社会科学~学問と検証

実験とは一般に自然科学の分野におこなわれるが、社会科学の分野では「実験」を行うことはできないだろうか。
社会的事象は、様々な点で自然現象と異なるので、そう簡単にできそうもない。
第一に、多様な要素がからみあう社会現象では、与件(人口増など)をコントロールできず、真の因果関係をつかみにくいということがある。
第二に、何らかの政策を「実験」としてやってみて、取りかえしのつかない社会的ロスをうむリスクがある。
例えば、アベノミクスを「リフレ派」理論の実証実験とみなした場合、前例のない金融緩和で氷河期から脱出に成功したものの、緩和解除の「出口」に失敗すれば大きな社会的ロスを生む。
そもそも前例のない試みは、既得権益者との「摩擦」が予想され、なかなか「国家規模」ではきない。
そこで「特区」をもうけて無人タクシーや省エネを極限まで進めたコンパクトシティの建設などの「実験」が行われている。
仮に、「テクノクラート」とよぶにふさわしい官僚などに、思う存分に「国づくり」を試すことが可能な「新天地」が与えられれば、この上もなく「高揚感」をえられるに違いない。
そうした点を想像するうえで、過去に遡って思いうかぶのが、日本軍による「満州国」建国である。
日本は「満州国」と言う壮大な実験場で、小さな「島国」ではとうてい出来なかった大プロジェクトを次々と実現させていったのである。
1920年代に対外的危機に際し、民政党と政友会が「党争」に明け暮れて何も「決められない」時代があった。
人々はそうした「政党政治の幻滅」から、軍の統率力や官僚の統制に期待するようになる。
そうして1920年代に、革新主義政策をめざす「新官僚」とよばれる官僚群があらわれる。
彼らは、東大の大河内ゼミや京大の河合ゼミのように、マルクス経済学の影響を受けた人々であり、国家統制による計画経済・統制経済を「理想」とする傾向をもつ人々であった。
しかし、日本ではマルクスは「社会主義」に繋がる思想であり、次第に危険視され国内でその政策を実施すること憚れた。
1937年に内閣調査局を前身とする企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して「企画院」に改編された際、同院を拠点とした官僚群が登場する。
彼らは「戦時統制経済」の実現を図った官僚達で、「革新官僚」とよばれ、国家総動員法などの「総動員計画」の作成に当たった。
しかし、財界出身の小林一三商工大臣が岸信介次官を罷免するなどの事件があった。
1941年には、企画院で前からマルクス経済学などを勉強していた官僚たちが、治安維持法違反の疑いで逮捕される「企画院事件」が起きた。
財界からすれば「計画経済」のような社会主義的な試みは認め難いことを示す象徴的な事件であった。
そうして、「革新官僚達」の理想は新天地である「満州国」に向けられていく。
戦後、満州国にいた「革新官僚」たちは、戦後の経済政策を担った「経済安定本部」に多く入るのだが、これら経済官僚は満州国で「試したこと」を基にして、戦後の高度経済成長の基盤を作ったともいえる。
その典型が、1964年の東京オリンピックを前に実現した「東海道新幹線」である。
実は、日本の新幹線開業を遡ること30年前の1934年に、日本は中国満州で「夢の超特急」を完成させ営業運転を開始していたのである。
「あじあ号」はそれまで二日かかっていた大連─新京間約700Kmを、8時間30分で接続した。
超特急「あじあ号」は、全車輌が密閉式の二重窓を備え、客車には冷暖房装置を完備していた。
また、ハルビンから新京、奉天を経て大連に至る900Km超の「哈大(はだい)道路」が計画された。
しかし、建設着手から3年後の1945年に終戦を迎え、「哈大道路」の建設は中国に引き継がれた。
しかし、その建設着手は1965年に全線開通した日本初の高速道路「名神高速道路」を遡ること20年あった。
