夏目漱石の小説「三四郎」に登場する「野々宮君」は、日露戦争が迫る中、穴倉にこもってひたすら光線の圧力を研究している。
「野々宮君」のモデルは漱石の教え子の物理学者の寺田寅彦らしいが、世間とは「没交渉」な野々宮君の静謐な生き方に、主人公はある種の興味を抱いたようだ。
その寺田寅彦のよく知られた警句に、「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉がある。
自然科学の中には当面社会の在り様に影響の少ないものから、重大な影響を及ぼすものがある。
前者の例が天文学や生物学であり、後者の代表が「地震学」であろう。
地震学は将来に備え、被害を調べたり予測したりする「防災科学」としての意味をもつ。
最近、国家と学問の関わり方が議論されるようになった。
2022年、菅内閣のもとで学術会議6人が政府の意向ではずされた問題などもあり、国家により「学問の自由」が侵される懸念がもたれている。
日本は近年、地震ばかりか気候変動の面でも「災害大国」ともいってよい。「学問の自由」が保障されずして、どうして信頼できる予測ができるであろうか。
最近では原子力の立地をめぐる地盤の安全性の問題や、「偽AI生成動画」などの問題も浮上している。
特に「災害予知」というは、明治から大正の時代、東京大学の二人の地震学の権威が争った経緯によって、いかにデリケートな問題か、顕わになった。
さて、明治時代のはじめ日本政府はお雇い外国人を多く雇ったが、その中にイギリスの地震学者で鉱山技師のジョン・ミルトンがいた。
東京にあった工学部工学寮(工学校)で1876年より、地質学や鉱山学の講義を行った。
日本政府との契約は最初の3年間だったが、延長に延長を重ね、結局19年間もの長期にわたった。
1880年2月22日に、横浜を震源とするマグニチュード5.9と推定される地震が起きた。
この地震をきっかけにして、地震と火山を研究する世界最初の学会である「日本地震学会」が作られる。
1880年4月26日に正式発足し、この発足の会でミルトンは、「日本における地震学」と題する講演をして一同を感激させた。
ミルトンは、地震や火山の研究をすることが日本が世界になしうる「貢献道」であるとしたのだ。
具体的には、地震計の制作と改良・地震観測網の整備・地震データの収集などが重要であることを示した。
その「地震計」の開発に大きく貢献したのは、1877年に来日したイギリスの物理学者アルフレッド・ユーイングである。
彼は東京大学理学部で機械工学と物理学の講義をし、そのかたわら「地震計」の製作をした。
地震計には、地震の時の地震の上下および水平の動きをはかる上下動および水平動地震計がある。
ユーイングが最初に作ったのは、このうちの「水平動地震計」であった。
地震の際には、地上のあらゆるものが揺れ動く。したがって、なんとか工夫して、基準となる「不動点」を作らなければならない。
「不動点」をつくるひとつの方法は、重いおもりをつかうことであるが、やたら重いおもりを使うのも実用的ではない。
さまざま工夫をしたユーイングは、やがて「水平振り子」を使うことにした。そして一台の地震計で地面の東西および南北方向の動きを同時に測定できる地震計をつくった。
この地震計は東京大学地震観測所におかれ、1881年以来の記録をとった。しかし、この地震計では上下動をはかることはできなかった。
しかし物理学のトマス・グレーの助けを得て、ユーイングはまもなく「上下動地震計」も作った。
ミルトンはユーイングやグレーの作った地震計に様々な改良を加えた。そして1885年からは、「ユーイング・グレー・ミルトン地震計」による観測報告が東京気象台から出るようになった。
ミルトンは、日本における地震観測網の整備にも貢献し、日本でもっとも早く地震観測を始めたのは、1873年「函館観測候所」においてであった。
地震の際に地面に揺れ具合を表す指標として、[強・弱・強・烈」の四段階であらわすとした。
またミルトンは、日本で過去におきた地震に関する文献を整備し、366の地震を調査した。
これが日本における地震史研究の第一歩となった。
ミルトンやユーイングのもとで、やがては日本の地震学を背負うことになる人材が育っていった。
関谷清景・大森房吉・今村明恒らである。
東京帝国大学(現在の東京大学)地震学教室の主任教授を務めた大森房吉は、今から100年ほど前に日本の地震学の基礎を築き、地震予知の実現にも尽力した。その功績は世界でも認められており、1916年度のノーベル物理学賞にもノミネートされている。
「日本地震学の父」といってよい大森は、1868年福井に生まれた。
帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)を終えたのちに大学院へと進み、地震学と気象学を研究した。
前述したミルトンや地震学初代教授の関谷清景が彼の先生であった。
