「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。
柔和な人たちは、さいわいである、 彼らは地を受けつぐであろう。
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、 彼らは飽き足りるようになるであろう。
あわれみ深い人たちは、さいわいである、 彼らはあわれみを受けるであろう。
心の清い人たちは、さいわいである、 彼らは神を見るであろう。
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、 彼らは神の子と呼ばれるであろう。
義のために迫害されてきた人たちは、 さいわいである、 天国は彼らのものである」。
以上は、イエスが民衆語ったいわゆる「山上の垂訓」の冒頭である(マタイの福音書5章)。
我々が通常「幸せ」と思うこととは、反対と思われるものもある。
例えば、この世に生きる者にとって、「貧しさ」や「悲しみ」がどうして幸いなのか。この世で、「正しさ」や「清さ」をつらぬいて幸せになれるのか。
これらの疑問に対する手がかりは、三番目の「柔和な人たちはさいわいである」に続く言葉にある。
そこに「彼らは地を受けつぐであろう」とある。
それは、「神の国」の相続者となることを意味する。
旧約聖書には、イサクの子であるとエサウとヤコブという兄弟の物語がある。
弟のヤコブがあと継ぎとなって「イスラエル」という名に変わるが、後にパウロは、長男の権利(世継ぎ)を軽んじたエサウについて次のように語っている。
「誰であれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです」。
この「長子の権利」が、「地を継ぐもの」つまり「神の国」の相続者の「型」であることは、パウロが信徒へあてた手紙からも推測することができる。
「すなわち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、むしろ約束の子が子孫として認められるのである」。
では、イエスのいう「さいわいな人」とはどのような人か、聖書に登場する人物から探したい。
最初の「こころの貧しい人」につき、イエスに香油を注いだ女性のことが思いうかんだ。
イエスがベタニヤでらい病の人シモンの家にいて、食事の席についておられた。
その時、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
別の福音書では、「その時、マリヤは高価で純粋なナルドの香油一斤を持ってきて、イエスの足にぬり、自分の髪の毛でそれをふいた。すると、香油のかおりが家にいっぱいになった」とある。
このナルドの香油は当時の労働で1年分の価値があるものだった。
その場にいた人々は、「なぜ、こんなに香油を無駄使いしたのか。この香油は300デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことが出来たのに」と言って彼女を厳しくとがめた。
するとイエスは、「この人はできる限りのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた」と応えた。
一般には、「香油を売って貧しい人々に施し」をすることは心の豊かさを示す行為だが、それは必ずしも、「信仰(霊)の豊かさ」を意味するものではない。
この女性は心の低さ(貧しさ)ゆえに、周りの人々以上にイエスの存在に「何か」感じとったに違いない。
イエスは、「多く赦されたものが、多く愛する」と語っている。
この女性は、イエスに自分の人格全体を香油にこめるように注ぎだしたにちがいない。
また「かおりが家いっぱいになった」とあるのは、旧約聖書で祭司が神殿で「いけにえ」を捧げる場面を連想させる。
神殿では、至聖所の幕の前に「香壇」が置かれていて「聖所も至聖所も芳しい香りで満ちていた」とある。
また、ダビデは次のように語っている。
「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」。
また、イエスは女性の行為を別の次元からもみている。それは、イエスの「前もってわたしの体に香油を注ぎ、葬りの準備をしてくれた」という言葉で知ることができる。
イエスははやくも「十字架の贖い」という自分の進むべき道を告知しているのである。
「メシヤ」という言葉はヘブライ語で、「メシャー」(=油を注ぐ)という動詞から派生した言葉で、メシアのギリシア読みが「キリスト」である。
この香油をそそいだ女性は、はからずもイエスが聖書に預言された「救い主」であること示したのである。
次の幸いは「悲しんでいる人」で、「なぐさめられるであろう」とある。
人が悲しむ状況はいくつもあるが、財産を失うことや大切な人を失う状況がそれだろう。