「満州国」建設の過程における様々な「実験」を通して得たデータと技術力で、日本は奇跡の復興を成し遂げていったともいえる。
その一方で、連合軍の占領をうけた日本も、アメリカの「ニューディール派」の実験場となった感がある。
「マッカーサー草案」を元にした日本国憲法は、日本を軍事的に「無力化」しようという意図で作られたという文脈で語られることが多い。
しか、世界の理想を先取りするような「徹底的」な平和主義」の中には、若きGHQスタッフの「理想」が織り込まれたといってもよい。
連合国軍総司令部GHQで中心的な役割を果たしたのは「民生局」であった。
この民生局の中に「ニューディーラー」とよばれた人々が入っていた。
フランクリン・ルーズヴェルト政権によって展開されたニューディール政策を実施した「社会民主主義的」な思想を持つ人々である。
局長はダグラス・マッカーサー司令官の分身と呼ばれたホイットニー准将、その部下の局長代理のチャールズ・ケーディス大佐など、ルーズベルト大統領のニューディール政策に参画した人々が多くいたのである。
彼らは、日本占領の目的である軍閥・財閥の解体、軍国主義集団の解散、軍国主義思想の破壊を遂行し、日本の民主化政策の中心的役割を担った。
「ニューディーラーの政策」として注目すべきことは、意図的に労働組合を成長させたり、本国では達成できなかった「社会主義的な」統制経済を試みたりしていることである。
そして占領期において、日本社会党の片山哲、日本民主党の芦田均ら革新・進歩主義政党の政権を支えた。
しかしながら「日本版ニュー・ディール政策」は、激しいインフレーションの進行や、ケーディス大佐らの汚職の発覚などにより精彩を欠き、その結果、片山・芦田両内閣はいずれも短命に終わる。

自ら学んだ社会科学を現実世界で「検証」してみて、学問と現実の違いを教えられれば、学問が本当の意味で生かされる。
瀬谷ルミ子は、戦場における「交渉人」である。
紛争地で世界から集まってきた紛争専門家と共同して仕事にあたってきた。
となると、男勝りの女性をイメージするが、実際は華奢な感じのするヤマトナデシコである。
瀬谷は中学生になった頃から、アフリカなどに興味を持ち、英語の勉強に集中した。
そして高校3年生の春、目に飛び込んできたのは、新聞で見た「ルワンダの難民キャンプの親子の写真」であった。
死にかけている母親を、3歳ぐらいの子どもが泣きながら起こそうとしている姿である。
この写真で、瀬谷さんの目標は定まったといっていい。
瀬谷が「紛争解決」の仕事をしたいと、中央大学の「総合政策学部」に進学した。
瀬谷は大学在学中に「ルワンダに行く」ことを目標としており、そのためアルバイトでお金を貯めては休みに海外に出かけて英語を磨いた。
大学には、「紛争問題」が専門の教授はいなかったので、図書館で英文の専門書を読みあさった。
大学3年(20歳)の夏にホームステイで実際にルワンダを訪れたが、「自分は役に立たない」ということに気がついた。
そこで大学卒業後は、イギリスのブラッドフォード大学「平和学部大学院」に進学した。
修士論文では、「紛争後の和解問題」について書き、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアに「現地調査」に行く助成金をえた。
そして日本のNGO組織のアフリカ平和再建委員会からルワンダに新しく立ち上げる現地事務所の「駐在員」として行くという誘いを受け、23歳の時にルワンダで働くことにした。
現地では、事務所探しから備品購入まですべてを1人でこなした。
そこでは、虐殺で夫を失った女性に洋裁の職業訓練をするプロジェクトを担当し、地元の小学校へ机や椅子を寄付する支援も行った。
担当プロジェクトが終了する頃、西アフリカのシェラレオネで「武装解除」が始まっていた。
