いまどき語りたい話100

チッソは私であった

戦争や災害のニュースをみると、よりよい社会を目指した「近代」がなぜこんなことに、という思いにかられるが、その答えは明白な気がする。
それは一言でいえば、「欲望」。食べたい、見たい、承認されたい、優位に立ちたい。しかもそれらの欲望は、抑えられないように仕組まれているということ。
人間の世界で必要なモノが行き渡ってしまえば、消費は頭打ちになるのは必然だ。
政府は「内需拡大」を経済政策の柱とし、企業も昨日まで不要だったものを必要なものに変えてしまう。
せっかく創出した「欲望」が抑えられでもしたら、みんなの雇用がなくなってしまう。
つまり、この世界は「欲望」によって支えられており、それは逃れようもないシステムとして構築されている。
日常の衣食住から冠婚葬祭、医療も福祉も教育も「ゆりかごから墓場まで」このシステムの内に組み込まれている。
2024年のNHK「ヒューマンエイジ~人間の時代」の第三回では、「食の欲望」を取り上げていた。
金に糸目をつけず世界の果てまで美食を求める「フーディー」と呼ばれる人たち。
その一方で世界の大半が、わずかな種類の穀物由来の加工食で胃袋を満たす。
人間と同じものを食べていると推測されるニューヨークの「アリ」数種類を分析すると、ほとんどの成分がトウモロコシ由来の炭素で出来ていた。
我々の食生活に欠かせない糖もデンプンも、トウモロコシから抽出しているのだそうだ。
そういえば、バニラアイスを食べた時、ほんのりとトウモロコシの味がした。
その結果、トウモロコシの農地をつくるために、アマゾンの森林が伐採されいている。近年ではアマゾンでは、中国向けの大豆を作るために、生物多様性を犠牲にして、土壌改良(?)を行っている。
こういう食の環境の中で安くて美味しい(?)ファストフードで腹を満たすのは、主に貧困層の人々なのだそうだ。
1968年制作のアメリカ映画「卒業」で、これから就職しようとする主人公に、父親が「これからはプラスチクスだ」と説いた場面があった。
今プラスチクスが環境汚染の元凶のひとつに数えられている。
世界の化学企業で思い浮かべるのが、アメリカの「デユポン」である。
開発したばかりのニトルセルロースを使ったカラーフィルムで撮影した一族の写真を見たことがある。
遡って1920年代、アメリカの生活水準は史上初めて生活必需品以外のものが買える時代が到来した。
絹の肌触りをアピールしたレーヨン、安価で大量生産できる人工繊維が女性の装いを華やかに変えた。
セロファンは包み紙を進化させた。店員から渡されていた商品を自由に選べるようになり、スーパーマーケットが広がった。
これらを大量生産したのが「デユポン」。19世紀から化学メーカーとして君臨してきた。
「デユポン」は第一次世界大戦では火薬の40パーセントを供給、「死の商人」ともよばれた。
「デユポン」は火薬の原料から合成ゴムやプラスチクスなど様々な素材を作った。
中でも爆発的に売れたのがナイロンストッキングで、デユポンは火薬メーカー以上の利益をあげた。
新製品が発表されるたび、人々は「欲望」を掻き立てられていく。
第二次世界大戦がはじまると、ストッキングは消え、火薬やパラシュートになる。
以上が、繁栄を極める一方で、地球環境に危機をもたらしている人間社会の一例。それでも「もっと豊かに」という欲望を加速させていく時代こそが「ヒューマンエイジ」である。

最近、水俣病患者のヒアリングの途中で、環境省の役人がマイクを切ったことが話題となった。
、 この環境省の役人の対応で思い出したのが、水俣病の加害企業チッソと戦った一人の漁師の言葉「チッソは私であった」である。
「チッソ」とは1960年代、日本の高度経済成長を支えた化学製品を製造した大企業である。
水俣は、豊かな内海の不知火(しらぬい)海に面した漁民たちのまちで、人々はとれたての新鮮な魚を食卓に乗せて、それを食べて暮らしていた。
そんな水俣のまちにチッソ株式会社(当時は日本窒素肥料株式会社)の工場がやってきたのは1932年のことだった。
このチッソ水俣工場から、水俣病の原因であるメチル水銀が工業排水として不知火海から流出していたのである。海水に流されたメチル水銀は魚の体の中に蓄積されて生き、それを食べ続けた人々に神経疾患が発症したのである。
はじめはその原因がわからず「奇病」「伝染病」といわれて患者たちへの差別も生まれたが、1958年熊本大学医学部の研究報告会で原因が有機水銀にあるのではないかという説が提唱された。
国や県は水俣病患者の認定を行い、患者への補償を行うとともに、工場排水など環境面での規制を行うようになった。
しかし水俣病の問題は公害認定から半世紀以上たった今でも現在進行形なのだ。それは水俣病患者への補償を巡る問題だ。
