聖書の言葉(水と霊によって救われる)

新約聖書に、イエスが弟子たちに語った言葉がある。
「あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」(マタイによる福音書18章)。
この言葉が何を指すかは難しいが、この世の出来事と天の世界との間には繋がりがあることを示している。
同じような言葉は、他にもたくさんある。
例えば、イエスが弟子たちに「こう祈りなさい」と教えた「主の祈り」(抜粋)に含まれている言葉に、 「御名があがめられますように。御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、 地にも行われますように」(マタイの福音書6章)とある。
さらにイエスがある村に行った時、ある人に「わたしに従ってきなさい」と言うと、その人が「まず、父を葬りに行かせてください」と答えた。
するとイエスは「その死人を葬ることは、死人に任せておくがよい」(マタイの福音書8章)と応えている。
不思議な言葉だが、単なる「埋葬」の話ではなく、天と地とを繋ぐような話なのかもしれない。
モーセの死体をめぐって天で争いが起こったというエピソードもあるからだ(ユダの手紙1章 )。
また、イエスはヨルダン川でバプテスマのヨハネより洗礼を受けた際、群衆に次のように語っている。
「ヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして激しく襲う者たちがそれを奪い取っている。すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」(マタイの福音書11章)。
イエスの言葉は理解し難いが、当時の人々は大工のせがれイエスにつき「こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」(マタイの福音書13章)と驚き怪しんでいる。
人々がその教えに驚いた理由の一つが、「イエスが律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである」(マルコの福音書1章)。
またユダヤ人指導者ニコデモは、人が「どうすれば救われるか」についてイエスに短刀直入に聞いている。
それに対してイエスは、「人は水と霊によらなければ神の国にはいることができない」(ヨハネ福音書3章)と応えている。
つまり、人間は”素”のままでは救われないので、「生まれ変わらなければならない」と述べているのである。
この「水と霊」が何をさすか、「使徒行伝19章」にはそれを明確に示すエピソードがある。
パウロがエペソにきた時、ある弟子たちに出会って、 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねた。
すると彼らは「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」とパウロがきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。
そこでパウロが「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」と言った。
すると人々はこれを聞いて、「主イエスの名」によるバプテスマを受けた。そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりしだした。
この場面のポイントは、「イエスの名」による洗礼と、パウロの按手による「しるし」を伴う受霊である。以上が聖書スタンダードの「救い(贖い)」である。
ところが、キリスト教神学に基づいて広がった「父と子と聖霊の名による洗礼」は、”名前のない印”を押しているようなもので、果たして救い(贖罪や復活)の保障があるのだろうか。
ただ、「救い」がなされたとしても、すぐ本人が自覚するとはかぎらない。新たに生まれた赤子が自分が生まれたことについて自覚がないのと同じように、救いは本人に自覚されてはじめて「救い」となる。
その点、パウロは「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」(ローマ人への手紙10章)と述べている。
ここでの「告白」は、原語のギリシャ語では、心の中で起こったことで、感謝なことを口で〝確認する" という意味合いなのだという。
パウロは、これに続いて「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」と言っている。
しかし、イエスは「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである」(マタイの福音書7章)と全く反対のことを述べている。
これについての答えは、イエスの言葉、「聖霊によらずして誰も父の名をよぶことができない」(マタイの福音書20章)ということである。
「主の名をよぶ」というのは、あくまで聖霊を受けたうえでの話なのである。
以上まとめると、「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われる」は信仰の必要条件ではなく十分条件、いいかえると「つけたし」でしかない。
「人は水と霊とによらなけれな神の国にはいることができない」ということが「救い」の条件である。

イエスがヨハネにより洗礼を受けた直後の言葉、「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」とはどういう意味であろうか。
パウロは、「信仰が現れれる前には、わたしたちは律法のもとで監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた」(ガラテヤ人へのて手紙3章)と述べている。
それでは旧約聖書の「信仰の父」といわれえるアブラハムの信仰はなんなのか、という疑問がおきる。
旧約聖書の信仰は「救世主(メシア)待望」の信仰であり、イエスが現れた以上はもはやその信仰は不必要で、バプテスマのヨハネの出現以降は「神の国の到来」つまり福音がその信仰の根本となる。
またパリサイ人達がイエスに、「神の国はいつくるのか」とイエスに質問する場面がある。
それに対してイエスは、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカの福音書17章)と応えている。
ここでイエスは、聖霊のカタチで「神の国」が信徒に宿ることを示唆している。そういう意味で、見られるかたちでくるものではないと語っている。
したがってイエスの「救い」を受けた者は、「聖霊」を心に宿すことにより、地上に天国(天のエルサレム)が降って「神の国」が実現する前に、いわば”先取り”していることになる。
ところで、イエス・キリストは十字架の死の3日後に蘇ったのであが、素朴な疑問が起きる。
なぜ3日後なのか。その間イエスは何をしていたのか。
イエスの「空白の3日間」につき、パウロは信徒への手紙の中で次のように書いている。
「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた」(ペテロ第一の手紙3章)。
イエスは、十字架の死後の3日間、救われないで亡くなった者たちのところに下って「福音を伝えた」ということである。
「死人にさえ福音が宣べ伝えられたのは、彼らは肉においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神に従って生きるようになるためである」。
また、「彼らは、やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに、申し開きをしなくてはならない」とも述べている(ペテロ第一の手紙4章)。
またパウロはこのあと大洪水から救われたノアの家族8人のことにふれ、ノアの洪水は「バプテスマ(洗礼)の型」であると述べている。
さらにパウロは、エルサレムを中心とした初代教会では、「死者のために洗礼」が行われていたことを記している。
「死者のために洗礼」とは、生ける者が死者の”身代わり”となって洗礼を受けることである。
「それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は、なぜそれをするのだろうか。もし死者が全くよみがえらないとすれば、なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか」。
またイエス自身が「わたしの言葉を聞いて、わたしをつかわされたかたを信じる者は、永遠の命を受け、またさばかれることがなく、死から命に移っているのである。よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう」(ヨハネの福音書5章)と語っている。

