1951年 サンフランシスコ平和条約の調印式においては、ソ連などが参加せず、全面講和とはいかなかった。
日本側で署名したのは吉田ひとり、国民は朝鮮戦争の特需にわき、安保条約への関心は薄かった。
吉田を引き継いだ岸信介は、旧安保では米軍が占領しているのと変わらぬ状態であるとして、安保改定をめざした。
日本が米軍に基地を提供するのに、米軍には日本の防衛義務はない「片務的内容」であったからだ。
岸はアメリカが日本を守る義務を負い、日本も基地を攻撃されたら米軍を守るという「双務的」な条約にすることを自分の政治生命とした。
日米が対等に日本の防衛義務をもつという考えかた自体は悪くなさそうだが、岸首相は東条内閣の商工大臣でA級戦犯だった。にもかかわらず不起訴となり7年で総理大臣となったことに、国民は疑いの目をむけていた。
「安保改定」にいちやはく反対したのは全日本学生自治会総連合(全学連)だった。
全学連には圧倒的な存在感のある人物がいた。北海道大学2年生の唐牛健太郎(かろうじけんたろう)である。
唐牛健太郎は1937年2月、函館市湯の川町で生まれた。父親は海産物商の小幡鑑三、母親は函館芸者の唐牛きよ。庶子だった。
父親は唐牛が8歳のとき亡くなっている。母親は戦後、郵便局に勤め、ひとりで息子を育てた。
湯川中学校を卒業し、函館東高校に進学した。中学の同級生によると「性格がすごく明るくて、勉強もできて友達も選ばない」クラスの人気者だったという。
ところが、高校にはいると、とつぜん不良になる。自分の出自について思い悩んだようだ。生徒会会長の立候補演説で「私は私生児だ」と言い放って、それがたたったのか、落選した。
1956年に北海道大学教養部に入学するも、その年の夏、北大を休学し上京、半年ほど東京に滞在し、深川の印刷工場などで働きながら、在日米軍立川飛行場の拡張に反対する住民運動「砂川闘争」に参加した。
それが学生運動にのめり込むきっかけとなった。
だが、この砂川闘争をきっかけに全学連は日共系と反日共系に分裂する。1958年12月に「共産主義者同盟(ブント)」が結成されると、ブントが全学連主流派を引っぱっていくことになる。
唐牛は、深川の印刷工場が倒産したため、57年4月に北大に復学した。その時、かれは自治会の役員になるとともに、日本共産党に入党している。
この頃、運動と同じく熱をあげたのが、文芸部に所属する津坂和子との恋愛であった。
唐牛は57年10月に北大教養部の自治会委員長、翌年6月に道学連委員長となり、学生運動を引っぱっていく。
石原裕次郎のような長身で、ナイスガイであった唐牛は注目の的だった。そればかりか、飾らない性格と人懐っこさで誰からも好かれる男だった。
そして12月ブントの結成に参加し、中央執行委員となる。
この時ブントの書記長は、東大医学部の島成郎だが、この島が59年5月に札幌を訪れ、唐牛に全学連委員長就任を要請した。
唐牛はこの要請に応じ、弱冠22歳で「全学連委員長」になった。
北大出身という経歴は異色だったが、島夫人が「日本共産党に反旗を翻した全学連のトップは新鮮なイメージじゃないといけない。東大、京大、早大のなかで模索していたようだけど、本当は唐牛さんのような人がいいのに」と呟いたことがきっかけだったという。
60年1月16日、唐牛率いる全学連700人が、羽田空港ロビーを占拠した。新安保条約調印のためアメリカに向かう岸を阻止するためだった。
空港内のレストランにバリケードを築き立てこもった。機動隊が羽田にかけつけた。深夜、機動隊は学生たちの排除に乗り出す。封鎖を突破し、唐牛はじめ76人が逮捕された。
1960年、アメリカで岸は新安保条約に調印した。その後、国会の承認を経て条約は発効するはこびであった。
しかし国会は紛糾した。野党が特に追及したのは在日米軍の軍事行動の範囲であった。
4月26日、総評を中心とする「国民会議」が、いつものように安保反対のデモをおこなった。全学連は、6000人を国会前に集結させた。先頭に立ったのは委員長の唐牛であった。
2か月前に釈放された唐牛は、バリケードとして並べられた装甲車に飛び乗り学生たちによびかけた。
「諸君!自民党の背後には一握りの資本家がいるに過ぎない。しかし、我々の背後には安保改定に反対する数百万の学生、労働者がいる。装甲車の後ろには警官隊たちによって辛うじて埋められた真空があるだけである。恐れることは何もない。装甲車を乗り越えて国会に突入しよう!」。
これがきっかけで、学生たちが警官たちの渦の中に突入した。この一件で唐牛は逮捕される。
それに対して岸は審議を打ち切り強行採決に踏みきろうとしたため、社会党は本会議を阻止しようと狭い廊下に議員団を動員した。
午後11時ごろ、院内に警察官500人を導入、怒号と歓声の中で社会党議員のごぼう抜きが行われた。
