鎌倉時代に、中国人と日本人との間で領有権問題となった島がある。
それは、玄界灘上に浮かぶ小呂島(おろのしま)で、現在は福岡市西区に属している。
周囲3.3kmの玄武岩を基盤とした孤島で、現在の人口は156人。
中世の小呂島は海上交通の要所であり、宗像大社が領有権を巡って熾烈な訴訟を繰り広げたことがある。
争った相手は、鎌倉時代中期の貿易商人謝国明(しゃこくめい)で、
南宋の杭州出身で大宰小弐の武藤資頼・資能親子に信任が厚い宋商の綱首(ごうしゅ/頭首)であった。
博多の円爾(えんに/聖一国師)に帰依し、1242年、円爾を開山として承天寺を建立した。
禅宗をはじめとした南宋の文化を博多に紹介するなどして、箱崎宮領の筑前国那珂郡の野間・高宮・平原の土地を買い、承天寺に寄進している。
謝国明の私邸は櫛田神社近くにあり、その墓は承天寺に近く、楠木がその目印となっている。
宗像神社に残る史料に、小呂島は宗像大社の社領であり、謝国明が妻(日本人)の地頭を名乗って領有権を主張したことから宗像大社と領地争いになり、幕府が謝国明を戒告処分としたことが記録されている。
実は小呂島は江戸時代には、福岡藩(黒田藩)の流刑地でもあり、特に重罪者の流刑地として選ばれた島でもあった。
この島に流されたのが、日本の「本草学」の代表者といってよい貝原益軒(かいばらえきけん)である。
益軒は、1630年に福岡藩の黒田家の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれた。
今でこそ健康長寿で知られる益軒だが、幼少時代は虚弱体質であったため、めったに外で遊ぶことはなく家で本を読むことが多かったという。
益軒は秀才として知られたが、当時は利発な子は早死にすると言われ、父・寛斎は益軒の将来を案じ、心配の種になっていたという。
そこで父は、病弱な益軒に少しでも長生きしてもらいたいと自分の医学の知識を教え込んだ。
1648年、益軒は18歳で福岡藩に仕えるが、二代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることになる。
「黒田騒動」の元凶ともいえる藩主の忠之は偏りのある性格で、周りを無視して目をかけた者を出世させるなどしていた。
益軒がどのような理由で怒りに触れたのかは定かではないが、父・寛斎が藩の祐筆を務めた重臣であったことから、藩主を諫めるようなことを言って怒りをかってしまったことが推測される。
それが故に「島流し」にもなり、益軒は再び虚弱体質がぶり返り、眼病や胃炎で苦しんだ。
そこで益軒は病に打ち勝つために自ら医学を猛勉強し、様々な予防法を実践して病に打ち勝つ方法を自分なりに編み出したのである。
小呂島周辺には対馬暖流が流れており、比較的気候は温暖で、嶽の宮神社の境内には、ソテツ、ビロウ、フェニックスなどの熱帯性植物が繁茂している。
益軒がここに流されたことは健康上においても学問上においても、マイナスばかりではなかったのかもしれない。
1656年に三代藩主となった黒田光之は、重罪の島流しになっていた益軒に対して藩医としての帰藩を許し、益軒は藩費による京都留学などで本草子(漢方)や朱子学を本格的に学ぶことができのである。
さて島流しからの帰還劇は滅多にあるものではないが、ナポレオンのエルバ島脱出、後醍醐天皇の隠岐島脱出が思い浮かぶ。
しかし最も奇跡に近いのが、江戸・元禄時代の画家・英一蝶(はなぶさ いっちょう)の帰還である。
一蝶は、花魁(おいらん)の太鼓持ちをし、華やかな世界に身をおいて吉原での時々を「絵筆」で留めた。
裏方の世界まで知り尽くしていた一蝶の「吉原風俗図巻」では、客と遊女との喧嘩や、女が嘘泣きで客を巧みに引き止めている姿などを描いている。