世界中の多くの宗教は戒律を守ることを課し、それを守ることを「救い」としている。
例えばイスラム教やユダヤ教がそうであるが、キリスト教の救いは反対にそうした呪縛(戒律)から解放されることを意味している。
それは「すべての預言者と律法とが預言したのは、ヨハネの時までである」とあるように、「律法の義」が終わったことを示していることからもわかる。
それでもキリスト教において、救いは「行い」によるのか、「信仰」によるかというのが議論されるが、それは「戒律を守る行い」もしくは道徳的行いと、「神に従う行動」が混同されて議論されているからだ。
パウロはユダヤ教の「律法(戒律)の義」に対して「信仰の義」を全面にうち出している。
当時、イスラエルの民は律法を守ることにおいて神に義とされるという信仰をもっていた。律法を毎日の生活に適応させるための手引書(トーラー)まで作り、律法に従って生活するよう努力し、救いの達成に努めていた。
ところがパウロは、律法を守ることによるのではなく、それとは異なる「神の義」が示されたことをと宣言し、次のように書いている。
「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」(ローマ人への手紙3章)。
しかし、「信仰による義」を説くパウロが大胆な「行い」の人であることは「使徒行伝」を読めばよくわかる。ここでいうパウロの「行い」とは「戒律を守る」ということではなく、「神の導きに従う」という信仰に根差す行動をさす。
パウロは、ギリシアやローマにも伝道にでかけ、変わった教えを広げている「疫病」のような奴という噂がたってしまい、ついにローマの兵卒に付き添われてローマに出向き皇帝の前で、自らの体験と信仰を証しているのである。
そんな「信仰」がどこから来るかといえば、かつてパウロが熱心に勤しんだユダヤ教の戒律でもなんでもなく、強烈な光ともに神の声を聞いたうえでの洗礼と受霊という「救い」の体験である。
パウロは「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中から蘇がえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と述べている。
その一方で、「誰も聖霊によらなければイエスを主と告白できない」(コリント人への手紙12章)ともいっている。
つまり「信仰」とは、洗礼と受霊という「救い」からしか始まりようがないということである。
「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」(コリント人第二の手紙3章)。
さて、日本人が「行い」という場合にイメージすることは、「良い行い」の人、つまり人に親切にする、困っている人を助けてあげる、 家族を大切にし、お酒もたしなまずよく働く、倫理的・道徳的に落ち度のないことをいう。
しかし、こういう善良さや責任感の強さを示す「行い」は、そうすれば確実に社会的信用や賞賛を得られるのであり、特段「信仰」を要求されない。
いくばくかの犠牲を払ったとしても、悪い気持ちがしないくらいな”立派な行い”である。
キリスト教はユダヤ教的戒律宗教を脱したとはいえ、「いい人間になるための宗教」というぐらいのとらえ方がされることが多い。
こうした「道徳的キリスト教」は、アメリカ独立宣言を起草したベンジャミン・フランクリンという人物に最もよく体現されているように思う。
フランクリンは、目ざす目標はこの世における「幸福」で、「幸福」の構成要素は、健康・富、知恵であり、その目標に達成するためには「実用性の原理」をあらゆる生活場面に適用した。
ある信念や行動が幸福を獲得するために役立つならば善で、役にたたないならば、悪なのである。
こうしたアメリカ経由の「功利主義的」キリスト教により、道徳的な行いがキリスト教の本質であるかのごとき誤解を日本人に与え続けているように思う。
ところが聖書では、神が人々の要求する「行い」というのは、「道徳」とは本質的に異なるものである。
それは「神に従う」という意味での行いであり、しばしば己の利害に反することもあり、「信仰」を伴なわずしてはなしえないたぐいものである。
パウロは、「ヘブル人への手紙11章」に、我らは雲のように「信仰の証人」に囲まれているとし、次のような信仰の人々を紹介している。
信仰によって、アブラハムは、試錬を受けたとき、イサクをささげた。すなわち、約束を受けていた彼が、そのひとり子をささげたのである。
この子については"イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるであろう"と言われていたのであった。 彼は、神が死人の中から人をよみがえらせる力がある、と信じていたのである。だから彼は、いわば、イサクを生きかえして渡されたわけである。
信仰によって、モーセの生れたとき、両親は、三か月のあいだ彼を隠した。それは、彼らが子供のうるわしいのを見たからである。彼らはまた、王の命令をも恐れなかった。
信仰によって、モーセは、成人したとき、パロの娘の子と言われることを拒み、罪のはかない歓楽にふけるよりは、むしろ神の民と共に虐待されることを選び、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる富と考えた。それは、彼が報いを望み見ていたからである。
信仰によって、彼は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。
これ以下に続く「信仰の証人」達は省略するが、いずれも利害を超えた果敢な行動が伴なっている。
それは「律法の行い」や「道徳的行為」とはまったく別物であることがわかる。
このことについて、「信仰のみ」としたマルチン・ルターによって「藁(わら)の書」と軽んぜられた「ヤコブの手紙」が、その本質をよく表している。
「ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、その行いによって義とされたのではなかったか。
あなたがたの知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、こうして、”アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた”という聖書の言葉が成就し、そして、彼は”神の友”と唱えられたのである。
これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるものであって、信仰だけによるのではない」(ヤコブの手紙2章)といっている。
ルターこそ「行い」が伴った信仰の人であった。

それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある 「この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」(マタイの福音書13章)。