日本は「おもてなし」という言葉が日本人の美徳の代名詞のように語られるが、こと「外国人技能実習生」や「難民」に対してはどうであろうか。
日本という国は、彼らになど対して「もてなさない国」であるといって過言ではない。
日本に観光目的でやってくる外国人に対する態度とは、あまりにも対照的である。
聖書に「旅人をもてなせ」(マタイの福音書25章)という言葉があるが、ここでいう「旅人」とは物見遊山でやってくる人々を意味するものではない。
聖書には、飢饉などにより外国に「寄寓する話」が時々でてくるが、「旅人」とはそうした助けを必要とする人々だ。
アブラハムの一族は神よりメソポタミアの定住地ウルから、パレスチナのカナーンの地に「行け」と命じられる。
それも、たくさんの異邦の神々の真っ只中へとおくりこまれ、「偶像崇拝」に陥ることなく、ただ唯一の神ヤハウェの信仰を堅く守るように命ぜられる。
またアブラハムの孫ヤコブの子ヨセフの時代以降、飢饉によりエジプトに400年あまり「寄留」し、モーセに率いられて40年余り砂漠をさまよった後、ようやくカナーンに帰還している。
このように、イスラエルのその後の歴史をみても、「寄留」という宿命をもった民族なのだ。
彼らが、異国で土地を持つにも、常に地元民との交渉が必要になってくる。
例えば、アブラハムは妻サラがなくなった時に、「墓地」が必要になるが、その時には相当の金を払ってわずかな土地を買い取っている。
また、ユダヤ法の中には、社会的弱者救済的な様々な「恤救(じっきゅう)制度」があるが、50年めごとに債務を帳消しにして奴隷を解放する「ヨベルの年」や、寡婦や孤児に対して収穫のすんだ畑に残っている「落穂を拾う」権利などもあった。
そのほか、外国人(異邦人)労働者にも一定の保護が与えられていた。
旧約聖書の「ルツ記」に、そのことがでてくるが、夫を無くした寡婦を夫の一族のうちの誰かが娶る慣習や、跡継ぎがいなければ「その土地」を夫の一族の誰かが買い戻す権利があったことがわかる。
いずれも一族の血と土地を存続させるための法であり、日本の封建時代と同様に「一所懸命」なのだ。
特に、神から「約束された土地」ならば妥協を許さない。
ちなみに、土地を「買い戻す」という言葉と「贖う(あがなう)」という言葉は、ヘブライ語では同じ言葉が使われている。
イスラエルは、紀元1世紀にローマ帝国により国を完全に失い、世界に「散った」(ディアスポラ)がために、世界中を「寄留者」として歩むことになる。
そんな「ディアスポラ」の中で、ユダヤ人の行先は主に2つに分かれる。
ドイツやフランス、そして東欧に移住したユダヤ人は「アシュケナジム」とよばれ、「アシュケナジ」はヘブライ語で「ドイツ」を意味してる。
イベリア半島スペインに渡ったユダヤ人は「セファルディム」とよばれ、「セファルディ」とはヘブライ語で「イベリア」の意味があるという。
そしてイタリアなどの南欧諸国にも住み着いた。
1492年、キリスト教勢力がイベリア半島からイスラム教徒を駆逐し「レコンキスタ」が完了すると、キリスト教徒はユダヤ人を迫害し、その多くが北アフリカや中東、オランダ・イギリスに移住する。
16世紀、スペインの台頭とともに、スペイン系セファルディムで富豪になった者が多くいた。
しかし、フェリペ2世がカトリック政策を強化すると、スペイン系セファルディムはオランダに亡命した。
そして17世紀、彼らはオランダの台頭とともに、さらに富を蓄える。
オランダの哲学者スピノザや、イギリス首相のディズレーリも、セファルディム系ユダヤ人である。
さて、土地が痩せ国力ではフラインスやスペインにはるかに劣るイギリスがどうして世界に冠たる「大英帝国」になりえたのか。
ひとことでいえば、他国にはない「資金調達」の技術に秀でていたということがあげられる。
その背景に、イギリスには迫害を逃れたイタリア北部のロンバルデイア地方のイタリア人が住みついたからということがある。
「イングランド銀行」は「シティ」という金融街に位置するが、元々は北イタリアのロンバルディアから移住してきた商人達がつくった銀行であった。
彼らは戦火を逃れたフィレンツ出身であり、多くがユダヤ人に金融を学んでいた。
そしてシティの中心を走る「ロンバート・ストリート」の名は、この「ロンバルディア」に由来する。
この商人たちが、17世紀の名誉革命でイギリス王に就任したオレンジ公ウイリアムに巨額の融資をもちかけ、その見返りに「貨幣発行権」を得たのだが、いわば「足かせ」として「金本位制」が始まったといってよい。
同時に留意すべきことは、名誉革命時の際、オランダ広ウイリアムは単身イギリスに来たわけではないということだ。
万一に備え、反対派に対抗するための1万4000人の兵士を同行させ、数万人の技術者と金融関係の人々まで引き連れてきたのだ。
人と一緒にオランダの思考方式と金融(資金調達)関係の人材まで引き連れてきたのだ。
