立花山の攻防

最近、ニューヨーク・タイムズ「2024年に行きたい街」の世界3位に山口市が選ばれた。
オーバー・ツーリズムが問題化する今日にあって、山口市の「瑠璃光寺」を訪れたことがある人ならば、それほど意外なことではないと思うだろう。
そこにある見事な五重の塔は、大内家第26代の大内盛見(もりはる)が残した最大の文化遺産だが、当時貿易で栄えた大内氏の豊かな経済力を物語っている。
では、その大内氏の経済力の源泉はといえば、福岡の博多で「日明貿易」を独占したことによる。
また大内氏と博多の関わりは、大内盛見の墓が、福岡市の東に位置する糟屋郡酒殿(さかと)の泉蔵寺に存在していることにも表れている。
足利義満は1401年明国との貿易を始めるが、その基地となったのが筑前博多であった。
その際、幕府は九州経営の不安から山口の大内氏を頼ることとなる。
しかしそのことは、九州の諸大名にとって面白い話ではない。
九州の諸大名は、日明貿易の支配権を大内氏から奪い取るため、博多を力で制圧しようとする。
大友(大分)・龍造寺(佐賀)・島津(鹿児島)などが博多進出を目指すが、そのための戦略的拠点となったのが、福岡市東区の香椎近くの立花山である。
さて、応仁の乱は足利将軍家の家督争いに、有力守護大名らのお家騒動が絡んで起こった。
八代将軍義政の実子・義尚を押す細川勝元(東軍)と将軍の弟・義視をおす山名持豊(西軍)の双方に分かれる。
当時、西国の最大勢力とされた大内政弘の去就が注目されたが、貿易面で細川氏と対立していた大内氏は西軍につく。
筑前(福岡)からも秋月・原田・高橋・三原・波多江らの「国人衆」が大内軍に加わって従軍した。
こうした国人勢力の源流が、「大蔵氏」である。
「大蔵氏」は、渡来氏族の東漢氏・秦氏のうち、国庫である「大蔵」の管理・出納を務めた者がその職名を氏の名として称したという。
東漢氏の一族で、「壬申の乱」の功臣である大蔵広隅を祖とする。
平安時代前期には、大蔵氏は学者として菅原氏と双璧を為し、承平天慶の乱で藤原純友の追討に功のあった大蔵春実を輩出した。
大蔵氏は春実以降、代々大宰府府官を務め、子孫は九州の原田氏・秋月氏・波多江氏・三原氏・田尻氏・高橋氏の祖となって繫栄し、彼らは「大蔵党」一族と呼ばれる。
また、福岡の国人衆の中には、「下り衆」とよばれる勢力もあった。
1195年、鎌倉幕府の有力御家人の「武藤資朝」が頼朝によって鎮西奉行として派遣された。
その後、筑前・豊前・肥前の守護となり「大宰少弐(だざいしょうに)」の官位をえた。
そして、武藤氏はこの地位を世襲し「少弐氏」とよばれるようになり、元寇の際には九州武士団を統率し、全国にその名を知られるようになる。
その後、同じ「下り衆」の薩摩の島津氏や豊後の大友氏とともに「九州三人衆」として北部九州に勢力をはった。
大内氏の博多支配に対して大友氏と少弐氏が立ちはだかった。
特に、少弐満貞の存在は不気味で、この地位を安定化させるためには、大内盛見はどうしても満貞を倒さなければならかなかった。
1430年4月、幕府の威信を背負った大内盛見は、自ら兵を率いて大友・少弐に決戦を挑み、大友氏の拠点「立花城」を落城させる。
しかし、福岡市西部の萩原(現糸島市)で討ち死にとなり、家来が盛見の首をもって逃げ、糟屋郡酒殿に葬った。
そこに首塚を祀る「泉蔵寺」が建立され、寺に大内盛見の墓が現存している。
大内氏は、そのリベンジとばかりに、大内家第27代の持世(盛見の甥)が、大宰府に攻め込んで少弐満貞の居城・有智山(うちやま)城を攻め、満貞を自害に追い込んだ。
、 こういう経緯から、少弐氏にとって大内氏は「宿敵」であり、そのため応仁の乱では東軍につくのである。
ちなみに、「下り衆」の中には、常陸(栃木)から下った宇都宮家の支流「筑前麻生家」がある。

福岡市には東区を真っ二つに割るように北西に流れる多々良川という川がある。過去、この多々良川下流で大きな合戦が二度おこった。
