ルーズベルト対リンドバーク

2024年11月に世界が注目するアメリカ大統領選挙を迎えるが、トランプ大統領がモットーとする「アメリカファースト」は、「ホテル王」トランプの専売特許ではない。
かつて大統領候補に祭り上げられようとした「飛行機野郎」の主張するところであった。
1927年5月20日を迎えたアメリカ、ある無名の若者に世界の注目が集まっていた。25歳の郵便飛行士チャールズ・リンドバーグで、これから命がけの冒険に挑もうというのである。
ニューヨークからおよそ6000キロ離れたパリへの無着陸飛行である。成功したものに25000ドルの賞金が用意された。
それまで8年間、有名な軍人や飛行家が挑戦するも、ことごとく失敗、6人の死者を出しており、この賞を誰も手にした者はいなかった。
若者は思った。ニューヨークからパリへ、それは夢のように響く。十分な燃料を積み込み、エンジンが止まらず、正しいコースさえたどれば、当然ヨーロッパに着くはずなのだ。
自分がニューヨークからぱりへ飛んではいけないという法はない。
リンドバークが操縦桿を握ること33時間30分、「針の先のような明かりが無数に現れた。星空の下に、別の星々が輝くように、「パリの灯だ!」。
それらの「地上の星」の中に飛行機が降り立った時、前人未到の快挙に、世界中が沸き立った。
クーリッジ大統領は大船団で「英雄」の帰国を演出した。 ニューヨークでは2000トン近い紙吹雪が舞い、英雄を讃える歌が200曲以上作られた。
郵便飛行士であったリンドバークは、一躍アメリカ軍の予備役大佐に任命された。
そんな出来事から7年たった1933年3月、ルーズベルト大統領が就任し、不況にあえぐ国民を力強く鼓舞した。
ルーズベルト大統領は、アメリカ建国前の名家の出身で、ハバード大学を卒業していた。
しかし大きなハンディがあった。39歳の時、ポリオに罹患したため下半身が麻痺して車いす生活を与儀なくされていた。
しかし彼はひとつのことに集中し、結果を待つことを学んだ。夫人は、「この病気がルーズベルトに忍耐ということおを教えました」と述べた。それはアメリカを参戦の機運が高まるまで待ったことによく表れている。
ルーズベルト自身も「足の指を動かすことのみに専念して病床で2年間過ごしてごらん。ほかのことは何でも簡単に思えるよ」と語っている。

「空の英雄」と名門出身の大統領にいかなる「接点」もなさそうだが、1934年当時普及し始めた航空郵便をめぐっての対立がきっかけだった。
ルーズベルトは民間航空会社の航空郵便の認可を一方的に取り消し陸軍航空隊に担当させると発表した。
リンドバークは当時、航空会社の顧問を務めており、真っ向からそれに反論した。「大統領の決定は私が12年間を捧げてきた航空産業を根底から揺るがすものです。アメリカ航空界全体に無意味かつ甚大な損害をもたらすでしょう」。
そして陸軍のパイロットは夜間や悪天候の飛行経験が少なく危険だと主張したが、ルーズベルトはまったく意に返さなかった。
しかしリンドバーグが指摘した通り、陸軍航空隊に事故が続発し、4か月間で66件。12人が死亡した。
そして陸軍長官が「リンドバーグ大佐はあらゆる航空問題の第一人者と認識しています」と提言し、ルーズベルトは民間航空機会社との再契約を結ばざるをえなくなった。
こうして大統領の発言を覆したリンドバーグの政治的発言力は一気に増した。
その頃ヨーロッパではナチスが台頭していた。1935年ヒトラーはヴェルサイユ条約を破り再軍備を宣言、軍事力を増強しようとしていた。
1936年7月、アメリカはベールに包まれていたドイツの軍事力をさぐるべく、知名度の高いリンドバーグを派遣した。
アメリカは空の英雄リンドバーグの名声を利用しようとしたのである。
一般に外国から視察に訪れた場合、本来軍事施設や飛行機工場を外国人の立ち入りみせることはない。
しかしナチスドイツのNO2のゲーリングは[リンドバーグなばということで許可した。当然そこにはドイツなりの目論見があった。
