聖書の言葉(世が与える平安とは異なる)
キリスト教の使徒パウロは、もともとは律法に精通したユダヤ人の指導者で、「サウロ」と呼ばれていた。
キリストの死と復活の後に、彼はキリストの教会を全滅させようと全力を尽くし、初めての殉教者ステパノの処刑にさえも関わっていた。
ところが、クリスチャンを見つけて牢に入れるためにダマスコに行く途中、突然一時的に視力を失うほどの強烈な光を受け、神に出会う。
この体験の後、パウロは自分が回心し信者になった ことを、ユダヤ人にもクリスチャンに示そうとした。
しかし多くの人は彼を疑い、彼を避けようとしたため、バルナバなどが間に入って彼を弁護したことにより、クリスチャンの仲間に加えられ、名前も「パウロ」と称するようになる。
新約聖書「使徒行伝」は、パウロが小アジアとギリシア・ローマに3回にわたって伝道旅行を行ったことを記録している。
第1回の伝道旅行(使徒行伝13~14章)で、パウロとバルナバが、訪れた町々のユダヤ教会堂で説教するというかたちで伝道を行った。
しかし、多くのユダヤ人がキリストを拒んだので、「異邦人に福音を語れ」という導きに従って伝道を行うようになる。
「福音」つまり救いのメッセージを拒んだ人たちは、パウロの伝道を妨害したばかりか、殺人計画までするようになる。
第2回の伝道旅行(使徒伝15~18章)でパウロは再びバルナバに同行を願ったが、意見の相違が起こり、二手に分かれて伝道に行くことになった。
しかし、神の目から見てこの分裂は御心にかなうことであった。
バルナバはマルコとともにキプロス島へ、パウロはシラスと共に小アジアへ行った。
パウロとシラスはその後ギリシャへと向かい、ヨーロッパに福音が伝わることになる。
しかしパウロとシラスはピリピの地で拘束され、投獄されることになった。
二人はキリストのために苦しみに会ったことを喜んで、牢獄の中で賛美の歌を歌っていた。
すると神は突然に地震を起こして牢の戸を開け、彼らを鎖から解放した。
囚人が逃げたと勘違いし自害しようとした看守とその一家は福音を受け入れたが、他の役人たちは彼らに町から出ていくようにすすめた。
その後パウロはギリシアのアテナイを訪れるが、パウロは市内に偶像がおびただしくあるのを見て心に憤りをおぼえた。
そして、広場で毎日出会う人々を相手に論じあった。
パウロがイエスとその復活とを宣べ伝えたところ、彼らはパウロをアレオパゴスの評議所に連れて行き、「君の語っている新しい教がどんなものか、知らせてもらえまいか。君がなんだか珍らしいことをわれわれに聞かせているので、それがなんの事なのか知りたいと」と語った。
当時、アテネ人もそこに滞在している外国人も皆、何か耳新しいことを話したり聞いたりすることに、時間を費やしていたのである。
聖書には、パウロが論じ合った人々の中にストア派やエピクロス派の哲学者がいたことも記載されている。
世界史の教科書では、「ストア派=禁欲主義」「エピクロスア派=快楽主義」と対比して書いてあるが、彼らが目指していたものは、そう異なるものではない。
ひと言でいえば「心の平安」である。
エピクロスは、「万物の根源は原子である」といいきったデモクリトスの系列に属する人であったようだ。つま唯物論者であるということ。したがって彼らが、パウロのいう「復活」の話を受け入れなくとも当然といえば当然である。
エピクロスによると人の心には、現世の享楽をもとめるパトスがあり、それによって心が乱される。
そこでエピクロスはそういうパトスに精神がかき乱される機会を断ちなさいと教えた。
つまり、エピクロスのいう「快楽」とは、身体的に苦痛を感じることがなく、精神的に不安がない静かな状態でいることである。
そのように「心が乱されていない静穏な状態」をエピクロス派の哲学では「アタラクシア」とよんだ。
日本語でいえば「心の平静」ぐらいの意味だろう。
その結果、エピクロスが推奨する生き方が「隠れて生きよ」ということである。
エピクロスはそれを実践するために、アテナイ郊外に「庭園学園(エピクロスの園)」を創設する。
エピクロスはその学園で教えた子たちと一緒に、質素で禁欲的な快楽生活(?)を送り、生涯を終える。
彼の教えは広範な弟子たちが忠実に受け継いで、紀元前1世紀にはローマで興隆期を迎えるが、その後は衰え5世紀には消滅したと伝えられている。
後世においてエピクロスの快楽主義が誤解されて、美食・美酒・美女に囲まれて人生を謳歌する「エピキュリアン」という言葉が生まれたが、とんでもない誤用である。
一方、「ストア派」の創始者はゼノンである。ゼノンはフェニキア人で商業に従事していたが、たまたま「ソクラテスの思い出」という書物に出会い、感化を受けて哲学の道に進んだといわれている。
そのうちゼノンは自分の思想を確立させてアゴラ(広場)で講義するようになり、彼が講義した柱廊が「ストア・ボイキレ」とよばれていたことから「ストア派」とよばれるようになったのである。