当時オランダがイギリスに先んじていたことは、オランダで世界初の株式会社「東インド会社」(1600年)が設立され、イギリスのそれよりも2年遅れであることでもわかる。
ではオランダ式の「資金調達」技術がなぜ生まれたかというと、それ以前にスペインからユダヤ人が多くオランダに移住していたからである。
神はアブラハムに「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」(創世記22章)と語った。
それは、金融技術の普及という面からみれば、よくあてはまる。
旧約聖書の出来事は、新約聖書の「影」または「型」として読むとその「奥行き」の深さがわかる。
ペテロやパウロららは、イエスの十字架による罪の許しと神の国の「福音」を伝道したが、それをを受け入れて信仰を抱くに至った人々を、地上の「寄留者」と位置づけている。
言い換えると彼らの故郷は「天」にあり、「天のエルサレム」が地上に下って「神の国」が実現するまで、この世に寄寓しているということである。
パウロは、信徒への手紙の中で次のように述べている。「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」。
「しかし事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました」(ヘブル人への手紙11章)。
イエスは「神の国」の「たとえ」をいくつか語っているが、その中に前述の「旅人をもてなせ」(マタイの福音書25章)という言葉がでてくる「たとえ」話がある。
キリストが「栄光の座」という最後の審判の座につくときに、人々を「羊」のグループと「山羊」のグループに分けるという話をする。
王さまと表象されるキリストは、羊のグループの人々を祝福して神の国を受け継がせる。
その理由は、「私が飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ」と述べる。
その時、羊のグループの人々は「いつ私たちは、あなたが飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いているのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつあなたが旅をしているのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」と、まったく身に覚えがないことを列挙する。
それに対して、王さまは「最も小さい者の一人にしたのは、私にしたのである」と答えている。
そしてパウロは信徒への手紙の中で、「驚くべきこと」を語っている。
「旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。 獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい」(ヘブル人への手紙13章)。
ところで日本にも、「旅人を大切にする」という文化があり、それは「まれびと信仰」とよばれるものであるが、いくぶんパウロの言葉を連想させる。
この「まれびと」の称は、民俗学者の折口信夫によって1929年に提示されたものである。
「まれびと」(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義するもので、日本人の信仰・他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視されている。
折口は、外部からの来訪者(異人、まれびと)に宿舎や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的にみられる。
また日本には、能の世界に「鉢の木」という題目がある。
大雪の晩に僧侶がある家を訪れ、「僧侶は一晩泊めて欲しい」と家の主人へ求めた。
家の主人は貧しく、訪れた僧侶をもてなせないと断るものの、雪で困っている僧侶の姿に主人は家へと招き入れる。
粟飯あわめしを僧侶に食べさせる事はできたが、暖を取る薪まきが尽きてしまった。
主人は大事にしていた梅や松、桜の鉢植えを薪とし使い、僧侶は感心して名前を尋ねた。
主人は佐野常世さのつねよと言う佐野壮の領主で御家人で、一族により領地を奪われ、今のような貧しい身の上になったことを話した。
後日、鎌倉幕府から呼ばれ常世は鎌倉に駆けつける。鎌倉に着くと常世は北条時頼の前に呼び出される。
そして、あの雪の晩に尋ねた僧侶は自分だと時頼は明かす。
時頼は常世が言う通りに駆けつけて来たのを認めて、元の領地と新たな領地を常世に与えた。
旧約聖書の「創世記」には、アブラハムが旅をしている御使いと主を「もてなす」話がある。
アブラハムは3人の旅人を見ると、走り寄り、ひれ伏して自分の家によって休んでくださるようにと願う。