そういう非常手段をつかって新安保条約は採決された。参議院で否決されても、30日で「自然承認」されることになるからだ。
国民の怒りが沸騰し、国会の場で警察力をつかったことが、国民は民主主義の破壊だと叫んだ。国会を解散に追い込んで、安保条約を審議未了に終わらせることを目論んだ。
俳優グループも医者も商店街のおやじさんも主婦も高校生までも合流し、国会にむけて行進した。
岸退陣を求めて全国560万人がストを決行した。世論はこの政治ストに対して理解を示し、予想された通勤客とのいざこざは起きなかった。国民の怒りの矛先は岸だった。
デモの中心は全学連の学生で、唐牛は警察に拘留されており、その場にはいなかった。
6月15日午後5時半、学生たちが国会突入を試みた。全学連に立ち向かったのは、鬼と恐れられた「第四機動隊」だった。
この時、真近でみていた記者の「警官隊のものすごい暴力です」という音声が残っている。人殺し、血流、怒号の中、東京大学文学部4年樺美智子が圧死した。
かつて唐牛と共に羽田空港にたてこもったこともあったが、警官隊とデモ隊が衝突し、樺美智子が死亡したときには、現場に居合わせなかった。
父親の中央大学教授の樺俊雄は、「美智子は常に、唐牛君は優れた指導者だといっていただけに、彼が当日デモの指導にあたっていなかったことが、あとから色々と思われてならない」と述べている。
6月18日、樺美智子の写真を掲げて反対をした。一方、岸は、安保改定が実現すればたとえ殺されてもかまわないと腹をきめていた。
6月19日に、新日米安保条約が「自然承認」された。その4日後に、岸は「国民に騒擾を招いた責任」をとって辞任した。
その後、運動は急速にしぼみ、ブントは7月に事実上、解散する。
当時、テレビ局永六輔が、安保闘争で帰る道すがらの無残な気持ちから、「上を向いて歩こう」が生まれた。この曲が「SUKIYAKI」というタイトルで世界的にヒットする。
さて11月に保釈された唐牛は、一時期、革命的共産主義者同盟(革共同)全国委員会に加わった。のちに中核や革マルとなる組織である。
恋人の津坂和子とはこのころ結婚しているが、1年半ばかりで革共同を脱退している。
唐牛は人間的で情に厚い人物で、革共同のような理論型の革命組織とは、まるで肌が合わなかったのだろう。本人も失敗だったと認めている。
結局、北大は、教養部在籍期間を超えたため除籍、11月に保釈されて、翌年の7月に全学連委員長を辞任。それからまもなく、学生運動から身を引いた。1963年7月、東京高裁で懲役10カ月の実刑が確定。上告することなく服役した。
岸を引き継いだ池田勇人は「所得倍増計画」をうちだし、世は高度経済成長の時代にはいった。
次に佐藤栄作が首相に就任して3か月後ベトナム戦争が始まった。
60年から10年を経て安保条約の更新の時期がきた。70年安保闘争に参加したのは、ヘルメット・ゲバ棒で武装した戦後生まれのベビーブーム世界だった。
最も激しい暴動が新宿駅で起きた。学生(新左翼)が米軍の燃料タンク車を運ぶ列車を阻止しようと集まった。
そこに機動隊との戦いが起き、一般市民も加り暴動になった。
行きつけの喫茶店に逃げ込んだり、「新宿ゴールデン街」の迷路も幾分逃走の役立ったが、700人もの学生が逮捕された。
また、東大では安田講堂で機動隊と対峙した。構内では勢力争いが起き内ゲバも起きるようになる。学生の母親たちは、キャラメルをくばり、投降するように訴えた。
大学の要請をうけ、機動隊と学生が火炎瓶と催涙ガスの応酬となった。
機動隊が安田講堂になだれ込み370人全員が逮捕された。
70年安保はデモはあったのも、60年安保のような大きなうねりとならなかった。急速に熱がさめ、潮がひくよう終わりを迎え、学生たちは現実的となり、企業戦士となってなっていった。
なまじ学生運動の経験があるだけに声は大きく駆け引きもできる。
松任谷由美の「いちご白書をもういちど」の歌詞は、
いわば学生の敗北宣言だった。♪就職がきまって、髪をきった時、もう若くないさと、君にいいわけしたね♪
これまで否定してきた現実を肯定するために自分が「現実的」であることをことさらに正当化せざるをえなかった。
その一方で「新左翼」の一部は過激化し、「あさま山荘事件」から凄惨な学生同士のリンチ事件が発覚した。12人の遺体が発見された。
内ゲバで有為の若者が数多くなくなったことも、社会に暗い影を落とした。ユートピアへのロマンティシズムは消え去った。
ノンフィクション作家・佐野真一の「唐牛伝~敗者の戦後漂流」は、そのタイトルどおり、「それからの東牛健太郎」に焦点をあてていた。
唐牛には、いつも行動を共にした篠原浩一郎という朋友がいた。
なにしろ、唐牛の新婚旅行に同行するほどであった。
