2016年、嵐の出演する航空会社のCMですっかり有名になった宮地岳神社から玄界灘に延びる「光の道」。
福岡県福津市に位置するこの神社へと階段を登って「光の道」を見下ろした時、石鳥居に刻まれた人物の名に目が留まった。
「伊藤傳右衛門寄贈」。
伊藤傳(伝)右衛門といえば、筑豊の炭鉱王。それは、明治三十九年(1906年)寄贈とある。
伊藤伝右衛門(1860-1947)の旧邸といえば、福岡県飯塚市幸袋(さちぶくろ)にあって県の重要文化財に指定されている。
旧伊藤邸は、伝右衛門と妻で佐々木信綱に和歌を学んだ才媛歌人の柳原白蓮が10年間過ごした明治時代の和風住宅である。
伯爵家の娘で明治―大正―昭和の時代を恋に生きた情熱歌人白蓮と、中国革命に協力した宮崎滔天の長男で東京帝大生の宮崎龍介との〝恋の逃避行〟の逸話は、よくしられるところである。
伊藤伝右衛門宅は、重要文化財ともなっており、一般公開の期間には多くの人が訪れる人が多いが、その中には伝右衛門よりも、柳原白蓮への関心の高さを示しているのかもしれない。
伊藤傳右衛門が、鳥居を寄贈したのは「宮地嶽神社」が商売繁盛の神様なので、炭鉱経営の成功を祈願したためなのだろうか。
伊藤傳右衛門寄贈の鳥居は、大宰府天満宮の参道にみることができる。「太宰府天満宮」門前町馬場参道の「二の鳥居」もまた彼が寄贈したものである。
ただ、この石柱に「伊藤傳右衛門」の名に並んで「筑前津屋崎町 石工花田市助」の名が刻まれているのは、またもや宮地岳神社との関連が予想される。
津屋崎は宮地岳から徒歩で30分で着くからだ。
地元の歴史家によれば、花田市助は福津市渡(わたり)の石工なのだという。
「渡地区」は字蛭子ノ元から京泊に至る海岸に採石できる「渡石」(水成岩)があったことから、明治以前から多くの石屋があり、鳥居や石塔などを彫刻していたという。
渡の石工が彫刻した「伊藤傳右衛門」寄贈の石鳥居が、学問の神様「太宰府天満宮」の門前町馬場参道と、商売の神様「宮地嶽神社」門前町参道の石段上り口に建てられていることは、津屋崎の石工、石屋にとって大きな誇りであろう。
それにしても、宮地岳神社と筑豊の炭鉱王にはどんな結びつきがあるのだろうか。
地域の文化施設の資料の中に、宮地岳神社が見下ろすが福津の海(津屋崎海岸など)との予想外の関わりを知ることができた。
筑豊の炭鉱会社員たちが、夏になると大型の貸切バスを何十台も連ねて津屋崎の海水浴場に来ていた。
津屋崎海岸や渡半島には、筑豊の炭鉱会社の海の家や炭鉱主の別荘があり、伊藤伝右衛門が曽根の鼻の海辺に築いた「活洲場跡」や伝右衛門のお抱え運転手の家もあったらしい。
「津屋崎千軒」として栄えた明治の港町・津屋崎には、羽振りの良い炭鉱主らが訪れる割烹旅館も立ち並び、〝博多の奥座敷〟として利用されていたのである。
この津屋崎の海岸線を宗像方面に北上すると、筑豊炭田の石炭の積み出し港であった芦屋海岸に至り、筑豊にまで流れる遠賀川の河口となっている。
案外、津屋崎は筑豊の人々にとって身近な地域だったのかもしれない。
ミュージシャン・福山雅治の父方のルーツは、福岡県柳川市ににある。それは、柳川市の天満神社の石灯籠に、「福山茂市」の名があることでもわかる。
その石灯篭のその寄進者の名前の一人にその名が彫られているのだ。
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大正13年(1924年)の「柳川商工案内」には「佛具職 出来町福山守一」と記載されている。この福山守一が、福山雅治の祖父・敬一の兄にあたる人物である。