関谷が45歳で病死し、ヨーロッパ留学から帰国した大森が関谷の後を継いで東大地震学教室の教授に就任した。
その時の助教授は今村明恒であった。今村は、大森とは二歳年少で、両者は師弟というよりもむしろ同僚の間柄であった。
今村は大森とは違って「不遇なコース」を歩んだといってよい。助教授とはいいながら無給であり、生活の資は士官学校から得ていた。
大森が円満実直な人柄であったのに対して、今村は直情の人であり、このため両者の間はシックリいっていなかったようだ。
今村明恒は当時としては珍しく、「地震予知」に情熱を燃やした学者だった。
今村は関東地震(1923年)や東南海地震(1944年、マグニチュード7.9)がいずれ襲って来ることを予想して、為政者や人々に防災の準備を説いた。
しかし、いずれ大地震が来るという彼の警告には「世を騒がせるだけだ」という批判が巻き起こった。
なかでも彼の直接の上司・大森房吉こそは「批判の急先鋒」であった。
大森は、確たる証拠がない以上は無用な混乱を避けるべきだという、日本を代表する地震学者として、世間に対する責任感に突き動かされた提言だったといってよい。
現代の科学知識からいえば、二つの大地震を結果として予知した今村も、地震が起きないとした大森も、どちらも「科学的な根拠やデータ」を持っていたとは言えない。
今村明恒は1870年、鹿児島県鹿児島市に生まれた。1891年、21歳のときに、帝国大学理科大学物理学科に進学、1894年に大学院に進学して、発足間もない地震学講座で研究を始めた。
今村が勤めていた地震学講座は大森房吉が教授として采配を振っていた。大森は3年間の欧州留学後1896年に教授になっている。
その頃は大地震がたびたび日本を襲って、人々が不安や恐怖を感じ、地震への関心がとくに高まっていた時代だった。
1891年10月28日には日本の内陸で起きた最大の地震である「濃尾地震」があった。
岐阜県と愛知県を中心に死者7273名、全壊建物14万棟という大被害を生んでいた。
また首都圏でも1894年6月20日に直下型の地震である明治東京地震が起きた。
この地震では煉瓦建造物の被害が多く、とくに煙突の損壊が目立ったため「煙突地震」とも言われた。
一方で、地震観測はまだ貧弱だった。現在は日本全国で1000点を超える地震観測点があるが、1923年の関東地震直前でも国内と当時日本領だった台湾や朝鮮半島などをあわせても80カ所あまりしかなかった。
とはいえ当時世界にあった地震観測所は約170カ所だった。
日本は「地震観測大国」だったのである。人々が地震への不安を募らせていた一方、中央気象台の地震観測はまだ不備で職員に科学者も少なかったので、大学の地震の先生の言動は大きな影響力があった。
今村明恒は地震を専攻していた科学者として、災害予測を科学者としての社会的な使命だと考えていたのであろう。
当時の代表的総合雑誌「太陽」9月号(1905年)に都市の地震災害、なかでも火災の危険を警告する論文を書いた。
「江戸で過去に起こった大地震は、平均100年に1回の割合で起こっている。安政二年(1855年)の安政大地震以来すでに50年が過ぎていることを考えると、今後50年以内に東京で大地震に見舞われることを覚悟しなければならない。次の東京大地震の被害は莫大なものとなるであろう。地震によって水道が破壊されて用をなさないために大火災が発生し、死者は10万ないし20万に達すると思われる」。
今村の論説は、当初は冷静に受け止められたが、約4ヶ月後の「東京二六新聞」が「今村博士の大地震襲来説、東京市大罹災の予言」とセンセーショナルに取り上げてから事態が変化した。
この新聞記事に扇動された大衆は恐慌を起こし、大きな騒ぎになったのである。
しかし今村の「真意」は、将来いつ来るか分からない大地震、なかでも火災の被害に備えよ、ということだった。地震が来ることを予言するのではなく、「防災」に力点が置かれていたのである。
しかし今村の真意は理解されることなく、新聞に扇動された騒ぎは大きくなるばかりだった。
このため今村の上司だった大森房吉は、「東京二六新聞」に釈明と取消の寄稿を出すように今村に指示することになった。
この記事は元記事の3日後の19日に出て騒ぎは終息するかに思えた。
しかし、1906年2月23日の千葉沖の地震(M 6.3)で東京は軽震、翌24日に東京湾の地震(M 6.4)で強震を感じて横浜で煙突が倒壊するなどの小被害が出て人々が不安に苛まれた。
またデマを電話で通知した者がいて、官憲が取締に乗り出す騒ぎになり、せっかく下火になった火の手が、また燃え上がってしまったのだ。
これを受けて大森は民心沈静のために奔走することになった。それは同時に今村への攻撃を強めることになった。
大森はこれらの論説や講演で「東京には今後何百年も安政地震のような大地震はないだろうが、もしあったとしても大火災を起こすことはないだろうし、10万の死人を生ずるというのは、まったく学術的な根拠のない浮説にすぎない」と述べている。
大森が、「火消し」に努めたせいで恐慌は静まった。