緒方正人は、幼いころに父を亡くし、当初は会員千数百人を抱える「水俣病認定申請患者協議会」の会長に就任するなど補償運動の中心的な立場にあった。
緒方は「親父の仇を討とうとする気持ちがずっとあった」と語っている一方、「その運動には釈然としないものがあった」と述べている。
「私が求めてきた相手、チッソが加害者であるといいながら、チッソの姿が自分に見えてこない。手の届かないところにいる。当時の運動はまるで迷路を歩まされているように、裁判や認定申請という制度の中での手続き的な運動になっていきました」と述べている。
緒方は、裁判所や行政府とかけあい水俣病の認定や「補償責任」と戦ううちに、自分が何と戦っているのか、だんだんわからなくなったのである。
そして「認定申請患者協議会」から離脱し、自分自身認定申請を取り下げてひとりになったその後、自分ではどうにもならないと感じた3か月ぐらい狂いに狂ったという。
そうして妻や子供もいながら頭が狂ったようになって、テレビを見るだけで耐えられず、画面をみるだけで身悶えして、テレビを外に放り投げたりしたこともあった。
信号をみても、嫌悪感をおぼえるなど、一方的に指示してくるものに対して、物凄い拒絶幹をおぼえた。
そういう狂乱の時機を経て気づいたのが、水俣病を引き起こしたのは一企業ではなく「巨大なシステム社会」であり、さらにたどり着いたのが「チッソは私だった」という認識であった。
緒方が生きてきた半世紀以上の中で、車を買い求め、家には冷蔵庫があり、仕事ではプラスチックの舟に乗っている。
いわばチッソのような化学工場で作った材料で作られたモノが家の中にたくさんある。
水道のパイプに使われている塩化ビニールの大半は、当時チッソが作っていた。
近年では液晶がそうだが、我々がチッソ的な社会に生きている。
水俣病事件に限定すればチッソという会社に責任があるけれども、時代の中で我々もまた「もう一人のチッソ」なのではないか。
緒方によれば、「システム社会」とは、法律であり制度でもあるが、それ以上に時代の価値観が構造的に組み込まれている世の中の在り様である。
患者の認定制度は対象を絞り込む装置として機能し続け、最高裁が幅広く救済する判決を言い渡しても、政府は頑なに基準を見直さない。
このため司法に助けを求めてきたが、水俣病の問題が、認定や補償に焦点が当てられて、それで終わっていいのかという気がした。
その間、チッソから本当の詫びの言葉をついに聞くこともなかった。県知事や大臣、いわゆる国からも、いまだに水俣病事件の本当の詫びは入れられていないというのが実感であった。
つまり、いまだに「一体だれが加害をした主体なのか」捉えきれていない。
国や企業の人々は、その制度の中でそうふるまっているだけで、彼ら自身が患者たちと人間的に向かい合っているわけではない。
それが、このたびの水俣病の患者のヒアリングの場面で、環境省の役人がマイクをきった問題と繋がっている。
責任が制度化され、「お金を払ったんだからこれで解決だろう」ということになってしまう。
そこには加害者が被害者に人間として正面から向き合って詫びるという「人間の責任」が抜け落ちている。
そしてさらに緒方は一歩踏み込んで、自分を審問する。
「もしかしたら、自分もチッソに加担していたのではないか」という考えが起きる。
チッソや国の人々が制度の中の人間として、患者たちににべもなくふるまうのならば、自分自身も同じような「立場」だったら彼らと同じように対応してしまうのではないか。
それまで当然視していた被害者‐加害者関係の絶対性はぐらつきだす。
緒方は魚について論じている。緒方たち漁師は命を懸けて漁に出て、魚を殺して食らうことによって生きている。だからこそ人々は生き物を殺して食べるという罪深さによって自分たちが養われていることを意識してきた。
しかし今はスーパーに行けば発泡スチロール容器に決まったサイズで入れられて売られている。
それは農産品や家畜の肉でも同じことで、包丁を使うこともなく食べることができるかもしれない。
そのような商品流通の中では、それを買う人は単にそれを商品として認識するのみで、殺して食うことの罪深さに思いが至らない。
また人間にしても同じことだ。人間も商品価値として認識されるようになっている。
いずれにしても、我々を取り巻くたさんの仕組み、制度の中にからめとられているところを自覚せずにはいられない。
緒方正人の「チッソは私であった」という言葉は、絶えず自分が罪深い存在であることを突き付ける言葉である。
「チッソは私であった」に至る思考過程は次のとおりである。
公害事件や薬害事件が起きるたびに、会社の社長はじめ加害者とわれる人たちの責任について損害賠償責任とか、厚生省や大蔵省の責任が、民事責任とか刑事責任とかいわれ、そういう仕組みを作ることだけは、必死に行われてきた。