福山守一の父が、福山の曾祖父にあたる福山茂市である。NHKの番組「ファミリーヒストリー」によれば、「福山茂市ー 福山敬一 ー福山明 ー福山雅治」となっていた。
かつて柳川では多くの仏壇職人が腕をふるい、人気を博していた。
雅治の曽祖父にあたるのが福山茂市は 幕末の安政4年(1857年)生まれ、明治の初め「仏壇職人」になっている。
そんな茂市の三男として1897年に生まれたのが敬一で、雅治の祖父にあたる。
今も柳川には 福山家の本家があり、かつて自動車の販売 整備をする「福山モータース」を営んでいたという。
遡って大正時代、海軍にいた敬一は「通信員」として朝鮮半島南部の町「鎮海(ちんかい)」に任じられた。
「鎮海」は 日露戦争をきっかけに軍港として開け多くの日本人が 移り住んでいた。
敬一がこの地で出会った女性が石田久(ひさ)、雅治の父方の祖母にあたる。
久の父・角治郎は もともと滋賀県石部の材木商の息子で、結婚後、妻の実家のある山口に移り住んで、商売をしていた。
久は地元の山口高等女学校で学ぶが、意外な人物とも知り合いであった。
久の2歳下の弟憲太郎と同級生であったのが、中原中也である。
福山によれば中也の詩、「汚れっちまった悲しみに」は、自身のロックミュージックと通じるものがあると思っていただけに、そんな接点があったとは、と喜んだ。
久は 女学校を卒業後、父の仕事の関係で朝鮮半島に渡る。
父が「土木建築請負業」商売に成功し 建築業を始め、その後 石田家は仕事の拠点を鎮海に移した。
海軍にいた福山敬一が赴任していた町で、福山の祖父・敬一は近所で評判の美人の久と出会う。
そして1924(大正13年)年 福岡・柳川で結婚する。
昭和の初め、敬一の姉ツタが長崎で暮らしていたののが縁で、敬一と久は 長崎へ移り住んだ。
その敬一と久夫妻の間生まれた次男が、雅治の父となる「明(あきら)」であった。
1941年 明が9歳の時太平洋戦争が勃発し、1945年になると 長崎もたびたび空襲を受けるようになる。
そのため 住宅密集地では火災の延焼を防ぐため「建物疎開」が行われ、福山家も自宅を取り壊され引っ越しを余儀なくされる。
新たな住まいは 元の場所から1キロほど離れた稲佐山の麓で、眼下に三菱重工の造船所を見下ろす斜面にあった。
そして運命の日がやってくる。8月9日、長崎は原爆の悲劇に見舞われる。
当日、午前10時半ごろ祖母の久は 12歳の明を連れ自宅から歩いて5分ほどの米の配給所へ向かう。
久は明を少し離れた木陰で待たせ配給を待っていたところ、11時2分に原爆がさく裂。
久と明がいたのは 爆心地からはおよそ3キロの位置であった。
久はとっさに 近くの溝の中に伏せほとんどケガはなかったが、明の姿が見えない。
明が先に自宅に向かったかもしれないと急いで戻り、家族は幸い無事であったものの、明はいなかった。
数時間後、ボロボロの服を着て明が戻ってきたので、家族一同ほっとした。
明は、ピカっとしてすぐ大きな音がしたので段のそばで身を伏せ、慌てて防空壕へ逃げ込んだ。原爆が投下されてから数時間、明はそこに身を潜めていたらしい。
福山家全員が助かったのは、前述の「建物疎開」が大きく関係していた。
原爆の爆風が直接的に来ることを稲佐山が防ぎ、その威力が少し減じられたからだ。
ミュージシャン福山雅治は、節目の年にはふるさとで大規模なライブを開催してきた。
その会場は 福山自らの歌で「約束の丘」と呼んだ「稲佐山」である。
長崎の原爆投下から6日後に終戦をむかえる。
食糧難の中、福山家は7人の子供を抱えており、その苦労は並大抵のものではなかった。
