実験とは一般に自然科学の分野におこなわれるが、社会科学の分野では「実験」を行うことはできないだろうか。
社会的事象は、様々な点で自然現象と異なるので、そう簡単にできそうもない。
第一に、多様な要素がからみあう社会現象では、与件(人口増など)をコントロールできず、真の因果関係をつかみにくいということがある。
第二に、何らかの政策を「実験」としてやってみて、取りかえしのつかない社会的ロスをうむリスクがある。
例えば、アベノミクスを「リフレ派」理論の実証実験とみなした場合、前例のない金融緩和で氷河期から脱出に成功したものの、緩和解除の「出口」に失敗すれば大きな社会的ロスを生む。
そもそも前例のない試みは、既得権益者との「摩擦」が予想され、なかなか「国家規模」ではきない。
そこで「特区」をもうけて無人タクシーや省エネを極限まで進めたコンパクトシティの建設などの「実験」が行われている。
仮に、「テクノクラート」とよぶにふさわしい官僚などに、思う存分に「国づくり」を試すことが可能な「新天地」が与えられれば、この上もなく「高揚感」をえられるに違いない。
そうした点を想像するうえで、過去に遡って思いうかぶのが、日本軍による「満州国」建国である。
日本は「満州国」と言う壮大な実験場で、小さな「島国」ではとうてい出来なかった大プロジェクトを次々と実現させていったのである。
1920年代に対外的危機に際し、民政党と政友会が「党争」に明け暮れて何も「決められない」時代があった。
人々はそうした「政党政治の幻滅」から、軍の統率力や官僚の統制に期待するようになる。
そうして1920年代に、革新主義政策をめざす「新官僚」とよばれる官僚群があらわれる。
彼らは、東大の大河内ゼミや京大の河合ゼミのように、マルクス経済学の影響を受けた人々であり、国家統制による計画経済・統制経済を「理想」とする傾向をもつ人々であった。
しかし、日本ではマルクスは「社会主義」に繋がる思想であり、次第に危険視され国内でその政策を実施すること憚れた。
1937年に内閣調査局を前身とする企画庁が、日中戦争の全面化に伴って資源局と合同して「企画院」に改編された際、同院を拠点とした官僚群が登場する。
彼らは「戦時統制経済」の実現を図った官僚達で、「革新官僚」とよばれ、国家総動員法などの「総動員計画」の作成に当たった。
しかし、財界出身の小林一三商工大臣が岸信介次官を罷免するなどの事件があった。
1941年には、企画院で前からマルクス経済学などを勉強していた官僚たちが、治安維持法違反の疑いで逮捕される「企画院事件」が起きた。
財界からすれば「計画経済」のような社会主義的な試みは認め難いことを示す象徴的な事件であった。
そうして、「革新官僚達」の理想は新天地である「満州国」に向けられていく。
戦後、満州国にいた「革新官僚」たちは、戦後の経済政策を担った「経済安定本部」に多く入るのだが、これら経済官僚は満州国で「試したこと」を基にして、戦後の高度経済成長の基盤を作ったともいえる。
その典型が、1964年の東京オリンピックを前に実現した「東海道新幹線」である。
実は、日本の新幹線開業を遡ること30年前の1934年に、日本は中国満州で「夢の超特急」を完成させ営業運転を開始していたのである。
「あじあ号」はそれまで二日かかっていた大連─新京間約700Kmを、8時間30分で接続した。
超特急「あじあ号」は、全車輌が密閉式の二重窓を備え、客車には冷暖房装置を完備していた。
また、ハルビンから新京、奉天を経て大連に至る900Km超の「哈大(はだい)道路」が計画された。
しかし、建設着手から3年後の1945年に終戦を迎え、「哈大道路」の建設は中国に引き継がれた。
しかし、その建設着手は1965年に全線開通した日本初の高速道路「名神高速道路」を遡ること20年あった。
「満州国」建設の過程における様々な「実験」を通して得たデータと技術力で、日本は奇跡の復興を成し遂げていったともいえる。
その一方で、連合軍の占領をうけた日本も、アメリカの「ニューディール派」の実験場となった感がある。
「マッカーサー草案」を元にした日本国憲法は、日本を軍事的に「無力化」しようという意図で作られたという文脈で語られることが多い。
しか、世界の理想を先取りするような「徹底的」な平和主義」の中には、若きGHQスタッフの「理想」が織り込まれたといってもよい。
連合国軍総司令部GHQで中心的な役割を果たしたのは「民生局」であった。
この民生局の中に「ニューディーラー」とよばれた人々が入っていた。
フランクリン・ルーズヴェルト政権によって展開されたニューディール政策を実施した「社会民主主義的」な思想を持つ人々である。
局長はダグラス・マッカーサー司令官の分身と呼ばれたホイットニー准将、その部下の局長代理のチャールズ・ケーディス大佐など、ルーズベルト大統領のニューディール政策に参画した人々が多くいたのである。
