽活動をしていたこともあるほどだ。
いわば加山家(本名:池端家)と桑田家は家族づき合いであり、そうしたことが桑田氏の音楽活動を大きな刺激を与えたということである。
もうひとり芸能界で「歴史の娘」をみつけた。1955年、高島忠雄は宝塚歌劇を見に行き一人の俳優にひきつけられる。
俳優といってももちろん女性で、後の高島忠雄の妻となる寿美花代(すみはなよ)である。
寿美は、本名が「松平節子」で現在92歳である。
名前からしても、徳川家康との繋がりが推測できるが、NHKの「ファミリーヒストリー」で戸籍を調べると、確認できる最も古い先祖は、松平莞爾(かんじ)で、寿美花代の祖父にあたり、1905年に亡くなっている。
次に徳川家の旗本の系譜が書かれた「史料」を調べると、確かに松平莞爾の名前が記されていて、「松平信濃守」とあり、さらにその祖先をたどると「松平左右衛門勝秀」とあった。
さらに別の資料「寛政譜重修書家譜」で、「松平左右衛門勝秀」の先祖をたどることができた。
それが「松平勝俊」で安土桃山時代の先祖で、史料に「東照宮の異父の弟、松平の御称号をたまう。母は伝通院の御方」とある。これは驚きの記録で、東照宮とは徳川家康のことである。
伝通院とは家康の生母の「於大の方」で、1541年に松平家に嫁ぎ家康を生むが離縁、その後戦国武将の「久松俊勝」に嫁いでいる。
愛知県知多郡阿久比町に、久松家が創建した洞雲院があり、そこに於大の方の墓がある。
寺の近くに、久松家の居城の坂部城跡がある。この城で勝俊の人生が大きく変わった。
寺の住職によれば、徳川家康が桶狭間の戦いの時、家康と生母・於大の方が「再会」を果した地であるという。
そして於大の方が久松俊勝との間に産んだ弟三人に「松平の姓」を与えた。
3人の中の次男が勝俊で、その後は「松平勝俊」を名乗った。
江戸時代になると勝俊の子孫達は将軍の世話や警護を行うようになる。
松平莞爾(寿美花代の祖父)は、15代将軍の徳川慶喜の護衛をするようになる。
1968年、徳川の世が終わると、莞爾は明治政府より思わぬ命をうけ、静岡牧之原台地の地に向かう。
静岡県島田市博物館に開墾士族の名簿が残っていて、そこに「松平莞爾」の記録があった。
徳川慶喜の警護の任を解かれた時に、浪人して反政府的活動など悪さをしないようにと、荒れ地を開墾し茶畑をつくり、そこに生活の基盤を作ることをさせた。
俊勝も忸怩たる思いで農作業を続けるが、1871年には政府からの給金が一方的に打ち切られる。
困窮し東京に戻った松平莞爾だが、それは元幕臣が経験した転落であった。
その後どんな人生を歩んだのか、「香川善次郎伝」という書物に、莞爾の名前が登場する。
そこに、松平莞爾は、山岡鉄舟の十傑の一人とされた高弟であると記されていた。
山岡鉄舟とは勝海舟とともに江戸城無血開城に貢献した人物である。剣術家でもあった。
山岡鉄舟が開いた「一刀正伝無刀流」で、勝敗よりも精神鍛錬を重視する。
莞爾は剣術を通して誇りを取り返していったのかもしれない。
その山岡鉄舟直伝の剣道書によると、1880年3月30日無刀流を開いた日に、4人の名前の名が記されていて、その門人の4番めにあり、相当な技量をもっていたことがわかる。
その後、1885年 莞爾は皇室警備をつかさどる宮内省に出仕する。時代に翻弄されながらも、42歳で再び重要な要職につくことになる。
莞爾の五男が松平八郎で、節子の父にあたる人物であった。
1919年、飛騨高山出身の銀行家の娘大坪つゆと結婚、つゆは女学校をでたばかりであった。
自動車の輸入会社で働く八郎は、仕事の都合で東京から大阪へ、1926年に現在の西宮市に居をかまえた。
事業をはじめるなど温厚ながらチャレンジ精神のある父・松平八郎と、節子まかしときと明るく励ます母、そんな両親の元、節子は育つ。
思春期をむかえるころ太平小戦争が激化し、兄ひろしが学徒動員により海軍にはいるが、それが松平家に大きな影を落とす。
1945年、母つよと子供たちは、上の姉が嫁いだ阜県下呂市にある慈雲寺に疎開した。
親戚によれば、長男が戦死が受け入れられす、母つゆは息子が絶対に生きていると葬式をしないと言いはった。しかしそれではひろしが浮かばれないと、法事のようなことをした記憶があるという。
1940年、芦屋の女学校に通っていた節子は、新聞「宝塚募集」をみて心が動く。
入団が決まると芸名を寿美花代とした。病気で休んだ代役の俳優にかつらがあわず、自分が被るとピタリと合ったことが幸いして出演、演技が高評価をえた。
高島忠雄は映画でミュージカルによく出演していて、宝塚歌劇を見に来ていたことから出会いが生まれ、1963年2年交際後、高島忠雄と結婚する。
二人はおしどり夫婦として長年「料理番組」に主演し新境地を開き、二人の息子・政彦・政伸も俳優として活躍している。

竹田和貴さんは、八郎とつゆの孫にあたる人で、つゆが女学生時代に描いた絵が残っている。
慈雲寺近くに住んでいた青木純子さんは、節子についてなんてきれいでおとなしくひかいめな人。