イスラエルのエルサレム旧市街は、城壁に囲まれた面積わずか1平方キロm弱の広さの区域である。
そんな小さな区画に、いくつかの歴史的な宗教における重要な聖地・史跡がひしめいている。
ユダヤ教徒にとっての「神殿の丘」と「嘆きの壁」、キリスト教徒にとっての「聖墳墓教会」、イスラム教徒(ムスリム)
にとっての「岩のドーム」と「アル=アクサー・モスク」などである。
さて、13世紀に神聖皇帝となったフリードリヒ2世は、ローマ教皇の要請でイスラーム勢力からエルサレムを奪還するため、十字軍を組織して遠征する。
フリードリヒ2世は、かつてイングランド王リチャード1世やフランス王フィリップ2世とともに遠征(第3次)したフリードリヒ1世の孫にあたる。
しかしフリードリヒ2世は、それまでの皇帝や王とは一味ちがっていた。
イスラムなど異文化をよく理解し、得意のアラビア語を使ってイスラム側と交渉にあたった。
では、フリードリヒ2世はどのようにして、そのような能力を得たのであろうか。
それはフリードリヒ2世がドイツ皇帝でありながら、イタリア半島近くに浮かぶシチリア島で育ったことが深く影響している。
シチリアは、地中海の真ん中あたりに位置し、ヨーロッパ・中東・アフリカのどこへ行くのも便利なうえ、気候がよくて農作物や果物も豊富、新鮮な海の幸も取り放題の島であった。
特に首都パレルモは、地中海の海上交通の要衝として繁栄した。そこでシチリアは、古代の昔から四方八方の民族から取り合いになる。
そのことが、アラブ人のイスラム文化、ノルマン人の文化、ユダヤ人の文化、イタリア人やドイツ人が入り乱れる文化の先進地帯とした。
それは、北方のノルマン人といえども例外ではなく、1130年ノルマン人の王が、イタリア半島南部を含むシチリア王国を建国し、その王朝を「シチリア・ノルマン朝」ともいう。
遡ること1096年、ローマ教皇ウルバヌス2世はイスラム教徒(セルジュク=トルコ)に占拠されたエルサレムを奪還するために、十字軍を派遣する。
この時、ドイツ王は南西部シュバーベン地方の「ホーエンシュタイン家」であった。
この王朝の第二代がフりードリヒ1世(在位1152~90)である。
ドイツ王は、神聖ローマ帝国の皇帝として、カトリック教会を異教徒から保護する役目をもつ。
しかしドイツでは血統が絶えるや後継者争いが起こり、勝利した新しいドイツ王は自らの「正統性」を誇示し権威づけを行うためにローマへ赴き、「神聖ローマ皇帝」として戴冠するというのが実情であった。
そもそも「神聖ローマ帝国」(ドイツ)の領土内に「永遠の都ローマ」が存在しないという事実は、様々な問題を引き起こす。
11世紀の「叙任権闘争」に始まるローマ教皇と神聖ローマ皇帝の対立は、12世紀にも持ち越し、その頃からイタリア国内の都市国家(コムーネ)は、「教皇を支持する陣営」と「皇帝を支持する陣営」とに分かれて争うようになった。
前者を教皇党(ゲルフ)、後者を皇帝党(ギベリン)といった。
大都市とその上層市民である大商人たちは、神聖ローマ皇帝のイタリア支配に反発していたので、「反皇帝」の立場から、教皇支持(ゲルフ)に回った。
一方、中小都市や封建領主はむしろ、強力な皇帝権力によって保護されることを望み、皇帝を支持(ギベリン)し期待したのである。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は、北イタリアで自治権の拡大を図る諸都市に干渉したため、北イタリア諸都市は「ロンバルディア同盟」を結成し、フリードリヒ1世に対抗する。
結局はフリードリヒ1世と「ロンバルディア同盟」が和解し、諸都市は神聖ローマ皇帝から「自治権」を再確認される一方、「北イタリア全体の支配権」は、ドイツ王が握るということになった。
次にフりードリヒ1世は「南イタリア」に目を向けた。当時の南イタリアには、前述の「シチリア・ノルマン王国」が栄えていた。
フランスのノルマンディー半島に住み着いたヴァイキングの一族がつくった国である。
この国ではその頃、男子が絶え「コスタンツァ」というという女性が相続者になっていた。
彼女は王となるべき配偶者を探したが、なかなか自分の王国内には適当な配偶者がいない。
フリードリヒ1世は、このことに着目し、自分の長男と彼女との結婚を実現させる。
ところがドイツ人が国王になることに対して、「シチリア・ノルマン王国」の貴族たちは反対し行動を起こす。
それでも、フルードリヒ1世は、自分に反抗したミラノ市に、結婚式の費用をすべて出させて大規模な「結婚式」を挙行した。
結婚当時、コスタンツィアは32歳前後であり、夫となったハインリヒ6世は、21歳前後であったことからも、結婚を強行したといえる。
フリードリヒ1世は、その後「第3回十字軍」に参加する。この十字軍はエジプトのカイロを拠点とする「イスラム王国アイユーブ朝」を打倒することが目的であった。
第1回十字軍でイスラエルにキリスト教国「エルサレム王国」が建国されていたが、サラディンに率いられてたアイユーブ朝がそれを攻撃し、エルサレムを奪っていたからである。
ところがフリードリヒ1世は、ドイツから陸路パレスティナに向かう途中、アナトリア半島の川で「溺死」してしまう。
フリードリヒ1世の死後、ハインリヒ6世が神聖ローマ皇帝となる。彼はシチリア王でもあったので、シチリアのパレルモに滞在した。
そして、コスタンツァとの間に子供が生まれ、彼こそが後の「フェデリーコ2世」(フリードリヒ2世)である。