彼らは、日本占領の目的である軍閥・財閥の解体、軍国主義集団の解散、軍国主義思想の破壊を遂行し、日本の民主化政策の中心的役割を担った。
「ニューディーラーの政策」として注目すべきことは、意図的に労働組合を成長させたり、本国では達成できなかった「社会主義的な」統制経済を試みたりしていることである。
そして占領期において、日本社会党の片山哲、日本民主党の芦田均ら革新・進歩主義政党の政権を支えた。
しかしながら「日本版ニュー・ディール政策」は、激しいインフレーションの進行や、ケーディス大佐らの汚職の発覚などにより精彩を欠き、その結果、片山・芦田両内閣はいずれも短命に終わる。
自ら学んだ社会科学を現実世界で「検証」してみて、学問と現実の違いを教えられれば、学問が本当の意味で生かされる。
瀬谷ルミ子は、戦場における「交渉人」である。
紛争地で世界から集まってきた紛争専門家と共同して仕事にあたってきた。
となると、男勝りの女性をイメージするが、実際は華奢な感じのするヤマトナデシコである。
瀬谷は中学生になった頃から、アフリカなどに興味を持ち、英語の勉強に集中した。
そして高校3年生の春、目に飛び込んできたのは、新聞で見た「ルワンダの難民キャンプの親子の写真」であった。
死にかけている母親を、3歳ぐらいの子どもが泣きながら起こそうとしている姿である。
この写真で、瀬谷さんの目標は定まったといっていい。
瀬谷が「紛争解決」の仕事をしたいと、中央大学の「総合政策学部」に進学した。
瀬谷は大学在学中に「ルワンダに行く」ことを目標としており、そのためアルバイトでお金を貯めては休みに海外に出かけて英語を磨いた。
大学には、「紛争問題」が専門の教授はいなかったので、図書館で英文の専門書を読みあさった。
大学3年(20歳)の夏にホームステイで実際にルワンダを訪れたが、「自分は役に立たない」ということに気がついた。
そこで大学卒業後は、イギリスのブラッドフォード大学「平和学部大学院」に進学した。
修士論文では、「紛争後の和解問題」について書き、ボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチアに「現地調査」に行く助成金をえた。
そして日本のNGO組織のアフリカ平和再建委員会からルワンダに新しく立ち上げる現地事務所の「駐在員」として行くという誘いを受け、23歳の時にルワンダで働くことにした。
現地では、事務所探しから備品購入まですべてを1人でこなした。
そこでは、虐殺で夫を失った女性に洋裁の職業訓練をするプロジェクトを担当し、地元の小学校へ机や椅子を寄付する支援も行った。
担当プロジェクトが終了する頃、西アフリカのシェラレオネで「武装解除」が始まっていた。
そしてある日、ニュースに「紛争地では、元兵士や子ども兵士をいかに社会に戻すかが問題となっている」という記事を目にして、「これが自分の仕事だ」と思ったという。
つまり大学院で勉強した「武装解除(DDR)」に実際に「取り組む」ことにしたのである。
「武装解除」の仕事とは、紛争地に出向き対立する双方の言い分を聞き「妥協点」を見出し、停戦にこぎつける仕事である。
アフガニスタンでは、わからないことがたくさんあることを思い知らされたという。例えば安易な若いを被害者の心の傷を深めることなどで、当事者が「望んでから」和解が行われるべきであること、部外者が「興味本位」でかき乱すことがあってはならないことを痛感したという。
紛争後の状況は、その国によって違う。それを見ずして本当に必要な支援は分からない。
それ以後、国連や政府に提言する際、徹底して「現地調査」を行う。
目の前の一人一人の声に耳を傾け、現実の中から答えを見つけ出す。例えば、争いの根源が「水争い」ならばソレを確保するために「井戸の設置」を本部に働きかける。
これさえあれば、後はなんとか自分たちで争わずにいけるというところを探し当てる。それは、アフガニスタンでのつらい経験から得た教訓でもある。
現在瀬谷は、NGO日本紛争予防センター理事局長の立場にあり、兵士から武器を回収、治安を回復させ、国を復興へと導いていく。
ソマリア、スーダン、ケニアなどで紛争予防活動を行うほか、アフリカのPKOの軍人、警察、文民の訓練カリキュラム立案や講師も務める。
ところで現在、激しい戦闘が続くイスラエルとハマス(パレスチナ極右)との戦闘が続くが、1990年に「二国家共存」の理念が共有されたことがあった。
それを「オスロ合意」というが、なぜオスロなのかというと、その発端がノルウエーの社会学の教授による「紛争解決」のプロセスを研究する学問上での「検証」にあったといってもよい。
そこで「社会学の観点」から平和を見いだすアプローチとして双方が顔を合わせて対話する舞台を作ることができないかと考えた。
