阿久悠作詞、八代亜紀歌唱の名曲「舟歌」は、「お酒はぬるめの 燗(かん)がいい
肴はあぶった イカでいい」ではじまる。ただ最後の「沖の鴎に深酒させてヨ
いとしのあの娘とヨ 朝寝する ダンチョネ」という箇所、いまいち唐突な気がする。
この最後の歌詞は高杉晋作の「辞世の句」を元につくられた歌詞である。
高杉晋作の辞世の句といえば、「おもしろきこともなき世をおもしろく」が有名であるが、
もうひとつある。「三千世界の鴉(からす)を殺して主(ぬし)と朝寝がしてみたい」という歌で、要するに恋歌なのである。
これらは、遊び心満点の高杉がよく作った都々逸の句なのだという。
都々逸とは、江戸末期に大成された口語による定型詩のことで宴席などでよく歌われた。幕末の風雲急を告げる状況を歌った高杉の心境をよく物語っているが、「三千世界」はただ広い世界のことを表現しているだけではなく、煩悩まみれの衆生が暮らす苦しみに満ちた(仏教的に言えば四苦八苦)の世界のことも意味しているようだ。
「カラスを殺し」というのは遊女が色々な客と交わした起請文を反故にするという意味があるようだ。
その起請文は、鳥の意匠をもとに描かれた文字が書かれていたためだという。
最後の歌詞「ダンチョネ」は、大正時代の流行で三浦半島で歌われれた「ダンチョネ節」に由来するようで、その意味は「断腸の思い」ということである。
さて高杉は千歳丸で清国を視察するなど「舟」とは縁が深い人である。
特に最期、病の床にあった高杉は、福岡市平尾にかつて匿ってくれた野村望東尼(もうとうに)を救出するため同志を「舟」を向かわせ、糸島半島沖の姫島から救出している。
そして「辞世の句」を聞いて看取った相手こそは、母親ほど歳の離れた望東尼であった。
さて幕末の会津藩の尊皇派には新島八重の他にもう一人中野竹子という女傑がいた。
中野竹子は1847年3月、江戸城和田倉門内の会津藩上屋敷内に生を受けた。
幼いころから聡明で書や和歌にも優れていて、免許皆伝の域に達するほど武芸にも通じていた。文武に優れた典型的な会津女子として、将来を期待されていた。
1867年、徳川慶喜が大政を奉還すると、会津藩は江戸にあった屋敷を引き払い、その時に竹子も会津へ戻った。
戊辰戦争の際には、女性だけで結成された「娘子軍」として奮戦するも最後は銃弾によって倒れ22歳の若さで戦死する。
1938年には、戦死した湯川に架かる柳橋近くに、「中野竹子殉節之地」の碑が建立された。
また竹子の実家のある会津坂下町の法界寺に葬られ、その遺品も残されている。
ところでこの坂下町には、昭和の名曲「別れの一本杉」の歌碑がある。
「別れの一本杉」は、1955年12月にリリースされた春日八郎の代表曲のひとつである。
作詞は高野公男、作曲は船村徹で、当時二人はこれといったヒットに恵まれず苦しい時代を過ごしていた。
そのような中、「お富さん」のヒットで進境著しいキングレコードの春日のもとに売り込みにいき、その中で目に留められた曲がこの「別れの一本杉」であった。
故郷を出るときに別れた娘を遠い都会の空の下で思う男心を綴った歌詞は、農村から都会への人口流入が始まった時勢を反映していたこともあり、当時50万枚のセールスを記録、爆発的な人気となった。
しかし、この曲がヒットした矢先、作詞家の高野公男は結核にかかり、「別れの一本杉」が発表された翌1956年に26歳にて死去した。
さて春日八郎は、父は蕎麦打ちの名人で、母は当地の花嫁衣装を引き受けるほどの和裁の名手であった。
戦前、春日は歌手を目指し「新宿ムーランルージ」で仕事を得るも、戦局と悪化とともに閉鎖され、召集令状をうけて台湾やアジアを転戦した。