そしてある日、ニュースに「紛争地では、元兵士や子ども兵士をいかに社会に戻すかが問題となっている」という記事を目にして、「これが自分の仕事だ」と思ったという。
つまり大学院で勉強した「武装解除(DDR)」に実際に「取り組む」ことにしたのである。
「武装解除」の仕事とは、紛争地に出向き対立する双方の言い分を聞き「妥協点」を見出し、停戦にこぎつける仕事である。
アフガニスタンでは、わからないことがたくさんあることを思い知らされたという。例えば安易な若いを被害者の心の傷を深めることなどで、当事者が「望んでから」和解が行われるべきであること、部外者が「興味本位」でかき乱すことがあってはならないことを痛感したという。
紛争後の状況は、その国によって違う。それを見ずして本当に必要な支援は分からない。
それ以後、国連や政府に提言する際、徹底して「現地調査」を行う。
目の前の一人一人の声に耳を傾け、現実の中から答えを見つけ出す。例えば、争いの根源が「水争い」ならばソレを確保するために「井戸の設置」を本部に働きかける。
これさえあれば、後はなんとか自分たちで争わずにいけるというところを探し当てる。それは、アフガニスタンでのつらい経験から得た教訓でもある。
現在瀬谷は、NGO日本紛争予防センター理事局長の立場にあり、兵士から武器を回収、治安を回復させ、国を復興へと導いていく。
ソマリア、スーダン、ケニアなどで紛争予防活動を行うほか、アフリカのPKOの軍人、警察、文民の訓練カリキュラム立案や講師も務める。
ところで現在、激しい戦闘が続くイスラエルとハマス(パレスチナ極右)との戦闘が続くが、1990年に「二国家共存」の理念が共有されたことがあった。
それを「オスロ合意」というが、なぜオスロなのかというと、その発端がノルウエーの社会学の教授による「紛争解決」のプロセスを研究する学問上での「検証」にあったといってもよい。
そこで「社会学の観点」から平和を見いだすアプローチとして双方が顔を合わせて対話する舞台を作ることができないかと考えた。
そこで知り合いのイスラエルの大学教授二人とPLOの役人二人に的を絞り、参集の場を画策した。
当時両国とも相手国と連絡を取ると刑事罰の対象になり、パレスチナでは死罪と決まっていたため、このミーティングは極秘の内に進められた。
ラーセン夫婦の努力の下、会合は何度にもわたり行われ、相互承認を繰り返し、交渉の舞台に集まる人々も増えていった。
そして、様々な難局をどうにか潜り抜け、1993年、テレビに映し出された考えられない光景に、目が釘付けになった。
なんとそれは、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が、ホワイトハウスの庭園で、イスラエルとPLO間で史上初となる"和平合意"に署名する映像だった。
その後、ラーセン教授夫妻の働きを元に、「オスロ」という「ブロードウエイで劇」が制作される。
「オスロ合意」以後、現在のハマスとイスラエルの戦闘など、交渉にあたった人々は暗殺され、今となってはラーセン夫妻の平和への努力は無に帰した感さえある。
しかし、こうした「その後」の展開を知った上でこの劇を見ても、「ひとりの行動が世界を変える」というメッセージが十分に伝わっているという。
「オスロ」の副題は、「リスクを冒す価値はある成功すれば、世界を変えることになる!」。

社会科学上の理論が政策に生かされるのは自然なことなのかもしれない。
しかし学問上のコンセプトが、普遍的な真理のごとく適用されると、思わぬ社会的なロスを生む。
実は、「市場万能主義」の世界で最初に導入されたのは、南米チリである。
「新自由主義」を提唱したのがアメリカの経済学者ミルトン・フリードマンである。
アメリカは1950年代から、フリードマンがいるシカゴ大学に、チリのエリート学生を留学させていた。