そこで知り合いのイスラエルの大学教授二人とPLOの役人二人に的を絞り、参集の場を画策した。
当時両国とも相手国と連絡を取ると刑事罰の対象になり、パレスチナでは死罪と決まっていたため、このミーティングは極秘の内に進められた。
ラーセン夫婦の努力の下、会合は何度にもわたり行われ、相互承認を繰り返し、交渉の舞台に集まる人々も増えていった。
そして、様々な難局をどうにか潜り抜け、1993年、テレビに映し出された考えられない光景に、目が釘付けになった。
なんとそれは、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が、ホワイトハウスの庭園で、イスラエルとPLO間で史上初となる"和平合意"に署名する映像だった。
その後、ラーセン教授夫妻の働きを元に、「オスロ」という「ブロードウエイで劇」が制作される。
「オスロ合意」以後、現在のハマスとイスラエルの戦闘など、交渉にあたった人々は暗殺され、今となってはラーセン夫妻の平和への努力は無に帰した感さえある。
しかし、こうした「その後」の展開を知った上でこの劇を見ても、「ひとりの行動が世界を変える」というメッセージが十分に伝わっているという。
「オスロ」の副題は、「リスクを冒す価値はある成功すれば、世界を変えることになる!」。
社会科学上の理論が政策に生かされるのは自然なことなのかもしれない。
しかし学問上のコンセプトが、普遍的な真理のごとく適用されると、思わぬ社会的なロスを生む。
実は、「市場万能主義」の世界で最初に導入されたのは、南米チリである。
「新自由主義」を提唱したのがアメリカの経済学者ミルトン・フリードマンである。
アメリカは1950年代から、フリードマンがいるシカゴ大学に、チリのエリート学生を留学させていた。
「シカゴボーイズ」は、チリに戻ると財務大臣・経済大臣・中央銀行総裁など重要ポストで活躍した。
世界で最初に「新自由主義」経済をかかげるチリに、アメリカなど外国資本が一気に流入した。
チリは中南米で最速の経済成長をとげ、「チリの奇跡」と称賛された。
時代を遡ると2000年、チリでサルバトール・アジェンデが新たな大統領となった。富の再分配を訴え、国民の支持を集めた。
世界で初めて「民主的な選挙」によって生まれた社会主義政権だった。
アジェンデ大統領は、それまでアメリカの影響下にあった鉱山を完全国有化し、さらに民間企業の国有化もすすめた。
9年前にはキューバが社会主義化していて、アメリカは危機感をつのらせた。
このころチリではアメリカや国際機関から、融資が滞るようになった。
この頃、アメリカの大統領hニクソン大統領で、CIAによる工作が行われる。
まず、CIAは経済に不満をもつ富裕層や経営者を味方にとりこんで、「国有化反対」のストライキをおこさせた。
1か月のストライキによって物流網がマヒ、チリは極端なもの不足とインフレに陥った。
さらにCIAは資金提供していたチリの大手新聞社に経済危機をあおるように指揮する。
当時チリは一部の富裕層が富を独占、国民の大多数は低所得者だった。
彼らは富の再分配をかかげたアジェンデ大統領に大きな期待を掲げていた。
1973年9月、大統領就任3年を祝う集会で10万人を超える人々が「アジェンデ支持」を叫んだ。
その7日後の9月11日軍事クーデターが勃発、アジェンデ政権が政情不安を引き起こしたという理由でチリの陸海空すべての軍隊と国家憲兵隊が、大統領府を襲撃した。
アジェンデ大統領はわずかな護衛や仲間と共に抵抗したものの、猛攻撃を受ける中、アジェンデは国民に向け「最後のラジオ放送」を行う。
「歴史は我々のものであり、人民がそれを作るのだ。どれだけ時がたとうがよりよい社会を築くために、新しい自由に人々が歩く大きな道が再び開かれるだろう」。
そしてアジェンデ大統領は自ら命を絶った。
その後、政権をになったのは軍事クーデターを指揮したヒノチェトで、アジェンデ政権を支持していた市民や活動家を次々と逮捕、処刑した。
フリードマンもチリを訪問した際に、ピノチェトにアドバイスを送ったりしてきた。
1976年12月、フリードマンのノーベル賞授賞式でハプニングが起きた。突然「フリードマン帰れ」の声が複数回起こった。そして男が「チリ国民万歳 自由を 資本主義を止めろ」と叫んだ。
会場の外ではフリードマンに対して、人権弾圧を行う政権を助けているという抗議デモが起こっていた。
そして「フリードマンは殺人者」という声が響き渡った。
2022年の大統領選挙では、アジェンデに敬意を抱くボリッジが新大統領に選ばれた。
ホリッジは大統領就任演説で、50年前にアジェンデが最後に語った言葉を引用した。
「50年前に預言したとおり、愛国者は戻ってきた。自由に人々が歩く大きな道を切り開きましょう。市民び手でより良い社会を築きましょう」。