「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休み下さい。私は少し食べ物を持って参ります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから」(創世記18章)。
そして、アブラハム自身はしもべのようにふるまい、上等のパン菓子と子牛の料理を出して、もてなす。
もちろん、アブラハムは彼らが主の御使いであるとは知らなかったが、旅人への真実を尽くしたのある。
前述のイエスの「神の国」のたとえで、「山羊」に分けられた人々に次のように語っている。
「のろわれた者ども。おまえたちは、わたしが空腹であったとき、食べ物をくれず、渇いていた時にも飲ませず、わたしが旅人であったときにも泊まらせなかった」と語っている。
イエスの時代、地中海世界の主な旅人としてまずは商人、そして政府の役人、宗教的な聖地に向かう旅人もいた。
ユダヤ人の三大祭りの一つの「過ぎ越し祭」には、当時の地中海世界の各地からユダヤ人たちが祭りのためにエルサレム巡礼のための旅をしした。
リビアの首都トリポリには、「クレネ」という町がある。
このクレネの町には、「セファラデイム」とよばれた離散ユダヤ人の住民が数多く住んでいた。
イエスがゴルゴダの丘を上る場面で、「クレネ出身」の人物が登場する。
その人は、十字架を自ら担いで登るイエスを、ローマの兵卒に命じられて「共に」担うことになった「クレネ人シモン」である。
シモンにしてみれば、突然の出来事で一体何がなんやらわからぬまま、十字架の重みを感じたであろうが、重要なことは、その重みをたくさんの見物人の中で唯一「実体験」した人物であるということだ。
シモンのその後の運命は如何というのが気になるところである。
マルコの福音書に「アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人」と書いてあるところを見ると、この一家がクリスチャン・ファミリーになっていることがわかるのである。
また、パウロが書いた「ローマ人への手紙」の中に突然に「主にあって選ばれた人ルポス」と出てくる箇所がある。
クレネ人シモンの息子ルボスは、パウロから「主にあって選べれた人」と呼ばれるほどの信者になっていたのである。
新約聖書には「よきサマリア人のたとえ」(ルカの福音書10章)があるが、ここにも「旅人」が登場する。
ある律法学者が現れ、イエスに「何をしたら永遠の生命が受けられるか」と尋ねた。
イエスが「律法にはなんと書いてあるか」と聞くと、彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』と。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」と答えた。
イエスが「そのとおり行いなさい。そうすれば生命が得られる」と答えた。
もともと律法学者はイエスを陥れようとして質問したため、その答えに面食らったものの、自分の立場を弁護しようと、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」と聞いた。
そしてイエスは「よきサマリア人」のたとえを語りはじめる。
イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
するとたまたま、祭司やレビ人が通りかかるが、彼を見て見ぬふりをして通りすぎた。
ところが、あるサマリヤ人が旅をして通りかかり、彼をみて気の毒に思い、その傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
また翌日、宿屋の主人に料金を手渡し費用が余計にかかったら、帰りがけに、自分が払うと言った。
イエスは律法学者に「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」と聞いた。
彼が「その人に慈悲深い行いをした人です」と答えると、イエスは「あなたも行って同じようにしなさい」。
以上ののやりとりは、質問した律法学者の痛いところをついているということである。
一番律法に精通した祭司やレビ人が、憐みの心を忘れ、彼らが見下しているサマリア人が、よほど一番大切なことを守っているという話だからである。
「よきサマリア人」のたとえの下地に「イエスの復活」の予言があるように思える。
それは、「エルサレムからエマオへ」の道は、復活したイエスが弟子たちに、最初にその姿を現した道と「一致」している。
また、旅をしていたサマリア人が、「帰りがけ」にもう一度「宿屋」立ち寄るとは、イエスの再臨を思わせる。
大事なのは、サマリア人は傷ついた人の「隣人になった」ということで、クレネからエルサレムにやってきたシモンは、はからずもイエスの「隣人になった」ということである。
日本は、「旅人」からえられる宝を、みすみす失っているのかもしれない。