この子供は、「ローマ教皇領を除いた全イタリア」とドイツの主君として生まれたことになる。
フリードリヒはわずか3歳でシチリア王を継ぐが、パレルモの宮殿で母コスタンチィアに味方するものはほとんどなく、当時の教皇インノケンティウス3世に遺児の「後見人」を依頼する。
インノケンティウス3世は、シチリア王国の首都パレルモの王宮に「家庭教師のグループ」を送り出した。
フリードリヒ2世は成長とともに、1212年にドイツ王、1220年に神聖ローマ皇帝に即位するが、彼の後見人になったローマ教皇イノケンティウス3世の期待を「裏切る」ことになる。
教皇が期待したのは、「ローマ教皇と協調していく皇帝像」であったが、フリードリヒ2世は信仰心はあっても、かなり自律的・近代的な性格の持ち主だった。
フリードリヒ2世は、ホーエンシュタウフェン朝の後継者とはいえ王宮で大切にされないぶん、港町パレルモで気ままな日々を暮らし、その間にアラビア語も身につけ、イスラム世界とも接触していく。
そればかりか、ラテン語やギリシア語、アラビア語などを含む6カ国語を操ることができ、知恵が増し加わり、乗馬や槍術にも優れていた。
フリードリヒが置かれた逆境が、そうさせたといえる。
そして後世の歴史家から「中世で最初の近代人」とよばれる存在になっていく。
フリードリヒ2世は、ノルマンの文化が影響したのか「ローマに中央集権的な国家を建設したい」という考えを抱くようになったようだ。
北イタリアの諸都市が自治都市として独立国家になるようなことは許さず、これを攻撃した。そしてその余波は「ローマ教皇領」にまで及ぶことになる。
諸都市は祖父フリードリヒ1世の時と同じように、「ロンバルディア同盟」を結んで反抗し、ローマ教皇も「反皇帝」という立場で諸都市の味方についた。
ローマ教皇としては、イタリア半島が小国にわかれていた方が、精神界の指導者として「君臨」しやすかったからといえる。
一方でシチリア王国は、フリードリヒ2世隆盛の時代を迎え、みずからナポリに「官僚養成」の大学をつくるなどをした。
「ローマ法」が復活し、近代国家に向けた取り組みさえ始まった感さえある。
フリードリヒ2世はイスラム語も話しイスラムの芸術も愛していた。そんな彼が、「エルサレムを奪回せよ」という宣言のもと、十字軍を率いることになる。
そして1228年、フリードリヒ2世率いる第5回十字軍は、現在のシリア、エルサレムの北西に位置するアッコンに上陸する。
しかし彼は従来とは異なるアプローチをする。
その地でフリードリヒ2世は、エルサレムを統治するアイユーブ朝のスルタンであるアル・カーミルと書簡でやり取りをする。
はじめはアル・カーミルがフリードリヒ2世の人柄を見極めようと手紙を出したのがきっかけである。
アラビア語を操り、イスラム文化を理解するフリードリヒ2世への信頼を深めたアル・カーミルは「平和条約」に合意する。
この「ヤッファ協定」によって、エルサレムにおいてのキリスト教徒とイスラム教徒の「共存」が定められ、1229年から10年の期限つきで、エルサレムはキリスト教徒に「返還」されることになった。
ただ、「協定」にはイスラム側の聖地である「神殿の丘」を侵してはならないという、イスラムに配慮した条項もふくまれていた。
ともあれ、フリードリヒ2世は血を流すことなく、交渉だけで遠征を成功させたのである。
フリードリヒ2世が、イスラム側の情勢に通じアラビア語を話せたことが、交渉が成功した最大の理由だが、この「外交上の成果」に対して、グレゴリウス9世は激怒し、彼を「破門」した。
1222年にフリードリヒ2世は、コンスタンサ妃と死別、エルサレム王女イザベル2世と再婚していたため、エルサレム城に入城し「エルサレム王国」の王位に就く。
最近、NHKの番組「知恵泉」で、足利義政の正室の日野富子が応仁の乱を終結に導いた「知恵」が語られていた。
日野富子といえば、我が子(義尚)を将軍にとゴリ押ししたのが応仁の乱の原因とされる。
しかしこの番組では、日野富子が「応仁の乱」を終わらせたという、ほとんど着目されたことがない点に焦点をあてていた。
「史実」に即していえば、応仁の乱の発端は「守護大名・畠山氏の後継者争い」である。
そこに、細川勝元、山名宗全という有力守護大名が勢力拡大のチャンスとばかりに介入したことが原因であった。
それぞれに結びつくのある大名が「我も我も」と戦いに加わった結果、収拾がつかなくなったのである。
細川勝元が京都の東側、山名宗全が西側に陣取ったので、東軍・西軍とよばれる。
東軍は天皇・将軍家を自陣に引き入れ、その結果西軍は「朝敵」となり、引くに引けなくなった。
戦いは一進一退を繰り返しながら、7年めにはいっていた。この年、山名宗全と細川勝元が相次いで死亡、それでも乱は続いていく。
富子の夫である義政は政治に興味を失い、和歌・茶・日本庭園など文化や芸術にいそしむので、早くから将軍を引退するといいだした。
戦乱が続く中、富子の子・義尚は9歳になり元服、そして9代将軍に就任する。
そのため義尚が将軍となってからは15歳までは、富子が後見人としてサポートする。
富子は事実上、幕府をカジとりする存在となった。
しかし、せっかく我が子が将軍となったのに、都は焼け野原、戦ばかりでは将軍らしいマツリごとができないではないか、と富子は思ったに違いない。
幕府を建て直し、世の中の秩序を回復しなければ!