「シカゴボーイズ」は、チリに戻ると財務大臣・経済大臣・中央銀行総裁など重要ポストで活躍した。
世界で最初に「新自由主義」経済をかかげるチリに、アメリカなど外国資本が一気に流入した。
チリは中南米で最速の経済成長をとげ、「チリの奇跡」と称賛された。
時代を遡ると2000年、チリでサルバトール・アジェンデが新たな大統領となった。富の再分配を訴え、国民の支持を集めた。
世界で初めて「民主的な選挙」によって生まれた社会主義政権だった。
アジェンデ大統領は、それまでアメリカの影響下にあった鉱山を完全国有化し、さらに民間企業の国有化もすすめた。 9年前にはキューバが社会主義化していて、アメリカは危機感をつのらせた。
このころチリではアメリカや国際機関から、融資が滞るようになった。
この頃、アメリカの大統領hニクソン大統領で、CIAによる工作が行われる。
まず、CIAは経済に不満をもつ富裕層や経営者を味方にとりこんで、「国有化反対」のストライキをおこさせた。
1か月のストライキによって物流網がマヒ、チリは極端なもの不足とインフレに陥った。
さらにCIAは資金提供していたチリの大手新聞社に経済危機をあおるように指揮する。
当時チリは一部の富裕層が富を独占、国民の大多数は低所得者だった。
彼らは富の再分配をかかげたアジェンデ大統領に大きな期待を掲げていた。
1973年9月、大統領就任3年を祝う集会で10万人を超える人々が「アジェンデ支持」を叫んだ。
その7日後の9月11日軍事クーデターが勃発、アジェンデ政権が政情不安を引き起こしたという理由でチリの陸海空すべての軍隊と国家憲兵隊が、大統領府を襲撃した。
アジェンデ大統領はわずかな護衛や仲間と共に抵抗したものの、猛攻撃を受ける中、アジェンデは国民に向け「最後のラジオ放送」を行う。
「歴史は我々のものであり、人民がそれを作るのだ。どれだけ時がたとうがよりよい社会を築くために、新しい自由に人々が歩く大きな道が再び開かれるだろう」。
そしてアジェンデ大統領は自ら命を絶った。
その後、政権をになったのは軍事クーデターを指揮したヒノチェトで、アジェンデ政権を支持していた市民や活動家を次々と逮捕、処刑した。
フリードマンもチリを訪問した際に、ピノチェトにアドバイスを送ったりしてきた。
1976年12月、フリードマンのノーベル賞授賞式でハプニングが起きた。突然「フリードマン帰れ」の声が複数回起こった。そして男が「チリ国民万歳 自由を 資本主義を止めろ」と叫んだ。
会場の外ではフリードマンに対して、人権弾圧を行う政権を助けているという抗議デモが起こっていた。
そして「フリードマンは殺人者」という声が響き渡った。
2022年の大統領選挙では、アジェンデに敬意を抱くボリッジが新大統領に選ばれた。
ホリッジは大統領就任演説で、50年前にアジェンデが最後に語った言葉を引用した。
「50年前に預言したとおり、愛国者は戻ってきた。自由に人々が歩く大きな道を切り開きましょう。市民び手でより良い社会を築きましょう」。

自由貿易・民営化・規制緩和を軸にした「新自由主義」を世界に先駆け導入する。
CIAはこの軍事クーデターにどこまで関与したか。 公開された機密文書によれば、その前日には軍事クーデターが起こることを知っていた。
さらにチリ軍関係者から、ク^デターが失敗した場合の支援要請がはいっていた。
当日にはクーデターの進捗情報を逐一伝えられていた。
それに対してフリードマンは、「随分とゆがんだ見方をしている。私はチリ政府の代表でも顧問でもない。私はチリ政府に一切関与していない」。
、 「シカゴ・ボーイズ」は、1960年代と1970年代にシカゴ大学で学んだ一群のチリ出身の経済学者たちを指します。
彼らはミルトン・フリードマンやアーノルド・ハーシーなど、自由市場経済を強く推進する教授陣から教えを受け、その影響を強く受けました。
