世界を欺いたが

最近の生成AI技術によって、見るもの、聞くもの、読むもの、すべてが、どこまでが本当なのか判別がしがたい環境に生きていくことになる。
人を欺くハードルは極めて下がっている。
生成AI技術によって、原画をゴッホ風に、レンブラント風に、ルノワールな絵を書けるし、夏目漱石風、志賀直哉風、村上春樹風に文章をかける。
様々な合成音声や合成画像も可能で、SNSはフェイクであふれている。
自分が知る中で「世界を欺いた」といえるほどの出来事がある。AIなき時代の話だが、まんまと人々を出し抜いたとしても、その顛末はどうなったか。
今日を生きる我々にの教訓を与えてくれる。
1920年、ロマノフ王朝最後の皇女アナスタシアが発見されたというニュースに衝撃が広がった。そのニコライ2世は、皇太子時代に滋賀県大津で巡査に傷つけられたことがある。
ニコライ2世と妻アレクサンドラとの間に四人の娘が生まれ、その末娘こそがアナスタシア・ニコラエブナであった。
末娘のアナスタシアは4姉妹の中でも一番性格が明るく、人の真似をして皆を笑わせた。
しかし、アナスタシアが3歳になろうとする1904年2月に日露戦争が始まるが、ロシアは日本に破れ、ロシア全土で敗北への抗議が広がっていった。
その一方、同じ年8月に皇室にとって「男子誕生」の喜ばしいニュースがあった。
男の子アレクセイ・ニコラエヴィッチの誕生は、ロマノフ家に幸せを運んできてくれるはずだったが、アレクセイは「難病」を抱えていた。
そしてこの難病は、ロマノフ王朝に予想以上の暗い影をなげかけることになる。
父ニコライ2世はよき家庭人ではあったが君主としての資質に欠けていた。
そうした王室の心の隙間に入り込んだのが、怪僧ラスプーチンである。
皇后アレクサンドリアは、皇太子アレクセイの病をきっかけにラスプーチンに傾倒しラスプーチンへの偏愛ぶりは、ラスプーチンを嫌う他の聖職者や権力者の憎しみと反感を買うことになる。
そしてラスプーチンは、1916年に暗殺された。
こうした王室の乱れは、ロマノフ王朝から知識人や国民を離反させ、「反体制グループ」が台頭する一因を成した。
そして1917年早春、ついにその日はやって来た。手に手に武器を持った民衆が、粉雪の舞う広場になだれ込んでゆく。
人々は口々に「自由を!」「平和を!」などと叫びながら走っていた。 「ロシア革命」勃発である。
かくして2月革命によって樹立された臨時政府は、独裁君主体制の廃止を宣言。ここに皇帝ニコライ2世は退位し、ついに300間続いたロマノフ王朝も終焉の時が訪れたのである。
臨時政府によって監禁された皇帝一家は、ウラル地方のエカテリンブルクに移送され、そこにある大きな館に幽閉された。
この頃、ニコライ2世の家族は長女のオリガ21才、次女のタチヤナ20才、三女のマリア19才、四女のアナスタシア17才、唯一の男子であった皇太子アレクセイに至ってはまだ14才だった。
そして1918年7月、エカテリンブルクの館にて裁判手続きを踏まぬまま、銃殺隊によって家族・従者とともに銃殺された。
だが、ロマノフ王家は滅びたものの、なぜか末娘アナスタシアだけは生きているという噂が広がった。
彼女に好意を持つ兵士によって密かに助けられ、どこかに匿われたというのだ。
アナスタシアという名前には「復活」の意味が含まれていて、皇女アナスタシアの生存に関する書物が数多く出版された。
そしてハリウッドは、アナスタシア生存を題材にした映画を制作して反響をよんだが、そのリメイク版がイングリッド・バーグマン主演の「追想」(1956年)で、さらに有名となった。
ロシア帝国の元将軍(ユル・ブリンナー)がニコライ2世が4人の娘のためにイングランド銀行に預金つまり、ロマノフ家の遺産に目をつける。
元将軍はセーヌ川に身を投げて救助された「記憶喪失」の女性(イングリッド・バーグマン)を生存が噂されるアナスタシア皇女に「仕立て」て遺産を手に入れようする。
しかし、これはあくまでもフィクションで、人々は「アナスタシア伝説」をある種の「都市伝説」に過ぎないと思っていた。
ところ、映画の展開に合わせたかのように、一つの「衝撃的事件」が起こった。
氷もまだ溶け切らぬベルリン市内を流れる運河のほとりに一人の女性が流れ着いたのだ。
その女性は体に深い傷を負い、軽い記憶喪失にかかっており、そのうえ精神錯乱に陥って衰弱が激しかった。
やがて、介抱され自分を取り戻した女性は、にわかには「信じられない」ことを口にし始めた。
自分は、かのロシア皇帝ニコライ二世の4女アナスタシアで、革命政府によって処刑されるところを運よく逃げて来たと言うのである。
そして病院を抜け出した彼女は、精神錯乱の末、市内を流れる川に飛び込み自殺をはかった。
しかし、彼女は運よく助けられることになった。
しばらくして回復した彼女は、自分はかのロシア皇帝ニコライ2世の末娘、アナスタシアで、ボルシェビキ政府によって殺されるところを、間一髪、命からがら逃げ出して来たと主張し始めたのである。
