弱者の戦術

1972年5月30日、テルアビブ・ロッド国際空港。世界を震撼させるテロ事件がおきた。24名が殺害されたテルアビブ空港乱射事件である。「3人の実行犯」はいずれも20代の日本人だった。
逮捕された実行犯の一人は「日本赤軍」を名乗る岡本公三、他の一人は射殺されたが、もうひとりが手榴弾で自爆したことに衝撃が走った。
「日本赤軍」は、戦後イスラエルが占拠し、追い出されたかたちのパレスチナの人々に共鳴・合流した。
岡本は逮捕後、「今回の作戦はアラブ世界に対して大きな勇気づけを行うであろう。これがPFLP(パレスチナ人民解放戦線)と我々の一致点であった」とのべている。
この出来事は、自殺はイスラム教で禁じられているにもかかわらず、このテロで3人は英雄視され、「自爆テロ」は新しい戦術として広まっていく。
第一次世界大戦前、パレスチナの地は、ユダヤ人は人口の約1割、わずか9万人にすぎなかった。しかし、ナチスによるホロコーストにより、国際社会でシオニズム(イスラエルの祖国復帰運動)がおき、第二次世界大戦後にhは258万人となった。
その陰で、土地を失ったアラブ人たちは、ゲリラ組織を結成し、「テロリズム」によって自らの主張を国際社会に訴えようとした。
PFLPは、「我々はナチスの行いの対価を支払わされている。我々は難民を戦士という新しい人間に変えるのです。パレスチナゲリラとして家のない難民が自由の戦士となるのです」という声明をだした。
ヨーロッパに潜伏していた日本の過激派である赤軍幹部・重信房子の下、日本赤軍が「パレスチナゲリラ」と合流する。
岡本公三は法廷で「世界中の人に警告しておく。これから同じような事件はニューヨークワシントンで次々おこる。ブルジョワの側に立つ人間はすべて殺戮されることを覚悟しておかなければならない」と語った。
その予言は3か月後の1972年8月、オリンピック「ミュンヘン大会」で現実のものとなった。イスラエルは30人の選手団を派遣していた。
大会11日目、イスラエル選手団の宿舎に8人のパレスチナゲリラが侵入した。二人を殺害し9人を人質にとった。
当局に拘束されている岡本公三ら政治犯の釈放を要求。交渉に臨むその右手には常に手榴弾が握られていた。
ゲリラは、「我々の作戦がオリンピックに参加した青年の心を傷つけたとしたら謝る。だが24年間もその土地を占領され自尊心を踏みにじられ苦しみ続けている者のいることを思い起こしてほしい。なぜテロと脅迫によって占領を続けているイスラエルが参加を許され、我々の旗は会場はどこにもないのか」と語った。
事件は最悪の結末を迎えた。実行犯5人は射殺されたが、死の直前、人質9人を乗せたヘリコプターを手榴弾で爆破した。人質9人全員が死亡した。
犯人の棺を出迎えるアラブ人の映像に、歓声をあげてむかえる人々の姿があった。
ゲリラ組織の司令官は「自爆テロはジハードの最高レベルであり、私たちの信仰の深さの表れだ。爆撃者は聖なる戦士なのである」と語った。
なお、2022年5月、刑期満了で出所した日本赤軍元最高幹部の重信房子(77歳)は、オランダ・ハーグのフランス大使館占拠事件に共謀し、殺人未遂の罪などで服役した。
「武装闘争を選択したことは未熟だった。観念の“正しさ”に頭が占拠され、人と人との関係や痛みに無自覚だった。身勝手から間違った路線に進んでしまった」と当時を振り返る。
今、議論を封じ、女性蔑視もあった組織の体質を省みながら、「被害を強いた方々に謝罪をしたい」と話す。
2023年3月12日、重信は墓参りのため横浜を訪れた。
手をあわせたのは1972年に群馬県の山中で「連合赤軍」の仲間にリンチされ命を落とした親友の遠山美枝子(当時25)。