ストア派もエピクロス派と同じように「心の平静」を求めたが、その平静は「アタラクシア」ではなく、「アパティア」とよばれるものであった。
それでは「アタラクシア」と「アパティア」はどのように違うのであろうか。
簡単にいうとエピクロス派はパトスから遠ざかることで精神的な平安を得ようとしたのだが、ストア派は「徳」を追及した結果としてえられるパトスに左右されない心の状態を「アパティア」とよんだのである。
自然には山川水木などによって構成される自然と、そのような自然を含めて人間そのものや人間的事象を含めて「自然」とよぶことがある。
ストア派は万物を動かす根源にある「自然の理法」と矛盾なく合致する人間の性向こそが「善」ととらえ、それに反するものを「悪」ととらえたのである。
人間は自然によって「ロゴス(理性)」を与えられているので、誰でも意識的に「徳」を追及することが可能だと考えた。
ストアの考え方は、人間はみな等しく自然の秩序の中に生きていると考えたので、おのずから「コスモポリタン」の思想に連なっていく。
ただ徳を実践するとなるとそれなりに強い意志が必要になり、ローマが帝政になると、次第にストア派の哲学は多くのリーダー達の哲学として心をとらえるようになる。
その代表者が今も読み継がれる「自省録」を書いたマルクス・アウレリアス帝である。
つまり、エピクロス派が社会的弱者にとっての救いであったのに対して、ストア派は社会の上層階級に受け入れていくのである。
パウロは後にローマへの伝道を果すが、ローマでつくられたイエス・キリストの像は、ギリシア神話の「ゼウス」から借りてきたものなのである。
よくよく考えれば、アテナイにおけるパウロとギリシア哲学者の出会いは、ヘレニズム(ギリシア思想)とヘブライズム(ユダヤ教)の出会いで、ヨーロッパのキリスト教は両者の融合形態ということがいえる。
しかしパウロはそれらが結びつくことを、よい事とは思わなったであろうことが推測できる。
それは、パウロが前述のアレオパゴスの評議所で語った内容でもわかる。
「アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう」と前置きしたうえで、次のようなことを述べている。
「この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない」。
また「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる」。
さらには、「神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、イエスを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」と語った。
ところがアテナイの人々は、パウロが語った「死人の蘇り」のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、またある者たちは、「いずれまた聞くことにする」と言って去っていった。
後にパウロが、小アジアの信徒にあてた手紙をみると、クリスチャンが得る心の平安が、ギリシア哲学者が追及した「心の平安」とは次元が異なるものであることがわかる。
パウロは、「聖書に書いてあるとおり、目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、 人の心に思い浮びもしなかったことを、 神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」 と前置きした上で、次のように語っている。
「いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
ところが、わたしたちが受けたのは、”この世の霊”ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない」(コリント人第一の手紙2章)。
このパウロの言葉は、十字架を前にしてイエスが弟子たち語った言葉とよく合致している。
イエスは「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、”世が与えるようなもの”とは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」と語った(ヨハネの福音書14章)。
パウロは第三回の伝道旅行でローマに行くことになるが、それはアテネ行きとは全く異なる様相を呈した。
パウロは二回目の伝道旅行を終えた後に、律法に従って供え物を捧げるためにエルサレムの神殿にやってきた。
それを見たユダヤ人たちが「パウロは異邦人を神殿の中庭に連れ込んだ」と誤解して騒ぎ立て、町中を巻き込む大騒動に発展した。