しかし、一番奥にあるところの人間の責任ということを避けて、仕組みを作ることで埋め立ててきた。
土木工事としての海の埋め立てや、田んぼや畑の埋め立てばかりではなく、その他にも制度的な埋めたてをたくさんやってきた。
それは命を埋め立てたばかりか、人間の「罪深さ」を埋め立ててきたのではないか。
それは海や山に対する罪深さであり、犯してきたことの、埋め立ててしまったことの、海も山も川も汚してきてしまったことへの罪深さであると。
この言葉にひとりのミュージシャンのことを思い浮かべた。
誰もが知る唱歌「春の小川」は大正元年に生まれて、今年100年にあたり、現在も小学高低学年で習う。
作詞の高野辰之は、渋谷の代々木に暮らし、渋谷川の支川・河骨川の景色を詠みんだ。代々木八幡駅近くに「春の小川」の石碑がたっている。
しかし今や、渋谷駅から上流は蓋をされて暗渠となり、下流では開渠ではあるものの、深く掘りこまれたコンクリートの三面張り水路となっている。
東京オリンピックに際しては都内14河川の全部または一部の暗渠化が決定され、その後、急ピッチで工事が進められた。
すなわちオリンピックを開催するために江戸から連綿と続く風土・景観が切り捨てられたのである。
加瀬竜哉というロック・ミュ-ジシャンは、小さい頃、宇田川という川の側に住んだが、川の存在を長く知らなかった。
それは、大人たちの愛、つまり後年自分達が安全に清潔に生きるための選択だったのだろう。
ただ後に、自分が川の上にいて生きていることを知ってショックをうけた。
まるで臭いものにフタをするように、何かを得るために何かを犠牲にしていることを知る。
以後加瀬は、東京中の暗渠を訪ね歩くことになる。 そして町の表面には表れてこない川の暗渠を探しだし、見つけてはフタを開けてはいりこむ。
そして「ごめんね」といって、誰もいない暗がりで「春の小川」を歌う。
加瀬にとって「春の小川」こそロックの原点なのだそうだ。

緒方正人の論点は、最近新聞で読んだ社会学者の池田緑の論点とも重なる。
池田は、環境省の役人の行為を「ひどい」と思う人がいるならば、そんなことをする役人と一市民である自分は違うという考えが背景にあると指摘していた。
池田は、役所とあなたは切り離すべきではないという。問題の根本に、「被害者」対「被害者以外の日本人全体」という集団の対立があるからだ。
水俣病の被害は工場があった周辺に局所化されて強烈なかたちででた。汚染を止めるよりも社会を豊かにすることが優先された。
水俣病の患者や被害者を社会の隅に置くことによって、私たちは広く薄くとはいえ繁栄という利益を享受してきた。つまり我々は利害の当事者なのである。
水俣病の公式確認から68年過ぎているが、この広く薄い利益の恩恵は今の若者も受け取っていて無関係ではない。
池田に対して、社会問題について知らないのは罪ですかという人がいるが、罪とは言わずとも、「特権」ではあると答える。
ある利害関係の中で苦しんでいる人がいるのに、それを知ることもなく生きてこられたのだからだが、そこには生まれながらに、取り返しのつかない立場の違いがある。
それが「ポジショナリティー(立場性)」の問題で、集団間で権力的・抑圧的な関係があった時に、どのようにそれが表れえてくるかを分析する概念である。
そこにはどんなに被害者に寄り添おうとも、抑圧する側の集団に属していれば、自分の責任を問われる。その集団的な立場性は、長年の社会的な営みの結果であるから、我々が変えていける分ではある。
そしてその「非対称な関係」が解消してはじめて、集団によるポジショナリイテイーに関わる責任を免れられる。
一方で、社会に渦巻く不安や不満を糧にして、極論をあおる政治が台頭している。不信を憎悪に変え、果ては相手を否定する言説へと変貌する。
最近、社会の分断はSNSなどにより進行しているといわれる。
相手に少しでも寄り添えば、「裏切り者」のつぶてが飛んでくる。異質な「彼ら」と交わるよりも、同質の「われわれ」の空間に閉じこもる方が傷つかずにすむ。
この社会では、被害者の声をノイズとして黙殺し、聞かなかったことにする「権力」として表れる。
それは水俣だけではなく、沖縄、障碍者、難民、ジエンダーなどの差別を訴える声を、それぞれのポジショアナリティーによって「選別」しているのである。
緒方の「チッソは私であった」はポジショナリティーを超えるこの考え方であるが、それだけに被害者の側からはある面、反発されそうな考えである。
ちょうどユダヤ人の女性思想家ハンナ・アーレントが、「ナチスのユダヤ人虐殺の首謀者アイヒマンが我々と変わらぬ一市民である」という論を展開した時のように。