シカゴ・ボーイズの最も重要な影響力は、チリの経済政策に対するものでした。
1973年、チリの政治体制が軍事クーデタにより覆され、アウグスト・ピノチェト将軍が権力を握ったとき、シカゴ・ボーイズは新政府の経済政策を策定する主要な役割を果たしました。
彼らは、自由市場原理と市場競争を重視する経済改革を推進しました。
これらの政策は、政府の経済への介入を最小限に抑え、貿易の自由化、規制の緩和、財政政策の厳格な管理を推進しました。
シカゴ・ボーイズの影響力は、チリの経済に限定されていませんでした。
彼らの政策は、他のラテンアメリカ諸国や世界中の国々にも広がりました。
このことから、彼らはネオリベラリズムと経済的自由主義の先駆者と見なされることが多いです。
しかし、シカゴ・ボーイズの経済政策は、貧富の差の増大や社会的不平等の増加を招く可能性があると批判されることもあります。
一方で、その政策が経済成長を促進し、インフレを抑制する効果があったと主張する人々もいます。
シカゴ・ボーイズは、その経済思想と政策の影響力から見て、経済学における重要な役割を果たしました。
彼らの思想と行動は、現代の経済政策とグローバルな経済状況に対する理解を深める重要な一環をなしています。
無論、賛否はあるものの、その影響力と貢献は否定できません。
チリの奇跡(チリのきせき、英: Miracle of Chile)とは、ノーベル経済学賞受賞者のミルトン・フリードマンが1980年代から2000年代にかけてチリ国内で行った新自由主義的改革の成果を指して用いた言葉。
一連の経済改革は経済的自由主義、国営企業の民営化そして物価の安定という3つの主たる目標に向け、所謂「シカゴ・ボーイズ(英語版)」(シカゴ大学出身の経済学者)が立案。
1974年から1983年まで、1985年及び1990年の3段階に分かれる[1]が、ピノチェトが引退した1990年以降も改革は引き続き実行に移された。
ただ、フリードマンは「奇跡」を誇るものの、アマルティア・センら経済学者の中には、この時期のチリは寧ろ経済成長が鈍化し社会の貧困化を招いたことから、フリードマン流の経済的自由主義は「失敗」に終わったと指摘する者も存在する。
アジェンデ政権下、1972年当時のチリは土地接収や価格統制そして保護主義など様々な要因が重なり、インフレ率が150%を記録していた。
また、これにより赤字が拡大し通貨供給量も大きく増え、更なるインフレを呼び込む状況であった。
1973年のチリ・クーデター直後、アウグスト・ピノチェトは「チリをプロレタリアートではなく、起業家の国にする」べく、アジェンデ派の政治家の反対を押し切り、規制緩和や民営化などを盛り込んだ諸改革を実施した。
改革ではこの他年金制度や国営企業、銀行の民営化や減税にも取り組んだ。
米帝様は経済学者を送り込んで資本家に都合が良い経済体制へと「改革」させる。この役割を竹中平蔵が担っている。産業競争力会議を通じて雇用特区や派遣業拡大を画策している。
一部は竹中の思惑通りに、業種で派遣雇用を5年から10年に伸ばすこととなり、パソナ会長としての利益誘導に成功した。雇用特区については「報道ステーション」が煽るような報道を行っている。
山田正彦氏の指摘によると「雇用特区は、企業がさらに安い労働力を確保するために、正社員でも金銭による解雇を容易にして、外国人の雇用を認めることです。
 現に、米国は北米自由貿易協定でメキシコなどから、安い労働力を入れて、なんと米国人500万人が失業したのです。さらに、海外に工場が移転して工業が25%空洞化しました。 教育特区で公立学校を閉鎖して、民間に委託、教育を市場競走の場として企業に参入させるのです。
 現に、米国ではオバマ政権になって4000の公立学校が閉鎖されて、30万人の教職員が失業しました。教育の格差は極端になっています。