事実、その女性が持つロシア宮廷に関する知識は驚くべきものだった。
足がひどい外反拇趾であること、額に小さな傷跡があるという「身体的特徴」もアナスタシアと一致した。
それに加えて、彼女は、アナスタシア本人しか知り得ないと思われることを知っており、巷間では「アナスタ・ブーム」が巻き起こった。
その後、彼女はアンナ・アンダースンと名乗り、ドイツで「ロシア王室遺産」をめぐる訴訟を起こす。
裁判は長期化の様相をみせるが、その間彼女こそアナスタシアだと信奉する人々から、手厚い施し物を受けて生活することができた。
彼女は1984年に84才で亡くなるまで、自分は正真正銘のアナスタシアだと主張し続けた。
果たして、彼女は本物のアナスタシアだったのか。
1991年になって、エカテリンブルク近郊で、ロマノフ家の遺骨が発掘され、 皇帝一家が全員殺害されており、一人も生存していないことが明らかになった。
それらの遺骨は、その後の「DNA鑑定」で皇帝一家のものと判定された。
一方、アナタスシアを名乗ったアンナ・アンダーソンも、その死後10年の1994年、「DNA鑑定」でアナスタシアの一家との血のつながりは否定された。
こうして、「DNA鑑定」によって、数十年の長きに渡って論争された「アナスタシア伝説」も、ようやく幕を閉じた。

ナチスのヒットラーは、もともと画家志望であった。
ウィーンにある名門の美術アカデミーを受験した。しかし受験に2度も失敗。政治家になってからも絵を描き続けるなど、美術に情熱を燃やしていた。
第二次大戦中、ナチスドイツはヨーロッパを侵略して、各地で美術品の略奪を行った。
ヒットラーと同様に、絵描きとして挫折感を抱いたメーヘーレンという画家がいた。絵は全く売れなかったため、画家として食っていけず、修復の仕事で食いつないでいた。
しかし、鑑定家ブレディウスによって修復した作品さへもニセモノと言われて、メーヘレンは美術界への復讐を考えるようになる。
メーヘレンは自分を奈落の底に突き落としたブレディウスに復讐するために、彼が決して見破ることのできない贋作を作ることを決意する。
それも、ブレディウスが専門とする画家「フェルメール」で勝負した。
つまり、メーヘレンはブレディウスに本物のフェルメール作品と認めさせれば自分の絵が「オランダの至宝」として歴史に名を刻むことになると考えた。
しかし300年前の絵を完全再現するという不可能にも思えた。
まずはアルコールテストを突破するために絵の具が50年以上経て固まったように見せる必要があったため、メーヘレンは”あるトリック”を開発した。
そして長い年月を経てひび割れに汚れが溜まったように見せた。
5年の歳月をかけて1937年、47歳の時についに贋作が完成。それが”復活したキリストがエマオの村人たちと食事をする”という聖書の一場面を描いた作品「エマオの食事」である。
この絵はイタリアに移住した裕福なオランダ人女性から預かったということにして代理人に預けられ、ブレディウスの鑑定を受けることになる。
脱脂綿アルコールでも具は落ちす、なぜかブレディウスはそれ以上の科学鑑定を行わずにすぐに結果を発表。
ナチス・ドイツの美術収集で微妙な影を落すのが、総統のヒトラー、そしてナンバー2のゲーリングも美術品をコレクションしていたことだ。
そんな中、オランダからフェルメールの新しい作品が見つかったというニュースがゲーリングの耳に入る。
まだ見つかっていないフェルメール作品があるにちがいないと考えたゲーリングは、お抱えの美術鑑定士に未発見のフェルメール作品の捜索を命じる。
丁度その頃、「キリストと姦婦」を描き上げたメーヘレンが知人の画商を訪ねる。
「エマオの食事」の時同様に、他国の富豪から売却を依頼されたと話をでっち上げ、作品を画商に預ける。
その画商はナチスがフェルメール作品を捜している事を知っていた。
「未発見のフェルメールがある」という報せはゲーリングを大喜びさせ、メーヘレンの描いた「キリストと姦婦」はベルリンに届けられることになった。
しかしメーヘレンは売却先を知り、驚愕する。ナチスに自分の贋作が行くことなど想定していなかったから。しかも価格は約15億円という破格の値がついた。
その金額が高ければ高いほど、自分の作ったニセモノだとバレた日には命などあろうはずもない。
しかしゲーリングは、念願のフェルメール作品を入手したと思い込み、自宅の壁に誇らしげに飾っていたといいう。
ポイントとなるのは、ブレディウスが唱えていたフェルメールの「空白期間」で、フェルメールの総作品数は三十数点と言われる。
ブレディウスをこの作品を目にした時、「未発見のフェルメールを発見した。やっぱり宗教画から風俗画への移行期の作品が存在した」という自分の説の立証を考えてしまった。
