現代日本は、生活保護を受けている人の数が、戦後最大となっている。こどもの6人に1人が貧困で、ヤングケアラーの問題も浮上している。
生活水準は上昇しても、「生存権」が脅かされている点では、終戦直後とも重なっている。
最近は各地のNGOが運営する「子供食堂」が増えており、令和の時代に「生存権」の意味があらためて問われている。そこで、時代のエポックとなった「生存権」にまつわる「記念碑」について紹介したい。
神奈川県の横浜新港埠頭のマリンウォーク前に「ララ物資の碑」がある。楽しげな名前だが、時代背景は重い。
第二次世界大戦後、日本全国で食料をはじめあらゆる物資が不足して、国民は激しい困窮状態に陥った。
そこに、アメリカから「ララ」(Licensed Agencies for Relief in Asia/アジア救済公認団体)の名前で、食料・医薬品・衣料・学用品などの大量の救援物資が日本に贈られた。
(ちなみ、大型商業施設の「ララポート」は、フランス語の「港」を意味するla portに由来する)
宗教団体や慈善団体などアメリカ人の「善意」によって集められた支援物資だと言われてきた。
しかし、実際は「ララ物資」の多くが、海外に移民していた日本人とその子孫である日系人から送られていたのだ。
つまり、アメリカ、カナダ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチンなどの「海外在住」の日本人や日系人などから集めて送った支援物資のことを「ララ物資」といってよい。
「ララ物資」の呼びかけ人となったのが浅野七之助で、大東亜戦争後の貧困に苦しむ日本への支援物資事業の実現に尽力し、「ララ物資の父」と呼ばれる。
アメリカのサンフランシスコで新聞記者として日系人の権利獲得のために活動された。
戦後の日本の惨状を知った浅野は在米日系人に呼びかけて食料品などを集め日本戦災難民救済運動を開始する。これがのちの「ララ物資」へとつながる。
「ララ物資」は、1946年から52年までの6年の間に総量約16000トン以上、当時の金額にして400億円に相当する物資が日本に贈られた。
数にして1400万人がその恩恵にあずかった。その第一号はハワード・スタンズペリー号で1946年11月30日に横浜新港埠頭に着岸する。
「敵性国民」として強制収容されていた日本人・日系人たちが、祖国への支援物資を送る為に奔走して『ララ物資』は実現したのだが、当時のGHQは、この事実を日本人には隠していたのである。
1946年11月30日付の読売新聞にはララ物資について「米國のアジア救済機関から日本の困窮者におくる寄贈品」という記述があり、日系人から寄贈品である事は全く触れられていない。
GHQは救援物資の輸入を認めるものの、「ララ代表」は日本における行動に関してはGHQの管轄下に入り、その指令のみに従っていたのである。
すなわちGHQの強い統制下で、ララは活動をしたのであった。
ただし、GHQによる統制は、1949年10月20日付けのGHQの日本政府宛の「覚書」によって、1950年4月1日以降大幅に緩和された。
ところで、日本の給食が始まったのは明治時代の1889年で、試行的な取り組みとして行われていたものが1941年に全国に広まる。
しかし大東亜戦争による食糧不足のため学校給食は中止となっていた。
戦後になって1946年12月24日、ララからの給食用物資(脱脂粉乳や缶詰など)を使った試験的な学校給食が開始され、翌年1月に全国の児童300万人に対して行われるようになったた。
つまり、ララによって学校給食始まったというわけではなく、いち早く「再開」できたということだ。
さて終戦後、日本も食糧増産計画をたてその実現の為に開墾や干拓をやってきた。ところがからGHQから思わぬ提案がなされた。
これからは食糧増産よりもアメリカの余剰産物を買いなさい、売った分のお金はそっくり返してあげるからそれで軍備を整えなさいというものであった。
日本政府にとってそれはけして悪い話ではなく、むしろ歓迎すべき話であった。
日本政府はこの提案(相互安全保障法=MSA協定)をそのまま受けいれ、農作物購入の返還金で自前の防衛力を整備し、1954年7月に陸・海・空の三軍による「自衛隊」が発足した。
見過ごされがちだが、同年「学校給食法」が制定され、パン食を導入し、アメリカの小麦や粉ミルクを消費するようになった。
我々の世代が、鼻をつまんで一気飲みした脱脂粉乳や、皮が嫌いで中身だけくりぬいて食べたコッペパンなど学校給食の思い出は、実はアメリカの「占領政策の転換」と結びついていたのである。
結局、「MSA協定」をもって日本は食糧と軍備の悩みから解放されたといってもいい。
終戦後の占領政策で日本の軍事的無力化を狙ってきたアメリカだが、朝鮮戦争勃発の1950年を境として「再軍備」をすすめた。