エルサレムには支配者であるローマの治安部隊が常駐しており、騒動を聞きつけたローマ軍の千人隊長が暴徒たちからパウロを引き出し、騒動の原因を探るために「ユダヤ人の議会」を招集してパウロの審議をさせた。
しかし議会でも混乱は収まりそうになく、ローマの千人隊長はパウロを強制的に連れ出して直ちにローマ総督のいるカイザリヤに移送した。
総督ペリクスの前で、エルサレムからやってきた「大祭司」たちを前にして、裁判が開かれた。
ペリクスは、彼らの訴えに根拠がないことに気づいたが、無罪判決を下すと大祭司たちを怒らせ、騒動が起こる可能性があった。
そこで、ペリクスは、裁判を未決のまま延期し、パウロを2年間も牢に入れておいたままにしていた。
二年後、総督ペリクスは解任され、代わりにフェストが総督になるや、ユダヤ議会の面々がやってきて、自分たちの有利になるようにパウロの裁判をエルサレムで行うために、パウロをエルサレムに呼び寄せていただきたいと願い出た。
彼らは、パウロがエルサレムに連れてこられる途中で待ち伏せして殺害する計画を企てていたのである。
エルサレムから来たユダヤ人たちはフェストに対し、パウロの重い罪状を申し立てたが、そこに何一つ「証拠」を示すことができなかった。
ここで無罪判決が出てもいいところだが、フェストはユダヤ人の歓心を買おうと、パウロに「あなたはエルサレムに上り、この事件について、私の前で裁判を受けることを願うか」といった。
パウロは、「私はカエサルに上訴します」と答えた。というのもキリキア生まれのパウロは「ローマ市民権」を持っていたので、上訴権を行使することができたのである。
このことによって、ユダヤ人たちの思惑とは反対に、パウロは危険なユダヤ人の「手の届かないところ」へと向かうことになる。
当時、ユダヤのガリラヤ・ペレヤ地方を治めていたのは「アグリッパ王」と名乗ることを許された「親ローマ派」の有力者であった。
フェストはパウロをローマに送るにあたって、どのような訴状を書くべきかわからないので、ユダヤ人の宗教に詳しいアグリッパ王に相談した。
そこでアグリッパ王のもとでパウロは、軍隊の長や市の有力者たちが一堂に会する講堂で、福音を語る機会を与えられた。
この時、パウロは次のように語った。
「ユダヤ人たちは私を殺そうとしていますが、私の宣べ伝えている内容は、ユダヤ人たちが尊敬している預言者たちやモーセが預言したこととまったく同じです。神様が約束してくださったことであり、ユダヤ人たちも先祖代々待ち望んできたことです」と前置きしたうえで、「福音」を語った。
「それは、『キリストが苦しみを受け、死者の中から復活し、光を宣べ伝える』ということです」。
この「死者の中から復活し」というパウロの言葉を聞くと、総督フェストは「気が狂っているぞ。パウロ。博学があなたの気を狂わせている」と叫んだ。
しかし、パウロは、「気は狂っておりません。私は、まじめな真理のことばを話しています」と応答し、「キリストの復活は事実なのです。まことの救い主がおられるのです」と断言した。
さらにパウロはユダヤ人であるアグリッパ王にこう切り出した。
「あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います」。
そして次のようにたたみかけた。「あなたが聖書の預言者を信じているなら、その預言者たちが預言した救い主をなぜ受け入れないのですか」。
するとアグリッパ王は「あなたは、わずかな言葉で、私をキリスト者にしようとしている」と言い返した。
それに対してパウロは「言葉が少なかろうと、多かろうと、私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになってくださることです」と答えた。
結局、アグリッパ王たちはパウロの話を聞いて、パウロに罪はないという結論を出した。
しかし、パウロがカイザル(ローマ皇帝)に「上訴」したため、まだしばらくは囚人のまま拘束されることになった。
関係者は「上訴しなければ自由になれたのに」と訝かったが、これこそパウロが望んでいたことであった。
パウロは兵の護衛付きで、自分で旅費を出すことなく「安全」にローマへの道が開けたのである。
神はパウロに対し、エルサレムでの混乱、暗殺者たちの陰謀、総督たちのユダヤ人への忖度など、一見、不都合に見えるものもすべて用いて、ローマへの道を準備したのである。
かつてパウロとバルナバの意見の対立から伝道が二手に分かれたこともあった。
パウロは信徒への手紙でこう書いている。
「神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」(ローマ人への手紙8章)。
ここでストアのいう「徳」とは、「知恵・勇気・正義・節制」などの徳が、自然に合致した性情だと考えた。