遺体が発見された3月13日を遺族が命日とし、獄中で、遠山をしのび「三月哀歌」と題した短歌を多く詠んだ。
「ああ友よなぜ留まったのか雪山に卑怯になれない君の過ち」。

日本軍の後退により、1944年マリアナ諸島を飛び立った米軍機B29による、日本の各都市への空襲が始まる。1945年1月に入ると、政府は「空襲対策緊急強化要綱」などを定め、対策を強化していった。
日本本土で空襲への対応が進められる一方で、2月には硫黄島に米軍が上陸し、島を守る日本軍と米軍との間で激しい戦いが行われた。
硫黄島はアメリカ軍にとってはB29爆撃機による日本本土空襲の基地として重要であり、日本軍にとってB29をその往路でも帰路でも攻撃する事ができる極めて重要な戦略的拠点であった。
硫黄島での戦闘が続く3月、日本本土への空襲は激しさを増していった。
3月10日未明の「東京大空襲」では325機のB29が空襲を行い、38万発に上る爆弾や焼夷弾が投下された。
この空襲による被害は、死者10万人、罹災者100万人以上に及んた。
激しさを増す空襲に対して、政府は児童をはじめ、都市に住む人々の疎開そかい、住民による防空活動の強化などを中心に対応を進めた。
硫黄島では、2月19日から3月26日にかけて、島を守る日本軍と、上陸した米軍との間に激しい戦闘が行われた。
日本軍の指揮をとったのが陸軍中将の栗林忠道。
3月26日に栗林司令官と市丸利之助司令官が自決した事で日本軍の組織的抵抗は終了した。
硫黄島は、本土防衛の第一線として確保する方針であり、日本軍は天然の洞窟や岩場を最大限に利用して地下陣地を構築した。
一方アメリカ軍はこれまでの太平洋諸島戦いの中で最大限の砲撃や爆撃をもって攻撃。
1ヶ月以上の攻防の後にアメリカ軍は多数の死傷者を出して硫黄島を奪取した。
結果的にこの戦いではアメリカ軍は6891人が戦死し、日本軍は212人が投降した。そのほかの全員が戦死または自決した。
硫黄島における「トンネル作戦」は抵抗戦としては相当な効果をもち、玉砕したにせよ本本での市民の疎開を助ける時間的な余裕を与えることとなった。
さて、ベトコンの戦いが硫黄島の戦術を参考に行われたという説がある。実際、元日本兵が結構な数参加しているので、間接的には戦闘の経過は伝わっていたかもしれない。
沖縄戦は、硫黄島の戦闘を元に作戦を練っていて、日本兵であれば硫黄島で用いた戦法を知っていてもおかしくはないからだ。
第一次世界大戦では、「地下トンネル」まではいかなくとも「塹壕(ざんごう)」が築かれた。
ドイツ侵攻を防ぐために、フランス軍側は「マジノ線」という300キロにおよぶ塹壕(トレンチ)がきずかれた(余談:トレンチコートが生まれた)。
この塹壕を突破するために、ドイツで開発・登場したのが戦車である。

1960年代、世界の目は泥沼化するベトナム戦争に注がれた。
南ベトナム解放戦線(ベトコン)は、ゲリラ戦術によって圧倒的な軍事力をもつアメリカ軍を翻弄した。
そのゲリラ戦術の生みの親が「赤いナポレオン」の異名をもつ軍事の天才ボーグエンザップ将軍であった。
優れた軍事戦術家であったザップは機動性を重視した戦略を好み、その動きは神出鬼没と呼ばれた。
フランスの植民地支配の際、ディエンビエンフーの戦いによって、フランス領インドシナからベトナムを解放し、ベトナム戦争ではベトナム人民軍の指導者としてアメリカ軍及び南ベトナム軍との戦いを指揮し、ベトナムを再統一する大きな原動力となった。
そして「ベトナム救国の英雄」として、ホー・チ・ミンと共に、深い敬愛と尊敬を集めた。