そうした喪失感を一身に体現したような人物が、旧約聖書「ルツ記」に登場するナオミである。
カナンの地が飢饉に見舞われ、山間のモアブに寄留し、そこで自分の夫と息子二人を失ってしまう。
そして二人の嫁のうち、自ら同行を希望した嫁ルツを連れて故郷に戻る。もちろん財産とてない。
帰還を歓迎する人々に対してナオミは次のように語る。
「わたしをナオミ(楽しみ)と呼ばずに、マラ(苦しみ)と呼んでください。なぜなら全能者がわたしをひどく苦しめられたからです。わたしは出て行くときは豊かでありましたが、主はわたしをから手で帰されました。主がわたしを悩まし、全能者がわたしに災をくだされたのに、どうしてわたしをナオミと呼ぶのですか」。
しかしナオミは、人生の災難とはうらはらに信仰においては富んでいた。それがルツをひきつけて異邦人の女であるにもかかわららず、ナオミの故郷ベツレヘムについてきたのだ。
ところがルツは落穂ひろいの過程で、ナオミの親族ボアズの土地に導かれボアズと結ばれる。
そしてルツの3代後にダビデ王生まれ、さらにその系図からイエス・キリストが生まれるという驚きの展開をたどる。
パウロは信徒あての手紙に次のように書いている。
「神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる」。
ナオミもルツも、まるでこの世のものから切り離されるようにすべてを奪われ、「神から来たのもの」を豊かに与えられるという人生を歩む。
家族を多く失う試練にあったヨブは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と、神をのろうことはしなかった。
パウロは、信徒あての手紙の中で、「すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる」と書いている。
次の幸いは「柔和な人たち」で、前述のごとく「彼らは、地をつぐであろう」とある。
イエス自身は次のようなことを語っている。
、
「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。
聖書では、信徒を羊にたとえイエスを羊飼いとしている。
「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」。
またダビデの歌の中でイエスを「牧者」にたとえにしているものもある。
「主はわたしの牧者であって、 わたしには乏しいことがない。
主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂をいきかえらせ、 み名のためにわたしを正しい道に導かれる」。
「わたしの生きているかぎりは 必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう」。
イエス自身が信徒を「とこしえに住む主の宮」に導くとあり、それは「神の国」をさしている。
次の幸いは、「義に飢え渇いている人」で、「彼らは飽き足りるようになる」とある。
当時のイスラエル社会は壁だらけの世界で、罪人・病人らはまるで見捨てられたような生活をしていた。
また「異邦人」と交際したりすることもなかった。
律法学者やパリサイ人は、「イエスが病人、罪人、取税人と食事をしていること」を問題視した。
それに対して、イエスは反対に当時のイスラエルの指導者たちを徹底的に非難した。
「あなたがたパリサイ人は、わざわいである。会堂の上席や広場での敬礼を好んでいる。あなたがたは、わざわいである。人目につかない墓のようなものである。その上を歩いても人々は気づかないでいる」。
また、律法学者に対しても厳しい。
「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない」。
一方、イエスはかたよりなく、人々と接せられた。それは、パウロの「神はかたよりみられることはない」という言葉どうりである。
次の幸いは、「あわれみ深い人」で、「彼らはあわれみをうけるだろう」とある。
イエスが家で食事の席についておられた時のこと、多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
当時イスラエルにおいて、取税人はローマの手先として忌み嫌われていた。
パリサイ人たちがこれを見て、弟子たちに「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」と聞くと、
イエスはこ「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」と答えた。
さらに、旧約聖書ホセアの預言を引用して、 「『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」と答えている。