「今わたしは、神がわたしたちの先祖に約束なさった希望をいだいているために、裁判を受けているのであります。
わたしたちの十二の部族は、夜昼、熱心に神に仕えて、その約束を得ようと望んでいるのです。王よ、この希望のために、わたしはユダヤ人から訴えられています。
神が死人をよみがえらせるということが、あなたがたには、どうして信じられないことと思えるのでしょうか」。
そしてパウロは、迫害の手をのばすに至った体験とダマスコで光を受けて改心した体験を語った。
「それから、いたるところの会堂で、しばしば彼らを罰して、無理やりに神をけがす言葉を言わせようとし、(使徒行伝26章)。
「わたしは今日に至るまで神の加護を受け、このように立って、小さい者にも大きい者にもあかしをなし、預言者たちやモーセが、今後起るべきだと語ったことを、そのまま述べてきました。すなわち、キリストが苦難を受けること、また、死人の中から最初によみがえって、この国民と異邦人とに、光を宣べ伝えるに至ることを、あかししたのです」。
パウロがこのように弁明をしていると、フェストは大声で言った、「パウロよ、おまえは気が狂っている。博学が、おまえを狂わせている」。
パウロが言った、「フェスト閣下よ、わたしは気が狂ってはいません。わたしは、まじめな真実の言葉を語っているだけです」。
「アグリッパ王よ、あなたは預言者を信じますか。信じておられると思います」。
アグリッパがパウロに言った、「おまえは少し説いただけで、わたしをクリスチャンにしようとしている」。
パウロが言った、「説くことが少しであろうと、多くであろうと、わたしが神に祈るのは、ただあなただけでなく、きょう、わたしの言葉を聞いた人もみな、わたしのようになって下さることです。このような鎖は別ですが」。
それから、王も総督もベルニケも、また列席の人々も、みな立ちあがった。
退場してから、互に語り合って言った、「あの人は、死や投獄に当るようなことをしてはいない」。
そして、アグリッパがフェストに言った、「あの人は、カイザルに上訴していなかったら、ゆるされたであろうに」。
アグリッパが少ない言葉で語ったことは「復活」についてである。
また状況からわかるように、かつての迫害者パウロが、切々と正反対のことを語っているということだ。
パウロは、理(知)に訴えるだけではなく、人々の霊に訴えるような議論をもしている。
「わたしがあなたがたの所に行った時には、弱くかつ恐れ、ひどく不安であった。そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。
それは、あなたがたの信仰が人の知恵によらないで、神の力によるものとなるためであった。
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
またパウロには、迫害のために獄屋に入れられたが、大地震のために獄屋の扉が開いてしまったエピソードがある。
この出来事の顛末は、「使途行伝」16章に次ぎのように書いてある。
"//獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかとかけておいた。
真夜中ごろ、パウロとシラスとは、神に祈り、さんびを歌いつづけたが、囚人たちは耳をすまして聞きいっていた。
ところが突然、大地震が起って、獄の土台が揺れ動き、戸は全部たちまち開いて、みんなの者の鎖が解けてしまった。
獄吏は目をさまし、獄の戸が開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出したものと思い、つるぎを抜いて自殺しかけた。 そこでパウロは大声をあげて言った、「自害してはいけない。われわれは皆ひとり残らず、ここにいる」。
すると、獄吏は、あかりを手に入れた上、獄に駆け込んできて、おののきながらパウロとシラスの前にひれ伏した。 それから、ふたりを外に連れ出して言った、「先生がた、わたしは救われるために、何をすべきでしょうか」。
ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。
それから、彼とその家族一同とに、神の言(ことば)を語って聞かせた。//"
ここでも、パウロやシラスという囚人によって、獄吏の家族が救われるという、予想外の展開が起きているのである。
特に「詩篇」18篇は、マルチンルター作詞の賛美歌となり、あまりにも有名である。
"// 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐら。 //"。
そして「新約」では、神の導きは、前述のような「御霊の保証」にもとずくものである。
山上の垂訓の三番目の「地を受け継ぐ者」の地とは、
7:28 イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教にひどく驚いた。