そのためには乱を終わらせることだが、戦いはすっかり膠着状態。両陣営とも兵力とお金をすり減らしているだけ。どうしてやめないのか。
そして富子は、男たちの「面子(メンツ)と本音(ホンネ)」に気がつく。
そして富子は、山名宗全なきあとの西軍の中心、大内政弘に接近する。
富子は彼のホンネを見抜いていた。それは大内側の「朝敵になると領地は没収されるかもしれない。しかし仲間もたくさん死んだし、このままて手ぶらでは帰れない」という思い。
すなわち戦い続けるのはメンツのためで、ホンネとしては「もうやめたい」ということ。
言い換えると、戦いをが終わらせるためには、なんらかの「成果」をあげたという証(あかし)が必要なのだ。そこで富子は大内の心をくすぐる取引を仕掛ける。
大内政弘に対し「領地の4か国は引き続き治めてもらうから安心してよい。朝廷から従四位下という高い位をあたえるよう手配しましょう。これに満足して国元に引き揚げてくれぬか」と提案するのである。
大内政弘は、領地の不安が払拭された上で高い位を与えられたことで、喜んで帰国した。
さらに富子は、残された西軍の大名には、多額の資金を貸した。
大名たちはこれで国元への旅費を得ることができ、領国に帰ってからの面子も保ったことであろう。
一般に、日野富子は財テクに走った悪女のように評価されているが、実は金を有効に使った「賢女」なのではあるまいか。
さて、現代の紛争において、双方が歩み寄れる「妥協点」をなかなか見出すのが難しく、平和への糸口を見出すのができないようである。
前述のフリードリヒ2世の知恵と日野富子の知恵とは、信仰と面子の違いはあるとはいえ、共通しているように思える。
それは、互いの「本質的要求」をよく理解し、双方を立てたということである。
また、フリードリヒ2世のイスラム教徒(ムスリム)に対する寛容政策は、中東ばかりではなかった。
ムスリム住民たちをナポリの東およそ120キロにあるルチェーラの街に移住させた。
1240年までにルチェーラの人口6万人のうち2万5千人はムスリムとなり、その後60年間、シチリア島のアラブ支配やノルマン人の統治下で見られたようなムスリムとクリスチャンの「共存」が進んだ。
ルチェーラの町のムスリムたちは、アラブ人が得意であった医学、商業野や工芸、畜産のなどの分野で活躍した。
そして半島南部を含むシチリア王国最大の商業市が開かれるまでになる。
ルチェーラのムスリム・コミュニティーは1300年にナポリ王のカルロ2世によって、ムスリムたちが追放されるか、奴隷に売られることによって崩壊する。
その背景にはフリードリヒ2世の考えや姿勢とは異なるイスラムに対する「不寛容」な姿勢があったとされている。
残念ながら、フリードリヒ2世の交渉力がもたらした「歴史的な平和条約」は、双方の教徒には必ずしも評価されなかったようだ。
エルサレムにいた聖ヨハネ騎士団とエルサレム総大主教がフリードリヒ2世と敵対したのみならず、ローマ教皇グレゴリウス9世がシチリア王国へ兵を差し向けるといった事態に発展する。
急ぎシチリアに帰国したフリードリヒ2世は、ローマ教皇軍を撃退する。
勢いに乗ったフリードリヒ2世は、北イタリア諸都市を攻撃し、1237年のコルテヌオーヴァの戦いでロンバルディア同盟軍を打ち破る。
これにより、時の教皇インノケンティウス4世から「二度目の破門」と皇帝廃位を言いわたされるも、フリードリヒ2世は徹底抗戦の構えを示し、戦局はフリードリヒ2世が優勢になった。
しかし1250年、フリードリヒ2世は突然に死去。あまりの突然さに民衆はその死を信じなかった。
死後、エルサレム女王イザベル2世との間の息子、コンラート4世が神聖ローマ帝国を継承するが、1254年に病没しホーエンシュタウフェン朝は断絶する。