その絵は、蝶がかりそめの戯れを楽しむかのように、また桜が散るのを予感するように舞う世界であった。
こうした絵を一蝶が描いた場所は、絶海の孤島であった。
というのも、ある日突然、晴天の霹靂にあったように、三宅島(現在の東京都)への「島流しを申しわたされる。
表向きは馬を虐待した「生類憐みの令」違反だが、実際は吉原で大名・武士に多大の「散財」をさせたからだといわれる。
煌びやかな吉原の世界から一転して、死だけが待つ孤島へと移送されたのである。
永久に生きては帰れない流人生活の中で、一蝶は島民のために「七福神」などを描いていたが、「天神様」つまり菅原道真の表情がかなり怒っているのは、一蝶の気持ちを反映していたのかもしれない。
それでも一蝶は、人を喜ばせるのが性分だったようで、毘沙門天、恵比寿様などの絵をを安く描いて漁民に渡した。
そんな中、三宅島に流されていく途中に風待ちのため立ち寄った梅田家が一蝶の絵を売ってくれたことから、「地獄に仏」となった。
一蝶の画才が江戸に届いたのか、江戸から注文がきはじめ、一蝶は背いっぱいの力をふるって懐かしい江戸での遊興の日々を描いたのである。
そんな一蝶は華やかな世界はもとよりり、庶民を生き生きと描いた絵こそが天下一品であった。
「四季日待図巻」では 眠ることなく朝陽を拝む神事の様子を、庶民の表情とともに生き生きと描いている。
神主さんから博打(ばくち)まで、裏で鶏をさばく人まで横幅約7メ-トルに描きこんだ。
この画は、一蝶が幅広く視線が行き届く絵かきであったことを物語っている。
そして、1709年に奇跡がおこる。
将軍代替わりで、生類あわれみの令に関する流人が赦免となったのだ。
一蝶の流人生活はあしかけ12年、この時58歳になっていた。帰還して深川寺前に居を構えると、豪商に取り入り、再スタートした。
その後も名作を数多く残し、73歳で大往生した。
この名作の中に「雨宿り図屏風」という絵がある。
雨をさけるために武家屋敷の門前に身を寄せて凌ぐ人々の姿、坊主もおれば物売りもいるし子供達はむしろ雨にはしゃいでいるのに、ただ武士のみが困ったぞと陰鬱な表情で空を眺めている姿。
作家の堺屋太一は元禄時代を「峠の時代」とよんだが、英一蝶は上りから区下りに向かおうとする時代の「予兆」をこの絵の中に描きこんでいるようにも思える。
福岡藩には、西の姫島・東の筑前大島・その間の小呂島が流刑地となった。流刑の島を獄門島とよぶが、実際は「獄門」という言葉の響きとはほど遠いのどかな島々である。
糸島半島沖に浮かぶ姫島では、人々は玄関に鍵をかけることもなく生活し、毎朝フェリーで届けられる新聞を中学生が交代で配達していると聞いた。
ところで江戸時代末期、諸藩は幕府方(公武合体派)につくか朝廷方(尊王攘夷派)につくかで揺れていた。
そして一時、朝廷内部では尊王攘夷波が主流の長州藩と結びついた公家が優勢をしめたが、1863年8月の公武合体派のクーデターで尊攘派公家7人が追放となり、彼らは一旦は長州に逃れた。
1864年京都での勢力回復をめざす長州藩と朝廷を守る公武合体派の薩摩藩・会津藩との間で京都御所周辺で戦闘がおこった。
長州藩はこの蛤御門の戦いに敗れ、さらに幕府方15万の大軍によって長州藩が包囲されることになった。
この時、「内戦回避」をめざす周旋活動が、他藩に先駆けて福岡藩によってなされたのである。
そして幕府方の解兵の条件として五卿(七卿のうち1人脱出1人病死)の長州藩からの移転が命じられたのである。
つまり、五卿を九州の五藩が一人ずつ預かることになり、一旦五卿は福岡の大宰府に移されたのである。