1945年11月に復員すると、会津の運送会社に当座の職を得るが、「何をするにも、やっぱり東京だ」との思いに駆り立てられて再上京。その後はムーラン・ルージュ新宿座に戻り、渡部勇助の名で本格的に歌手活動を開始した。
なかなかヒット曲に恵まれない中、1954年8月には「お富さん」が大ヒットし、翌年「別れの一本杉」で、トップ歌手の仲間入りをした。
春日八郎は、三橋美智也と共にその美声で国民的な人気を博し、紅白歌合戦に1989年まで21度出場した。
1991年6月、67歳の時、左大腿部腫瘍の摘出手術のため入院する。一旦は退院し、死去1ヶ月前の9月6日に中野サンプラザでのキングレコード60周年コンサートに出演した。
当日は車椅子で会場入りしたがステージ登場から歌い終える最後まで、立って杖無しで自力で歩いてやりきった。これが生涯最後のステージとなったが、死後その映像を見た人の多くが、「会津武士」の俤(おもかげ)を感じたという。
春日八郎は、前述の中野竹子の実家と同じ会津坂下町出身で、思い出の品々を展示した「春日八郎記念館」と、隣接する公園には「別れの一本杉」の歌碑がある。
我が青春の時代にヒットしたキャンデーズの「春一番」の始まりは次の通り。
♪雪が溶けて川になって 流れて行きます
つくしの子がはずかしげに 顔を出します
もうすぐ春ですね
ちょっと気取ってみませんか♪
この歌詞から、"幸せな門出"というイメージがあるが、この言葉が広がったのは、長崎県の壱岐島で起こったある不幸な出来事からであったという。
壱岐の漁民たちは早春に吹く、「春一番」「春一」「カラシ花落とし」と呼ばれる南の暴風を恐れた。
この風が吹き通らぬうちは、落ち着いて沖に出られなかったからである。
1859年旧2月13日は快晴、格好の出漁日和で、ほとんどの漁船が五島沖の喜三郎曽根に出漁、各船は順風に恵まれ予定時間に到着した。
直ちに延縄をはえ始めたが、一船は南の水平線に黒雲の湧き昇るのを発見、「春一だ!」と叫んだ。
それを聞くや、ことごとくの船が、今仕掛けたばかりの延縄を切り捨て、帰帆の用意にかかったが、強烈な南風は海上を吹き荒れ、小山なような怒涛が漁船に覆いかぶさってきた。
漁民たちはなすすべもなく、船もろとも海中に消えていったのである。遭難者の数は53名。
1987年、郷ノ浦港入口の元居公園に、船の形をした「春一番の塔」が建てられ、塔の下には春一番海難者の慰霊塔もある。
さてキャンディーズのヒット曲が「春一番」のイメージが変わったようだが、森高千里の歌った「渡良瀬橋」も渡良瀬川のイメージを変えたのではなかろうか。
森高は橋をタイトルにした新曲を作ることにしたものの、なかなかイメージが湧かなかった。
地図を広げて「言葉の響きの美しい川や橋」を探し、渡良瀬川という文字が気に入った。
たまたま、森高は1989年に足利工業大学でライブを行っており、大学のある足利市内に渡良瀬橋という橋があることを知った。
その後、現地に再訪して橋の周辺を散策、そのイメージを使って詞を書いたという。
♪渡良瀬橋で見る夕日を あなたはとても好きだったわ
きれいなとこで育ったね ここに住みたいと言った
電車にゆられこの街まで あなたは会いに来てくれたわ
私は今もあの頃を 忘れられず生きてます
今でも 八雲神社へお参りすると あなたのこと祈るわ
願い事一つ叶うなら あの頃に戻りたい床屋の角にポツンとある 公衆電話おぼえてますか♪
本人は渡良瀬川の美しい夕日や近くの八雲神社の佇まいに感銘を受けてこの歌を作ったというのだが、日本史を学ぶときに、渡良瀬川はある不幸な出来事と結びついて登場する河川である。
日本史において、渡良瀬川は足尾銅山の鉱毒と戦うため田中正造による日本公害反対運動の起点となった川である。
