オリンピックで日本の新しいお家芸ともいわれるスケートボード。選手たちのイメージは、自分が描いてきたスケボー青年とはずいぶん違う。
とても内省的な雰囲気の青少年たちで、幼少のころから親がつきそって練習施設に通って、技術を磨いたのだという。
かつてスケーボーの若者を描いた「池袋ウエストゲートパーク」(1998年)という石田依良(いら)が書いた小説があったが、登場人物はかなり反社会的な存在であった。
また自分の中での「スケボーの風景」といえば、団地で遊ぶ若者の姿であった。
日本のように道が狭く、交通の往来が激しいところでは、団地内が比較的に安心して遊べる空間ではなかったであろうか。
自分たち世代にとって、団地はちょっとした「夢空間」で、東京で暮らしていた頃は、そこに惹かれて高島平団地で新聞配りのアルバイトしていたくらいだ。
ちょうどその頃、極左過激派の指名手配犯が近くの新聞販売所で潜伏していたのが逮捕された。どこかですれ違っていたかもしれない。
我が実家に近い福岡市南区の若久団地(現在では跡地でマンションが建つ)では、若き作家・夏樹静子が住んでいた。
デビュー当時、夏樹は南区若久団地に暮らす主婦で二児の母であった。ちなみに夫は現・新出光社長の出光芳秀(出光佐三の甥)である。
「ミステリーの女王」と呼ばれるほど推理小説を多く書き残し、2016年3月19日、亡くなった。享年77。
若久団地跡地には、夏樹静子の言葉が刻んだ石碑がたっている。
「なんきんはぜの 葉音がきこえる。目をあげれば 背振の峰。
私の心がいつも 帰っていくのは そこにあった
こよなくもやさしい きらきらした日々ー 夏樹 静子」。
政治学者で鉄道マニアの原武史(はらたけし)は、自ら移り住んだ複数の団地での生活から興味深い学説を提唱している。
原の書いた「団地の空間政治学」は、大阪・香里団地、ひばりヶ丘、多摩平、常盤平、高根台の各団地の歴史をたどりつつ、そこで自治会や文化サークルがいかに立ち上がり、どのように「政治」にコミットしていったのかということを、自治会報やタウン誌などを用いて読み解いている。
この本は1960年代に皇太子夫妻(現在上皇太后夫妻)が「ひばりヶ丘団地」(現・西東京市)を訪問したところから始まっている。
できたばかりの団地はアメリカ型ライフスタイルの先端を行くものと考えられており、ダイニングキッチンや洋風家具はアメリカ風の生活スタイルを、そして一軒ごとにある浴室とシリンダー錠は家庭のプライバシーを実現するものであった。
しかし、この本でも指摘されているようにアメリカに日本のような団地はほとんどない。
むしろ団地はソ連や旧東ドイツ、ポーランドなど戦災で住宅不足が深刻化した社会主義国によく見られるものである。
また、団地の住民の政治意識も「保守よりも革新、資本主義よりも社会主義に共感的」であった。
団地の住民たちは、階級的には労働者階級というよりは「新中間階級」で、大学の教授などの知識人も多く含まれていたが、どちらかというと「革新」を支持する割合が高く、のちに団地は共産党の牙城になる。
そういえば、「日本は世界でもっとも成功した社会主義国家である」と皮肉られたこともあった。
そして団地で大きな役割を果たしたのが女性で、団地の平均的な世帯はサラリーマンの夫と専業主婦と子どもで構成され、世帯主の男性の多くは都心の企業へと通勤していた。
このため団地の自治会やサークル、さらには地方自治体への陳情などにおいて主婦たちが大きな役割をはたすことになったのである。
また、女性たちが地方自治体への陳情の中心となった背景には、団地周辺の「保育園不足」、「学校不足」があった。
団地には新婚夫婦が集まり、またプライバシーの整った空間は団地におけるベビーブームを生み出すことになる。
その一方で、保育園不足、学校不足が女性たちの「政治意識」を目覚めさせ、自治会活動などから出発して団地の主婦が共産党から地方議員へと立候補する道を開いていった。
そもそも団地は何もない田園地帯や丘陵地だった場所に作られているケースが多く、保育園や学校の不足は深刻であった。
1950年代後半から70年代にかけての「政治運動」というと、安保闘争やベ平連や学生運動など、平和運動を中心とした「大きなテーマ」を持った運動に注目が集まる。
しかし、そうした「大きなテーマ」だけではなく、主婦たちが切実に関する「小さなテーマ」をめぐる「政治」も盛り上がっていたのだ。
1950年代半ばに極左冒険主義を否定した共産党は、団地の文化運動や自治会活動を通して、着実に支持を増やしていく。
団地の住民はほとんどが核家族で、よりよい保育所や交通、病院などを求めていた。孤立した暮らしのなかでは、隣近所のつきあいが助けとなった面が大きい。