それと並行して、アメリカの余剰食糧を買ってもらうために、学校給食を通じて日本人の「胃腸の再編」までも狙ったのではあるまいか。
さて、横浜新埠頭に立つ「ララ物資の碑」には、1949年10月19日に香淳(こうじゅん)
皇后が、 昭和天皇 と共に横浜市 に行幸した際に詠んだ歌二首が記されている。
「ララの品 つまれたる見て とつ国の あつき心に 涙こぼしつ」。
「あたゝかき とつ国人の 心つくし ゆめなわすれそ 時はへぬとも」。
1929年の世界大恐慌は農村経済に大打撃を与え、一家離散や娘の身売りなどが相次ぎ、2・26事件で青年将校が決起する一因となった。
そこで国としても農村の支援策を迫られ、農村の助け合いをベースとした「公的医療保険制度」の創設を企図する。
だがこれは世界的にも例を見ない制度であり、「果たしてうまくいくのか」と不安視する向きが多く、財政当局の理解も得られなかった。
そこで、内務省は「(注:国保が)農村社会の本来の性質に適合しているならば、既にこの種の事業を行っているところが存在するにちがいない」という仮説の下、医療問題に取り組む地域独自の動きがないか全国各地を調査した。
すると九州地方の「定礼」(じょうれい)という取組が存在した。これは地元住民が医師確保のために資金を出し合う取り組みであり、古くは江戸期までさかのぼることが分かった。
福岡県福津市に、「定礼」に由来した国保発祥地の石碑がある。
鹿児島本線のJR東福間に近い手光(てびか))に、「定礼(じょうさつ)公園」である。
その公園こそは、現代の「国民皆保険制度」の手本となった「相互扶助」の仕組みを、地域の先人たちが江戸時代に作っていたことを示すものである。
江戸時代には、宗像地区(福津市や宗像市)の農民は、凶作が続くと医者にお金が払えなくなり、医者もそのような農民からお金をもらうのに困っていた。
そこで、農民たちは話し合いをして、医者にかかってもかからなくても、収入に応じた米を医者に渡し、きがねなく治療を受けられるようした。
このことを、宗像では「定礼」(常礼)(じょうれい)といっていた。
そのような中、1899年に無医村であった神興(じんごう)村の手光(てびか)地区と津丸地区の人々は、お金を出し合って両地区の中間である通り堂に「神興(じんこう)共立医院」を建てたのである。
そして、その跡地が現在の「定礼公園」がある。
1935年頃、内務省社会局(現厚生労働省)は、当時の悲惨な農村の状況を見て、健康保険制度の検討を開始した。
そして、「常礼」の発達している宗像の情報を得て調査することを思い立ち、神興共立医院に調査官を派遣した。
貧富の差に応じて玄米を納めることにより、1年間無料で治療を受けられるという命を守る制度がつくられ、村人はこれにより救われた。
この「定礼の医師」となった安永喜四郎・安永桂の父子は、献身的に地域医療につくされた。
「定礼」の意味は、医者にかかってもかからなくても、経済力に応じて医者に定まった額の謝礼(常礼)をするという意味である。
そこには、常々、お世話になっている医者に礼を欠かしてはならないという意味も含む。
各戸が米を出し合い、年2回、地域のかかりつけ医への謝礼に充てる。その代わり、病気やけがの際は無料で診てもらえるという仕組みだ。
単に医療保障だけでなく、各戸が出す米の多寡は資力に応じていたこと。
定礼は村人どうしの「相互扶助」というだけではなく、医師の「生活保障」という面もあったと考えられる。
調査官は、農村医療が理想的に運営されている実態を見てこれを手本として、1938年の世界にも前例のない「国民健康保険制度」が誕生したのである。
この制度は、江戸時代から綿々と続き、第二次世界大戦末期までに、宗像の約60の大字(おおあざ)の内の38の大字と大島村で運営されていて、神興共立医院もそのひとつであった。
社会の高齢化が進み、国民健康保険の存続が危ぶまれている現代、貧しい時代に生まれた助け合いの精神の原点を伝えているようだ。
さて、もうひとつ埼玉県越谷市役所の一角に、「相扶共済」と記した石碑が建っている。
この四文字は「相互に助け合い、力を合わせること」という意味であり、現在の国保法では使われていないが、1938年に制定された最初の国保法に使われていた文言である。
そして、この石碑は「国保発足10周年を期して1948年に建てられ、「国保発祥の地」の一つであることを示している。
福岡県福津市には遅れるものの、埼玉県越谷市(旧越ヶ谷町)でも独自の取り組みが進んでいた。
地元有志が「越ヶ谷順正会」という組織を発足させ、資金を出し合うことで医療費の軽減など地域の医療問題を解決しようとしていたのである。
そこで内務省は、「どうしても我々の案による実例を示したい」と順正会を支援・育成を図ることにした。
もっとも内務省が注目したのは越谷に限らなかった。国保発祥地の石碑が山形県戸沢村(旧角川村)にもある通り、順正会や角川村の組合など12事業をモデル事業に指定したのである。