その観点からすれば、恋人達の出会う場所に相応しい名前とはいえないかもしれない。
とはいえ、森高のこの曲に対する市民の盛り上がりは大きく、足利市からは感謝状を贈られた。
そして2007年には足利市の出資で森高・歌碑が完成した。
森高の「渡良瀬川」はしっとりした名曲ではあるが、大ヒットした曲ではない。しかしこの曲に対する足利市の力の入れようは少々オーバーな気がしなくもない。
ひょっとしたら足利市は、公害とも結びついた渡良瀬川のイメ-ジアップをはかったのかもしれない。
その一方、地元出身の国会議員で天皇にまで被害を直訴した田中正造の「記念碑」はあるが、森高千里の「渡良瀬橋」のような顕彰まではされていない。
明治末期から大正・昭和初期にかけて、石狩湾などの北海道沿岸ではニシンの漁獲量が最盛期を迎えており、ニシン漁で財を成した網元による「ニシン御殿」が建ち並んだ。
北原ミレイが歌った「石狩挽歌」(1975年)は、歌詞の中にニシン漁をする漁民達の専門語が出てきて分かりにくいが、それゆえに単なる「大漁歌」を越えた重厚な歌になっている。
作詞家・なかにし礼氏の「実体験」を元に生まれでたものだけに、ナオ「重み」がある、
作曲は、八代亜紀「舟唄」(1979年)の浜圭介である。
♪♪~海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ~♪♪
なかにしは、石狩湾がある小樽市で小学校時代を過ごしており、彼の兄は一攫千金を狙って、多額の借金をしてバクチのようなニシン漁を行った。
見事大漁に恵まれたが、欲を出して、わざわざ本州まで運んで高く売ろうとしたために、せっかくのニシンを腐らせてしまった。
全てを失い、膨大な借金だけが残ってしまったなかにしの兄。多額の借金を背負って、一家は離散してしまった。
♪あれからニシンは どこへ行ったやら
オタモイ岬の にしん御殿も
今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロ
かわらぬものは 古代文字
わたしゃ涙で 娘ざかりの夢を見る♪
石狩挽歌には、ニシン漁の専門用語が説明もなく次々とでてくる。そのいくつかを説明すると、「海猫(ごめ)」は、ニシンの群れに沿って集まってくるウミネコのことで、チドリ目カモメ科カモメ属である。
「筒袖(つっぽ)」は、袂(たもと)が無い筒状の袖。作業着・労働着として、東北地方の漁村で漁師(網衆)が主に着用した。
「やん衆」は、一獲千金を狙って北海道のにしん漁などで働く気の荒い雇われ漁師。東北出身者も多く、出身地域を指して「秋田漁夫」「南部漁夫」などと文書に記録された。
「番屋(ばんや)」は、ニシン漁師が宿泊する小屋。猟師などが寝泊まりする山小屋で、北海道を旅するとしばしば出会う。
「問い刺し網」は、浮子(うき)の付いた刺し網の一種である。刺し網は、魚をとるための漁網の一種で、魚の頭部が網目に刺さるように入り込むのでこう呼ばれる。
「オンボロロ」は物が古くなって傷み、ぼろぼろの状態を指す「おんぼろ」の末尾が繰り返された表現。子守歌の「ねんころろん」のようなオノマトペと思ってよい。石狩挽歌では特に効果的である。
歌の中で漁の遠景として登場する「笠戸丸」は、明治時代後期にハワイやメキシコ、ブラジルへの移民船として使われた貨客船である。
1945年8月、笠戸丸はソ連軍により拿捕され、爆撃で沈没されている。
さて問題の歌詞は「古代文字」で、一体どんな文字なのだろうか。
遣隋使の小野妹子の煬帝に渡した「国書」に、「日出る処の天子、書を日没する処の天子へ致す」では、日本が自らを「日出る処」と位置づけている。