一度目は、1336年 足利尊氏と菊池武敏の合戦、「多々良浜合戦」で、足利尊氏はこの一戦に勝利したことで勢力を盛り返し反撃の軍を率いて東上し、湊川合戦で楠木正成を敗死させ、室町幕府を開くことになる。
もう一つの「多々良浜合戦」は戦国時代に起こった。この時、大友氏と毛利氏の争奪戦の場となった立花山は、福岡市東側の糟屋郡新宮町および久山町にまたがる標高367mの山である。
都市部に近く、クスノキの巨木など自然に恵まれ、休日のハイキングコースとして親しまれている。
福岡市東区香椎からは周囲と独立して突き出したような3つの峰(白岳、松尾山、井楼山)が並び立つ姿が目立ち、かつては海や陸の交通の目印ともなってきた。
大内氏による博多支配は貿易からあがる莫大な利益によるものだが、大内氏滅亡後は大友氏が軍事力にものをいわせ、大内氏の「後継者」として登場してくる。
大友氏の博多支配のきっかけは、蒙古来襲による元寇後の恩賞と建武の新政で、息(おき)の浜(博多区・呉服町付近)を与えられたことに始まるという。
当時、大友氏は香椎が防衛分担地であったことから、ここに守護領を設けて、博多東部の湾岸警備と防衛にあたった。また、その後の恩賞で糸島市にも所領をもつことになった。
大友氏よる福岡支配の時代に、博多周辺には立花(新宮町)・宝満(大宰府市)・鷲ケ岳(那珂川町)・荒平(早良区)・柑子ケ岳(こうしだけ/西区)といった「大友五城」が置かれた。
博多に近い立花城を守る立花氏は「西の大友」と称され、大友家にとって重要な分家であった。
また宗家の大友宗麟は、臼杵安房守鑑続(道雪の義母の兄)をもって博多支配に関与させた。
そのことから、博多にはかつて「房州掘」と称される掘があった。
一方、大内氏の衰退以後、中国地方で尼子氏を倒し勢力を強めた毛利元就は豊前の城井・杉、筑前の麻生・高橋・秋月・筑紫・原田・宗像らの国人たちを味方につけて、「反・大友体制」を固めていった。
かくして筑前は、安芸の毛利元就と豊後の大友宗麟の争奪の場となっており、博多は大友氏の勢力下にあって、大友氏の中心的拠点が「立花山城」であった。
しかし、大友宗麟は肥前の龍造寺隆信を攻めのため筑後・高良山まで出陣した折、立花山城に三人の城代をおくものの、毛利勢が立花山城を包囲し、窮地に陥った。
毛利元就は多々良川東岸に対陣し、ついに大友方・三将は毛利軍へ降伏し、こうして立花山城は毛利勢が占拠することとなった。
こで大友氏は「失地挽回」をはかり、主力・戸次鑑連(へつぎあきつら)を臼杵氏・吉弘氏とともに、筑前へと転戦させ、博多から筥崎あたりに布陣した。
今度は大友勢が毛利氏が占拠する立花山を攻める側になったのである。
毛利・大友の双方ともに決め手に欠いたが、大友宗麟は豊後に亡命していた大内輝弘(大内再興軍)の兵を味方につけてたため、毛利氏は吉川元春・小早川隆景に九州からの撤退を命じた。
毛利勢撤退後、立花山城に残った毛利勢は大友方に降伏し、城を明け渡した。
そして1571年、戸次鑑連が城督として入り、鑑連は姓を立花に変え、出家して道雪と号した。「立花道雪(たちばなどうせつ)」の誕生である。
しかし立花道雪には跡継ぎの男子が生まれず、60歳を超えてしまったので、ついに7歳であった女子の誾千代に家督を譲ることにした。
そして道雪の娘・立花誾千代(たちばなぎんちよ)は、幼き「女城主」となる。
その後、誾千代が13歳の時に、大友氏の家臣であった「高橋紹雲(たかはしじょううん)」の子・宗茂と婚姻の儀を行う。
高橋紹運は1548年、大友義鑑の重臣・吉弘鑑理(あきただ)の次男として豊後国筧(かけい)城に生まれた。
義鑑の子・大友義鎮(のちの宗麟)と父・鑑理からいち字ずつ賜り鎮理と名乗る。
1569年に大友義鎮(宗麟)の命により高橋氏の岩屋城と宝満城の二城を継ぎ、名を鎮種(しげたね)と改めた。
以降は北九州の軍権を任されていた戸次鑑連(立花道雪)と共に筑前国を支配することとなる。
誾千代は宗茂を婿に迎えたことで城主から「正室」となったのだが、6年間は幼き「女城主」であったことになる。
