仕組まれたようなドラマ

2023年、本にもなって話題になったのが「奇跡のバックホーム」。
プロ野球・阪神の元選手で、現役時代から闘病を続けていた横田慎太郎の「奇跡のバックホーム」である。
横田は鹿児島県出身で、鹿児島実業から2013年のドラフト2位で阪神に入団した。
プロ3年目には開幕戦にセンターで先発出場を果たすなど、将来の中軸候補として期待されていた。
しかし、プロ4年目の春のキャンプ中に頭痛を訴えて脳腫瘍と診断され、闘病生活を送りながら実戦復帰を目指したもののかなわず、2019年に24歳で現役を引退した。
病気の影響で、ボールが二重に見えることもあった状態で「引退試合」に臨んだ。
2019年9月26日、阪神鳴尾浜球場。ボールが見えやすいのでライトの守備を横田は希望していた。
当時の平田勝男2軍監督に伝えていたが、監督は「開幕スタメンを取ったセンターを守らせよう」と考えた。
また9回の1イニングに出場する予定であったが、急遽、8回途中2アウト2塁の場面で「センター、横田」ということになった。
監督は8回がピンチだったので「9回の1イニングに出場」の予定だったので、9回裏がなかった可能性もあった。
そこで8回のピンチの場面で横田はセンターの守りについた。このように横田の「奇跡のバックホーム」の陰に知られざる「予定の変更」があった。
監督は、横田が守備につくときに必ずダッシュで向かう姿が好きだったといったとおり、最後まで横田は横田であった。
センターの守備につくと、その初球、センターに大きな当たりが飛んできた。
これは、ヒット性の打球で同点になったが、これで「奇跡の伏線」がすべて敷かれた。
その次の打者で、再びセンターにボールが飛んできた。
この時、横田は、視界がほぼぼやける中、キャッチして本塁への送球。
糸をひくようなレーザービームの送球。タッチアウトとなりチームを救った。
試合後、横田は「練習でも投げたことがない球が投げられて、今まで諦めずにやってきて本当によかった」と語った。
引退後は地元の鹿児島に戻って、通院しながら自身の経験を伝える講演活動などを続けていたが、2023年10月、脳腫瘍のため亡くなった。享年28。

最近、新聞記事で「緊急時 焦らず 慌てず110番」と書かれたポスターを掲げた人に目が留まった。
大阪の池田署の一日署長として街中に立ったその人は、元プロ野球選手の北川博敏。プロ野球史上最も劇的なホームランをはなった人である。
代打逆転ホームランでも驚くが、代打満塁ホームランなら「奇跡」、加えてリーグ優勝をきめる「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」となれば、何者かが仕組んだのではないか、とさえ思える。
北川は現在、阪神タイガース2軍打撃コーチだが、リーグ優勝を決める劇的なホームランを放ったのは、近鉄時代の2001年、その時人々は「野球の神様」の存在を感じたにちがいない。
北川が一日警察署長に任命されたのは、緊急時にも冷静な判断をというのが、警察署の意図だったらしい。
緊急事態といえば、同じ2001年、列車ホームで起きた事故の顛末も、「不思議な感じ」をいだかせる出来事であった。
東京JR新大久保駅でいたましい事故がおきた。
線路に転落した男性を助けようと、ホームから二の男性が飛び降りた。
しかしその直後、そこに電車がはいってきた。3人全員が命をおとした。
見知らぬ男性を助けようとしたひとりが韓国人留学生イスヒョン(26歳)で、目撃証言によれば最後の瞬間まで両手を広げ電車をとめようとしていたという。
スヒョンは、もともと日韓の架け橋になりたいと日本にやってきた。
その勇気ある行動は、日韓共同で制作された映画「あなたを忘れない」(2007年)で結実した。
それから6年後、まさに駅に転落した人の「命日」で、家族が事故現場となったホームで手をあわせていたちょうど「この夜」、7キロはなれたJR上野駅で、またしても転落事故がおきた。
足をふらつかせていた男性が線路に転落。3人の乗客が助けようとホームから飛び降りた。
6年前と同じ状況だったが、今度は救出に成功した。
転落した人も、飛び降りた人も、間一髪、助かった。彼らは「人命救助」によって警察で表彰されるが、救出にあたった山本勲が驚くべきことを語った。
山本はこの数日前、スヒョンさんの母親が書いた本「息子よ!韓日に架ける”命の橋”」を読み終えたところだった。
本を読んだばかりか、映画もみて、感動した。
上野駅でホームから転落した人を見て「行け」という一歩を踏み出す勇気を本能的にもらった気がしたという。
山本は、「スヒョンさんが力を貸してくれたんだろうなと思います」と語った。