日本のことを「日の出るところ」とよび中国を「日没するところ」としたことに煬帝は怒ったらしいが、日本基点で地理的位置関係に言及したにすぎない。
煬帝が怒ったのはむしろ、世界に「天子」が二人存在することだったのかもしれない。
日本は「日の出るところ」を元に「日の本」から「日本」という国名が7世紀ごろに生まれた。
世界史的にみると「日の出るところ」を意味する言葉がオリエントで「東方」を意味する言葉となり、ものごとが始まるという意味で「オリエンテーション」という言葉が使われるようになった。
つまり物事のはじまりが「東方」と結びつくようになったのだが、太陽が昇る処に強い関心と興味をもつのは自然なことであろう。
ところが、中東のオリエントの人々にとって「日の昇るところ」はさらに東。太陽を神と拝する人々が、日の昇るところに「何があるのか」と、さらに東へ向かったということはありうることではなかろうか。
さて聖書によれば、メソポタミアでは人々が天にむけて塔を建てようとしたところ、神の怒りをかって言葉が通じなくなって、人々は散らされたとある。
天に上ろうとしたシュメール人が、バベルで神の怒りをかい、天髙く昇るのではなく日の出る処を水平にめざしたとはいえまいか。
もしそうならば、シルクロードをペルシアなどの宝物が最東端の日本に伝わったのは、”日出る処”の支配者への思いから生じたのではなかろうか。
実際に、日本の古代文化はきわめてコスモポリタンな文化であった。
奈良の正倉院が、シルクロードの終点ともいわれるのは、太陽への思いをもつ人々の終着点であったということではないか。
そのことを示す最大の証拠は奈良の正倉院にある。
正倉院の宝物は、中国・朝鮮の宝物ばかりではなく、シルクロードをつたわってきた中近東ペルシアの文物も含んでいる。
つまり、極東の日本、さらには太平洋岸にやってきた日本人は、特別に太陽への思いが強い人々であったということができる。
本州の最西端に位置する山口県下関市には、市街と橋でつながる彦島という島がある。
彦島は、平家と源氏が戦った「壇ノ浦の戦い」で、平家が最後の陣を敷いた島としても有名。
彦島で、文字や絵が刻まれた岩石「ペトログリフ」が存在するという驚きの発見がなされた。
「ペトログラフ」とは、岩石や洞窟内部の壁面に、文字や絵が刻まれた彫刻のことである。
「彦島八幡宮」にあるペトログリフを、研究者らが調べたところ、3200年前に書かれた「シュメール文字」で、内容も解読されたという。
実は、シュメール人は、バベルの塔で散らされた人々で、ペトログリフと呼ばれる「岩刻文字」は日本ばかりか環太平洋で見つかっており、日本での発見が一番多い古代シュメール・バビロニア起源の楔形文字だといわれる。
石狩挽歌の「オタモイ岬」は、小樽市北部のオタモイ海岸にある断崖絶壁の岬。「オタモイ」とはアイヌ語で、「砂浜のある入り江」を意味するという。
北海道小樽市の手宮洞窟(てみやどうくつ)は、年に発見された壁面の彫刻で有名で、この彫刻が刻まれた時代は、今からおよそ1600年前頃の「続縄文時代」中頃から後半と考えられている。
最近の研究で、壁面彫刻は実際は「古代文字」ではなく、岩壁画と良く似た古代の彫刻画(ペトログラフ)であると判明している。
また北海道余市町栄町の「フゴッペ洞窟」も続縄文時代の遺跡で洞窟内に刻画がたくさん残っている。
「フゴッペ洞窟」は海水浴に来た中学生が1950年に発見し、国指定史跡になった。
「フゴッペ」は栄町の旧村名で、アイヌ語の「フムコイペ(波声い所)」が由来という。
「石狩挽歌」の歌詞の重厚さは、昭和のニシン漁の歴史と続縄文時代の古代文字や明治のブラジル移民を乗せた笠度丸など、日本史をカスル歌詞にもよるであろう。