明は中学を卒業すると工場勤めをした後、20代半に父敬一が営んでいた不動産業の手伝いを始め、宅地建物取引員の免許も取得している。
雅治の母方の実家は同じ福岡県の大川市にある。市の名とおり川が流れている点で柳川と同じである。
ここで商店を営む高田家の娘・貞子は、遠縁にあたるみかん農家の長男・山口力麿との縁談がもちあがった。
山口家は大村湾を望む長崎県大草村にあり、ここで古くからの「みかん農家」であった。
1945年待望の第一子が誕生するが、それが後に雅治の母となる「勝子」である。
2人にはその後4人の子供が生まれ、力麿はカメラ好きで 家族や友人の写真を数多く撮っていた。
しかし1957年 力麿は若い頃から患っていた腎臓が悪化し、40歳という若さで 帰らぬ人となった。この時、長女の勝子は12歳、末の子は まだ2歳であったが、悲しみに暮れている暇はなかった。
貞子は農家を続け女手一つで 子供たちを育てなければならず、そんな母の苦労を見て育った勝子は、手に職をつけようと長崎の洋裁専門学校に通い始める。
叔母が営む「駄菓子屋」があり、近所で不動産屋を営む「福山明」と出会う。
そして明の人柄にひかれ1967年結婚、その2年後に明と勝子の間に次男が生まれ、「雅治」と名付けた。
雅治は中学3年になると 兄と結成したバンド活動に夢中になり、明もうれしそうに見守っていたという。
しかし明は52歳の時、体調を崩し肺がんであると判明。10か月の闘病の末に生涯を閉じた。
当時 勝子はオーダーメードの服を作る仕事をしていて、雅治は17歳でギーターに熱中、音楽漬けの日々を送っていた。
当時、福山はバスで学校に通っていたが、近くの女子高生のファンクラブができて「バス停の君(きみ)」とよばれていた。
高校卒業後、雅治は電気会社に就職するものの僅か5か月で退職し、プロのミュージシャンを目指し上京を決意する。
親戚の中には上京を止めた人もいたが、母方の祖母貞子は雅治の背中を押した。
ただ、家族には「古着屋」で働くといって長崎をでた。
そして東京の横田基地のある福生で生活を始める。その時にピザ屋の配達、日雇いの運送屋のアルバイトそして材木屋でアルバイトをしていた。
福山はある面接で、特技を聞かれた際に「材木担ぎ」と答えている。
上京して半年後オーディションを受け、見事合格。1990年 ミュージシャンとしてデビューする。
福岡県の県庁の前の東公園に立つ亀山上皇像の台座に広田弘毅の父親の名「広田徳右衛門」の名が刻まれている。
1878年2月14日、福岡で石屋を営む広田徳平とタケとの間に長男が生まれた。丈夫に育つようにと丈太郎(弘毅の幼名)と名付けられた。
天神から中洲に向かう明治通りに面した水鏡天満宮の鳥居「大宮寺」の文字は少年時代に広田弘毅が書いた文字である。書道が得意だった石屋の父が、息子の文字をそのまま写して彫刻したものである。
成績優秀であった丈太郎は、県立修猷館中学に入学。成績は常にトップレベルであった。
勉学の合間によく禅寺に通い、座禅を組んだ。町の柔道場にも休まず通った。
この柔道場は、「明法館」といい、政治結社の玄洋社が運営し、現在も地下鉄赤坂駅近くに存在している。
玄洋社は、青年の心身の鍛錬ばかりではなく、論語などの漢学を講義しながら、社会啓蒙活動を行っていた。
ここで学んだ論語は、広田の精神形成に多大な影響を与えることになる。
広田は一度も玄洋社の正式メンバーになったことはなかったが、彼らとの生涯を通じた交流が、後の東京裁判で、広田にとって不利に働いたことは否定できない。