ブレディウスから真作のお墨付きを得た「エマオの食事」には、なんと5億円の値が付けられ、オランダの美術館で、レンブラントやゴッホなどの巨匠たちと並んで展示され、美術界の重鎮の目を欺き復讐を果たした。
その後もフェルメールの完璧な贋作を作りあげ、次々と売りさばいていった。しかしその完璧すぎる技術によって、メ―ヘレンは地獄を見ることになる。
1945年、ドイツが降伏し、占領下にあったオランダは解放された。
しかしその直後、メ―ヘレンは逮捕されてしまう。
その罪名は「国家反逆罪」。ナチス・ドイツに、オランダの国宝とも呼ばれるフェルメール作品を渡したことを罪に問われた。
メ―ヘレンがナチスに売った作品は、誰もが本物だと信じて疑わなかった。裁判当日、裁判所に運ばれた絵画はフェルメールの作品と思われていたが、全てメ―ヘレンの贋作であった。
つまり、メ―ヘレンは拘留中、「ナチス・ドイツに売却した絵画は、自分が制作した贋作である」ことを告白した。それを聞いた裁判関係者は笑った。
「君にそんな絵がかけるはずがない」と。
そこで、メーヘレンは、法廷で実際に絵を描いてみせ、ほんものの「贋作」であったことを証明してみせた。
一転、メーヘレンは売国奴からナチスドイツを騙した英雄と評されるようになる。
しかし、既に酒と麻薬で体を蝕まれていたメーヘレンはまもなく心臓発作に倒れ、翌月にアムステルダムで死去した。享年58 。

「戦場カメラマン」といえば、「最前線」に躍り出て行ってシャッターを押し続けたロバート・キャパという人がいる。
連合軍のノルマンディ上陸のDデイを地べたからの目で写した写真はよく知られている。
なにしろ、キャパは多くの戦士たちとともに真っ先にノルマンディ上陸を敢行し、敵の砲撃を雨アラレと受けた「先頭部隊員」だったのである。
なぜソコまでするのか、そこまでデキルのかということは誰もが抱く疑問だが、キャパの人生の謎を追い続けた作家の沢木耕太郎は、その疑問を「1枚の写真」とその前後に撮られた写真から解き明かしていった。
さて、ロバート・キャパとえいば、スペイン内戦におけるワンシーンを撮った「崩れ落ちる人」は、フォトジャーナリズムの歴史を変えた「傑作」とされた。
創刊されたばかりの「ライフ」にも紹介され、一躍キャパは「時の人」になった。
しかしこの「奇跡の一枚」は、本当に撃たれた直後の兵士なのか、「真贋論争」が絶えないものであった。
実際に自分が見ても、撃たれたというより、バランスを崩して倒れかけているように見える。
なにしろ、ロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」の背景には、「山の稜線」しか映っていないのだ。
ネガは勿論、オリジナルプリントもキャプションも失われており、キャパ自身がソノ詳細について確かなことは何も語らず、いったい誰が、イツ、ドコデ撃たれたのか全くわかっていない。
そして、この写真の「真偽の解明」が始動したのは、この写真が取られる直前の「連続した40枚」近い写真が見つかったことによる。
この写真はスペイン内戦の時期に起きた「一瞬」であることは間違いなく、「山の稜線」からアンダルシア地方と特定することができる。
そして連続した写真の解明から「驚くべき真相」が明らかになっていった。
兵士は銃を構えているものの、その銃には銃弾がこめられていない。
つまり実践訓練中で、「崩落する兵士」は戦場でとられたものではなく、当然「撃たれ」て崩れ落ちたものではなかったのである。
それにロバート・キャパには、たえずゲルタ・タローという女性カメラマンが随行していた。
主としてキャパの使ったカメラはライカであり、ゲルダはローライフレックスを使った。
そして二人の使ったカメラの種類から、「崩れ落ちた兵士」を撮ったのは、ロバート・キャパではなく、ゲルタ・タローであった可能性がきわめて高いことが明かされた。
翻っていえば、「ロバート・キャパ」という名前はアンドレ・フリードマンという男性カメラマンと、5歳年上の恋人・ゲルダ・タローの二人によって創り出された「架空の写真家」なのである。
そして1937年、ゲルダはスペイン内戦の取材中に、戦車に衝突され「帰らぬ人」となる。
戦場の取材中に命を落とした「最初の女性写真家」といってよい。
そしてそのことにより「ロバート・キャパ」という名前は、アンドレ・フリードマンという一人の男性カメラマンに「帰す」ことになったのである。
つまり、ロバート・キャパことアンドレ・フリードマンを世界的有名にした「崩れ落ちる兵士」は、戦場で撮られたものではなく、撃たれた直後の写真でもなく、さらにはキャパが撮ったものでさえなかった。
とするならば、キャパが憑かれたように最前線にi躍り出てシャッターを押し続けたのは、あの「1枚の写真」に追いつきたかったからかもしれない。
キャパは、あの「1枚の写真」と彼の命を道連れにするかのように、1954年ベトナムで地雷を踏んで亡くなっている。