まだ幼い子供なので、後見人はいたではあろうが、当時としては異例のことであったことに違いない。
ところで、誾千代が婿に迎えた宗茂とはどのような人物だったのか。
豊臣秀吉の九州平定では、島津が秀吉の最大の敵となった。豊臣方についた豊後・大友氏は、1586年島津勢力と太宰府に近い「岩屋城」で歴史に残る死闘を繰り広げた。
その戦いで功績のあった大友方の高橋紹運の子こそが宗茂である。
宗茂は、関ヶ原の戦いでも義理立てして西軍(秀吉方)についたが、徳川家康率いる東軍に破れ、立花家は改易(取り潰し)になるが、宗茂は特例で奥州棚倉藩に1万石の領地を与えられる。
数年後、立花家は13万石を与えられ宗茂が柳川城主として「奇跡の復活」を遂げる。
さて「女城主」誾千代は、立花城から柳川に移ることになるが、当初父の墓があるので行きたくないと拒んだという。
というのも、父から受け継いだ当初の立花家「取り潰し」は、かつての「女城主」誾千代にとって大ショックであったに違いなく、34の若さて病死している。
また、大友方と島津方の戦いは、現在の福岡県庁のある「吉塚」の地名の由来となっている。
立花宗茂(統虎)が籠る立花城を攻撃する島津の兵は、秀吉の九州上陸の知らせに撤退を開始する。
ひと月ほど前に岩屋城の戦いで実父・高橋紹運を島津に討たれた宗茂は、これを機に城を出て攻撃に転じ、島津方の星野氏の守る高鳥居城(須惠町)に攻めかかった。
この戦いで討たれたのが、八女を本拠とする星野吉実、吉兼の兄弟で、吉実の首は実検のあと埋葬され、その塚は地元の人々から「吉実塚」と呼ばれた。
それがいつのまにか「吉塚」となり、現在の「吉塚商店街」の入口に地蔵堂が建てられ、祀られている。

福岡県の南部筑後地方柳川は、有明の海に面する水郷の街として全国的に知られている。
ゆれる柳を映す水面を船頭の巧みな櫂捌きに揺られながら、赤レンガや白壁を眺めながらの川下りは、今なお優しく人々の心を包んでくれるようだ。
その川くだりの途中で、船頭さんが、「ここがオノ・ヨーコさんのご先祖の家です」という声が聞こえ、ハットとして目をあげると「黒い門構え」が見えた。
ジョン・レノン夫人のルーツは、こんな古くて穏やかな風景の中に隠れてあったのかと驚いた。
オノ・ヨ-コの家系を辿ると柳川生まれの小野英二郎という明治の著名な財界人を見つけた。
彼の先祖は、戦国時代柳川藩・立花宗茂の家老で、「小野鎮幸(しげゆき)」という人物である。
関ヶ原後は加藤清正に仕え、「日本七槍」・立花四天王の一人に数えられる勇猛な武士であった。
オノヨーコのルーツ柳川は立花家の城下町であるが、柳川といえば名門・柳川高校が幾多の名選手を輩出しているが、柳川にはテニスに青春をかけたあるカップルの思いがつまった場所でもあった。
柳河城は蒲池鑑盛によって本格的な城として作られ後、立花氏12代の居城として明治まで続いた。
1872年、正月18日火を発し慶長以来の威容を誇った天守閣が一夜にして焼失するという出来事が起こった。そして、この城址にこそテニスの名門・柳川高校のテニスコートが設営されているのである。
柳川高校の創立者である大沢三入氏が立花家15代当主の鑑徳に協力を依頼し、1943年5月柳川高校の前身となった「対月館」が設立された。
その時、立花氏当主は名誉会長となり対月館と米蔵が校舎として使われ、2年後柳川本城町の現在地に移転し柳川高校となった。
ところで立花藩・4代目鑑虎の時、四方堀を巡らした花畠の地に「集景亭」と言う邸を構えて、遊息の場としたが、その地名から柳川の人々は立花家のことを「御花(おはな)」と呼び親しんできた。
ここを料亭旅館「御花」としたのが16代当主の立花和雄氏の妻・立花文子である。
こここで長年料亭「御花」を経営されてきた立花文子は、意外な経歴の持ち主である。
立花さんは、柳川立花伯爵家の一人娘として生れ、テニス日本チャンピオンに耀き、最初に「テニスの柳川」を全国にアピールした人といえるかもしれない。