最近、テレビの番組で安倍元首相狙撃事件についての「新事実」を知った。
森友学園をめぐる「公文書改竄」問題で自殺した近畿財務局の職員の妻が、安倍元首相に対し手紙を「手渡していた」ことがわかった。
2023年7月7日、赤木の妻・雅子さんが神戸市に遊説に訪れた安倍元首相に手紙を手渡した映像が残っていた。
首相の手にはしっかりと「白い封筒」が握られている。
雅子さんは夫の死の真相を知りたいと改ざんの再調査を国に求めている。この日 渡した手紙にも、「再調査よろしくお願いします」と書かれていた。
しかし、なんと「その翌日」、安倍元首相は銃撃され亡くなった。
雅子さんは、「安倍さんに会ったのはこの日が最初で最後となり大変ショックだ。安倍さんを安らかに送るためにも国や関係者は改ざん問題の説明をしてほしい」と語っている。
ところで昭和天皇が「狙撃」されたことがあるといったら、多くの人は驚くかもしれない。
ただしそれは皇太子時代のこと。銃弾はハズレたものの、車の窓ガラスを破って同乗していた侍従長が軽症を負っている。
この出来事を「虎ノ門事件」(1923年12月27日)という。
狙撃犯の難波大介は、その場で取り押さえらえれたのだが、この事件は数多くの人々の運命をも巻き込んだ。
当時の内閣総理大臣山本権兵衛は総辞職し、衆議院議員の父・難波作之進は報を受けるやただちに辞表を提出し、閉門の様式に従って自宅の門を青竹で結び家の一室に蟄居し、餓死した。
当然、警備責任を負っていた警視総監および現場の指揮官も「懲戒免官」となった。
一度狙撃された経験をもつ昭和天皇が21年から29年にかけ8年間にわたる「全国地方巡幸」の勇気は大変なものだったと思う。
国中をまわって戦争で多くを失った国民に声をかけ励まされたが、決死の覚悟がなければ、全国巡幸などできなかったに違いない。
さて「虎ノ門事件」で警備の「現場指揮官」だったのが、当時警視庁・警務部長の正力松太郎で「懲戒免官」となり、その後読売新聞社長におさまっている。
当時、読売新聞は左翼思想をもつ優秀な記者を多く抱えていた。
対する正力は、元警視庁幹部として彼らの「プロファイル」を知り尽くしていた。
彼らの弱みを握っていた立場でもあり、読売新聞の経営を次第に軌道にのせていった。
また正力は、アメリカの野球を習いに武者修行にでかけていた野球人を集めて「職業野球」を構想し「読売巨人軍」を創設する。
さて、昭和の歴史に刻まれた野球の試合といえば、1959年6月19日の巨人・阪神戦。この試合は、天皇ご臨席の「天覧試合」ということを抜きにしても、まるで「仕組まれたような試合」であった。
この時ロイヤルボックスには、天皇・皇后・女官2名、セ・パ両リーグ会長を含む20人の幹部たちがいた。その幹部たちの一人が正力松太郎であった。
巨人軍のオーナーでもある読売新聞社社主・正力松太郎は、野球人気を高めるためには天覧試合を開催することが提案し、1959年1月に交渉を開始するとすると、宮内庁は「球界全体の総意が必要」という意向を伝えた。
実はパ・リーグ側でも「天覧試合」実現に向ける動きがあったが、「巨人対阪神戦」に異を唱えることなく、実現するはこびとなった。
そして、6月25日に後楽園球場にて史上初の「天覧試合」が開催された。
その日、巨人の先発は藤田元司、阪神は小山正明。先制したのは阪神だが、その小山が、5回に長島・坂崎に連続ホームランを浴び1対2と逆転される。
藤田も落ち着かず、6回にタイムリーされ、藤本に勝ち越し2ランされ、阪神は4対2と再びリードする。
ところが、小山が7回に王に同点2ランされ、試合は振り出しに戻った。
。 そこへ新人投手の村山がマウンドに上り7、8回を抑え、9回裏先頭の長嶋茂雄に立ち向かった。
そして2ストライク2ボール、長嶋の打球が左翼スタンドに吸い込まれ、ドラマは終わった。
ちなみに、両陛下が野球観戦できる時間は21時15分までで、両陛下退席まで「残り3分」の劇的幕切れだった。
さてこの「天覧試合」は、「虎の門事件」からおよそ40年の時を経て、奇しくも昭和天皇と正力松太郎が時と所を同じくする場面でもあった。
背後に写る正力の姿に、彼がなぜ史上初の「天覧試合」の実現に執念を燃やしたのかを、垣間見る思いがする。
「虎ノ門事件」で懲戒免官となった正力のリベンジの機会でもあったにちがない。