7:29 それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
1:16 さて、イエスはガリラヤの海べを歩いて行かれ、シモンとシモンの兄弟アンデレとが、海で網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
1:17 イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
1:18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
1:19 また少し進んで行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。
1:20 そこで、すぐ彼らをお招きになると、父ゼベダイを雇人たちと一緒に舟において、イエスのあとについて行った。
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1:21 それから、彼らはカペナウムに行った。そして安息日にすぐ、イエスは会堂にはいって教えられた。
1:22 人々は、その教に驚いた。律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。
6:1 イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。
6:2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
6:3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
6:4 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。
6:5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
4:1 彼らが人々にこのように語っているあいだに、祭司たち、宮守がしら、サドカイ人たちが近寄ってきて、
4:2 彼らが人々に教を説き、イエス自身に起った死人の復活を宣伝しているのに気をいら立て、
4:3 彼らに手をかけて捕え、はや日が暮れていたので、翌朝まで留置しておいた。
4:4 しかし、彼らの話を聞いた多くの人たちは信じた。そして、その男の数が五千人ほどになった。
4:5 明くる日、役人、長老、律法学者たちが、エルサレムに召集された。
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4:6 大祭司アンナスをはじめ、カヤパ、ヨハネ、アレキサンデル、そのほか大祭司の一族もみな集まった。
4:7 そして、そのまん中に使徒たちを立たせて尋問した、「あなたがたは、いったい、なんの権威、また、だれの名によって、このことをしたのか」。
4:8 その時、ペテロが聖霊に満たされて言った、「民の役人たち、ならびに長老たちよ、
4:9 わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは、病人に対してした良いわざについてであり、この人がどうしていやされたかについてであるなら、
4:10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
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4:11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。
4:13 人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者であることを認め、
4:14 かつ、彼らにいやされた者がそのそばに立っているのを見ては、まったく返す言葉がなかった。
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第3回伝道旅行は、
・ガラテヤ及びフルギヤ地方
・エペソ(雄弁なアポロ登場。キリストを知ってはいたがバプテスマのヨハネの洗礼しか受けていなかったので、キリストの名前で洗礼を受ける。また、人々が伝道され、魔術を行っていた人たちが魔術の本を捨てた。また、アルテミス神殿に関して暴動が起きた。)
・マケドニヤ
・ギリシャ
・トロアス(パウロが長く御言葉を伝えると、ユテコさんが眠ってしまい窓から落ちて死んでしまった!しかし、生き返る。)
・アソス→ミテレネ→キヨス→サモス
・ミレト(パウロの名説教。自分の行程を走り終え、自分の命をも惜しいとは思わない!!)