ザップは1911年、フランス領インドシナのクアンビン省レトゥイ県に生まれるた。 父は地主であり、何不自由ない幼少期を過ごした。
父はザップが生まれる前にも2度独立運動に参加していた。
しかし1919年、植民地政府の転覆計画にかかわったとして逮捕され、その数か月後に獄死した。
また同時期にザップの姉も逮捕され、間もなく釈放されたものの数週間後に病死している。
兄から自宅で教育を受けたのち、1924年当時の首都フエの国学(国立リセ)に入校した。
のちに南ベトナムの大統領となるゴ・ディン・ジエムやホー・チ・ミンも同学校の出身である。
しかし1926年、学生組織を組織したことで退学処分となり、帰郷。このころ、地下組織であった新ベトナム革命党に入党、そこで共産主義思想に触れた。
フエに戻ったザップは学生運動に身を投じるも逮捕され、懲役2年の判決を受け刑務所に収監された。
13か月後、証拠不十分で釈放されたザップはインドシナ共産党に加入。反政府デモに参加したことで、またもや2年間刑務所に服役する。
出所後の1933年、インドシナ大学(現ベトナム国家大学ハノイ校)に入学して、法学と政治・経済を学んだ。
在学中、下宿先であった大学教授の娘と出会い、ともに独立運動に参加していた二人は相思相愛となり、1938年5月に結婚。翌年、一女をもうけた。
在学中のザップは、学生運動に熱中するあまり学業をおろそかにしてしまい、行政法審判官の試験に落第してしまった。
法律家としての将来を閉ざされたザップは、ハノイ市内にあるタンドン学校の歴史教師としてはたらいた。
その間、「人民の声」をはじめ多くの革新系新聞にベトナムの社会・経済情勢、国際問題に関する多数の記事を寄稿した。
また自らも、自らも地下新聞を発行したりした。
ザップは孫子を尊敬し、ナポレオン・ボナパルトのリーダーシップについて研究し、トーマス・エドワード・ロレンスの「知恵の七柱」に感銘を受けた。これは後年、彼の指揮官としての能力を発揮させる大きなきっかけとなった。
1939年に、フランス植民地政府によりインドシナ共産党が禁止され、ザップは中華民国内の中国共産党支配地域に亡命した。
ザップの妻と従姉妹は、フランス当局により逮捕され「獄死」する。
1940年にザップはホー・チ・ミンと出会い、間もなく彼の「側近」となった。
第二次世界大戦下の1944年に、ベトナム解放軍の前身である武装宣伝旅団を組織、ベトナム解放軍が正式発足すると、最初の司令部3人の中の一人となった。
同年8月、イン1944年9月、「ベトナムの独立宣言」とともに、臨時政府の内務大臣に任命された。
1946年11月3日、ホー・チ・ミン内閣の国防大臣に任命される。
以上のように、学生時代にベトナム独立闘争に身を投じたザップは、独学で軍事戦術を学び、ホーチミンのもとで才能を開花させた。
ザップがその名声を確立したのは、フランスからの独立戦争「ディエンビエンフーの戦い」であった。
四方を山々で囲まれた天然の要塞ディエンビエンフーに1万人のフランス軍がたてこもった。
それに対してザップは想像を絶する画期的な戦術で臨んだ。
ザックは、とうてい進軍できない道なき道を現地の住民の力を借りて進み、山頂にまで大砲をもちげた。
さらに大量の弾薬や武器の運搬に成功した。思いもよらぬ山頂からの攻撃に、フランス軍は防戦一方となっていった。
この戦いは、世界史上はじめて植民地が大国の支配を武力で打ち破ったという意味で記憶されるべき戦いである。
また、この戦いが独学で軍事戦略を学んだ小柄なベトナム人に、フランスの将軍や大佐たちが完全に翻弄された戦いという意味でも稀有なものだった。