現在、世界中で分断が深まっている。その一つの理由は難民問題。ヨーロッパでは、難民の受け入れをめぐって対立が深まる。
例えば、東西ドイツが統一すれば、東西の差はなくなるだろうと思われていたが、最近の調査ではギャップは開くばかりだ。
統一から30年を経ても、東ドイツの住民の3分の1以上が、自分たちを「二流市民」だとしている。
そして、昨年のザクセン、ブランデンブルグ両州の州議会選挙で「極右政党」が躍進がみられた。
実は、2015年のメルケル首相による「大量の難民受け入れ」表明は、取り残されるという元東ドイツ市民の不安を煽る結果となった。
アメリカでも、見捨てられたと感じるいわゆるラストベルトの白人労働者と国境を越えてくるメキシカンの関係で同様の事態が見られる。
トランプ大統領は、白人労働者を守るために「壁」を造ると発言し、その費用はメキシコ側負担させると豪語し分断を煽っった。
実際、アメリカは「南北戦争以来」とも形容される深い分断にむしばまれているといわれる。
各々を分かつのは「意見の違い」ではなく、意見が違う相手を拒絶して”人格否定”にまで及ぼうとする態度にある。
例えば、共和党支持者の多くは"地球温暖化"の脅威を認識している。にもかかわらず、対策を打ち出したのが民主党と知るや否定的になる。
議論が始まらないうちから、共和党か民主党、親トランプか反トランプといった殻に閉じこもり、人格ごと相手を否定する構図である。
地域活動が低調になり、異なる意見を持つ他人とふれ合う機会が減った。一方、同じ考え、価値観を持つ者同士はソーシャルメディアで集まりやすくなった。
そんな中、そうした分断を乗り越えようとした二つの村がある。
ともに住民は2千人ほどで、その95%が白人だ。生活圏にはスーパーのウォルマートもハンバーガー店のマクドナルドもある。
対話の参加者に「相手の考えを変えようとするのではなく、相手がなぜそのような考えを持つに至ったかを理解しようと努めて」というルールを課した。

2018年がスタートした。医療・介護・福祉分野では、事業者向けの報酬改定など様々な制度改正が予定されているため、一斉に見直し時期が到来することを指して「惑星直列」と呼ぶ向きもあるなど、一つの節目の年になるのは間違いない。 表:節目を迎える国保の歴史このうち、医療保険制度については、自営業者らを想定した市町村国民健康保険(国保)の財政運営が2018年度から都道府県単位に変わる。 しかも歴史を振り返ると、都道府県単位化に限らず、2018年は国保にとって、いくつか節目の年となる。【表】の通り、最初の国民健康保険法(国保法)が制定されたのは80年前(実は厚生労働省の前身、厚生省が内務省から分離したのも80年前になる)であり、戦後に新しい国保法が制定されたのも70年前となる。さらに、国民皆保険を決定付けた改正国保法の成立は60年前、都道府県の財政負担を初めて導入した制度改正は30年前である。以下、都道府県単位化という大改革といくつかの節目を控えた国保の在り方を考えることで、今後の医療・介護の方向性を手短に考えたい。 写真:国保発祥地を示す越谷市の石碑「相扶共済」。埼玉県越谷市役所の一角に、こんな石碑が建っている【写真】。この四文字は「相互に助け合い、力を合わせること」という意味であり、現在の国保法では使われていないが、1938年に制定された最初の国保法に使われていた文言である。そして、この石碑は国保発足10周年を期して1948年に建てられ、「国保発祥の地」の一つであることを示している。 では、なぜ国保発祥の地が越谷にあるのか。この問いを解く上では、時代背景を踏まえる必要がある。当時、内務省は農村の衛生環境を改善するため、主に農民を対象とした公的医療保険制度を検討していた。既に勤め人を対象とした健康保険法が誕生していたが、農民(及び自営業者や都市部の低所得者)には公的医療保険が整備されておらず、病気になっても医師に行けなかったり、医療費が生活を圧迫したりしていた。