リンドバーグはその技術水準の高さに目を見張った。
この規模の工場はアメリカにはなく、ドイツは今やほかのどの国よりも短期間で軍用機を作ることができる。
英仏露ロと戦ったとしても、空軍力の観点からみてドイツがたちまち制空権をにぎるだろう。
まるでリンドバークは、ドイツに懐柔されたように、リンドバーグがドイツとの関係を深めていったのだ。
それは、アメリカにとって予期せぬことであった。
リンドバークはその後、ベルリンオリンピック開会式に来賓として出席するなど、ドイツ訪問は3年間で6回に及んだ。
さらには1938年、ドイツに貢献した外国人に贈られる勲章を授与された。
一方のルーズベルはヒットラーを警戒し、当時としては異例の演説を行った。アメリカは平和を維持するために、ヨーロッパ情勢に介入すべき時だと国民に訴えた。
「世界の90パーセントの人々の平和と自由と安全は残り10パーセントの人々によって脅かされている。アメリカだけが逃げおおせると思ってはならない。平和を維持するためには積極的な努力が必要である」。
しかしこ演説は予想外のバッシングを受けた。その理由はアメリカ国内の根強い厭戦感情であった。20年前の第一次関大戦で、アメリカはイギリスやフランスを助けるために参戦したアメリカだったが、勝利はしたものの10万人以上の戦死者をだしていた。
アメリカの若者が遠いヨーロッパの戦争で命を失ったことへの悔恨は国民に根強く残り、世論調査では64%が第一次世界大戦の参戦は失敗だったと回答していた。
実際に参戦した文豪のヘミングウエイは、「ヨーロッパで煮込まれている地獄のスープを飲む必要はない」と表現した。
資本家達は第一次世界大戦後にドイツに進出してヨーロッパ市場で巨額の利益をあげていたので反対した。
例えば、元々ドイツからの移民であったヘンリー・フォードは自身も熱烈な「反ユダヤ主義者」であった。
ナチスに協力しドイツに大規模な工場を建設して、ナチスへの貢献をたたえられ、ヒトラーから勲章を受けていた。
ルーズベルトは、国民や資本家からの予想外の反発に、「ドイツ批判」を緩めざるをえなかった。
彼は側近に「皆の先頭に立って走っていると思っていたのに、ふとふりかえってみると誰もついてきていないことがわかった」と心境を語っている。
1939年4月20日、ルーズベルトはなんとリンドバーグをホワイトハウスに招待した。二人が直接顔をあわせるのははじめだった。
これは、二人が直接顔を合わせる初めてのことで、大統領は かつて「あのブロンドの若者は我々がなんとかする」と語ったリンドバークに、アメリカの航空戦略のアドバイザーを依頼したのである。
この時、ホワイトハウスは緊張につつまれたが、会談はあたりさわりのないことに終始したという。
この時の印象をリンドバークは次のように語っている。
「ルーズベルトは人当たりがよく話術に優れた人物だった。だがどこか信用できないところがある。できるだけ長く協力しあえればよいのだが、しかしこの関係は長続きしないのではないかという予感がする」
1939年9月ドイツ軍がポーランドに侵攻し、その結果ポーランドと同盟関係にあったイギリスとフランスがドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まった。
イギリス政府がアメリカに支援をもとめたため、ルーズベルトは中立国への武器の支援を禁じた「中立法」を修正、武器貸与法を制定し、イギリスを支援した。
ちなみに、バイデン大大統領は、ウクライナ支援のために、「武器貸与法」を77年ぶりに復活させた。
その際にルーズベルトは、「あなたや私の家族の安全は隣人の犠牲の上に成り立ってはならない。私たちの平和は隣人の安全にかかっているのです。中立国だからといって事実に背をむけてはならない」と訴えた。
そんなルーズベルトに異議をとなえたのがリンドバーグで、「私は皆さんにアメリカの中立を訴えたいと思います」と、ルーズベルトに敵対する姿勢を明確にした。