フランスが撤退したのちに、フランスに代わってアメリカが戦いを引き継ぎ、そのベトナム戦争でもザップの軍事的才能はいかんなく発揮された。
アメリカのジョンソン大統領は勝利は近いと訴え、戦力増強をすすめた。
そして、「敵はまだ降伏しないが、勝負はもうついている。勝利は時間の問題だ」と豪語した。
ところがジョンソンの発言からわずか1週間後、ザップ将軍がたてた作戦が世界を震撼させる。
1968年1月31日、「テト攻勢」である。旧正月にあたるこの日、ゲリラ部隊を一斉蜂起させ、首都サイゴンではアメリカ大使館を占拠。大国の威信を粉々に打ち砕いた。
その一部始終は衛星放送で伝えられ、世界で初めてリアルタイムで戦争をまじかでみることとなった。
ゲリラ部隊が大使館だけではなく、政府機関やインフラ施設を攻撃した。
ザップは、「我々はテト攻勢において都市の中枢機関を攻撃すれば、敵の兵力にダメージをあたえられるだけではなく、テレビを通じて必ずアメリカ人一人ひとりに、心理的影響を与えられると考えたのです語った」。
そしてザップの思惑は見事にあたった。
テレビでベトナムの惨状を知り、全米で反戦運動がひろまった。60パーセント以上あった戦争支持率は30パーセントに下がった。
1975年4月30日、サイゴン陥落。ベトナム戦争は終結した。
南北統一後、ザップ将軍は国防相に任命された。後年ベトナム戦争をこう振り返っている。
「アメリカと戦うために払った代償は甚大なものであった。 我々は何百万もの軍人を犠牲にしましたが、独立と自由ほど尊いものはないのです。 独立を自由は、それらの犠牲よりも貴重なのです。 しかしそのために命をささげた英雄たちの血に対する償いは、いまだに果たされてはいませ ん」。
さて現在進行中のウクライナの戦いで、ドローンによる映像解析やSNSによる発信などが戦いの趨勢を左右するようになり、「ハイブリット戦」とよばれるようになった。
そうした戦いの嚆矢がザップ将軍が勝利の導いた「ベトナム戦争」だったかもしれない。
それはテレビ映像を戦術のひとつとして使った戦いであったからだ。
ザップ将軍は次のように語っている。「ゲリラ戦術は経済的に劣った国の人民が、強力な装備をもつ訓練された侵略軍に対し立ち上がる時の戦争形態である。敵が強ければかわし、敵がよわければそこを攻める。定まった境界線などはなく、敵のみえる板津ところが戦線なのである。小さな勝利を重ねることにより、敵を消耗させるのである」。
とはいえ、アメリカの海兵隊員が村の民家を焼き払ってい映像にあるとおり、現地住民を動員するザップのゲリラ戦術は、アメリカ軍が敵と味方を見分ける区別を見失う事態をまねいた。
現在進行中のイスラエルとパレスチナとの「ガザの戦い」も、「地下トンネル」がフル活用されている点で、「硫黄島の戦い」や「ベトナム」戦争と似ている。
ただ「ガザの戦い」では、パレスチナ側はベトナムのように攻撃をさえぎるジャングルのようなものは存在せず、人口過密地域に容赦なく爆弾がふりそそがれている点で、残酷さを際立たせている。
孤島での軍人のみの戦いとなった「硫黄島の戦い」は、一般市民の犠牲はゼロであった。
世界は、ガザにおいて「弱者の戦術」が多くの市民を巻き添えにすることも、映像をとおしてまのあたりにしている。
現在進行中のウクライナ戦争やガザの戦いは、たとえ終戦にもちこむことができたとしても、その「憎しみ」は増幅した形で残り、別のかたちで蘇ってくる可能性が高い。
イスラエル側は「憎しみ」を終わりにしようとしているのか、パレスチナの次世代を犠牲にすることに、心理的抵抗はないようだ。