古代ユダヤ王国のソロモン王は、次のような言葉を残している。
「わたしにとって不思議にたえないことが三つある、いや、四つあって、わたしには悟ることができない。 すなわち空を飛ぶはげたかの道、岩の上を這うへびの道、海をはしる舟の道、男の女にあう道がそれである」 (旧約聖書「箴言」30章18節)。
今からおよそ70年前、 高校時代、真面目で成績優秀だったという柴崎育久氏。 一生懸命、勉学に励む一方で、美術の先生とも親しくなり、放課後は先生のアトリエで、大好きな映画や美術の話で盛り上がっていた。
高校卒業後は東京大学に進学したが、その後も美術鑑賞の趣味は続き、その日も、上野の東京美術館で開催されていた日本美術展覧会、通称『日展』の鑑賞に訪れていた。
日展では「日本画」や「西洋画」をはじめ、「彫刻」「美術工芸」など、様々な美術作品に触れることができる。
会場内で、柴崎さんは「ある絵画」の前で立ち止まって見入ってしまった。 いつもなら、様々な作品を見て回る彼だが、この日は、その作品の前で、足止めをくらうカタチとなった。
そんな出来事があってから1年後、1952年7月13日。 大学3年になっていた柴崎さんは、この年の夏休み、北軽井沢において、友人たちと共に、楽しいひとときを過ごそうとしていた。
その時、友人の山下のYシャツのボタンが取れてしまい、隣から針と糸を借りてきていた。 しかも、貸してくれたのは、旅行に来ていた、彼らと同じ年くらいの女の子4人組だというのだ!
しかも、彼女らは、津田塾大学の英文科の才女達であった。
そしてその日、彼女たちは誕生会を開くことを予定しており、そのパーティーに柴崎さんたち4人を招待してくれたのだ。
それを聞いた東大生たちは、”でかしたぞ、山下!”と喝采の声をあげた。
彼らがイロメキだつのも無理はない。戦争が終わってまだ9年余り、 テレビや電話も普及していないこの時代。男女の出会いは、貴重な出来事だった。
そして、その日の夜。ケーキの代わりにと、ドーナツが差し出されたのだが、給仕をしてくれた女性が、その日の主役・富子さんだった。
この時、柴崎さんは富子さんに一目惚れしてしまった。だが、それだけではなかった。柴崎さんは、富子さんと以前、どこかで会ったような不思議な感覚が消えなかった。しかしそれがなぜなのか、この時はまだ分からなかった。
翌日、東大・津田塾8人の男女は、まるで青春ドラマをジで行くように、朝霧牧場に出かけ、楽しい時間を過ごした。
東京に戻ってから、柴崎さんは富子さんに積極的にアプローチ。 富子さんも、柴崎さんの真っすぐな思いを受け止め、やがて2人は恋人同士になった。
大学卒業後は、社会人として互いに忙しくなったが、出会ってから6年目の27歳で結婚した。
柴崎さんは、この頃には、どこかで一度出会ったことがあるという、「あの不思議な感覚」のことを、すっかり忘れていた。
だが結婚から6年後のある日、新聞に中澤弘光画伯が亡くなったという記事が出ていた。
明治から昭和期にかけて活躍した洋画家・中澤は、洋画家であると同時にデザイナーとしても活躍。与謝野晶子の作品の表紙、さし絵も手がけるなど日本を代表する画家だった。
柴崎さんは富子さんに、その新聞を見ながら、中澤画伯の作品で印象に残っている絵があると語った。すると、富子さんの方も中澤画伯と「接点」があると、一枚の絵葉書を持ってきた。
その絵葉書を見た時、柴崎さんの中で、眠っていた何かが目覚めた。
実は柴崎さんが日展の展覧会で、長く佇むほど印象に残った絵画とは、富子さんの絵葉書の中の、中澤弘光作『静聴』だったのである。
そして、富子さんの「絵葉書」は、柴崎さんを驚かせたばかりか、あの「感覚」の謎を解くこになる。
あの展覧会の1年前、中澤画伯のアトリエに富子さんはいた。 つまり、あの絵のモデルは妻の富子さんだったのだ。
当時、中澤は学生をモデルに作品も描こうとしていたのだが、自分が理想とするモデルになかなか巡り会うことが出来なかった。
そこで、学生たちに頼んで、高校の卒業アルバムを持ってきてもらい、理想のモデルを探したという。
そして、中澤の目に留まったのが、端正な顔立ち、美しい黒髪の富子さんだったのである。
後日、富子さんは友達に伴われ、中澤のアトリエで肖像画を描いてもらう。富子さんにとって、 絵のモデルになったのは後にも先にも「この時」だけだった。
柴崎さんは富子さんと出会う1年前、すでに絵の中の彼女と出会っていたのだ。
描かれた女性に魅入られた男子学生と、その絵のモデルになった女性が、何かに導かれるように軽井沢の別荘で出会う。
そんな2人の出会いの不思議を、結婚6年後にたった一枚の絵葉書が紐解いてくれた。
この時、柴崎さんはもう一度富子さんが描かれたあの肖像画を見てみたいと思った。
そこで、かつて展示されていた東京美術館に問い合わせたのだが、すでに11年も経っていたので、作品は展示されておらず、しかも、現在はどこに所蔵されているかも分からないということだった。
その後も独自に調べて見たのだが、行方不明のまま時間は過ぎていった。
さらに47年の月日が流れた2011年。すでに世は インターネットの時代となっていた。
そして、ついに富子さんがモデルになった『静聴』が、宮崎県の都城市立美術館に所蔵されている事が判明。2012年、柴崎夫妻は美術館を訪れ、「60年前の富子さん」と対面することとなった。

「110番通報するぐらい焦っている時ほど冷静に」と話し、緊急ではない場合の専用電話の利用を呼びかけた。