そして、こうした各地の事例や成功例は内務省にとって心強い存在となり、最初の国保法が1938年に成立したのである。
その後、いったん戦局の悪化と敗戦で崩壊状態になったが、1948年に新しい国保法が制定され、1958年の国保法改正で1961年からの「国民皆保険」が実現するに至った。
1980年代以降は国の財政も悪化し、国の財政支援が疾病のリスクをシェアするという国保の本質は変わらない。
根底にある精神は「地域で相互に助け合い、力を合わせること」。つまり「相扶共済」であり、地域医療構想や地域包括ケア、地域共生社会など「地域」の名前を冠した様々な政策が進んでいる現在も十分に通じる考え方である。
地域発の「相扶共済」から始まった国保の歴史を振り返ることは今後の医療・介護を考える上で一つの示唆を与えてくれるのではなかろうか。
「日本国憲法25条」の生存権の実質的意味が問われた「朝日訴訟」がある。
岡山県早島町の旧国立岡山療養所(国立病院機構南岡山医療センター)の麓に「人間裁判」の石碑がある。
副碑が二基あり、左側は朝日訴訟の「経過」が記録され、右側では裁判の「」意義が示されている。
この朝日訴訟の「歴史的背景」をいうと、溯ること3年、1954年に「防衛庁」が設置され、社会保障予算がほぼ半減さた。
結核療養中の患者の6割が病院から追い出されることになり、診療報酬はマイナス改定され、医師の自殺が相次いだ。
この事態を何とかしたいと、医師約80人が「予算復活」を求めて日々谷公園座り込みを開始した。
8日間続くことになる医師の座り込みを支援したのは、テントや鍋釜を下げて駆けつけた「労働者」達であった。
その座り込み開始の2日後、朝日茂さんなど500人の患者さんが県庁へ陳情に行き、知事室前で10時間も座り込みをする事態となった。
やがて東京では2300人の「患者」達が都庁で3日間座り込んだ。
このような国民の「抗議行動」が繰り返し行われたにもかかわらず、社会保障予算は増やされなかったのである。
ところで朝日茂さんは、重度の肺結核患者で、国立岡山療養所に入所し、退職金も使い果たし、1956年当時「生活保護」の医療扶助と月額600円の入院患者日用品費の支給を受けてた。
その朝日さんに実兄が見つかったという朗報が届き、月額1500円の仕送りが届くようになった。
しかし、津山福祉事務所は、それまで支給していた600円の生活扶助を打ち切り、さらに医療費の一部負担900円を負担させるというあまりに無情な「保護変更決定」を行ったのである。
月額600円という基準の中身は、「肌着2年に1枚、パンツ1年に1枚、ちり紙1日1枚半」といったものであった。
朝日茂さんは、仕送りの中からせめて1000円残してほしいと、生活保護基準に基づく処分は「憲法25条」に反するものだと提訴した。
この訴えに対し、1960年東京地方裁判所が「憲法25条1項は、単に自由権的人権の保障のみに止まらず、国家権力の積極的な施策に基づき国民に対し、”人間に値する生存”を保障しようといういわゆる生存権的基本的人権の保障に関して規定したものである」という画期的判決が出されたのである。
しかし、国側の控訴によって朝日さんは引き続き戦うことを余儀なくされたが、病状は悪化、危篤が伝えられるようになった。
そこで、この「訴訟」の成果を守り発展させるため、争訟運動を続けたいという声が大きくなり、やがて日本患者同盟の常任幹事となっていた人物が、朝日茂さんと「夫婦養子縁組」をし、訴訟上告審を「承継」したのである。
この朝日健二さんが、岡山県津山市の戸籍係で「養子縁組」の届出を終えたのは、朝日茂さんが「永眠」するわずか1時間前であったという。
国立岡山療養所の講堂で開かれた「告別集会」はそのまま決起集会となった。
その3年後、最高裁は国の生活保護基準は、厚生大臣の裁量権に属するものとし、「承継」を認めないとする判決(原告不適格)を出し、裁判は終結した。
その一方で、生活保護基準は朝日訴訟一審勝訴をきっかけに、その翌年から数年連続して引き上げられた。
最高裁判所では憲法25条は「プログラム規定」にすぎない、つまり「政府の方針」の方向性を示すものにすぎないとして、処分の「違憲性」については勝訴することはできなかった。
しかし実質的な意味での成果は得ることができ、個人の訴えが国を動かた意味は、とても大きいといえる。
「人間裁判」左側の碑文には、朝日訴訟の「意義」につき、次のように書いてある。
「朝日茂のたたかい。健康で文化的な最低生活の保障・人間が人間らしく生きる権利を要求したたたかい。この一点の火花は燎原の火のようにもえひろがり十年にわたる人間裁判・朝日訴訟は日本人民の生存権をまもるたたかいの前進に大きく貢献した。ここに故人の偉業と朝日訴訟のたたかいを永遠に記念して発祥の地早島町にこの碑を建立する。これはまた生命をまもり平和で豊かな生活をねがう明日へのたたかいの炬火である」。