三男三女を育て、料亭「御花」の女将として逞しく時代を生き抜いた最後の「お姫さま」である。
自伝「なんとかなるわよ」を読むと、かつて人々からかしずかれる立場から、人様にサービスをする立場への転換は本人の中でも様々の葛藤をよびおこしたことがわかる。
その一方で、「お姫様に何ができるか」といわれて、反発したという。
「御花」は1950年、夫である和雄氏(1994年死去)と二人三脚で始めた料亭で、終戦直後多額の「財産税」を課せられ苦境に陥った立花家の生き残り策でもあった。
立花の「お姫様」から人に仕える女将への転身には、何もそこまでと涙する士族出身の人々が少なからずいたが、文子は苦境にもひるまず料亭をきりもりした。
文子さんの夫で16代当主で「御花」社長も務めた和雄は、海軍元帥・島村速雄の次男である。
島村速雄は、非常な秀才で智謀ははかりしれず、軍人には珍しいほど功名主義的な所がない人物であったという。その生涯はつねに他者に功を譲ることを貫いた、天性のひろやかな度量のある人物として評されている。
中国で義和団の乱が終結すると、日本とロシアの対立がいよいよ鮮明となる。
1903年、来るべきロシアとの戦争に備えて連合艦隊が再び組織され、東郷平八郎中将が司令長官に任命されたが、島村は幕僚のトップである参謀長となった。
そんな島村速雄の次男・島村和雄が婿になった「お花邸」の女将・立花花子は、今のお姿からは想像しにくい「輝かしい勲章」の持ち主である。
なんと学生時代にテニスの全日本チャンピオンもあったのだ。
文子は立花家15代当主・鑑徳の二女で活動的な父の影響で、女子学習院時代にはスキー、水泳が得意なモダンガールで、学習院高等科のころはテニスのダブルスで「全日本女子の王座」についたのである。
学生時代よりテニスを愛好し、国内のスタープレイヤーとの交流もあったという。
後に夫となる島村和雄は、女子テニスチャンピオンの名前「立花文子」の名前を、まさか将来見合いして結婚する相手になろうとは思いもせず、しっかりと覚えていたという。
立花和雄氏と文子との間に「テニスコートの恋」が芽生えたかどうか定かでないが、お姫様(文子)とその夫・和雄が居した柳川は、柳川高校によって「テニスの柳川」として世に知られていく。
博多湾の東部新宮町に位置する立花山、そして玄界灘に面した港町・津屋崎には大峰山がある。
大峰山の山頂には東郷平八郎の旗艦「三笠」を象った塔がたつ展望所があり、ここから3つの峰をもつ「立花山」の山容がよくみえる。

そして、立花誾千代に始まる立花家「女城主」の系統は、家老筋のオノヨーコや御花女将・立花文子にも受け継がれた感がある。
鎌倉時代末の1330年に豊後大友氏の大友貞載によって立花山城が築かれて以来、立花山は南北朝・戦国時代を通じ、交易拠点であった博多を見下ろす軍事的に重要な要塞であった。
築城以来、大友氏は所在地の地名立花を姓にした「立花氏」によって受け継がれ、宗家大友氏の筑前経営につくしてきた。
この大友方の「立花家」の流れに柳川の儒学者・安東省庵がいる一方で、島津方にも一人の筑後八女出身の儒学者がいた。
豊臣秀吉の島津征伐の際、当主・島津義久が降伏した後も秀吉に抗戦し、矢が秀吉の輿に当たる事件を引き起こし、罪せられたのが島津蔵久である。
この蔵久の子孫にあたり、久留米の有馬家に仕えた儒学者の家が「広津家」である。
そして明治時代、「広津家」の家系から広津柳朗という小説家がでた。
広津柳朗は、日清戦争前後の暗い世相の中、家族の重圧に逃れて、本能の発動から「犯罪」を犯す人々を描いた。
その息子が広津和郎であり、小説家でありながら、なぜか「松川裁判」批判がライフワークとなった。 1949年、鉄道に関わる「不可解」な事件が相次いだ。下山事件・三鷹事件・松川事件である。

1567年、大友氏の家臣であった高橋鑑種が豊前国・筑前国・肥前国の国人と連携して謀反を起こした際、父・鑑理や兄・吉弘鎮信と共に出陣して武功を挙げた。