福岡の大宰府天満宮境内には三条実美ら五卿が滞在した「延寿王院」があり、近くの二日市温泉周辺には五卿それぞれの歌碑がたっている。
しかし幕府にとって、五卿を預かる福岡藩・勤皇派の動きは気になるところであった。
そこで福岡藩は幕府への過剰な忖度か、1865年6月、勤皇派の一掃を決意した。
特に福岡藩中老で勤皇派のシンボル的存在・加藤司書は自宅謹慎後、切腹の命令が出されている。
また野村望東尼(のむらもうとうに)の自宅(平尾山荘)が、勤皇派のいわばアジトと化していたため、自宅謹慎が決定した。
野村望東尼は平尾山荘で平野国臣ら勤皇派との交流をもっていたが、その手紙の内容には多くの和歌が詠まれており、「勤皇の歌人」とよばれている。
そして野村望東尼は同年11月、糸島半島沖の姫島の座敷牢に幽閉されたのである。
ところが近隣の人々が監視人の目をかいくぐって望東尼に食事を届けたりしたため、その代わりに望東尼は詠んだ歌を短冊に書いて島の人々に渡した。
姫島にはそうした短冊をいまだに持っている家や、尼が使ったあんかを家宝のように保管している家もある。
福岡藩の勤皇の志士・籐四郎は、姫島流刑中の野村望東尼の救出を決意し、病床にあった高杉晋作と相談したところ、高杉は即座に同意し6人の救出隊を編成した。
かつて高杉晋作は、長州藩の保守派優勢のため失意にあった頃、野村望東尼の平尾山荘に匿まわれた時期があった。
つまり、この「野村望東尼救出作戦」は、高杉晋作の恩返しの意味も含んだものであった。
救出隊は1866年9月姫島に潜入し無事、望東尼を救出した。
そして船は下関に着き、尼は倒幕派のスポンサーであった白石一郎宅に落ち着いた。
しかしこの頃、高杉晋作の病の床にあり病状は思わぬ早さで進行していた。晋作危篤の知らせに望東尼にも馳せ参じたが、高杉は間もなく死を迎えんとしていた。
その時高杉は有名な辞世の句「おもしろき こともなき世をおもしろく」と詠み、それに応えて望東尼は「すみなすものは こころなりけり」と詠み、高杉の最後を看取ったのである。
野村望東尼は1828年 福岡地行の足軽の家に生まれた。母の死、長男の病苦による自殺、次男の病死、夫の死と相次ぐ不幸の後に、「望東禅尼」と号した。
そうした彼女の人生を見る時、望東尼は晋作に「もうひとりの息子」をえて、それを見送った感があったのではないかと推測する。
福岡県宗像市の離島、筑前大島は、2017年に世界遺産に指定された「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」に登録された構成資産の一角で、宗像三神の「中津宮」(なかつぐう)がある。
この島には安倍晋三元首相の先祖とされる平安時代の豪族・安倍宗任(あべのむねとう)の墓がある。
さらに遡れば、「奥州征伐」などで名高い阿倍比羅夫(ひらふ)に辿り着く。
それにしても東北地方の有力な豪族だった安倍一族の武将の墓が玄界灘沖にあるのであろうか。
安倍宗任は、奥州奥六郡(岩手県内陸部)を基盤とし、父・頼時、兄・貞任とともに源頼義と戦った。日本史の教科書にも登場する「前九年の役」(1051年~62年)であるが、一族は奮戦し、貞任らは最北の砦厨川柵(岩手県盛岡市)で殺害された。
ところが、宗任らは降伏し一命をとりとめ、源義家に都へ連行され、まず四国の伊予国に流された。その後少しずつ勢力をつ盛り返したために、1067年にに九州の筑前国宗像郡の筑前大島に再配流されたのだが、実態は島流しとは異なるものであった。
その後、宗像の大名である宗像氏によって、日朝・日宋貿易の際に重要な役割を果たしたからである。
大島は当時、中国との交易の拠点に位置付けられており、周辺で勢力を持っていた宗像族が、交易にあたり宗任らの力を借りようとしたことも、宗任がこの地に着いた背景にあるともみられている。