篠原は中国の大連に生まれ、福岡県久留米市で育った。九州大学在学中に学生運動に入り込んでいった。
篠原は福岡でヨットセーリングをしており、その関係で太平洋を単独横断した堀江謙一と知り合いであった。その関係で篠原は、唐牛を堀江に紹介した。
唐牛は1965年2月、堀江と手を組んでヨット会社「堀江マリン」を設立する。事務所は東京・新橋に開設していたほか、江ノ島でバッティングセンターを経営していたこともあった。
しかし翌年春に唐牛は、「ヨットスウクールの校長なんかにあきあきした」と姿をくらまし、妻とは離婚した。
唐牛の生き方と、かつての革命仲間の妻との間には、価値観のずれが蓄積していたようだ。
唐牛は1968年1月には新橋に居酒屋「石狩」をオープンした。築地の本社には父・小幡鑑三の実子がいて、「石狩」に出入りしていたという。
「石狩」の常連だった映像作家の阿部博久に勧誘され、トド撃ち名人の渋田一幸に弟子入りするため、北海道・紋別に出向いた。
1971年2月には本格的な漁師となるため、「トド撃ち」で縁のできた紋別に居を定め、約10年間もの長きに渡って滞在している。
その時の映像が残っているが、人懐っこくも、どこか諦めたような表情は、「英雄」とよばれたあのころと少しも変っていなかった。
しかし1977年3月11日にソ連が一方的に200海里宣言を通告し、紋別で唐牛が乗り込んでいた船が減船の対象となったことも影響し、翌年9月に41歳で漁師を廃業した。
全学連の中央委員になった学生達は後に高名な学者や評論家になった者が多い。しかし、唐牛は唯一の例外であった。
なぜ唐牛は漂流するように生きていったのだろうか。
それは、かの全学連委員長が大学教授とかあ大企業のサラリーマンとか、ちゃんとした商売についてはならない。こういう脅迫が安保世代の意識下でたえず唐牛にむけて発せられていた。
唐牛はその後、市川市に移住しオフィスコンピュータのセールスマンとなり、売り込みの時に知り合った徳田虎雄と出会い、医療法人徳洲会グループの活動に参加し、喜界島で徳田の選挙参謀となった。
学生運動から引退後、唐牛健太郎は南の果ての島から、オホーツク海沿岸の寂れた漁師町まで日本全国を放浪したことになる。
そんな唐牛の人生の中で、しばしば非難されるのが、右翼のフィクサー田中清玄との関わりである。
二人の接点はどこにあったのか。前述のとおり、安保条約調印のために渡米する岸首相を阻止しようとした際、76名も逮捕された。
保釈金1人1万円としても最低76万円が必要だった。その時、戦前の日本共産党中央委員長であった田中清玄が支援金を出してくれた。
その後、田中清玄は右翼に転じフクサーとよばれる存在となるのだが、唐牛とは同郷の函館出身で、唐牛という若者に自分を重ねたのか、大のお気に入りだったようだ。
なお徳田の選挙参謀となった唐牛であったが、1983年12月の衆議院選挙において徳田は奄美群島選挙区から出馬するも僅差で敗れた。
そんな唐牛の身体には直腸がんが発覚し、退院後は市ヶ谷の自宅に戻ったが、再び喜界島に渡った際に再発が判明した。
そして1984年3月4日「瞼の父」小幡鑑三と同じ47歳で亡くなった。
唐牛の通夜は東京・中野の宝仙寺で行われ、旧知の島や西部邁、田中や徳田など唐牛と晩年に交流があった人物を中心に姿を見せていた。
本葬には紋別から喜界島まで全国から弔問客が集まり、祭壇には紋別の漁師が寄せ書きした大漁旗が飾られていた。
また、藤本敏夫が唐牛と交流のあった関係で、藤本の妻である加藤登紀子が「知床旅情」を歌った。
さて、函館市街を一望する高台に不思議な糸で結ばれた三人の墓がある。唐牛健太郎、その父小幡鑑三(称名寺)田中清玄(高龍寺)である。
「糸」といえば、2000年1月21日、評論家・西部邁(にしべすすむ)が多摩川で入水自殺したことは衝撃的であった。作家の佐野真一は、西部の自死を聞いて、ある女性の死が頭をよぎったという。
唐牛が京都で出会い再婚した相手の真喜子である。その頃、唐牛に近づいてくる者といえば、「英雄の末路」に好奇の目をむける者ばかりで、真喜子の存在が心の支えだったようだ。
まつて佐野が「全学連で一番親しかったのは誰ですか?」と聞いた時、真喜子は間髪容れず、「西部邁」の名をあげた。
西部がに出した「ソシオエコノミクス」(1975年刊)に、「オホーツクの漁師唐牛健太郎氏に」という献辞を捧げていたが、誰のことかと思う人も多かったであろう。
佐野によれば、真喜子は、唐牛健太郎が他界するまで、それ以上に死後も「唐牛の名誉」を陰日向なく支えてきて、唐牛と同じ直腸癌が発覚。抗ガン剤も延命治療も一切拒否してきたという。
2017年11月22日、真喜子は東京慈恵医大病院で息を引き取った。60年安保闘争を「空虚な祭典」と称した西部邁は、その2か月後の2018年1月21日に多摩川に入水する。