しかし、70年代の半ばになると急速に自治的な「政治意識」は衰退していく。
団地はなくなったわけではなく、高島平団地、そして多摩ニュータウンという巨大な団地がつくられるが、そこではかつての団地にあったような「政治意識」が盛り上がることはなかった。
原武史はこの要因として、高島平団地に関しては高層化、多摩ニュータウンに関しては車社会の到来をあげている。
エレベーター化やモータリゼーションの進展が、団地の人びとから共通の場を奪い、自治会活動を低調化させた。
「政治の低調化」といえば、大きな流れで1970年代はじめ、連合赤軍事件や学生の内ゲバなどが節目になったと思っているが、もっと身近な生活空間の変化が「非政治化」を生んだといえる。
それは、原のもう一つの研究領域である「鉄道」とも深く関わっている。
ところで2023年夏、西武池袋本店で「そごう・西武」労働組合のストライキが決行された。
百貨店「そごう・西武」を運営する持株会社(セブン&アイHD)による実に61年ぶりとなった「百貨店ストライキ」だが、最初の「百貨店スト」は1951年で三越労組による。
賃上げ闘争で6人が解雇され労使が対立した。
会社側は強面の「スト破り」を雇って歳末セールを強行しようとしたが、組合がピケで従業員も客も入店させなかった。
当時「三越にはストもございます」が流行語となった。
戦後「西武グループ」の総師となった堤康次郎は、労働組合をつくらせなかった。
「感謝と奉仕」を創業の精神として掲げ、「うちの会社には資本家も労働者も経営者もいない」と公言していた堤康次郎にとって、ストライキのない西武は誇りだった。
次男の堤清二は、そうした父の思想に反発し、東大時代に日本共産党に入党して後に幹部となる上田耕一郎、不破哲三の兄弟らとの交流があった。
後に同党を除名されても社会主義を信奉する姿勢は変わらず、西武百貨店の店長になるに際して、労働組合の設立を父に認めさせた。
共産党が支持を広げていったのは、上述のように労働者階級ではなく、高学歴でホワイトカラーの新中間階級だったところに注目すべきだろう。
つまり2023年夏のストは、60年以上前に清二が父との確執をへて勝ち取った成果といえる。
共産党を代表する論客上田耕一郎、不破哲三(本名:上田建二郎)の兄弟が、西武新宿線沿線(野方)の出身だったというのもおもしろい。
電車運賃の値上げ反対や終バスの時間延長も集団の力が必要だった。その中心となったのが、共産党の主導する「自治会」である。
堤康次郎は、晩年には、狭山(さやま)丘陵を切り開き、そこにディズニーランドに劣らない一大レジャーランドをつくるという構想をもっていた。
戦後、皇族の土地を買い占めてプリンスホテルなどを建てて財をなした堤康次郎が建設した鉄道の沿線が
堤の思惑とは裏腹に共産主義やリベラルの一大拠点になっていいったのは皮肉といえば皮肉である。
1962年から75年まで、共産党主催の「アカハタ祭り(赤旗まつり)」がは西武沿線である多摩湖畔の狭山公園で開かれたというのも偶然ではない。
ここで、団地住民の利用する鉄道の運賃や利便性の差が団地の団結や共産党の伸長に影響を及ぼしたという示唆はとても興味深い。
前述の若久団地は当時の日本住宅公団の団地のおもかげはなく、その名前も四季彩の丘「ワカヒサージュ」となり、洒落たマンション群に変貌した。
若久団地は実質的的に解体され、「団地の時代」は終焉したように感じさせる。
団地はある意味日本人の1970年代までの「総中流意識」のシンボルであったような気がする。
しかし団地がすべて解体される方向にあるのかといえば、人口減と格差の時代には、新たな役割を担い始めているようだ。
最近、NHKのドキュメント「72hours」で千葉県八千代市の「花見台団地」の人々のリアルを見て、団地に対する我が認識は変わった。
団地はかつて「政治的自治」の揺籃の地であったが、団地は今や「共同体」と化し、規模は縮小させながらも、いわば持続可能な共生空間に生まれ変わっているようにも思えた。
千葉県の八千代台駅から5分の「花見川団地」は、団地ができたのは1968年、4階建てでほとんどの建物にエレベーターはない。
住民によれば、それでもいいこともあるという。階段階段で人々との交流があるからだ。
登場した70代の男性は、同じ団地で妻とは別の部屋を借りている。
かつて住んでいた一軒家は管理が大変なので、そこを出て月4万5千円(3LDK)で暮らすことにした。
妻とは週2、3回デートするという。
団地内には商店街があった。子供たちが大好きな焼き鳥店がある。お総菜屋さん。果物屋さん。そして洋服屋さん。
ここにきて50年め、時代の移り変わりをずっと見守ってきた店の主人は、当時は団地にはいるのは憧れで、自分も団地に入れてうれしかった。