「アメリカを守るためにヨーロッパの戦争に加担すべきという考えは我々に致命的な結果をまねくでしょう。我が国の指導者の政治判断は間違っています。彼らの能力や判断は信用できない」。
この堂々たる演説は、寡黙な冒険家というリンドバークのイメージを払拭し、アメリカ人の心をつかんだ。
世論調査では、イギリスへの軍事支援に賛成する者は16%にすぎず、リンドバーグに賛同する手紙は数千通に上った。
ところがヨーロッパの国々は、アメリカから十分な支援が得られずに、ドイツに対して敗退を繰り返していた。
1940年にはフランスが降伏、さらに7月にはドイツによるイギリスの攻撃が始まった。
イギリスはもって半年といわれて、アメリカから武器を買い入れる資金も底をついていきつつあり、チャーチルはルーズベルトに対して、再三支援を要請した。
そしてパリ陥落とロンドン空襲は、さすがにアメリカにも衝撃となって、イギリスへの支援賛成派が急増し50%を超えた。
ルーズベルトは「我々は、現実世界に蔓延している力の論理に無関心でいることはできない」と、ドイツとの直接対立に備え防衛力強化に乗り出した。
1940年9月、アメリカ初の「選抜徴兵法」を発令させ、徴兵される人を選ぶためにくじびきが行われ、ルーズベルト自らくじに書かれた番号を発表した。
1年だけの教育入隊という約束徴兵された若者は、およそ90万人にのぼった。
そこでまた激しい抗議運動がわきおこるのだが、その先頭に立ったのは、またもやリンドバークだった。
リンドバークはドイツとの融和を力説し、シカゴでは4万の聴衆の喝采を浴びた。
「戦争が終わった後の国際秩序を考えなければならない。 近い将来、アメリカが向き合うのはドイツ率いるヨーロッパかもしれない」。
ルーズベルトは「リンドバークの演説はまるでゲッペルスのようだ」と述べ、民主主義を捨てて、一見効率がいいというだけでナチズムに賛成するとはあわれなものだ」と語った。
ドイツ系アメリカ人協会も戦争反対を訴えた。はじめは穏健なドイツ系移民親睦団体を装っていたものの、次第に「信ナチ」の姿勢を顕わにしていった。
「我々が目指すのは、非」ユダヤ教徒の白人が自治する社会的に公正なアメリカを取り戻すことだ」と主張した。
さらには、アメリカ国内でもドイツ系とユダヤ系とが対立していたのである。
1940年ルーズベルトは3期目の大統領を目指しており、「アメリカの舵取り自分しかいないと訴えた。
「アメリカ・ファースト」委員会員会は、80万人の会員を集め、リンドバークに出馬を促していた。
建築家のロイド、自動車のフォードなど各界の名士が名を連ねた。
リンドバークは演説し「我が国がどれだけ支援を送ってもイギリスを勝たせることができない」と語り、最大の戦争反対勢力に成長していった。
大学生のジョンFケネディもリンドバークのこの演説に感動し100ドルの小切手を送ったという。
しかしリンドバークは立候補の誘いを断り続けた。
「わたしは性格からいって現実の政治活動にはむいていません。私が政治的発言に手をそめたのは国家を襲った戦時の非常事態だったからです。正直にいって私は安全よりも冒険を、評判よりも自由を、影響力よりも自分の信念を好む人間なのです」という自己分析を語っている。
さて、ルーズベルトは3期目に入り「武器貸与法」でヨーロッパ支援を強め、イギリスへ300億ドル分んの軍事物資が送られた。
この支援によりイギリスは窮地を脱したものの、リンドバークの影響力は消えず、大統領にとって忌々しい存在だったことに変わりはなかった。
そして大統領の周辺は、リンドバークへの直接攻撃を始めていくが、リンドバークは、抗議のためと称して、アメリカ軍大佐の地位を返上した。
その行為について、大佐の地位は返上するのに、ナチスの勲章は返上しないのかと、火に油をそそぐ結果となり、かえって攻撃が激化した。
妻アンや友人たちは、リンドバークにナチスとの繋がりをはっきり否定すべきだと勧めた。