一方、今村の方は「市井の間には私利を謀るために浮説を唱えたとされ、友人からは大法螺と嘲けられた」と屈辱を味わった。
「翌年の夏に帰省したとき、自分に対する非難の数々を転載した地方新聞を読んだ老父がいちいち弁解を求めたのには弱ったが、一年余も老父を心痛せしめたかと思って情けなくもなってきた」と当時の感慨を漏らしている。
ところが1923年9月1日、今村が「18年前に警告していたこと」が、本当に起きた。
関東大震災が、神奈川県、東京市、千葉県を襲い、今の震度でいえば「7」(当時の震度階は現在とは違う)という激震に襲われ多数の家が倒壊した。
それだけではなく、各地で出火した火が翌日朝までに東京市の大部分に燃え広がって火災旋風も起き、消防はなすすべもなく、10万人以上の死者・行方不明者を出すことになった。
「震災の大部分は火災である。地震の被害は火災が起きることで激増する」という今村の主張通りのことが起きてしまったのである。
大森は学会でオーストラリアに行っていた。地震の報を受けて急遽帰国を急いだ。しかし船で帰国中に、心労もあったのだろうが、脳腫瘍で倒れた。
今村の挨拶に対して、息も苦しげに「今度の震災については自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方がない。ただし、水道の改良について義務を尽くしたことで自分を慰めている」と言い終わるか終わらぬうちに嘔吐を始めた。
大森の病状はその後も回復せず、関東地震後2ヶ月あまりで失意と悔恨のうちに亡くなった。
今村にとっては予測が的中したものだったが、今村の心が晴れたわけではなかった。
今村は地震6年後の学会誌「地震」に、「関東大震災に於いては、其災害を軽減する手段があらかじめ講究せられなかったことは為政者の責任であったろう。関東大地震の災害の九割五分は火災であった。水道管はあまり強大でない地震によっても破損して用をなさないものであるから、大地震の場合に於いては全然破壊されるものと覚悟しなければならぬ」と投稿した。
今村の予測は過去の1854年、1703年、1695年に大地震が繰り返されており、次が近々起きる、という程度のもので、具体的な前兆を捉えていたり、次の地震の発生について精密な数値的な予測をしていたわけではない。
そこで1928年に和歌山に南海地動研究所を私費で設立した。この観測所はその後、東京大学地震研究所和歌山地震観測所になって、現在でも地震観測が続いている。
当時、地震学の教科書や一般書を見ても、「地震予知」の言葉はない。しかし、同じような内容を持つ「地震の予測」についても、当時の地震学者は今村と違って及び腰であった。
今村は関東地震も東南海地震も過去の地震歴から「予測」した。しかし、これは現代の言葉で言う「予知」ではない。
「いつ、どこで、どのくらいの規模で」起きることを予知することからは遠く、「いつ」ではなく「いずれ」「やがて」「いまに」という程度であった。
自分が研究していることが少しでも社会に役立つのなら、それを発表して世の中の理解を得たい、というのが今村にとっての強い衝動であった。
今村は「20年前に東京大地震を予言したのも、惨禍を想像したときに、世間の一時の迷惑や悪評を顧慮することができなくなったからだ」と書いている。
一方の大森も一流の研究業績がある科学者であった。しかし、確たる証拠がない以上、無用な混乱を避けるべきだという、日本を代表する地震学者として、世間に対する責任感に突き動かされていたのであろう。
自説を曲げてまで部下の今村を批判して抹殺しなければならなかったのは大森にとっても悲劇であった。大森は自分で自分を追い込んでしまったのである。
さて今日の地震予想についてであるが、能登半島地震(2024年)や熊本地震(2016年)の被災地は、政府の地震調査研究推進本部が作っている「地震動予測地図」で、大きな揺れに見舞われる確率が相対的に「低く」色分けされていた。
結局、南海トラフや首都直下の危機が強調されることが、反対に他の地域の「安全情報」になってしまっているともいえる。
そのリスクが強調される「南海トラフ地震」は30年以内に70~80%というが、驚いたことに「他地域と違う「特殊な方法」で算出した数字だという。
他と同じ方法なら6~30%になるらしい。
70年代の東海地震説以来の警戒感を損なう影響を心配する意見が強かったため、確率の「水増し」がなされたのだという。
こうした「地震リスク」は防災予算の「地域配分」への影響もでてくるが、「公平性」を重視する地震保険の料率算定ではこの方法は使われていないという。
そもそも、リスクを確率で表すことはどうか。
天気予報の降水確率ならば、膨大な日々のデータの蓄積によって正確を期することができるが、めったに起きない地震を過去のデータにもとづいて予測するのには疑問符がつく。
いっそ、「地震はいつでもどこでも」という啓発の方がよほど価値がある安全対策ではなかろうか。