また、大島の景勝の地に自らの守り本尊として奉持した薬師瑠璃光如来を安置するために「安昌院」を建て、41年にわたって生活し1108年2月4日に77歳で亡くなっている。
「安昌院」にある墓の背後には樹齢約900年の榎が近年まであったといい、代々ここで宗任を偲んでいたとみられる。
ちなみに、宗任の長男・安倍宗良(むねよし)は、大島太郎・安倍権頭として、大島の統領を継ぎ、その子孫の安倍頼任は、九州の剣豪として知られ、秋月氏に仕え、剣術流派・安倍立剣道を開いている。
その後、源平合戦(治承・寿永の乱)をきっかけに、安倍家は配流先の筑前大島から山口県大津郡に移り、江戸時代には「大庄屋」をつとめ、酒や醤油の醸造を営み、やがて大津郡きっての「名家」と知られるようになったのである。
安倍貞任の墓のある安昌院の住職によると、安倍元首相は2021年11月1日に初めて墓参りに訪れ、妻の昭恵や自民党の県議らとともに1時間半ほど寺に滞在したという。
安川氏が墓や島の歴史などを伝えると、安倍元首相は質問を交えて熱心に聞き、墓を感慨深そうに見つめて手を合わせた。
安川氏は10年以上前、安倍元首相と福岡県久山町で面会し、墓について話す機会があったという。
その際、安倍元首相は「一線を退いたら必ず墓参りに行きたい」と語っており、安川氏は「約束を果たそうと来られたのだと思う。島は日中には風が吹くことが多いが、安倍元首相が訪れた日は、こんな日があるのかというほど風がなく、先祖が来訪を歓迎しているように感じた」と語った。
ところで2022年7月9日、安倍晋三前々首相が凶弾に倒れ、日本中に衝撃が走った。
ゆかりのある島民らは27日、国葬(国葬儀)に合わせて法要を営み、心から冥福を祈っているという。
ところで、安倍氏の地元といわれる山口県長門市には、日本海に面した絶景ポイントがいくつもある。
なかでも、アメリカのCNNが選んだ「日本の最も美しい場所31選」のひとつが「元乃隅神社(もとのすみじんじゃ)」。
総数123もの鳥居が、折り返しつつ昇りながら連なる光景は圧巻で、鳥居群の赤、日本海の青、周囲の草木の緑のコントラストが美しく、その絶景を一目見ようと国内外から多くの人が訪れる。
アクセスがなく、「油谷(ゆや)」を地名とするこの辺りに行くのは、車を利用する他はないが、JR山陰本線で日本海側に現れる「油谷湾温泉ホテル」あたりを目印とすればよい。
この油谷から東に数キロの地に「日置(へき)」という変わった地名がある。
ここ長門市日置に集住した古代の日置氏は、油谷から深川までの広い地域を「日置荘」として治めていた。
その基盤となったのは、たたら製鉄・鉄冶業を本来の職掌としながも、日読み(暦作成)をも司ったことによる。中世に畿内で官人などに見られる「日置氏」はこの地名に由来するらしい。
山口県北西部に位置する「大津郡日置町」は、2005年長門市と合併したため、今は町名としては消滅している。
実は、この油谷・日置こそは、安倍元首相ゆかりの地(ホームランド)なのである。
安倍晋三は享年67だが、安倍晋三の父・晋太郎も67歳で急死したので、奇妙に一致している。
安倍晋太郎は当時「政界のプリンス」とよばれ、次期総裁候補の一人とみなされていた。
というのも晋郎の父(晋三の祖父)は、「反骨の政治家」といわれた安倍寛(かん)、夫人は岸信介(のぶすけ)元首相の長女である。
さて冒頭で述べた通り、南宋人の謝国明は博多の「綱主」として宗像神社の社領・小呂島の領有権を主張した。対する宗像大社の一角筑前大島において安倍貞任の長男・宗良が筑前大島の統領的な存在であったことは、近年の日中間の領有権問題を重ねた時、面白いめぐりあわせだ。