さらに、1929年の世界大恐慌は農村経済に大打撃を与え、一家離散や娘の身売りなどが相次ぎ、2・26事件で青年将校が決起する一因となった(筒井清忠『二・二六事件と青年将校』)。そこで国としても農村の支援策を迫られ、農村の助け合いをベースとした公的医療保険制度を準備したのである。 だが、これは世界的にも例を見ない制度であり、「果たしてうまくいくのか」と不安視する向きが多く、財政当局の理解も得られなかった。そこで、内務省は「(注:国保が)農村社会の本来の性質に適合しているならば、既にこの種の事業を行っているところが存在する」(国民健康保険協会『国民健康保険小史』)という仮説の下、医療問題に取り組む地域独自の動きがないか全国各地を調査した。 調査で把握した事業の一つが九州地方の「定礼」(じょうれい)。これは地元住民が医師確保のために資金を出し合う取り組みであり、古くは江戸期までさかのぼることが分かった(定礼に由来した国保発祥地の石碑が福岡県福津市にあるが、筆者は未訪問である)。 さらに、越谷市(旧越ヶ谷町)でも独自の取り組みが進んでいた。地元有志が「越ヶ谷順正会」という組織を発足させ、資金を出し合うことで医療費の軽減など地域の医療問題を解決しようとしていたのである。そこで、「どうしても我々の案による実例を示したい」(『国民健康保険小史』に出ている内務省官僚の回顧)と考えた内務省は順正会を支援・育成を図ることにした。 内務省が注目したのは越谷に限らなかった。国保発祥地の石碑が山形県戸沢村(旧角川村)にもある(こちらも筆者は未訪問である)通り、順正会や角川村の組合など12事業をモデル事業に指定したのである。そして、こうした各地の事例や成功は内務省にとって心強い存在となり、最初の国保法が1938年に成立した。国保発祥地を示す石碑の一つが越谷に建っている理由はここにある。 その後、いったん戦局の悪化と敗戦で崩壊状態になったが、1948年に新しい国保法が制定され、1958年の国保法改正で1961年からの「国民皆保険」実施が決まった。こうした歴史を見ると、越谷の石碑は国民皆保険に至る歴史が刻み込まれていると言えるかもしれない。 だが、国保の「物語」はこれにとどまらない。会社を退職した高齢者が国保に多く流入するようになり、財政赤字が恒常化。1980年代以降は国の財政も悪化し、国の財政支援を増やす選択肢が難しくなった。そこで、都道府県の財政負担を導入する制度改正が1980年前半から模索されるようになり、30年前の1988年度から都道府県の財政負担が導入された。この制度改正は財政支出の増大を嫌がる全国知事会の反対に遭ったのだが、いくつかの制度改正を経て都道府県の役割は少しずつ増大し、2018年度からの都道府県単位化は30年来の制度改正を積み重ねた一つの到達点と言える。 しかし、住民が保険料を出し合うことで病気やケガのリスクをシェアするという国保の本質は変わらない。根底にある精神は「地域で相互に助け合い、力を合わせること」。つまり「相扶共済」であり、地域医療構想や地域包括ケア、「我が事・丸ごと」地域共生社会など「地域」の名前を冠した様々な政策が進んでいる現在も十分に通じる考え方である。 財政運営が都道府県単位化しても、高齢者や非正規雇用者を多く受け入れている国保の構造と財政問題が根本的に解決するわけではないが、国保の歴史に残る大きな制度改正と様々な「節目」を迎える今年。地域発の「相扶共済」から始まった国保の歴史を振り返ることは今後の医療・介護を考える上で一つの示唆を与えてくれるかもしれない。 最近では、会議をデジタル上の社長が行い、社員がリモートで会議で意見をいいあう。
会議を運営するデジタル社長は、AIにより社長本人の思考パターンを学んでおり、実際の社長はゴルフ三昧でも温泉三昧でもかまわない。