団地では、店舗と居住が、一階と上階のワンセットで売りに出されていた。
今は、商店街近くの広場で朝のラジオ体操があり、高齢者の交流の場になっている。
商店街でポイントを押してもらうのがたのしみ女性、店の女性もリハビリがわりにポイントを押していると笑った。
また歩行困難者や重いものをもつのが大変は人のための前に大きな荷台のある特別な自転車がある。
商店街の取り組みで、利用料はただ。ドライバーはボランティアだが、ボランティアの一人は、もともとはシステムエンジニアだった70代の男性。
知り合いに「一人暮らしになったら団地がいいぞ」といわれ、ここに住むことにしたという。
昔は人相手じゃない仕事がいいと思っていたけれど、今はむしろ人相手がいいと思うようになったらしい。
住人によれば、かつては子供たちがたくさんいて花見川ではなくて「はらみ川」とよんでいたくらいだったという。
服屋さんは当時を懐かしむように、全盛期からすると客は半分になったし、昨日は客はひとり、店開けてるのがいやになるとこぼしていた。
また投資目的で買った男性は、団地の部屋をそのままセカンドハウスにして、趣味を生かす場にしている。
高校生らしき男の子は「湘南爆走族」を読んで、機械整備士に憧れ、カラオケでは湘南の風を歌うほど、湘南に憧れているのだという。
アジ化系の人々も多く、今でもバスは朝5時から通勤する人で混む。
ベトナム人の一人は、夜7時から朝五時まで食品工場で働き、団地の運動場で仲間とサッカーする。
若者たちが集まっていた場所にカメラが向くと、彼らは団地でビヤガーデンやビンゴ大会などイベントでもりあげようとして、その振り返りの集まりなのだという。
彼らがそうしたイベントを開くのは、皆、団地に子供のころの楽しい思い出があるからだ。
番組終盤に登場したのは、いくぶん場違いなほど洗練された雰囲気の30ぐらいの女性。
自銀座のアートギャラリーのスタッフをしている女性、それだけに部屋にこだわっている。
以前は、脚本家のアシンスタントのしていたが、空気を読みすぎることから「好き」を守れなくなって、すべてをリセットしようとしてここに住むことにしたという。
現在はオンラインで仕事をすることが多く、なによりも、商店街の果物やさんの母さんと話して気持ちがやすらいだ。
ひとりで暮らしていてももひとりではないちという居心地の良さがある。
女性は、そんな「団地の力」で、10年ぶりぐらいに児童文学が書けたと語った。
この千葉県「花見川団地」は、自然に「共生空間」が生まれているように思えるが、もっと自覚的に「共生空間」を作ろうとしている団地がある。
福岡市と北九州市のほぼ中間に位置し、昭和40年代から団地開発などにより両市のベッドタウンとして発展してきた宗像市。
開発から50年の節目を迎える「日の里団地」で、団地1棟を丸ごと生活利便施設にリノベーションし、団地住民と新住民のコミュニケーション拠点とする再生プロジェクトがスタート。
舞台は、最寄りのJR東郷駅から一番離れた東街区で、団地を集約することで生まれた10の敷地だ。
2018年に地域住民主体のワークショップが開かれた。その場であがった『多世代が集まるような交流拠点になってほしい』、『緑豊かな場所にしてほしい』という多くの人の思いを含んだ条件のもとで10棟のうち4棟を解体撤去し、6棟を残した形で譲受事業者を公募した。
そして、住友林業など10社でつくる共同企業体に譲渡先が決定し、宗像市、共同企業体、UR都市機構で連携協定を締結した。
「宗像・日の里モデル」全体の再生イメージは、緑豊かな共通の庭を囲むように64戸の戸建てが点在する「戸建てエリア」と、団地や地域の人も共に集えるコミュニティー拠点「さとづくり48」のある「生活利便施設エリア」で構成される。
「戸建てエリア」では64戸のコミュニティー創発型「サトヤマ」住宅(分譲)を新築する。
コンセプトは「里山に暮らす」。緑の木立のなかに、塀や垣根を設けないオープンな住宅が点在する予定。広々とした共有の庭を設け、子どもたちが遊んだり、バーベキューを楽しんだりできるようにする。
一方の「生活利便施設エリア」では、6棟のうち1棟(48号棟)を残して丸ごとリノベーション。
「さとづくり48」と名付けられた棟内の30室には、地域の人が集まれるコミュニティーカフェや大型家具もつくれるDIY工房、保育室のほか、クラフトビールを醸造・販売、飲食もできるブリュワリーなどが入る予定だ。
「さとづくり48」は、団地の住民と、戸建てに入居する新たな住民、地域の人たちがゆるやかにつながり、多世代交流が促進される核となる。
今回のプロジェクトの対象は駅から一番離れたエリアだが、ここが生まれ変わることで、新たな人の動きが生まれ、日の里地区一帯のにぎわいが増すと期待が高まっている。