・コス→ロドス→パタラ→クプロ→ツロ→トレマイ→カイザリヤ(皆がパウロに命が危ないからエルサレムには行かないように言うが、パウロは自分は死をも覚悟していることを告げる。)
こうして、第三回の伝道旅行が終わります。
ベレヤの兄弟たちはパウロをユダヤ人から身を守るために、航路でアテネへ連れていきました。そこでパウロはシラスとテモテを待つことにしました。アテネでも使徒パウロはユダヤ人の会堂(シナゴーグ)ヘ行き、これまでと同様イエスがキリストであることを論じました。
しかし、アテネでパウロはアレオバゴス(議会)で話す機会が与えられました。パウロがそこで異邦人相手に何をどのように語ったのか、それは興味深い問題です。ユダヤ的背景のない異邦人に対して、しかもユダヤ的価値観とは異なるギリシア的価値観の中心的な都市で、福音をどのようにアプローチしたのかに注目したいと思います。
1. 「知られない神に」と刻まれた祭壇
アテネの町が偶像でいっぱいなのを見て、パウロは「心に憤りを感じた」とあります。原文では「彼の霊が彼の中でしきりにいきりたった」という表現になっています。柳生訳はここを「悲しみと怒りに心底から揺さぶられる思いであった」としています。
なぜパウロが偶像を見て「心に憤りを感じた」のでしょうか。それは偶像の背後に働く悪霊たちが、人の心を支配し、人々に恐れを抱かせていたからです。偶像は単なる目に見えるモノではなく、その背後に悪霊たちがいて、偶像を拝む人々の心を支配しているのです。パウロはそのことに聖なる憤りを感じながら、会堂や広場で毎日人々と論じたのでした。そして幸いにも、アレオパゴスという所(議会)で弁明する機会が与えられたのでした。
2. パウロの異邦人向け伝道メッセージ
これまでのパウロのメッセージはユダヤ的背景から、イエスがキリストであることを論証すること主眼としてきました。なぜなら、イエスこそメシア(キリスト)であり、主ともされたことが初代教会の福音であり、この福音が人々を救うものであったからです。しかしここアテネのアレオパデスでは全く異なるアプローチを用いています。
そのアプローチはユダヤ人にも、そして異邦人にも共通のもの、つまり、「死への恐れ」(あるいは「生存と防衛を求める心」)という人間の実存的な心理を背景にしています。それを物語っているのは、多くの偶像の中にあった「知られない神に」と刻まれた祭壇の存在でした。人々が偶像を求める心理的背景には、人々がそれを意識しているかどうかは別として「死への恐れ」があるからです。もし「あなたがたの信じている偶像をすぐに捨てなさい。でなければ、滅びます」というような高飛車な言い方をしたとすれば、おそらく聞く人々の耳は磯のあわびのようにすぐに心を閉ざしたに違いありません。そうではなく、パウロはむしろ彼らに「宗教心にあつい方々だとみております」というほめことばを用いながら(人によっては、最大の皮肉だと理解するかもしれませんが・)、穏健な語り口で語りました。
なぜ、「知られない神」と刻まれた祭壇があったのか、パウロはこれを材料にして、「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と言って話をはじめました。
ここでのパウロの伝道メッセージのポイント以下の通りです。
(1) 創造者としての神(24~26節)
あなたがたが知らずに拝んでいる神は、「天地の主」、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神」であると紹介しました。アテネには「エピクロス派」や「ストア派」といった人々がいました。「エピクロス派」は無神論者であり、「ストア派」は汎神論者でした。ですから、この世界を造ったひとりの天地の主(単数)だという教えは、彼らにとって全く新しい教えだったのです。
(2) 人間にいのちを与えた神
天地の主は、すべての人間を造られた神であるとしました。25節には「神は、すべての人に、いのちと息と万物をお与えになった主」と声明していますが、これは創世記の1章と2章に示されている事柄です。
(3) すべての国民、すべての歴史、すべての地を支配しておられる神
神はひとりの人からすべての国の人々を造り出しただけでなく、地の全面に住まわせ、それぞれの決められた時代と、その住まいの境界とを定めた神であると言っています。これは、神がすべての国民、すべての歴史、すべての地を主権をもって支配しておられることを意味すると同時に、神はすべてのルーツであることを明示しています。それゆえ人が、もし神を求めることでもあるなら、すべてのルーツである神を見出すことができるのだと述べています。しかもこの神は、遠くにおられるのではなく、ひとりひとりの近くにおられるとも語っています。そして、その神の中にすべての人は生き、動き、また存在していること、そして「私たちもその子孫である」と結論づけています。それゆえ、「神を人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけないのだ」とアプローチしています。