次の幸いは、「心の清い人たち」で、「彼らは神をみるであろう」とある。
イエスに神を見出した人々の中には、イスラエルの指導者とよばれる人達もいた。
彼らは自分の立場をかえりみず、「罪人」として十字架にかかったイエスと関わった。
ユダヤ議会(サンヘドリン議会)に属するアリマタヤのヨセフは彼は勇気を出してユダヤ総督ピラトの前に行き、イエスの体を頂きたいと願いでたとある。
アリマタヤのヨセフは、イエスの遺体に香料をにぬり亜麻布に包み、岩で掘って造った自分の新しい墓に葬ったのである。
皆がイエスを捨て十字架にかけられた後、その遺体をひきとりにきたことである。
なにしろ罪人として刑死した人物は岩場に捨てられたのに、イエスを墓に埋葬するといいだしたのである。
また、ユダヤ指導者の中にニコデモというがいた。
ニコデモは、夜人目を忍んで「どうしれば神の国に入れるか」をイエスにあって直接に訊ねた人物である。
イエスがニコデモに「水と霊によって生まれ変わらなければ神の国にいれない」と答えると、ピントはずれの質問をしてイエスにたしなめらえた人物である。
そんなニコデモが自らの立場を忘れて、イエスの埋葬の現場に現われイエスの遺体に塗る、乳香・没薬を用意したのである。
実は、ニコデモも議会のメンバーで、自らがイエスの信奉者であることを公けにすることは、自らの身を危険にさらしかねないという覚悟があったはずだ。
ヨセフにしろニコデモにしろ、世の思いを超えられるまっすぐさ、つまり「こころの清さ」があったからこそ、こういう行動ができたに違いない。
次の「幸い」は、「平和をつくりだす人」で、「彼らは神の子とよばれるであろう」とある。
12人の使徒と、迫害者であったパウロを仲立ちとしたバルナバという人物を思い浮かべる。
パウロは神から強い光を受けて改心するも、3日間目が見えなくなりアナニヤといわれる人物の処に導かれ視力が回復に向かうが、使徒達は迫害者であったパウロを受け入れようとはしなかった。
そんな折、使徒たちによって「バルナバ」(「慰めの子」という意味)と呼ばれていた信者がいた。
使徒行伝には、「聖霊と信仰に満ちた立派な人」であったとある。
バルナバは、パウロの世話をして使徒達のところへ連れて行き、その身に起こったことを説明し、人々がパウロに対して抱いた恐れを取り除こうとした。
激しいパウロが、使徒達に書いた手紙の中に、バルナバという人物を髣髴とさせる箇所がいくつかある。
パウロは次のように語っている。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。
バルナバは、「平和をつくりだす人」にふさわしい人であろう。イエスのいう「平和をつくりだす人」とは、この世にあって、世界平和に貢献するような意味ではない。
、
この世界は、「積極的平和主義」などといって同盟国に武器を輸出したり、「国際貢献」などをとなえて軍隊を海外におくり、火に油をそそぐような事態が生まれている。
イエスのいう「平和をつくりだす人」とは、神と人との「和解」の働きをする人ではなかろうか。
パウロが信徒にあてた手紙の中に、「彼らは神の子とよばれるだろう」の中の「神の子」という言葉を使った箇所がある。
「被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである」とある。
「平和を作り出す人」というのは、「滅びのなわめ」にある人間と神との和解の働きをするという意味で、それは福音をそのものをさす。
パウロは「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる」と述べている。
それは、イエスが「まず神の国と神の義をもとめなさい」と語ったように「神の国」に希望を見出す生き方をさしている。
パウロは、信徒への手紙の中で、「神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである」と述べている。
しかし人間は自己の義を主張する存在であるがゆえに、そうした「神の義」にたいしては、それを阻もうとする迫害もおこってくるのである。
そこでイエスは、「義のために迫害されるものは幸いである。天国は彼らのものである」と励ましている。
では、イエスのいう「さいわい」が現実のものとなる「神の国」はいつ到来するのか。
その問に対してイエスは「神の国は、見られるかたちで来るものではない。また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」と答えている。
ここで、「神の国は神の国があなた方のただ中にある」とは、この世にあって、イエスの名による救いをうけ、「聖霊」を心に宿すことである。
それによって、この地に「神の国」が実現する前より、神の国を先取りして生きるということである。