しかしリンドバークは公聴会で、「ナチスの極悪非道な犯罪行為について怒りを感じませんか」と問われ、「自国が参戦していない戦争の一方の陣営について意見を述べる必要はない」と答え、明確なナチス批判は行うことはなかった。
そのうえで「アメリカは協議による和平を目指すべきで、世界の警察になるべきではない」と応じた。
しかしリンドバークは、アメリカじゅう敵に回すミスを犯すことになる。
リンドバークはアメリカを戦争に導く3つの勢力をあげた。
「イギリス、ユダヤ人、ルーズベルト」3つのうちひとつでも扇動をやめれば我々が戦争に介入する危険はなくなると語ったのである。
それこそまさにヒトラーの常套句だったため、会場はブーイングでうめつくされた。
一番の問題は、ユダヤ人への批判で、リンドバークはナチス的差別主義として名声は失墜し、アメリカファースト委員会内部からも批判が相次いだ。
実は、妻アンは前日、「ユダヤ人差別と受け取られるかもしれないので、文面を変えて欲しい」と懇願していた。しかしリンドバークはとりあわなかった。
妻は「もし他人の言うことを聞く人だったら、大西洋を横断していなかったでしょう」と付け加えた。
敵の失策により、もはやルーズベルトを阻むものは誰もいなくなった。
しかしルーズベルトは、「わたしはだれかが背中をおしてくれるのを待っているんだ」と、夫人がかつて言ったごとく「忍耐」を学んでいた。
ところがその時がやってきた。それが日本軍いよる真珠湾攻撃で、「リメンバー・パールハーバー」が国民的合言葉となった。
ちなみに、リンドバーックは満州事変勃発のころ飛行機で日本にも来日し、我が地元福岡の名島水上飛行場にも降り立っており、名島団地の片隅に記念碑が立っている。
ルーズベルトは側近に「変なことを聞くようだが、これで大丈夫だな。世論は宣戦布告に賛成してくれるかな」と聞いている。
これを受けドイツがアメリカに宣戦布告し、チャーチルは、「我々は勝った。我々は生き残れる」と語った。
リンドバークはこの「非常事態」に復帰を申し出たが、ルーズベルトはそれを許さなかった。戦争で活躍し英雄の人気が復活することを恐れたのかもしれない。
それは「あいつの翼をもぎとってやる」という言葉にも表れている。
失意のリンドバークはフォードの工場で爆撃機の開発に携わり、さらに民間の軍事コンサルタントとして太平洋戦線に加わった。
また正式な許可もないまま戦闘機に乗り日本軍と交戦し、ラバウルの爆撃などにも参加した。
ルーズベルトは、ドイツの降伏をみることなく、1945年4月に亡くなる。
その後、リンドバークに名誉回復の道が開かれた。公の場から遠ざかっていたリンドバークが空軍に復帰した。リンドバークは空軍の特別顧問に就任、国防に尽力し1974年8月に72歳で亡くなった。

4-2、リンドバーグ・ジュニア誘拐事件の謎 この事件は、当時から犯人のハウプトマンは冤罪ではないかと言われていて、事件についてはリンドバーグが長男のちょっとした障害を気にしていたこと、リンドバーグがかなり悪ふざけをする癖があったこと、事件当初からリンドバーグが警察やFBIの捜査に非協力的で、長男の遺体も少し見ただけですぐに火葬してしまったなどもあり、犯人とされたハウプトマンには状況証拠ばかりで最初から犯人と決めつけられていた様子もあったということで、じつは誘拐事件はなかった、リンドバーグが誤って長男を殺してしまったために誘拐事件をでっち上げたのではと言う説もあるということです。 また、後に死体で見つかったはずの長男を名乗る男性も現れたが、リンドバーグ家はDNA鑑定を拒否しているという後日談も存在。 4-3、リンドバーグの隠し子 リンドバーグは、ミュンヘンの帽子屋だったブリギッテ・ヘスハイマーと不倫関係があり、1957年からリンドバーグの死まで継続。ヘスハイマーの1958年、1960年、1967年にドイツで誕生した3人の子供たちはリンドバーグの非嫡出子だということが、2003年11月、DNA鑑定で証明されました。尚、ヘスハイマーは2001年に74歳で死去しています。