ここで重要なことは、この話の根拠を、聖書ではなく、アテネの人々によく知られている詩人のことばを用いていることです。これは、これまでになかったパウロの新しいアプローチです。
(4) 悔い改めを命じている審判者としての神
パウロの伝道メッセージの最後のポイントは、天地を造られた唯一の神は、これまで偶像礼拝する人々の無知の時代を見過ごしてこられましたが、今や、すべての人に対して悔い改めを命じているということです。神はお立てになったひとりの人により、義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからだと説得します。神がこの方を死者の中からよみがえらせることによって、その確証を示されていると語りました。
「死者の復活」のことに話が及んだときに、ある者たちはあざ笑った、他の者たちは「このことについては、また聞くことにしよう」と言ったために、パウロの話は中断してしまいました。パウロは信仰の決断を求めようとしたはずです。しかしそれは保留されたかたちで終わっています。
興味深いことに、パウロはこのメッセージの中で「イエス」という名前についても、最初の人「アダム」という名も使うことなく、また「神の愛や恵み」についてもなにも語っていません。すべてを創造した神がおられること、しかしその神は人間の手で造った偶像を拝んで来た無知をこれまで見逃して来られたものの、今やそれをさばかれる前に、悔い改めるよう神が命じておられるということを語りました。
これまで「死の不安と恐れ」を感じつつ偶像を拝んできたアテネの人々は、このパウロのメッセージを果たしてどうように理解したのでしょうか。またパウロにとって、イスラエルの物語を完全に省いたかたちでの初の異邦人対象のメッセージを、パウロ自身はどう評価したのか、気になる所です。
第3回宣教旅行(使徒伝18:23-20:38)三回目の旅行で、パウロは熱心に小アジアで説教しました。神はパウロのメッセージが神からのものであることを確信させるために、多くの奇蹟を行われました。使徒伝20:7-12は、パウロがトロアスで、非常に長い説教をしたことを述べています。三階の窓のところに座っていた若者が眠ってしまい、窓から落ちてしまいました。彼は死んだものと思われましたが、パウロは、彼を生き返らせたのでした。
一度はオカルトに参加していた新しい信者たちは、エペソで魔術の書を焼いてしまいます。ところが反対に偶像作りの職人たちは、この唯一まことの神と御子のおかげで、商売をなくしてしまって快く思いません。デメトリオという銀細工人は、女神アルテミウスをほめたたえて、町中で暴動を起こしました。パウロにはいつも裁判が付いてまわりました。迫害や反対は、最終的に本物のクリスチャンを強めて 、福音を広めることになるのです。
三回目の宣教旅行の終わりには、パウロは、そのうちすぐに投獄されて、多分殺されるだろうと知っていました。エペソの教会に向けたパウロの最後のことばは、パウロがいかに キリストに献身していたかを示しています。「皆さんは、私がアジアに足を踏み入れた最初の日から、私がいつもどんなふうにあなたがたと過してきたか、よくご存知です。私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました。益になることは、少しもためらわず、あなたがたに知らせました。人々の前でも、家々でも、あなたがたを教え、ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。今私は心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っているといわれることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私の命は少しも惜しいとは思いません。」 (使徒伝20:18-24)
聖書学者たちの中には、第4回目の旅行もあるように見る人もいます。初期のキリスト教の歴史はそのような考えを証明しているようにも思われます。同時に、聖書には4回目の旅行のはっきりした証拠はありません。もし4回目の旅行があったとしたら、使徒伝の終わりの後に起こったことになりますので。
パウロの宣教旅行の目的は、どれも同じです。:キリストを通しての罪の赦しという神の恵みを宣べ伝えること。神は、福音を異邦人に伝えて教会を 設立するために、パウロを用いられました。新約聖書にある教会宛のパウロの手紙は、今でも教会生活とその教理を支えています。パウロはすべてを犠牲にしましたが、パウロの宣教旅行は、その代価に価するものです。(ピリピ3:7-11)