玄洋社は、国粋主義的傾向を持つ右翼的愛国団体で、連合国側の検事は、玄洋社につながる広田を、戦争を引き起こした「黒幕」とみなしていたからである。
広田は、中学卒業と同時に外交官になるため、一高(現在の東大教養部)を目指した。
その夢が実現したばかりか、1933年、55歳の広田弘毅は、斎藤実内閣の外務大臣に就任した。前外相の内田康哉の推薦による。
内田は平和外交、国際協調を推進してきた政治家である。広田を後継者に選んだのは、軍部に抵抗ができ、人望と統率力で省内をまとめることができる人物と見込んでのことであった。
外相としての広田の苦労は、軍部との対応に尽きる。軍部は常に被害妄想的に危機感を煽り、政治を軍事主導に牽引しようとしていた。「軍部は最悪の事態ばかりを考えすぎる。むしろどうしたら最悪の事態を避けられるかではないか」。
1936年、広田は首相に就任した。青年将校が興したクーデター(2・26事件)により、国内が騒然としている時だった。
斎藤実、高橋是清らの現職閣僚が射殺され、首相の岡田啓介はからくも一命をととりとめる。
広田は出世欲とは無縁の人物であったが、事件後、外相であった広田に後継首班の話が持ち込まれた。辞退するも、元老の西園寺公望をはじめとする周囲の説得により、ついに引き受けることになった。
広田は覚悟をきめて、2・26事件のけじめをつけ、軍を粛正する。陸軍幹部の退官、更迭をはじめ、総勢3千名に及ぶ大規模な人事異動となった。
しかし軍部の横暴は、国家予算の約半分に及ぶ巨額の軍事費を要求するまでになっていて、それを阻止しようとして、広田内閣は寿命を縮めた。陸軍の突き上げによる閣内不統一で総辞職。1年に満たない短期政権であった。
その後、広田は近衛文麿内閣の外相として再入閣するも、入閣後わずか1ヶ月後に、蘆溝橋で日中間で衝突(1937年)が起こり、日中戦争に拡大した。
事変不拡大、現地解決の方針を打ち出したものの、軍部の独走は誰も止めることができなくなっていた。ついに日本は泥沼の戦争へとのめり込んでいく。
広田はアメリカ、イギリスを通して、日中間の和平を画策したが、陸軍からの徹底的な妨害で頓挫した。
1948年11月4日、東京裁判判決の日が来た。広田には6人の軍人と共に絞首刑が言い渡された。
広田の死刑は、検事団にとってさえ意外なものであり、広田を知る者たちが立ち上がり、道行く人々に減刑嘆願の署名集めを開始し、合計7万人を超す署名が集まったという。
しかし判決が覆ることはなく、12月23日、死刑は厳粛に執行された。
「何か言い残すことはありませんか」と尋ねる僧侶に、「何も言うことはない。自然に生きて、自然に死ぬ」とつぶやくように語っただけであったという。
さて福岡市東公園の「亀山上皇像」をたてようとしたのが湯地丈雄という警察関係者である。
きっかけは、日清戦争の10年ほど前に、清国の定遠、鎮遠という大型戦艦が長崎港に入港し、長崎市民がその大きさに度肝を抜かれていた一方、清国兵が長崎の町で乱暴狼藉をはたらき現地の警官と衝突した。これを「長崎事件」という。
福岡の警察署長であった湯地はその事件の応援に行き、いつ外国が攻めてきてもおかしくないと危機感を持つべきだと思うようになった。
そして元寇のの戦場となった東公園に元寇時の「亀山上皇像」を建てることを決意したのである。
湯地は職を辞して、全国を行脚し講演しながら浄財を集めていったが、亀山上皇像の台座には、広田弘毅の父親などを含む数名の制作者(石工)の名が刻んであるが、湯地の名はない。
ただ、妻子の名を書いた石を下に埋めたのだという。